なぜ、ジョン・コルトレーンはカリスマなのか? それを紐解く5つの事象

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1926年9月23日生まれのコルトレーンは、“ジャズの帝王”と呼ばれたマイルス・デイヴィスと同い年。そんかコルトレーンは、ジャズの歴史開拓し続けたマイルスを差し置いて、なぜ現在でも“ジャズ史上最大のカリスマ”としてファンに愛されるのか。その理由を紐解く5つの事象をご紹介しよう。

演奏もダメ、生活もボロボロ…から一転ジャズ界のトップスターへ

音楽学校卒業後、ミュージシャンとして活動するも鳴かず飛ばず…。30歳近くなってマイルス・デイヴィスのバンドに抜擢され知名度は一気に上がったものの、コルトレーンの演奏に対する世間の評判は決して芳しくなく、また、薬物やアルコールに溺れてライヴへ遅刻することもしょっちゅうで、いよいよバンドをクビになりお先真っ暗だった。しかし30歳を過ぎ麻薬を絶つと、天才ピアニスト=セロニアス・モンクに弟子入りし、「神の恩恵を受けた」というコルトレーンは見違えるように覚醒。ライヴでもレコーディングでも圧倒的なパフォーマンスで、一躍ジャズ界のトップ・アーティストとなった。

唯一無二の速射砲のようなスタイル

成熟したコルトレーンは「シーツ・オブ・サウンド」と称された連続して無数の音を演奏する“音を敷き詰めた”ような演奏で、後進に影響を与えた。
*以下は「シーツ・オブ・サウンド」の代表曲としてあげられる「Giant Steps」

わずか20年という短いキャリア

1980年代までシーンを牽引したマイルス・デイヴィスに対して、コルトレーンが第一線で活躍したのは約20年という短い期間。人気絶頂期、40歳という若さで亡くなったことで、より濃くファンの記憶に刻まれることとなった。

“私は聖者になりたい”

1966年、日本中を熱狂させたザ・ビートルズの来日公演直後、コルトレーンも初となる日本ツアーを実施。1966年7月9日に実施された来日記者会見でコルトレーンは、「私は聖者になりたい」とコメントを残している。17日間で計12公演という強行スケジュールでの来日公演の中で、原爆被害にあった長崎と広島でも公演を行い「Peace On Earth(邦題:地球の平和)」という新曲を披露。長崎の平和公園では献花し、祈りを捧げている。コルトレーンは大の親日家であると共に、平和を祈って止まない人間性も併せ持っていたのだ。

名盤『至上の愛』と60年代

コード進行から離れ、メロディの配列からアドリブを展開する“モード奏法”をマイルス・デイヴィスから学び、追求したコルトレーン。その演奏は公民権運動の流れに乗ってより鋭くなり、60年代になると制約をなくした“フリー・ジャズ”へと深化し一大ムーヴメントとなった。

そんな中1965年に録音されたのが名盤『A Love Supreme(邦題:至上の愛)』。セールス的にも大ヒットを記録した他、ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500で47位にランクイン。アメリカを代表する科学、産業、技術、芸術を研究/展示しているスミソニアン博物館のコレクションにも選ばれている。さらに、アメリカ国立博物館では“アメリカ史の宝”として所蔵されている。

ロック・バンドU2のボノは、様々なインタビューで影響を受けたアルバムとして『A Love Supreme』を挙げ、さらに彼らのシングル「Angel of Harlem」の中には、「We got John Coltrane and “A Love Supreme”」という歌詞があるほど。それ以外にも、カルロス・サンタナなど様々なアーティストへ影響を与えている。



  

ジョン・コルトレーン『Both Directions at Once: The Lost Album』
2CDデラックス・エディション」「1CD通常盤」、2形態同時発売
   

<パーソネル>ジョン・コルトレーン(ts, ss)、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)
★1963年3月6日、ニュージャージー、ヴァン・ゲルダー・スタジオにて録音




 

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