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レゲエとジャマイカ:ラスタファリと植民地から生まれたもの

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ボブ・マーリーのスーパー・スターダムは、彼の出自とは全く対照的だ。ボブ・マーリーは、サファラー(苦しむ人々)が住むジャマイカのキングストンのゲットー出身だった。才能と強い意志を持った者たちは、音楽を通じてゲットーから抜け出す道を見つけた。昔も今も変わらないが、これが貧困から逃れる方法だったのだ。1960年代後半から1970年代、首尾よくダウンタウンのスタジオに入り、ラスタファライ、解放、自由について心からのメッセージを歌った者たちは、今でも世界中の共感を呼んでいる。

ジャマイカは1962年に英国から独立した。60年代の音楽からは、ジャマイカの楽観的な空気が感じ取れる。スカとロックステディが国内外のチャートで首位を獲得したが、60年代終盤にはビートは速度を落とし、レゲエとなった。ラスタファリアンの明るくポジティヴなメッセージがジャマイカの社会、キングストンのミュージシャンやシンガーに浸透していた。彼らは政治、抑圧、日常の貧困を歌ったが、ラスタファリアンの思想、彼らが持つ愛と平和の精神によって、希望が与えられた。

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ラスタファリアニズムはかつて奴隷のいた植民地から誕生し、1930年代のジャマイカでラスタファリアンが台頭した。マーカス・ガーヴェイの教えが、レナード・ハウエルやジョセフ・ヒバートといった牧師に影響を与えた。マーカス・ガーヴェイは世界黒人地位向上協会を結成し、北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカ、さらにはカリブ海に散らばるアフリカ人の団結、平等、自立を提唱。マーカス・ガーヴェイは「王が戴冠する時、アフリカを見よ。解放の日は近い」と予言した。奴隷制が終わっていても、植民地社会では不幸にも肌の色が一個人の立場を決定した。世界中に散らばった黒人の多くは、エチオピアで黒人の皇帝が戴冠し、ヨーロッパの皇族や首脳が彼の足元にひざまずく様子を見て、大きなインスピレーションを与えられた。ハイレ・セラシエの戴冠式は1930年11月2日。彼は「王の中の王、主の中の主、ユダ族を治めし獅子の王」と称され、聖書に登場するソロモン王の直系の子孫であるとされた。

こうして、ハイレ・セレアシエを現人神とうたうラスタファリ運動が生まれた。初期のリーダーを務めたレナード・ハウエルは、信者のコミュニティを作った。彼はセント・キャサリン教区のスパニッシュ・タウン近くにある古いプランテーション、ピナクルに協同組合住宅を設立した。社会的には非常に組織化されており、実質的に自給自足のコミュニティだったが、英国の植民地支配とは相いれなかった。ラスタファリアンたちは当初、大きな抑圧に苦しんだ。それでも彼らは耐え抜き、さまざまな分派が生まれた。ターバンを巻いた極めてオーソドックスなボボ・シャンティ、トゥエルヴ・トライブス・オブ・イスラエル(ボブ・マーリーがメンバーとなった)、ナイヤビンギが、ラスタの主要な‘ハウス’もしくは‘マンション’だ。50年代後半と60年代のユース・ブラック・フェイス運動により、彼らの特徴的ヘアスタイルとしてドレッドロックが確立された。彼らは社会と植民地主義(バビロン)に反対し、ガンジャ(マリファナ)を神聖なものと考えた。そして、アフリカへの帰還を切望した。

50年代後半、ピナクルが破壊されると、ラスタの多くはキングストンに流れた。多くはバック・O・ウォールのコミュニティ(キングストンのダウンタウンのメイ・ペン墓地の端にあった文字通りの貧民街)とトレンチタウンに定住した。ここで多くの人々は、自分たちの庭を作り、リーズニング(討論)をしたり、ドラムやチャントで儀式や祝い事をしたり、聖なる草を吸うのだった。1958年3月、ラスタのリーダーの1人、プリンス・エドワード・エマニュエルは3,000人の‘ビアードマン’を集め、3週間に及ぶ儀式を行った。こうしてラスタは根づき、ダウンタウンのコミュニティに住む新進シンガーたちに大きな影響を与えることとなる。

60年代、多くのシンガーがヴォーカル・トリオを結成した。アメリカのR&Bグループに倣ったハーモニー・グループが人気だったのだ。キングストンで活動する優れたミュージシャンの中から、スポットライトを浴びるシンガーの新たな波が出現していた。メロディアンズ、テクニークス、テナーズ、クラレンドニアンズ、パラゴンズ、そしてもちろん、初代ウェイラーズもいた。こうした初期のグループに在籍していたメンバーの多くはその後、ソロ・シンガーやプロデューサーとして成功を収めた。

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ラスタラファイやアフリカ回帰のテーマは、60年代のグループ(特にスタジオ・ワンのバーニング・スピアによるごく初期のレコード)によって言及されていた。また、エチオピアンズ、ジャスティン・ハインズ&ザ・ドミノズも文化的なリリックを歌っていた。1966年4月21日、ハイレ・セラシエがジャマイカを来訪した。10万人ものラスタファリアンが、飛行機を降りる皇帝を出迎えようと集まり、彼らの熱気で皇帝の降機が遅れたため、ラスタの長老、モーティマー・プラノが群衆を鎮めた。ラスタファリ運動はさらに大きくなり、より多くのシンガーやミュージシャンが信者となった。

70年代初頭、社会問題と上昇する犯罪率にも誘発され、より意識的な歌詞と音楽が作られるようになった。立身出世を目指した若者たちが、地方から都会に大勢やって来たことも、無法状態に拍車をかけた。なぜなら、仕事自体がなかったからだ。崩壊しかけた安アパートが立ち並ぶ地域や、西キングストンにさらなる広がりを見せていた貧民街で、この傾向は特に顕著だった。1972年にペリー・ヘンゼルが監督した映画『ハーダー・ゼイ・カム』は、これを見事に描写しており、当然のごとく歴史に残る名作と考えられている。マイケル・マンリーの人民国家党とエドワード・シアガのジャマイカ労働党の2政党が、既に悲惨な地域にさらなる分裂を生み出した。軍事的な政治によって隣人は敵となり、政治家に雇われた 用心棒や武装集団によって、70年代の選挙は血なまぐさい戦場となった。「部族闘争はもう御免だ」と、思慮深いラスタ・シンガーのリトル・ロイは歌った。

ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラー、ボブ・マーリーは、トレンチタウンで出会った。3人とも名シンガー、ジョー・ヒッグスに音楽を習っており、家も近所で仲が良かった。ケン・ブースは隣のコミュニティ、デンハム・タウンの出身だった。デルロイ・ウィルソン、アルトン・エリス、ウェイリング・ソウルズもキングストンのデンハム・タウン出身だ。70年代前半から半ばにかけて、世界にいるより多くのリスナーが、ジャマイカで起きているルーツ現象に気が付いていた。クリス・ブラックウェルと彼の主宰するアイランド・レコードはウェイラーズと契約したが、彼らと同じくらい才能のあるシンガーはまだまだ大勢おり、その才能を見いだされるのを待っていた。

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ボブ・マーリーは、自国ジャマイカでは海外と同等の成功を手にしなかった。ジャマイカ人は、白人ロック・ファン向けのレゲエではなく、濃いままで何の手も加えていないレゲエを好んだのだ。国産スーパースターといえば、デニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックスだった。デニス・ブラウンは、13歳という若さでレコーディング・キャリアをスタートした。オレンジ・ストリートとノース・ストリートの角で育った彼は、キングストンの音楽シーンの中心にいた。大半のアーティストと同様に、デニス・ブラウンのキャリアはスタジオ・ワン(ジャマイカにおけるモータウン・レコードに相当する)で始まった。ここで、プロデューサーのクレメント・‘コクソン’・ドッドの指揮の下、多くのアーティストが名声への道を歩んだ。デニス・ブラウンはヒットを連発し、‘レゲエの貴公子’となった。グレゴリー・アイザックスはよりルード・ボーイ色が強かったが、最も特徴のある声を持ったシンガーの1人だった。彼が生まれ育ったのは、治安の悪いフレッチャーズ・ランド・コミュニティ。デニス・ブラウンの家はほんの数ブロック先にあった。‘クール・ルーラー’ことグレゴリー・アイザックスは女性のハートを溶かし、彼のラヴ・ソングは歴史に残る名曲となったが、「Black Against Black」や「Mr. Cop」など、素晴らしいルーツ・チューンも作っている。

実力派のルーツ・ハーモニー・グループは、70年代にも多数存在した。アビシニアンズは密集和声によるルーツの歌唱を確立した。彼らはアメリカン・ソウルの影響から離れ、よりディープでスピリチュアルなフィーリングを曲に加えたのだった。バーナード・コリンズ、リンフォード・マニング、ドナルド・マニングの3人からなるアビシニアンズは、エチオピアのアムハラ語を曲の中に入れることもあった。彼らはクリンチというレーベルを独自に設立。ファースト・シングルは、伝説的な「Satta Massa Gana」(瞑想し、感謝するという意)だ。また、ロイ・カズンズのグループ、ザ・ロイヤルズは、レゲエ・サークルの外では罪なほどに知られていない。ロイ・カズンズは「Pick up The Pieces」、「Ghetto Man」、「Only Jah Knows」をはじめ、歴史に残る名曲を自らプロデュースした。さらに、ザ・ウェイリング・ソウルズやザ・コンゴスの作品では、さらに素晴らしい歌唱が楽しめる。

アイランド・レコードはボブ・マーリーで大成功を収めていたが、ほかにもサード・ワールド、ザ・ヘプトーンズ、ブラック・ウフルなど、傑出したアーティストと契約を結んだ。なお、ブラック・ウフルは、スライ・ダンバー(ドラム)& ロビー・シェイクスピア(ベース)と素晴らしい関係を結んでいた。ヴァージン・レコードもルーツ人気の波を見逃さなかった。ジャマイカ屈指のハーモニー・グループ、ザ・グラディエイターズと、より田園色の強いマイティ・ダイアモンズは、ヴァージン・レコード社長のリチャード・ブランソンと契約を結んだ。偉大な故ジョセフ・ヒルが率いたカルチャーも契約を結び、「Two Sevens Clash」を大ヒットさせた。同曲は、1977年7月7日を迎えるジャマイカの恐れを描写している。

このように、レゲエにおいてアーティストが枯渇したことはない。レゲエ界には、素晴らしいソロ・シンガーも無数に存在する。ジョニー・クラークとバリー・ブラウンは、70年代半ばにローカル・シーンで大人気を博した。

ジョニー・クラークの「Move Out Of Babylon」と「Roots Natty Roots」は、当時まん延していた文化的なムードを総括している。重厚なベース・ラインは、サウンド・システムのプレイにうってつけだった。ホレス・アンディのキャリアも、ますます力強さを増していった。60年代のデビュー以来、彼は各年代でヒットを出し、今日でもソロ活動とマッシヴ・アタックとの活動を行っている。

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よりルーティカルなヒーローは、グリーンウィッチ・ファーム地区から登場した。キングストンの港沿いで釣りのできるビーチを持つこの小さなコミュニティは、プリンス・アラー、アール・ゼロ、ロッド・テイラー、フィリップ・フレイザーといった名士たちを輩出した。レゲエ・レジェンドを育てたのは、キングストンだけではない。ジャマイカの北岸には緑豊かなセント・アン教区がある。ジャマイカの田園地方は美しく、文化的でスピリチュアルな素晴らしいルーツ・シンガー誕生の地にふさわしい。ボブ・マーリーが生まれたナイン・マイルから15マイル離れたところには、セント・アン教区の州都、セント・アンズ・ベイがある。マーカス・ガーヴェイはここで生まれた。また、マーカス・ガーヴェイの言葉を多用し、大いに宣伝しているバーニング・スピアも、セント・アンズ・ベイの出身だ。バーニング・スピアことウィンストン・ロドニーは、スタジオ・ワンで仕事をした後、北岸のプロデューサー/サウンド・システム・オペレーター、ジャック・ルビーと手を組み、最高に‘ドレッド’な音楽を作り出した。「Marcus Garvey」や「Slavery Days」といった名曲は、デルロイ・ハインズ、ルパート・ウェリントンとのトリオとして制作された。バーニング・スピアはソロ・アーティストとして活動を続け、「Throw Down Your Arms」、「Travelling」をはじめとする曲を作る。今日に至るまで、彼はスピリチュアルな催眠術を施しているかのように、観客を魅了し続けている。

ジャマイカは、驚くべき数の名曲を量産してきた。人口はわずか300万人、その幅は150マイルにすぎない。あらゆる困難をものともせず、ジャマイカは世界をポジティヴなヴァイブで 満たしている。新しい世代のゲットーの聖人たちが、希望に溢れた音楽をレコーディングしている。そしてこれからも、それが続いていくことを願いたい。

Words and Photos – Pablo Gill


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