Join us

Stories

ザ・ローリング・ストーンズ「Ruby Tuesday」解説:ブライアンが重要な役割を果たした名曲の裏話

Published on

Photo: Keystone/Getty Images

ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が、18年ぶりとなる新作スタジオ・アルバム『Hackney Diamonds』を2023年10月20日に発売することを発表した。

この発売を記念して彼らの過去の名曲を振り返る記事を連続して掲載。

<関連記事>
ストーンズ、18年振りのスタジオアルバム『Hackney Diamonds』を10月に発売
ザ・ローリング・ストーンズが18年振りの新作発表会見で語ったこと
ピート・タウンゼントによる“ロックの殿堂”紹介スピーチ掲載


 

1966年4月、ザ・ローリング・ストーンズは一つの大きな節目を迎えた。グループがこの月にリリースしたアルバム『Aftermath』は彼らのアルバムとしては初めて、全曲がミック・ジャガーとキース・リチャーズの共作によるオリジナル・ナンバーで構成された1作になった。

アメリカではその直前の3月にそれまでにリリースされた人気の高いシングル曲を纏めたコンピレーション・アルバム『Big Hits (High Tide and Green Grass)』をリリースしていたこともあり、当時のストーンズはまさしく新時代に突入したようだった。それ以降、彼らは実績と革新性を兼ね備えたソングライターを擁するグループとして、確固たる地位を築いていったのである。

彼らのオリジナル・ナンバーのベーシックな部分は、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの二人が持ちつ持たれつの協力関係で作り上げていた。だが、このグループの強みはそこだけにあったのではない。ギタリストであるブライアン・ジョーンズの熱心な実験精神も、当時のザ・ローリング・ストーンズにとって必要不可欠な要素の一つだったのだ。ジャガーとリチャーズの書いた楽曲が奇抜でインパクトのあるサウンドに仕上がっていたのは、好奇心に満ちたジョーンズの音楽センスのおかげであることも多かった。

ギターに対する関心を失っていたブライアンは、さまざまなめずらしい楽器を駆使して『Aftermath』に風変わりで印象的なサウンドを加えた張本人だった。彼は、「Lady Jane」ではダルシマーを効果的に使用。「Under My Thumb」ではマリンバを演奏し、この曲を象徴するフレーズを生み出していた。また、「Paint It Black (黒くぬれ!)」では想像力を喚起するようなシタールのリフを弾いている。

しかし、残念ながら、ブライアンのスタジオでの活躍は、バンド内での彼の地位の向上にほとんど繋がらなかった。ミック、キースとの主導権争いに巻き込まれた彼は、徐々にアルコールとドラッグに逃避するようになっていく。そうして、もともと不安定だったブライアンの精神はさらにおぼつかなくなっていき、彼はほかのメンバーたちといっそう距離を取るようになったのだった。

 

状況の改善

しかし、その夏に行われた約1ヶ月のアメリカ・ツアーで、そうした緊張関係は一時的に和らいだようだ。キース・リチャーズはこう話す。

「1966年のツアーではある程度、ブライアンとの仲が元に戻ったんだ。俺たちは毎日、メキシコ製の上物のマリファナで完全にハイになっていた。みんなが同じことにのめり込んでいたから、ブライアンと付き合うのもすごく楽だったんだ。ミックにしても同じだよ。ブライアンとの関係は改善したようだった。ブライアンもみんなとの仲が上手くいってすごく嬉しそうだったよ」

1966年9月にブライアンは、ストーンズの枠を超えて自身の創作意欲を存分に発揮する機会を得た。当時のガールフレンドだったアニタ・パレンバーグが主演を務めるドイツ映画『A Degree Of Murder (英題) 』のサウンドトラックの制作に着手したのだ。

このサウンドトラックはブライアンのソロ名義の仕事だったが、彼はこれにスモール・フェイセスのドラマーであったケニー・ジョーンズや、のちにレッド・ツェッペリンを結成するギタリストのジミー・ペイジら多くの友人たちの力を借りて取り組んでいた。そして、即興で生み出された楽曲群には、彼の豊かな創造力が見事に表れていた。エンジニアのグリン・ジョンズはこう断言する。

「制作中のブライアンは精神的にすごく落ち着いていたし、自信に満ち溢れていた。作品が完成すると、彼は嬉しそうでもあり、ほっと一安心したようでもあった」

そんな中の同年11月、スタジオでストーンズとしての新曲のレコーディングが行われることになった。ブライアンが新たな気持ちでその日を迎えたことは想像に難くない。実際、彼はその曲の制作において極めて重要な役割を果たした。そうして生まれたのは、グループの歴史の中でもとりわけ美しく、同時に悲しい名曲だったのである。

 

スタジオ入り

ストーンズの面々は8月にも、ロサンゼルスのRCAスタジオでいくつかの新曲を制作していた。そして11月のレコーディングでメンバーたちは、プロデューサー兼マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムとともにロンドンのバーンズにあるオリンピック・サウンド・スタジオを初めて訪れた。ベーシストのビル・ワイマンによれば、これが「一つの完成品としてのアルバム制作に注力した最初のスタジオ・セッション」だったといい、彼らはこれ以降、オリンピック・サウンドをたびたび使用し、数多くの名作を生み出していくことになる。

ワイマンの言葉を借りればこの「冒険の1ヶ月」で、ポップ・アルバムとしてはストーンズ最後の傑作となった『Between The Buttons』が誕生した。そして、そんな同作のレコーディングの初期に制作された楽曲に「Title 8」という仮題で呼ばれていた1曲があった。

ビル・ワイマンによると、この曲のアイデアをグループに提案したのはキース・リチャーズだったという。だが、ミック・ジャガーの当時のガールフレンドで、このレコーディング・セッションにも頻繁に顔を出していたシンガーのマリアンヌ・フェイスフルの記憶は違っていた。彼女はこう話す

「ブライアンは、エリザベス朝時代のリュート音楽とデルタ・ブルースを融合させるという考えにすごくこだわっていた。エリザベス朝時代のバラッド・ナンバーとロバート・ジョンソンの音楽が本質的に似ているって熱弁していたね。あるとき、ブライアンが自信なさげに、童謡みたいなフォーク調のメロディーをリコーダーで優しく吹いたの。単なるか細いメロディーという感じだったけど、それがキースの耳に留まった。彼は顔を上げて、”いま吹いたのは…何だい?リコーダーだったのか!もう一回やってくれないか?”と言ったんです。それでブライアンに注目が集まって、彼は震えるような、それでいて軽快なメロディーをもう一度リコーダーで吹いたの。完璧だった。完璧というだけでは足りないほど素晴らしかったわ!キースは”うん、いいね”と言ってピアノの方へ行き、すぐ曲作りに取り掛かった」

どちらの記憶が正しいかは分からないが、ともかくブライアンとキースは共同でその曲の作曲を進めていった。一方でミック・ジャガーは、ブライアンが断固として口を出させまいとしたことで蚊帳の外に置かれた。

 

レコーディング

そうして数日のあいだ、この曲の完成に向けてブライアンとキースの二人がレコーディングを仕切ることとなった。実際、このころにスタジオを訪れたジミ・ヘンドリックスは、ブライアンが制作の進行を任されているように見えたと明かしている。二人はクラシック音楽で使用される楽器をいくつも用いて、この曲の全体に漂う物悲しさを表現していった。

曲の基礎となるリズム・トラックはキースのアコースティック・ギターとブライアンのピアノで構成され、コーラス・パートではワイマンのベースとチャーリー・ワッツの力強いドラムが楽曲を盛り上げる。また、アメリカ人プロデューサー/作曲家のジャック・ニッチェ (メンバーたちの古くからの友人であり、ストーンズの初期作品でも鍵盤楽器を弾いている) もこの曲に参加し、ピアノの演奏を補強する役割を果たしている。

他方、低く響き渡るコントラバスは、共同作業で演奏する必要があったのだという。「俺は手が小さいから、一人では普通の大きさのコントラバスを弾けなかったんだ」とワイマンは話す。そこで、彼が楽器の弦を押さえ、キースが弓で弾くという方法が採られたのだった。

だが何より、この曲の主役になったのはブライアンのリコーダーだった。その曲がりくねるような哀愁たっぷりのメロディーは、はかなく、魅力と悲しみに満ち溢れている。まるで、この当時のブライアン・ジョーンズそのものを表しているようだ。また、この曲からは嘘偽りのない独特の痛ましさが感じられるが、それもこのメロディーのおかげだろう。エンジニアを務めたエディ・クレイマーはこう話す。

「彼があのメロディーを吹くのを聴いて驚いたよ。あんな風に吹こうとする彼の発想にも、彼の演奏技術にも驚いた。あれはデスカントを発展させたような演奏だ。イギリスの音楽学校で教えるような技法さ。ミックとキースを悪く言うわけじゃないけど、彼らにはきっとあんなことは思い付かなかっただろうね」

 

楽曲の題材

前述の通り作曲は共同で進められたが、歌詞はキースが一人で書き上げた。そしてこれも、ストーンズにとって初めてのことだった。ミック・ジャガーは歌詞の中で女性を叱責したり非難したりすることが多かったが、それと比べるとキース・リチャーズの詞はロマンティックだといえるだろう。彼の歌詞における女性への態度は、比較にならないほど思いやりに満ちている。だがそうした態度は、自分の過去への絶望から生まれたものだった。

1964年3月、キース・リチャーズはあるパーティーで「自信に満ちた」17歳のモデル、リンダ・キースと出会った。それは、ミック・ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルと知り合ったのと同じパーティーだった。アンドリュー・ルーグ・オールダムの恋人 (のちの妻) 、シーラの親友だったリンダは、脇目も振らずリチャーズのもとへやって来たという。リチャーズによると二人は「まったく、完全に恋に落ちた」といい、2年ほどのあいだは恋愛関係が続いたが、その後で二人の関係にほころびが生じ始めた。

気ままな性格で奔放に生きるリンダは、生まれつき内気なリチャーズの性格を補う理想的な相手だった。だがそのことが、二人の関係の破綻にも繋がることとなった。ストーンズの面々は過酷なほど多忙なスケジュールをこなしていたため、リチャーズは長期間に亘り家を空けることが多くなっていた。その間、家でじっと彼の戻りを待っていることをリンダに期待するのは、不公平かつ非現実的だったのである。

1966年8月、リチャーズがアメリカでの長期滞在から帰国すると、ついにリンダは彼の元を去っていた。そして、彼女が戻ってくることはなかった。「心に深い傷を負ったのはあれが初めてだった」と彼は認めている。そうして11月を迎えたころ、彼の怒りと傷心は、彼女を許す気持ちへと変化していた。リチャーズはリンダという存在の若さゆえの儚さに想いを馳せ、その想いを楽曲に込めたのである。彼はこう語る。

「ソングライターというものは、誰かから酷い扱いを受けたとしても、それを曲にすることで安らぎを得られるんだ。それを曲で表現できるのさ。つまり、”ルビー・チューズデイ”というのはリンダのことなんだ」

The Rolling Stones – Ruby Tuesday (Official Lyric Video)

 

リリース

最後にヴォーカルをレコーディングして、「Ruby Tuesday」は完成した。ジャガーは哀愁に満ちたリチャーズの歌詞にそっと寄り添うように、この曲を優しく歌い上げている。そうして曲が出来上がると、すぐにリリースの準備が進められた。

1967年1月13日、同曲はニュー・シングル「Let’s Spend The Night Together (夜をぶっとばせ) 」のB面曲としてリリース。そのA面曲は、ストーンズの面々がRCAスタジオで制作していた1曲だった。

だが間もなくして、ハードなサウンドのA面曲にアメリカのDJたちからの批判が集まり始めた。あからさまに性的な同曲の内容が反感を買ったのである。テレビの有名司会者であるエド・サリヴァンも同じ考えを持っており、同月15日にストーンズが彼の番組に出演した際には、彼らに一部の歌詞を変更させた。ミック・ジャガーは「一緒に時を過ごそう (Let’s spend some time together)」と歌いながら、見るからに反抗的に目をギョロリと動かしてみせた。

The Rolling Stones Let´s spend some time together

ラジオでは徹底した放送禁止措置が取られ、結果としてシングルの売上も低調な滑り出しとなってしまった。すると抜け目のないマネージャーのオールダムは、同シングルが両A面だとする声明を発表。DJたちが自分の判断で2曲のうちどちらを放送するか決められるようにしたのだ。そしてミック・ジャガーもDJたちの先手を打って、このように発言した。

「俺はこっち (Ruby Tuesday) の方が好きだな。きっとみんなこっちの面を選ぶだろうね」

ジャガーの言葉通り、アメリカでは「Ruby Tuesday」が「Let’s Spend The Night Together」をしのぐ人気を獲得。チャートでは後者が28位止まりだったのに対し、同曲は1位に輝いた。一方、イギリスでは2曲とも3位まで上昇している。

 

影響とその後

同シングルの1週間後にリリースされた『Between The Buttons』は、革新性と親しみやすさを兼ね備えたアルバムだった。同アルバムをそんな作品に仕立てている魅力の一つが「Ruby Tuesday」のみずみずしい演奏にあるといえるだろう。彼らはその中で、型破りなストーンズ流のポップ・ロックを作り上げた。バロックやミュージック・ホールなどの音楽の影響を取り込んだそのサウンドは、のちのサイケデリアの原型にもなったのである。そして、そうした絢爛な作風は次作『Their Satanic Majesties Request』で最高潮に達することとなる。

「Ruby Tuesday」は1967年春のヨーロッパ・ツアーのほとんどの公演で演奏されたが、その後20年間はステージで披露されることがなかった。というのも、1969年にはブライアン・ジョーンズがこの世を去り、後任として名ギタリストのミック・テイラーが加入。彼の貢献もあり、グループは煌びやかで威厳に満ちたロックンロールを売りにするようになっていく。粗野で荒々しいそのサウンドはおそらく、「Ruby Tuesday」の優美な曲調と相いれなかったのだ。

それに加え、ミック・ジャガーに限って言えば、この曲からどうしても『Between The Buttons』を連想してしまっていたのだろう。彼は時を経て同アルバムへの不満を口にするようになり、あるときは「ああ、あのクソみたいなレコードは大嫌いだ」とこぼしたこともあった。音を重ねすぎたせいで抑揚のない平板な音になってしまい、作品の質が落ちたのがその理由だったようだ。

しかし、「Ruby Tuesday」は1989年の”Steel Wheels Tour”で再びライヴのセットリストに入った。それ以降、ジャガーの同曲に対する感情 ―― 曲作りからほとんど締め出されていたことも悪い印象に繋がっていたのだろう ―― も改善してきたようだ。例えば1995年のローリング・ストーン誌の取材で彼は、同曲についてこう話している。

「素晴らしい曲だ。何と言っても、魅力あるメロディーに尽きる。あとは素敵な歌詞だね。どっちも俺が書いたわけじゃないけど、この曲はいつ歌っても楽しいんだ」

The Rolling Stones – Ruby Tuesday (Live) – Official 1991

Written By Simon Harper


最新アルバム

ザ・ローリング・ストーンズ『Hackney Diamonds』

2023年10月20日発売
デジパック仕様CD
ジュエルケース仕様CD
CD+Blu-ray Audio ボックス・セット
直輸入仕様LP
iTunes Store / Apple Music / Amazon Music

The Rolling Stones – Angry (Official Video)

シングル

ザ・ローリング・ストーンズ「Angry」
配信:2023年9月6日発売
日本盤シングル:2023年10月13日発売
日本盤シングル / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



 

Share this story
Share
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

Click to comment

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Don't Miss