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ベスト・クラシック・ピアニスト:史上最高の25人 Vol.1

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史上最高のクラシック・ピアニストは誰か?伝説的な名手と今日の若いスターをフィーチャーした、最高のピアニストのセレクションをご覧頂きたい。

セルゲイ・ラフマニノフ、ヴラディーミル・ホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタインなどの伝説的な名手と、ラン・ラン、ユジャ・ワン、ベンジャミン・グローヴナーなどの今日、まばゆいばかりの活躍を見せる若いスター全25人をリストアップ。今回から年代順に3回に分けてご紹介していく。(第2回第3回


最高のクラシック・ピアニスト:史上最高の25人 Vol.1

セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)

ラフマニノフは、すべてのピアニストの中でも最も偉大だと考えられている。何よりもまず作曲家であり、彼を擁護したチャイコフスキーの後継者としてロシアで歓迎された。しかし、1917年の革命から逃れた後、ラフマニノフはスイス、後にアメリカに定住し、ツアー・ピアニストとして生計を立てていた。

彼の録音は、絶妙な音色、落ち着いた音楽性、そして深い感情の源泉をもつ、比類なきものである。ラフマニノフによる自作品の演奏は、彼の作品が大音量で大げさに演奏する演奏者たちにあまりに傷つけられていることを明らかにする。ラフマニノフの演奏はむしろ、冷静で抑制されたものである。

Rachmaninov: Elegie in E flat minor, Op.3, No.1

アルフレッド・コルトー(1877-1962)

最高のピアニストの一人であるコルトーは、記録にある過去のピアニストの中で最も美しく、クリアで、歌うような音色を持っていた。彼の自由に雄弁なスタイルは、音から詩を感じさせる。

スイス生まれのピアニストのドラマと物語の感覚は、特にコジマ・ワーグナーが取り仕切っていたバイロイト音楽祭での指揮者およびコレペティートルとしての経験によって、おそらく高められた。さらに彼は《神々の黄昏》のパリ初演を行っているのだ。

コルトーはジャック・ティボー(ヴァイオリン)とパブロ・カザルス(チェロ)と結成した「カザルス三重奏団」でも有名であった。また、音間違いが多かった(彼は練習を嫌っていたと言われている!)ことでも知られている。しかし、彼の解釈は、伝説的な表現の領域に達しているものである。

24 Preludes, Op. 28: No. 16 in B-Flat Minor

アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)

シュナーベルは現在のポーランドで生まれ、ウィーンで育ち、偉大なピアノ教育学者であるテオドール・レシェティツキの生徒であった。彼はソリストおよび室内楽奏者としてトップレベルのキャリアを確立し、1925年からベルリンでピアノ科の教授として勤め人気を集めていた。

1933年にナチス政権から逃れることを余儀なくされ、最初はアメリカに移り、その後スイスに移った。彼の演奏は、知性と感情、厳格さと才気の理想的なバランスを特徴としており、ウィーン古典派の解釈で最も知られている。彼はベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの全曲録音を行った最初の演奏家である。

Beethoven: Piano Sonata No. 30 in E Major, Op. 109 – 2. Prestissimo

アルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)

ルービンシュタインの人生への情熱と人間的な魅力が彼の音楽には溢れている。ポーランドで生まれた彼は才能のある子供で、7歳でデビューし、ブラームスとシューマンの友人であるヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムにその才能を高く評価された。彼は第一次世界大戦をロンドンで過ごし、第二次世界大戦の直前にアメリカに移住した。

若い頃は天性の才能に頼っていたが、1932年には更なる技術向上のため、集中的に練習を行っている。彼のショパンの演奏は比類なきものと見なされることが多く、ルービンシュタインのために書かれた作品には、シマノフスキのピアノ音楽、マヌエル・デ・ファリャの《ペティカ幻想曲》とストラヴィンスキーの《「ペトルーシュカ」からの3楽章》(バレエからの編曲)。彼のレコーディングは、彼の並外れた活力と音楽に対するシンプルで率直、そして誠実なアプローチを証明している。

Arthur Rubinstein – Chopin Nocturne Op. 9, No. 1 in B flat

マイラ・ヘス(1890-1965)

デイム・マイラ・ヘスは、英国のピアニストを代表する存在である。さらに、第二次世界大戦中にロンドンのナショナル・ギャラリーなどでランチタイム・コンサートを企画、出演し、国民的ヒロインとなった。彼女の人気はアメリカでも強く、常に船で約40回訪れている。

ロンドンでトビアス・マタイと共に教育を受けたヘスは、非常に知的であり、断固として目的に向かう驚異的な真剣さを持ち、豊かで透明な音色、バッハからブラームスの後期作品までの音楽に対する深い考え、寛大で精神的なアプローチで評判を得ていた。

彼女はやや厳格な外見のイメージ(彼女はコンサートの際、常に黒を着ていた)にもかかわらず、かみそりのような鋭い機知を持っていたと、故ジョン・エイミスらによるインタビューで明かされた。録音をあまり好まなかったため、ヘスのレコーディングは決して多くはないが、現在聴けるものは彼女の崇拝者たちによって愛されている。

Herz und Mund und Tat und Leben, BWV 147: No. 10, Jesus bleibet meine Freude (Arr. M. Hess for…

クララ・ハスキル(1895-1960)

果てしないあたたかさと絶え間ないインスピレーションを与える、最高のクラシック・ピアニストの一人であるクララ・ハスキルは、確かに困難な生活を送ってきた。彼女はブカレストで生まれ、パリで教育を受け、15歳でパリ音楽院のプルミエ・プリを受賞。

しかし、彼女の初期のキャリアは、進行性の脊柱側弯症に悩まされていた。彼女はしばしば病に苦しみ、本番にも弱かった。ようやく彼女の評判が高まったのは第二次世界大戦後。ハスキルは特にウィーンの古典派、中でもモーツァルトで高い評価を得ていた。

友人のチャーリー・チャップリンはかつて次のように述べている。「私は人生で3人の天才に出会った。アインシュタイン教授、ウィンストン・チャーチル、クララ・ハスキルだ。私は訓練を受けた音楽家ではないが、彼女のタッチは絶妙で、表現は素晴らしく、テクニックは並外れたものであった」。

Mozart: Piano Concerto No.23 in A, K.488 – 1. Allegro

ウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)

ホロヴィッツは唯一無二の存在だ。ヒマラヤの山脈のような表現の幅を持ち、これまでも、またこれからもない卓越した技術、熱狂な先見性を備えたピアニストである。キエフで生まれたホロウィッツは、1925年にソ連を離れてベルリンのアルトゥール・シュナーベルに師事したが、帰国することはなかった。

1928年の彼のアメリカ・デビューは、彼を国際的なスターの座へと押し上げた。個人的な危機と抗うつ薬や他の物質への依存症の発作に悩まされていたホロウィッツは、1940年代にうつ病の電気ショック療法を受けた。彼と彼の演奏に出会った人の中には、その高い芸術性に心を動かされず、揺るがないという人はほとんどいなかった。

Schumann: Kreisleriana, Op.16 – 4. Sehr langsam

スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)

リヒテルのレパートリーは膨大でありながら、それぞれに相応しい解釈による演奏を披露した。作曲家の意図に絶対的な忠実であることに重きを置き、ダイナミクスの激しいスケールの大きな演奏であった。彼はかつて、演奏家を作曲家の意図を忠実に実行する執行人と見なしていると言ったことがある。

「演奏家は作品にないものを何も加えない。もし才能があれば、作品自体の天才性、それが反映されている作品の真実を垣間見ることができるはずだ。演奏家は音楽を支配するのではなく、音楽の中に溶け込んでいくべきなのだ」。リヒテルはソ連を離れなかったが、欧米諸国を定期的にツアーで周った。彼は膨大な録音を残しており、その多くはライヴ録音である。

Tchaikovsky: Piano Concerto No. 1 in B-Flat Minor, Op. 23, TH 55 – I. Allegro non troppo e…

Written By uDiscover Team



 

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