ベートーヴェンはロックスターである。その理由を楽曲と生涯から辿る by 水野蒼生【連載第2回】

Published on

2020年はクラシックの大作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生誕250周年の年。そんな彼は現代でいうとロックスターだった?

巨匠カラヤンを輩出したザルツブルクの音楽大学の指揮科を首席で卒業し、その後国内外で指揮者として活躍。一方で、2018年にクラシックの楽曲を使うクラシカルDJとして名門レーベル、ドイツ・グラモフォンからクラシック音楽界史上初のクラシック・ミックスアルバム『MILLENNIALS-We Will Classic You-』をリリース。先日にはベートーヴェン・トリビュートの新作アルバム『BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be-』を発売するなど、指揮者とクラシックのDJという両輪で活躍している水野蒼生さんによる寄稿、その連載第2回です(過去回はこちら


 

難聴

1801年のウィーン。華々しい新世紀の幕開けの中でベートーヴェンは着実なキャリアアップを続けていた。3年前のピアノソナタ第8番「悲愴」大ヒット以来一気に増えた新曲依頼も止むことはなく、ベートーヴェンは30歳にして既にウィーンを代表する若手作曲家の仲間入りを果たしていた。

「作曲の依頼が受けきれないほどあるんだ。自分で作品を売り込んだとしてもたくさんの出版社が楽譜をリリースしてくれる。その上パトロンから年俸も貰っている」

この年の6月にベートーヴェンは故郷ボンに住む医者であり親友のヴェーゲラーにこのような手紙を送っている。これを読むかぎりでは順風漫歩で煌びやかな人生を謳歌する幸せな作曲家の姿を思い浮かべるだろう。しかし手紙はこう続く。

「実は3年ほど前から耳の聞こえがおかしいんだ、徐々に聴覚が弱くなっている。不健康という悪魔が僕の未来を脅かそうとしている」

これが現存する記録の中では彼の最初の難聴の告白だ。念願の栄光を掴んだはずの若い作曲家は実はとてつもない絶望の中にいた。3年前といえば1798年、彼のキャリアのブレイクスルーとなったあの大ヒット作「悲愴」が書かれた年じゃないか。まさかベートーヴェンがこの輝かしく映る3年間の間、ずっと孤独にこの不安と闘い続けていただなんて。

聴覚は音楽家にとって最も重要な感覚であることは明白だ。耳の聴こえない音楽家なんて一体誰が相手にするだろうか。絶対に誰からもこの事実を知られてはいけない。難聴が発症してからベートーヴェンは必死にこの病を隠し通そうとする。社交の場を極力避け、なるべく無口な性格を演じ、時には変人のふりだってやって退けた。

「いいか、俺が来たことは絶対に誰にも言うなよ」毎回そう念を押しながら何人もの医者の診療を受けるが、原因は何も見つからない。病状はどんどん悪化していく一方だ。幼少期から寝食を惜しんで音楽に身を捧げ、ようやく文化の中心地であるウィーンで認められ、自分の音楽家人生はここからだというタイミングで、こんな仕打ちはないだろう。

難聴が発症してまず大変だったのは人との対話、コミュニケーションだった。現在の研究ではベートーヴェンの難聴は亜鉛中毒による耳硬化症であったという説が有力だ。伝音難聴と呼ばれる症状で、発症間もないこの頃は幸い音楽は聞こえるが、ひどい耳鳴りが邪魔をして言葉を聞いて理解することが難しい状態だった。

それは友人としゃべることが大好きなオープンな性格だったベートーヴェンにとってはとてつもない精神的ダメージを与えた。どんなに明るいく華々しい作品を生み出してもこの苦しみからは逃れられない。そしてこの苦悩を人には決して打ち明けられない。そんな八方塞がりな状況に絶望し切った彼はウィーンの郊外で隠遁生活を始める。

 

ハイリゲンシュタットの遺書

「耳に余計な負担をかけない為にも、しばらく静かなところで暮らしてみるのもいいかもしれませんね」

そんな医師のアドバイスもあってベートーヴェンは1802年の夏にウィーンの郊外、ハイリゲンシュタットに住まいを移す。ハイリゲンシュタットとはウィーン中心部から5kmほど北上したところにある避暑地で、葡萄畑や小川などに囲まれた美しい風景が広がっている。

生を謳歌する夏の大自然に迎えられてベートーヴェンは小川のほとりを散歩し、田園風景から創作のインスピレーションを探す生活を始める。今までの都会の喧騒からは遠く離れ、主に面会は主治医と同郷ボンからやってきた弟子のフェルディナント・リースだけのシンプルな日々。それでも難聴が回復することはなく、遠くで鳴く鳥のさえずりが聴こえないことは彼に絶望的な現実を突きつけ続けた。

まだ幸い音楽は聴こえるが、もはや症状は耳だけでなく慢性的な腹痛など全身に及んでいた。耳が聞こえなくなるのが先か、命が絶たれるのが先か…。そんな恐怖と常に隣り合わせの隠遁生活は決して気持ちの良いだけのものではなかっただろう。

そして、夏は過ぎてすっかり秋になった10月、ベートーヴェンは一通の手紙を書く。それは自身の弟たちに宛てられた遺書だった。

「我が弟たちへ なあ、君たちは僕が人嫌いで強情な人間だと思っているだろうけれど、なぜ僕がそう見えているのか、君たちはその理由を知らないだろう」

孤独の中で抱え続けた不安が爆発したかのような書き出しから、自身の難聴による絶望がどれだけ過酷なものだったか、その悲痛な叫びがそこには綴られていた。耳が聞こえない故に孤立し、それを人には絶対に悟られてはいけない恐怖、そしてその病が慢性化してしまい治らないものになってしまったこと。しかし手紙はこう続く。

「自ら命を絶とうともしたさ、でも芸術だけが僕を思い止まらせた。いずれ死が訪れることは覚悟しているさ、でも今はまだ来てくれるな。僕はこの芸術を完成させなくてはいけないんだ」

手紙は後半になるにつれどんどん遺書の文脈から離れていき、書き上げられたそれはまるで難聴と共に生きていくことを決意した宣誓書のようなものだった。もうこの運命から逃げることはやめよう。難聴持ちの無様な音楽家だろうがなんだろうが、どんなにカッコ悪くでも自分の芸術のためにこの運命に立ち向かってこの命が尽きるまで芸術の火を燃やし続けよう。

そんな意思を裏付けるかのように、この手紙を書いたあとすぐにベートーヴェンはウィーン市内に戻る。難聴に苦しみ怯える自分を殺し、芸術という武器と共に運命に立ち向かう音楽界の革命児として生まれ変わって。

英雄か、災厄か

ハイリゲンシュタットから戻ったベートーヴェンは早速次なる大作を産み出そうとしていた。

交響曲、それはドイツ音楽において最も重要なジャンル。この時にベートーヴェンが作曲していたのは彼にとって3つ目の交響曲で、結果的にこれは交響曲の定義を覆す歴史的大作となる。その大作は1804年に書き上げられ、完成した楽譜の表紙にはフランス革命の先導者ナポレオンの姓「ボナパルト」という副題が付けられていた。

ベートーヴェンは当時ではまだ新しかったリベラルな思想の持ち主で、その思想はウィーンに来る前の故郷のボンで培われた。10代前半の頃から音楽家として働く一方、親しくしていた貴族の家の書斎で知識を蓄え、18歳の時にボン大学が開かれると同時に一期生として法学を学び、その時から「自由・平等・博愛」を掲げるフランス啓蒙思想に関心を持っていた。生涯で読んだ本は圧倒的な量で、そこらの音楽家とは一線を画すインテリだ。

そんなベートーヴェンにとってナポレオンは理想的な社会を作ろうとする新時代の英雄に見えていたことだろう。彼ならきっと今までの絶対王政を終わらせて、民主化された新しい時代を切り拓いてくれる。そんな期待を込めて彼はこの完成した超大作にナポレオンの姓名を与え、今もまさに前線で闘う彼に献呈しようとしていた。そんな矢先にあるニュースがベートーヴェンのもとに舞い込む。

「ナポレオンが皇帝に即位した」

それを知ったベートーヴェンは動揺を隠せなかった。まさか。そんな筈はない。王政を打倒して人民のための社会を生み出す、そのために戦っていた英雄が自ら皇帝に即位してしまうだなんて、支持してきたこの革命はなんだったんだ。俺が託していたこの思いは何だったんだ…。怒り、やるせなさ、悔しさ、恥。あらゆる感情が爆発したベートーヴェンは手元にあったその楽譜の表紙を乱暴にかき消しながら叫ぶ。

「奴も所詮は権力に取り憑かれた俗物だったのか!!それでは結局のところ人権を踏みにじる暴君と変わらないじゃないか!!」

そして書き消された副題の上にはこう書かれていた。

「シンフォニア・エロイカ -ある英雄の思い出のために-」

音楽界の革命

エロイカとはイタリア語で「英雄的」を意味し、今でも「英雄」というタイトルでこの交響曲は広く知られている。それは誰も聞いたことのない全く新しい音楽で、ベートーヴェンの今までのどんな作品とも違う様相をしていた。全楽章の演奏時間は50分にもおよび、それは当時の交響曲の中では異例の長さだった。

「これは交響曲ではない!」非公開で行われた初演に立ち会った貴族たちの中からはそんな叫び声もあがった。前代未聞の大音量、何度も執拗に叩きつけるような激しい音はもはや衝撃波のようにオーディエンスに伝わっていく。楽曲の構成も伝統的な交響曲の枠を大きくはみ出したもので、本来ならばスローテンポで落ち着いた雰囲気を持つはずの第二楽章は暗く重たいドラマチックな葬送行進曲に変わり、軽快で楽しげなフィナーレを演出するはずの第4楽章は当時まだ珍しかったオーケストラによる変奏曲となって爆発的な熱狂を誘った。

時代が追いついていない故に初演は懐疑的な反応で終わったものの、この作品が世に出たことはまさに音楽界における革命だった。ベートーヴェンはそれまでタブーとされていた奏法を意図的に多用することで音楽に更なる自由を与え、この作品は新しい音楽の時代を築く先導者となったのだ。

こうしてベートーヴェンは難聴に対する恐怖を乗り越え、ウィーンを代表する若手作曲家というポジションすら飛び越えて時代を超越した唯一無二の芸術家のポジションを手に入れた。この創作活動がとりわけ盛んだった時期は「傑作の森」と呼ばれていて、わずか5年後には彼の代名詞ともいえる「運命」を生み出すことになる。

Written by 水野蒼生



水野蒼生『BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be-』
2020年3月25日発売
CD / iTunes / Apple Music / Spotify




 

Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了