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カヴァー・トゥ・カヴァー:グレイト・アメリカン・ソングブック(スタンダード)のストーリー

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「Summertime」、「Someone To Watch Over Me」、「My Funny Valentine」、「Let’s Face The Music And Dance」、「Some Enchanted Evening」といった楽曲は、あまりに馴染みが深く、アメリカ文化に織り込まれているようだ。

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ソングブック初期の名曲は、ニューヨークのティン・パン・アレーで作られた。

上記5曲の傑作は現在、グレイト・アメリカン・ソングブックとして広く知られている。ブックとはいえど、これは本ではない。ブロードウェイのミュージカルや、ハリウッド映画のミュージカル、ティン・パン・アレー(音楽出版社が立ち並んでいたニューヨークの西28丁目はソングライティングの拠点だった)の楽曲に対して使われる用語である。これらの楽曲は1920年頃から1960年頃、ジャズ・ミュージシャンのレパートリーの核となった。

どれも半世紀以上も前の作品であるため、‘スタンダード’という言葉もよく使われる。こうした音楽は、楽曲が書かれた時代をたやすく超越する。また、上流社会の洗練されたイメージを喚起する、巧かつウィットに富んだリリックが特徴である。20世紀初頭には、特別な何かがあった――20年代のジャズ・エイジ、世界大恐慌、そしてメランコリーな戦時中――これら全てが重なりあい、高揚感があり、素晴らしくセンチメンタルな音楽が作られたのだった。

世界大恐慌後、ブロードウェイが資金難になった時のみ、大勢の一流ソングライターがハリウッドへと移住した。同地では映画スタジオが景気づき、楽曲に対して多額の金額が支払われたのだ。ジョージとアイラのガーシュウィン兄弟は、1934年にビヴァリー・ヒルズへと居を移し、フレッド・アステア/ジンジャー・ロジャースの映画用に曲を書いた。そしてアイラ・ガーシュインは脳腫瘍により、ビヴァリー・ヒルズで亡くなった。37歳の若さだった。ハリー・ウォーレンも、ロサンゼルスへと移住したソングライターの1人だ。彼はロサンゼルスで輝かしいキャリアを積んだ。アカデミー賞を3回獲得し、「Jeepers Creepers」、「That’s Amore」、「Chattanooga Choo Choo」、「We’re In The Money」等、記憶に残る曲を数多く作曲した。

女性ソングライターの先駆となったドロシー・フィールズの代表作は「The Way You Look Tonight」。

女性ソングライターの先駆となったドロシー・フィールズの代表作は「The Way You Look Tonight」。

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第一線で活躍するソングライターの大半は男性だったが、ドロシー・フィールズは女性ソングライターの草分けだった。1974年に死去したドロシー・フィールズは、ジミー・マクヒューとの共作で成功のきっかけを掴んだ。2人は「I Can’t Give You Anything But Love」(ビリー・ホリデイが堂々と歌い上げた1曲だ)や「On The Sunny Side Of The Street」といった名曲を書いた。ドロシー・フィールズはコットン・クラブのショウ向けに曲を書き、そのうちの多くが後にデューク・エリントンによってレコーディングされた。50年代、ドロシー・フィールズは真価を発揮し、ブロードウェイの楽曲を手掛けた。彼女が書いた400曲の中には、「The Way You Look Tonight」や「A Fine Romance」といったスタンダードも含まれる。

バンド・リーダーでピアニストのデューク・エリントンは、ノスタルジアを表現できる稀有な才能の持ち主だった。そして、「Sophisticated Lady」、「Mood Indigo」、「Prelude To A Kiss」、「In A Sentimental Mood」といった革新的な楽曲に、50年以上にわたる彼のソングライターとしての資質が表れている。「実際のところ、我々が書いた全ての曲は、何らかのイメージ、典型となる登場人物を表現している」。それでは、音楽と歌詞、どちらが先に作られるのだろうか?それはライティング・チームによって決まる。通例、リチャード・ロジャースの音楽は、ロレンツ・ハートの歌詞よりも先に作られたが、リチャード・ロジャースがオスカー・ハマースタインと仕事をした時は、歌詞の方が先に作られた。誉れ高い名曲の多くはデュオによって書かれたが(1人が音楽を作り、もう1人が歌詞を書く)、曲と歌詞の両方を手掛けるのが常だった天才が3人いる。アーヴィング・バーリン、コール・ポーター、そしてノエル・カワードだ。

コール・ポーターはまた、40年代から50年代の間、ビング・クロスビー、フランク・シナトラ、グレイス・ケリーが主演した『上流社会(原題:High Society)』をはじめ、ハリウッドの大作映画に曲を書いた。コール・ポーターはうまい台詞を書くことを決して恐れなかった。1948年のミュージカル『キス・ミー・ケイト(原題:Kiss Me Kate)』に登場する「Brush Up Your Shakespeare」がその例だ。「“オセロ”からの台詞をいくつか朗読すれば/凄いヤツだと思われるだろう」という野心的なまでにオリジナルな一節がある。

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ソングライターの多くは、(ジェローム・カーンやリチャード・ロジャース等)、クラシック音楽の訓練を受けていた。しかし、ジョージ・ガーシュウィン(彼の「Rhapsody In Blue」は音楽史のハイライトであり続けている)は、シリアスな音楽とポピュラー音楽の間に相容れないギャップなどないと譲らず、クラシックとポピュラー双方の嗜好にアピールしたいと思っていた。

こうした高品質な楽曲は、パフォーマー独自の解釈やアドリブにもってこいの楽曲だった。そして、ライターよりもシンガーが記憶に残る曲もある。「Over The Rainbow(邦題:虹の彼方に)」といえば、作曲家ハロルド・アーレンとエドガー・イップ・ハーバーグの逸品ということよりも、1939年の映画『オズの魔法使い(原題:The Wizard Of Oz)』で同曲を高らかに歌ったジュディ・ガーランドが思い起こされるだろう。

楽曲の解釈にかけては、エラ・フィッツジェラルドに匹敵するシンガーなどほとんど存在しないだろう。ソングライターごとにグレイト・アメリカン・ソングブックを謳った彼女のアルバム・シリーズは、ポピュラー音楽の歴史の中でも特に優れたレコードである。選曲の範囲も比類なく(また、バディ・ブレグマン等が秀逸なアレンジを施している)、エラ・フィッツジェラルドはコール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、デューク・エリントン、リチャード・ロジャース&ロレンツ・ハート、ハロルド・アーレン、ジョニー・マーサー、ガーシュウィン兄弟等の作品を歌い上げた。

エラ・フィッツジェラルドはセッションの間もリラックスしており、テイクの前にはいつも完璧に準備ができていた(フランク・シナトラも同じく、数日にわたって歌詞を熟読することも多かった)。エラ・フィッツジェラルドが緊張した瞬間は、デューク・エリントンがスタジオに到着し、ギリギリで既成概念の枠を超えたアレンジをした時だけだった。エラ・フィッツジェラルドは泣き出したが、それでも 円熟したシンガーを止められるものなど存在しなかった。そしてこのセッションからの「Don’t Get Around Much Anymore」はエラ・フィッツジェラルドの最高傑作のひとつとなった。エラ・フィッツジェラルドほど才能に恵まれたシンガーにとっても、ソングブックの質の高さは希少であり、美しいものだった。「こうしたソングブックのおかげで、これまで公演することのできなかったクラブで公演できるようになった」と彼女は語っている。

エラ・フィッツジェラルドは、コール・ポーターの楽曲を見事に歌い上げた。

エラ・フィッツジェラルドは、コール・ポーターの楽曲を見事に歌い上げた。

エラ・フィッツジェラルドによる「Let’s Do It (Let’s Fall In Love)」や「Ev’ry Time We Say Goodbye」といったコール・ポーター楽曲の解釈は、まったくもって見事だった。彼女は洗練された歌詞の最高の部分を引き出し、巧みなライミングも披露していたのだ。また、中にはウィットに富んだ際どい歌詞もあった。例えばコール・ポーターの「Love For Sale」はニューヨークの売春婦についての歌で、30年代のラジオには不適切とされが、それでもビリー・ホリデイやエルヴィス・コステロをはじめ多くのシンガーが歌い、スタンダードとなった。(女性ジャズ・ヴォーカリストの二大巨頭、エラ・フィッツジェラルドとビリー・ホリデイは同じ楽曲をカヴァーすることも多く、「Summertime」、「A Fine Romance」、「Embraceable You」等、どちらのヴァージョンが良いかについては、聴く者の好みの問題となる。)

雰囲気をとらえることや、独創的なフレーズを作り出すことが、ソングブックの名曲の多くが成功した主な要因である。「Cry Me A River」は当初、1955年の映画『皆殺しのトランペット(原題:Pete Kelly’s Blues)』でエラ・フィッツジェラルドが歌うために書かれた曲だったが、採用されなかった。同曲の作者、アーサー・ハミルトンは、「Cry Me A River」というフレーズをそれまで聞いたことがなかったが、言葉の組み合わせを気に入ったと語っている。そして、アメリカのシンガー、ジュリー・ロンドンが同曲を歌う様には、魅惑的な何かがあった。彼女の官能的で濃厚なヴァージョン(バーニー・ケッセルの美しいジャズ・ギターも入っている)は、1955年に大ヒット。この曲で、ジュリー・ロンドンのキャリアは軌道に乗った。

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また、失敗から始まったスタンダードもある。「Here’s That Rainy Day」がその例だ。ジミー・ヴァン・ヒューゼンとジョニー・バークは、1953年のミュージカル『Carnival In Flanders』用に同曲を手掛けたが、同ミュージカルはたった6回の公演で幕を閉じてしまった。しかし、それから6年後、フランク・シナトラが同曲を歌ったことで名曲として認知され、その後はカントリー・シンガーのケニー・ロジャースからジャズ・ミュージシャンのコールマン・ホーキンス、チェット・ベイカーに至るまで、何百人ものアーティストにカヴァーされている。

ジャズとグレイト・アメリカン・ソングブックは、切っても切れない関係にある。ソングライター(特にアーヴィング・バーリン、コール・ポーター、ガーシュウィン兄弟)はジャズというジャンルを理解しており、レスター・ヤングベニー・カーターオスカー・ピーターソンといったジャズ・ミュージシャンは、そのパフォーマンスで楽曲にリアルなフィーリングをもたらしてくれることを知っていた。彼らは素晴らしいアドリブを入れ、グレイト・アメリカン・ソングブックをレコーディングした――傑作のいくつかは、インストゥルメンタル・トラックである。このカテゴリーに入るのは、チャーリー・パーカーによるコール・ポーターの「What Is This Thing Called Love」、ジョン・コルトレーンによる誰にも真似のできないヒプノティックな 「My Favourite Things」、ビル・エヴァンスによる壮麗な「What Is This Thing Called Love?」、そしてセロニアス・モンクによる快活なビバップ的「Tea For Two」等。セロニアス・モンクの「Tea For Two」は、ファッツ・ウォーカーやジーン・クルーパによるカヴァーとは全く違っていた。

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トランペット奏者でシンガーのルイ・アームストロングも、グレイト・アメリカン・ソングブックと良好な関係を築いた。ビング・クロスビーは1931年8月、甘美なバラード「Stardust」をポップ・ソングとして送り出し、滑らかなヴァリトン・ヴォーカルで同曲を歌った。そして、その3カ月後、ルイ・アームストロングは、そのメロディとリリックに独自の解釈を施す。2つのヴァージョンを持つ同曲は、ソングブックがポップとジャズで解釈可能であることを示している。ビング・クロスビーとルイ・アームストロングはまた、「Just A Gigolo」(「Schöner Gigolo」と題されたオーストリアの楽曲に、アーヴィング・シーザーが見事な英詞をつけた)でもカヴァー競演している。同曲は、サッチモ(ルイ・アームストロング)のレコーディングの中でも傑出した作品だ。また、彼がエラ・フィッツジェラルドとコラボレーションしたソングブックも必聴である。

ビング・クロスビーの声は、フランク・シナトラに多大な影響を与えた――2人とも「I Guess I’ll Have To Change My Plan」をヒットさせた――そして、ジャズのコア・ファンではないリスナーの間でスタンダード曲が人気になったのは、フランク・シナトラのおかげと言ってよいだろう。彼はその力強い発音とフレージングで、歌詞の重要性を高めた。また、彼が歌った名曲のアレンジはあらゆるレヴェルで壮大だったが、フランク・シナトラは楽曲の内側に入りこむことができたため、アレンジと肩を並べることができた。彼はアレック・ワイルダーが1942年に書いた名曲「I’ll Be Around」を2度レコーディングした。同曲は、キャブ・キャロウェイやペギー・リー等、多数の大物が素晴らしいカヴァーをしたが、アレック・ワイルダーは楽曲のストーリーテリングという側面から、フランク・シナトラのヴァージョンをベスト・カヴァーと考えた。

フランク・シナトラは1998年に死去したが、その後もずっと大きな影響を及ぼし続けている。ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランは、アルバム3枚分のグレイト・アメリカン・ソングブックをリリースしたが、その際に彼はこう語っている。「こうした曲をやり始めると、フランクのことを考えざるを得ない。彼が山だからな。その山を登らなくちゃいけない。たとえ途中までしか辿りつかなくても。それに、彼が歌わなかった曲を見つけるのは難しいんだ」
20世紀のアイコン的シンガーは、その他にもリナ・ホーン、サラ・ヴォーン、アル・ジョルソン、ディーン・マーティン、メル・トーメ等がいる。「ヴェルヴェットの霧」の愛称を持つシカゴ生まれのメル・トーメは、素晴らしい才能を持ったシンガー/スキャット・ヴォーカリストだ。ヴァーヴ・レコードで傑作ジャズ・レコードを数枚レコーディングしていた。彼は50年代、グレイト・アメリカン・ソングブックを歌いはじめたが、70年代に入って、ようやく正当な評価を得た。

ロックン・ロールの到来にともない、音楽は50年代と60年代、根本から変化した。それと時を同じくして、シート・ミュージック業界が崩壊した。しかし、素晴らしいソングライティング・パートナーシップの伝統(『ザッツ・エンターテイメント(原題:That’s Entertainment)』のクリエイター、アーサー・シュワルツとハワード・ディーツが典型的な例だ)は、戦後の時代も続き、新しい世代のライターがモダン・ロックやポップのマーケット向けに自分なりのクラシック・アメリカン・ソングを書きはじめた。新世代のソングライターの筆頭に挙げられるのは、非凡な才能に恵まれたバート・バカラックだ。特に、作詞家のハル・デヴィッドとのコラボレーションで、その才能が際立った。

バート・バカラックとハル・デヴィッドは、60 年代にグレイト・アメリカン・ソングブックの伝統を継承した。

バート・バカラックとハル・デヴィッドは、60 年代にグレイト・アメリカン・ソングブックの伝統を継承した。

2人は全くといっていいほどタイプが違っていた。バート・バカラックよりも7歳上で、フランク・シナトラに曲を書いていたハル・デヴィッドは、家族を大切にする昔気質の男性で、ロング・アイランドの自宅から毎日ニューヨークに通勤していた。一方、バート・バカラックは洗練されたプレイボーイだったが、2人のパートナーシップは、1957年にペリー・コモがヒットさせた「Magic Moments」を皮切りに、ポピュラー音楽史の中でも特に実りの多いものとなった。新時代に名曲を作ったもうひとつのデュオは、作詞家のジェリー・リーバーと作曲家のマイク・ストーラーだ。

21世紀に入ると、グレイト・アメリカン・ソングブックが見事な復活を遂げたが、その種は70年代に蒔かれていた。シンガー/ソングライターが実権を握りつつあった時代だ。その功績はリンゴ・スター にあると言えるだろう。彼はスタンダードに新たな生命を吹き込もうとした初の‘現代’ミュージシャンだからだ。リヴァイヴァルのトレンドは、ザ・ビートルズのドラマーが1970年にリリースしたアルバム『Sentimental Journey』から始まった。同アルバムには、彼の母親のお気に入りだったという、コール・ポーターやホーギー・カーマイケルの楽曲が収録されている。これに続いたのが、カーメン・マクレエによる1972年のアルバム、そしてカントリー・ミュージック界のスター、ウィリー・ネルソンが1978年にリリースした歴史的アルバム『Stardust』である。同アルバムは、ボブ・ディランのグレイト・アメリカン・ソングブック・レコードに大きく影響を与えた。

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40年代から50年代の楽曲を聴いて育ったウィリー・ネルソンは、2015年に米国議会図書館による誉れ高いガーシュウィン賞を受賞した。おそらくこの受賞にインスパイアされたのだろう。ウィリー・ネルソンは2016年にアルバム『Summertime: Willie Nelson Sings Gershwin』をリリース。同アルバムには、シンディ・ローパーとのデュエット「Let’s Call The Whole Thing Off」等が収録されている。

カントリー・シンガーのリンダ・ロンシュタットも、1983年にグレイト・ソングブックの楽曲を歌った『What’s New』で先鞭をつけた。リンダ・ロンシュタットのアルバムで特別な点は、アレンジャーがネルソン・リドルだったということだ。ネルソン・リドルはそのエレガントなストリング・アレンジメントで、フランク・シナトラの音楽に大きく貢献した人物である。

過去40年でグレイト・アメリカン・ソングブックに挑戦したミュージシャンの全てが、 純粋なビッグバンド・サウンドを追求したわけではないが、興味深い作品が数々生まれている。例えば、ジョニ・ミッチェルルチアーノ・パヴァロッティ、ダイナ・ワシントン、ハリー・ニルソン、カーリー・サイモン、ベット・ミドラー、ルーファス・ウェインライト、ドクター・ジョン、アニー・レノックス、ニーナ・シモン、シネイド・オコナー、ハリー・コニック・ジュニア、ダイアナ・クラールポール・マッカートニーのアルバム、そしてロッド・スチュワートによる大ヒット・アルバム等だ。

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祖父からスタンダードを聴かされたマイケル・ブーブレは、楽曲の魅力は単なる懐古の情にあるわけではないと主張する。カナダ出身のマイケル・ブーブレは、こう語っている。「このスタイルにずっと心惹かれていたんだ。子どもの頃、メル・トームやエラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラを聴くのは最高だった。彼らは、現代のシンガーにはない、落ち着いた心地良い声質を持っていたからね」

ナタリー・コールは、1991年のトリビュート・アルバム『Unforgettable』(そして2008年の続編『Still Unforgettable』)で特大ヒットを記録した。彼女は明らかに父親のナット・キング・コールからインスピレーションを得ていた。ナタリーが幼少の頃、ナット・キング・コールは当時新たに登場したテレビという媒体で「Fly Me To The Moon」といった名曲を歌い、広めていたのだ。

故ハロルド・アーレンは、自身が70代だった70年代に、「誰もメロディを求めちゃいない」と嘆いていた。そんな彼もおそらく、スタンダード曲のリヴァイヴァルに励まされるはずだ。このリヴァイヴァルにより、巨匠トニー・ベネットレディー・ガガと手を組み、2014年にアルバム『Cheek To Cheek』をリリースした。ハロルド・アーレンが生きていれば、新世代の若いリスナーが(レディー・ガガのような現代のポップ・アイコンを通じて)、「天国、私は天国にいる/そして1週間ずっと悩み続けていたことが/まるでギャンブラーの幸運のようにすぐさま消えていくよう/2人で一緒に頬を寄せながら踊っていると」という不朽の歌詞を持つアーヴィング・バーリンの楽曲を聴くことを喜んだだろう。

名作詞家の名前は、次第に忘れられてしまうかもしれない(「Heart And Soul」と、クリスマスが来るたびに流れる「Baby, It’s Cold Outside」は、フランク・レッサーが書いた名曲のうちの2曲にすぎないことを知っている人がどれくらいいるだろうか?)。しかし、純粋に息を飲むような素晴らしい歌詞のおかげで、こうした曲は決して忘れ去られることはないだろう。今や、グレイト・アメリカン・ソングブック財団も存在する。なお、同財団が、才能ある若いミュージシャンのために毎年開催するサマー・スクールは、2017年で8回目を迎える。

グレイト・アメリカン・ソングブックは、アメリカ文化の中でも、とりわけ特別かつユニークな創作物だ。さあ、その事実を受け止めたら、音楽を聴いて踊ろう。

Written By Martin Chilton


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