(function(h,o,t,j,a,r){ h.hj=h.hj||function(){(h.hj.q=h.hj.q||[]).push(arguments)}; h._hjSettings={hjid:104204,hjsv:5}; a=o.getElementsByTagName('head')[0]; r=o.createElement('script');r.async=1; r.src=t+h._hjSettings.hjid+j+h._hjSettings.hjsv; a.appendChild(r); })(window,document,'//static.hotjar.com/c/hotjar-','.js?sv=');
Join us

クイーン『THE GAME / ザ・ゲーム』制作秘話

Queen logo
Queen Essentials

『THE GAME / ザ・ゲーム』

 

クイーンは従来、各アルバムをひと続きのセッションで一気に録音していたが、今回の『The Game』では初めて、レコーディングを二度のセッションに分けて行った。まずは1979年夏の間に、4曲をほぼ完成。そこには『The Game』発表の7ヵ月前にリリースされた、第一弾シングル「Crazy Little Thing Called Love(邦題:愛という名の欲望)」が含まれていた。残りの曲は、1980年2月から5月にかけて録音。そしてこれ以外の点においても、本作ではバンドの仕事のやり方に変化が生じていた。

新たなレコーディング場所として、独ミュンヘンのミュージックランド・スタジオを選んだこと、そして新たな共同プロデューサーとして、ラインホルト・マックを起用したことがそれだ。ラインホルト・マックは英国の様々なアクトに、ジョルジオ・モロダーが所有する最先端の設備を備えた同スタジオの使用を勧めていた。こういった条件の全てが、ある意味新たな“サウンド”の発展に繋がったと言え、それは『Jazz』に収録されていたロジャー・テイラー作の「Fun It」が示唆していた方向性でもあったが、今回のニュー・アルバムでは、それがより重要な位置を占めることになる。

一方、テクノがまだその名称で呼ばれる前の時代、ラインホルト・マックがレコーディングに導入していた“テクノ”の方法論により、クイーンはシンセサイザーの導入に対する頑なな姿勢を遂に和らげざるを得なくなった。ロジャー・テイラーが「Fun It」でシンセ・ドラムを試していたことを数に入れなければ、シンセを使用しないことをクイーンはこれまで誇りにしていたのである。

だがこのような決断が下されたのは、例のごとく、ツアー生活を送るという一仕事を終えた後のことだ。79年1月から始まった『Jazz』のヨーロッパ・ツアー(別名“Live Killers:ライヴ・キラーズ”)では、欧州を横断。中でも特に熱烈なファンが増加中だった西ドイツ公演に重点が置かれた。一方、世界/アジア・ツアーでは、日本各地に足を伸ばしている。以降、ミュンヘンでしばし曲作りとレコーディングを行い、その後休暇を取った彼らは、8月には再び西ドイツに戻り、ザールブリュッケンのルートヴィヒスパルクシュタディオンでコンサートを開催。これは当時の彼らにとって、1976年のロンドン、ハイド・パークでの豪華絢爛な野外公演に次ぐ、ヨーロッパ最大のライヴであった。

この巨大事業を締め括ったのは、“クレイジー・ツアー”と銘打った冬期のUKツアーだ。皮切りとなった隣国アイルランドでの公演を含め、全20公演に及んだこの全英ツアーは、ボクシング・デー(12月26日)にロンドン、ハマースミス・オデオンで執り行われた特別公演でクライマックスを迎えた。このコンサートは、ポール・マッカートニーとクルト・ワルトハイム国連事務総長が企画した、カンボジア難民救済コンサート“コンサート・フォー・ザ・ピープル・オブ・カンプチア”の一環として行われたものである。

79年のクリスマスが終わると、バンドはアルバムの制作準備とミュージックランドでの本格作業に没頭。共同プロデューサーのラインホルト・マックが振り返るところによると、彼がクイーンと関わることになったのは、ある意味偶然のようなものだったそうだ。 1979年の中頃、ジョルジオ・モロダーと昼食を取っていた時に、「君はフレディ・マーキュリーと仕事をしているそうだね」と言われたラインホルト・マック。当時ロサンゼルスでゲイリー・ムーアのアルバムの仕上げをしていた彼にとって、これは初耳であった。ラインホルト・マックがクイーンと会ったのは、それから間もなくのことである。

「『これが僕らの慣れ親しんでいるやり方なんだ』というのが、彼ら(クイーン)の信条だった」と、共同プロデューサーのラインホルト・マックは語る。「例えば、2インチのテープで曲を編集する場合、“どういうことになるか分からない”という危険性が、多少なりとも常に伴う。切り貼り編集を繰り返していれば、すぐにテープは横断歩道の縞模様のようになってしまい、そうするとテープがヘッドを通過する際に問題が起き、高域が減衰する可能性が生じるんだ。それに、彼らの周囲には24トラック機を2、3台持っている人が誰もいなかったから、複数台の同期運転もできなかったし、リダクションを2、3回行わなくてはならなかった。ともかく、トラッキングの過程でバンド全体の音をパンチインで差し替えるという考えをメンバーに納得してもらうには、かなり時間がかかったよ。その提案がうまくいき、“まんざら悪くない”と認められた後は、仕事の流れが遥かに楽になった。バンドと比べ、僕には意思決定が迅速だという強みがあったんだ。他の人達が細かいディテールについて考えを巡らせている間、僕は常に様々な物事を試すことが出来たからね」。

このように、プロデューサーとバンドの両方がチャレンジを楽しむようになり始めたのである。いずれにせよ、彼らの苦心から生まれた最初の成果は、途方もなく大きな成功を収めた。ラインホルト・マックは次のように振り返る。「日本ツアーを終えた後、英国に戻る前に、バンドには少し時間の余裕が出来たんだ。正に、“しかるべきタイミングで、しかるべき場所にいた”っていう部類に入るやつだね。このプロジェクトは当初、アルバムを目的として取り組み始めたものではなかった。1週間とか2週間とかのセッションのつもりだったんだよ。僕らが最初に試してみたトラックが、‘Crazy Little Thing Called Love’なんだ。フレディがアコースティック・ギターを手に取って、『ブライアンが来る前に、さっとやろうか』と言ってね。それから6時間くらい後に、曲が完成したんだ。ギター・ソロは、後からオーヴァーダブで入れた。その部分でブライアンにテレキャスターを弾くように強いたのは僕で、この件では彼に今も恨まれているよ。アルバムの先行シングルとしてリリースされたこの曲は、全米1位を獲得した。当然ながら、それは大きな自信になったし、一緒に仕事をする上で物凄く良い追い風になったね」。

斬新でキッチュなものから重責を担ったアリーナ・ロックまで、クイーンのアプローチは多彩であったが、冷静沈着なこのドイツ人は少しも怯むことがなかった。最大の難関だったのは、バンド内の民主主義である。最終的には全てが落ち着くべき所に落ち着き、自身が果たした最も重要な役割について、ラインホルト・マックは「もっと壮大に、もっと目一杯に、もっと上を目指してって、彼らにハッパをかけることだったと思う」と説明している。

二度目のセッションから生まれたのが、アルバムの冒頭から4曲目までだ。フレディ・マーキュリー作の「Play The Game」で、クイーンは初めてシンセサイザーを使用。ここで彼が弾いているのは、オーバーハイムOB-Xである。力みの全くないフレディ・マーキュリーの自然な歌声は、このラヴ・ソングの率直なメッセージに何よりもふさわしい。この「Play The Game」は後にシングルとしてリリースされ、そのジャケット写真には、有名なフレディ・マーキュリーの口髭と“マッチョ風”レザー・ルックが初登場。これはやがて彼のトレードマークとなる。B面の「A Human Body」はその後長年に渡り、この7インチ・アナログ盤のみにしか収録されていない状況が続き、レア曲の地位にあった。

ブライアン・メイによるメタリックかつ切迫感に満ちた「Dragon Attack」同様、すぐにライヴの定番曲となったのが、ジョン・ディーコン作の名曲「Another One Bites The Dust(邦題:地獄へ道づれ)」だ。シックの伝説的ナンバー「Good Times」でのバーナード・エドワーズによるプログレッシヴなリフに影響を受けた、ウォーキング・ベース・ラインが特徴的な「Another One~」では、スタッカートとミュートとデッド・ノートとが、計り知れないドラマの予感とファンキーな期待感を抱かせてくれる。究極のディスコ・ナイトの夜明け、シックと共に過ごした時間をジョン・ディーコンは有効に活用。物静かなこのベーシストにとって、これは非常に貴重な素晴らしい体験となった。彼はここで、リズム・ギター、ピアノ、そして少しのリード・ギターとハンドクラップによるパーカッションを担当。一方、ロジャー・テイラーは、ジョンのリズムが引き立つよう、出来るだけ乾いたデッドな音を出すため、ドラムキットに毛布を詰めている。この曲はダンス・アンセムと化し、大ヒットした。

ブライアン・メイの回想によると、ジョン・ディーコンは自作曲でもヴォーカルを取るつもりが全くなかったため、フレディ・マーキュリーが喉から血が出るまで激しく歌い込んだという。このシングルは全米チャートで首位に輝いただけでなく、キャッシュ・ボックス誌の年間ベストでも1位を獲得、200万枚以上の売り上げを達成して、プラチナ・ディスクの認定も受けた。ジョン・ディーコンはさぞ嬉しかったに違いない。

本アルバムにおけるジョン・ディーコン作の2曲目「Need Your Loving Tonight(邦題:夜の天使)」(ジョン・ディーコンはアコースティック・ギターを演奏)も、米国ではシングル化。スタジオ・ヴァージョンではフレディ・マーキュリーが単独で完璧に歌い上げているが、当時のツアーではブライアン・メイとロジャー・テイラーがバッキング・ヴォーカルを添えていた。

フレディ・マーキュリーの「Crazy Little Thing Called Love」は、ミュージックランドで行われた初期のセッションで生まれた曲だ。『The Game』の先行シングルとして1979年10月5日にリリースされると、クイーンにとって初の全米No. 1シングルとなり、再びミリオンセラーを記録。この曲が誕生したのは、ミュンヘンで数度に渡る長期レコーディングを行っていた際、バイエリッシャー・ホフ・ホテルでフレディ・マーキュリーが風呂に入っていた時である。エルヴィス・プレスリーのロッカフラ・スタイルにインスピレーションを受けており、快楽を追い求める“サン・サウンド”調ロカビリー・ナンバーに仕上がった。1981年、フレディ・マーキュリーはメロディ・メイカー誌にこう語っている。「「Crazy Little Thing Called Love」は5〜10分で出来上がったんだ。ギターで書いた曲なんだけど、僕はギターがからきし駄目でね。でもある意味、それが功を奏したんだ。ほんの数コードしか知らないという制限があったからだよ。狭い枠組みの中でシンプルに書かなくてはならなかったわけで、それが良い意味での規律になる。あまり多くのコードを使いこなせなかったからこそ、その制約のおかげで良い曲が書けたんじゃないかと思う」。

クイーンのアルバムの中では短い部類に入る作品ながら、前半だけで既に傑作と目されるこの『The Game』のB面は、導入部のフレディ・マーキュリーの歌から、ロジャー・テイラーのリード・ヴォーカルへと移り替わっていく「Rock It (Prime Jive)」で幕を開ける。これはバンドを懐かしい時代にタイムスリップさせる曲だ。(ラインホルト・マックによる追加キーボードが効果を高めている)洗練されたこのノスタルジアに続くのは、奇妙かつ不安を招く「Don’t Try Suicide(邦題:自殺志願)」で、曲の持つメッセージはそのタイトル(※直訳すると“自殺を試みたりしないで”)に集約されている。語り手がアドバイスしている相手が、男性なのか女性なのか、歌い手の友人なのかバンドの知人なのか、それは明らかにされていない。だがそこで用いられている言葉は、非常に現実的で、冷淡さスレスレであるものの、実に理に適っているのだ。これを書いたのはフレディ・マーキュリーである——- 彼以外、誰が書くというのか?

1979年にレコーディングされたブライアン・メイの「Sail Away Sweet Sister (To The Sister I Never Had)(邦題:スウィート・シアター)」は、そこまで暗いわけでも無愛想なわけでもないが、その一方で個人的な曲のようにも思える。「Coming Soon」も1979年の録音で、本作における2曲目のロジャー・テイラー作品。彼の書いたものの中でも特に反抗的な曲のひとつだが、皮肉交じりの独特のセンスがちりばめられている。ここで再登場しているのが、電子ドラムとオーバーハイムだ。

アルバム『The Game』は、ブライアン・メイ作の素晴らしい「Save Me」で幕を閉じる。1980年1月に全英シングル・チャートで11位を記録した本曲は、彼らがミュージックランドの最新設備に初めて接した時期に生まれたものだ。ブライアン・メイは現代テクノロジーへの抵抗を止め、フレディ・マーキュリーが美しい解釈で歌い上げるト長調のパワフルなバラードに、シンセ、アコギ、エレキ・ギター、バッキング・ヴォーカルを加えている。とはいえ、ブライアン・メイは技術革新反対派ではなく、すぐにその賛同者となった。「自分達にとって普通であったものの枠外に出ようという試みを始めたのが、この時だったんだ。 おまけに、エンジニアのラインホルト・マックが新たに加わっていたし、ミュンヘンという新しい環境もあったからね」。

「何もかもがこれまでと違っていた。ある意味僕らは、スタジオ・テクニック全体の方向転換を行ったんだ。というのも、マックは僕らとは異なるバックグラウンドの出身だったからね。例えばバッキング・トラックの作り方にしてもそうだけど、物事のやり方はひとつしかないと僕らは思っていたんだよ。これだと思う演奏が出来るまで、僕らはとにかくひたすら弾いていた。速くなったり遅くなったりした部分があれば、完璧になるまで何度もやり直していたんだ。昔のバッキング・トラックの中には、あまりに何度も繰り返し演奏したせいで、堅苦しくなり過ぎてしまったものもある。マックが最初にしてくれた貢献は、『そんなことはしなくていいんだ。どこでも差し替えればいいんだから。30秒やった所で行き詰まったとしても、そのテンポのまま演奏してくれれば、そこは編集するから続けてくれ』って言ってくれたことだね」。

「Save Me」のミュージック・ビデオは1979年12月22日、アレクサンドラ・パレス(※ロンドン市内にある1万人級のイヴェント会場)で撮影され、同夜、クイーンはそこで歴史に残るコンサートを行った。無傷のまま1970年代からの脱出を果たしたクイーンは、今や間違いなく、ロック界の王座に君臨。『The Game』は全英・全米の両チャートで首位に立ち、全世界で約1,200万枚を売り上げることになる。 さあ80年代よ、かかって来るがいい……。

 

– Max Bell

Queen logoクイーン アルバムストーリーに戻る

Queen - The Game

btn_store_link spotify_logo_link
download_jtunes_link applemusic_link

 

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

Queen - The Game

 

世界に捧ぐ (40周年記念スーパー・デラックス・エディション) [SHM-CD] 2017.11.17発売!

クイーン初となるオリジナル・アルバムのスーパー・デラックス化が実現!
その第一弾は、代表曲「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「伝説のチャンピオン」を収める不朽の名作『世界に捧ぐ』(1977)
アウトテイクやレアリティーズ、アナログ、映像などで構成された40周年記念エディション!

UICY-78501

Buy Now
【輸入盤】はこちら
★『世界に捧ぐ』発売40周年記念Tシャツ発売中!