スティング『The Dream Of The Blue Turtles』解説:若きジャズ奏者たちと作り上げた新たな旅路

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スティングのソロ・デビュー・アルバム、『The Dream Of The Blue Turtles(ブルー・タートルの夢)』が2025年に発売40周年を迎え、ボーナストラックを追加収録されたエクスパンデット・エディションが他5作品とともに7月11日に日本限定でCDが発売となった。

これを記念して、このアルバムがどのように生まれたのか、そして1985年のソロ初来日など、ポリス時代からスティングを追い続けてきた大島 隆義氏による原稿を掲載。

また、これらの発売や9月の来日公演を記念してスティングの楽曲人気投票企画が行われている。

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『The Dream of the Blue Turtles (ブルー・タートルの夢)』の40周年記念リイシューである。10曲42分の作品が、26曲2時間12分を超えるボリュームで新たな命を得た。

まずは「Another Day」が目を引く。『The Dream of the Blue Turtles (ブルー・タートルの夢)』のレコーディング・セッションで生まれながら、先行シングル「If You Love Somebody Set Them Free」のB面に収まり、アルバムには収録されなかった曲である。それでも、「Blue Turtlesツアーで多く演奏され、B面曲でありながら、スティングとバンドが愛した曲である。

スティングは自身最初のヒット曲「Roxanne」について「誰もが口笛で吹けるような曲を書きたい。それを達成できた」と述懐しているが(英『NME』1981年1月)、「Another Day」はBlue Turtles期に完成した曲の中でもっとも口笛ソングに近い存在だと感じる。今回の「40周年記念エクスパンデッド・エディション」のCD 2の1曲目を飾るにふさわしい佳曲である。

 

ポリス後の世界

1983年、ポリスのアルバム『Synchronicity』のツアー真っ最中だったスティングは、『NME』誌のインタビューで「このツアーが終わったら、もうやらないだろうね。グループを出て行くと思う。僕は自由にやりたい」と語っている(1983年12月1日号)。

12月14日の英ノッティンガム、ロイヤル・センターでのポリス公演に関し、記者のバーニー・ホスキンズは観客にティーンエイジャーの女子が少ないことを指摘した(『NME』1984年1月7日号)。彼女たちはアルバム『Seven and the Ragged Tiger』を全英1位に叩き込んだばかりのデュラン・デュランに熱を上げていたのだろう。1984年3月4日にオーストラリア・メルボルンでシンクロニシティー・ツアーの最終公演を終えると、ポリスの3人のメンバーは個々の活動に乗り出す。

1984年夏、スティングは英ノース・ロンドンの自宅にアメリカ人ジャーナリストのヴィクター・ガルバリーニを招き、「Moon Over Bourbon Street (バーボン・ストリートの月)」「Russians」「If You Love Somebody Set Them Free」のデモを聴かせる。いずれも翌年に完成する『The Dream of the Blue Turtles』に収録されるトラックである。『週刊FM』(音楽之友社、東版1985/9/9~9/22号、表紙スティング)に掲載された高橋健太郎氏によるインタビューで、スティングは「共演したいと思ったすべてのミュージシャンを友人のヴィクター・ガルバリーニが集めてくれた」と感謝を示している。

このヴィクター・ガルバリーニの手記が米『MUSICIAN』誌(1985年7月号、8月号)に掲載されている。スティングは新プロジェクトのバンド・メンバーについてヴィクターに相談する。

「まずはキーボード奏者が必要。バンドの土台になる。そしてドラマーと、サックス。トロンボーンも要るかも。それとベース奏者。ギターは僕が弾く。シンクラヴィア(デジタルシンセサイザー)も自分でやってみる」

「ジャズ・ミュージシャンが必要だと思う。ポップスを演奏する気持ちがあって、さらに両方の範囲を拡張する意欲のあるメンバーが欲しい」

ヴィクターは気鋭の若手サックス・プレイヤー、ブランフォード・マルサリスを紹介する。「彼が僕と演奏したいと思ってくれるだろうか」と問うスティングに、ヴィクターはブランフォードがポリスのシェイ・スタジアム公演を観て、周りの客と一緒に大声で叫んで楽しんだという話を伝える。ニューヨーク・ヤンキースの本拠地である野球場でのポリス公演(1983年8月18日)には6万7千人のファンが詰めかけたとされる。

アルバム『Synchronicity』とそのツアーの世界的な大成功の象徴と呼べるショウであり、スティングがポリスでやれることは達成したと語る際に引き合いに出す出来事である。ヴィクターは「ブランフォードは(兄である)ウィントン(・マルサリス)とは違ってジャズ一辺倒というわけじゃないんだ」と答える。

 

セッションとバンドメンバー

1985年1月、米ニューヨークのS.I.R.スタジオにスティングはブランフォードを迎え、意気投合。まずはサックスが固まる。日を改め、ダリル・ジョーンズ(ベース)、オマー・ハキム(ドラム)がスタジオでのセッションに参加して、ポリスの「Driven to Tears (世界は悲しすぎる)」「One World (Not Three)」「Demolition Man (破壊者)」を共に演奏し、グループへの参加が決まる。

最後にウィントン・マルサリスのバンドでピアノを弾くケニー・カークランドがスタジオに現れ、キーボードが定まった。バッキング・ヴォーカリストとしてドレット・マクドナルドとジャニス・ペンダーヴィスが加わり、メンバーが揃う。ドレット・マクドナルドはシンクロニシティー・ツアーでポリスに帯同した3人のバッキング・ヴォーカリストのひとりである。

スティングは主要なスタッフをポリスから引き継いだ。マネジャーのマイルス・コープランド、マネジャー兼エンジニアのキム・ターナー、ベース&ギター・テックのダニー・クアトロッキ(現在もスティングの腹心である)。ポリスのミュージック・ビデオや映像作品『The Synchronicity Concert』を監督したゴドレイ&クレームは、スティングの「If You Love Somebody Set Them Free」のビデオも担当する。しかし、レギュラーのミュージシャンとしてポリスとスティングのバンド両方のステージ上でプレイしたのはドレットだけである。

メンバーが揃うと、スティングは1985年3月のアルバム録音開始を前に、2月末にニューヨークのコンサート会場ザ・リッツでの公演を画策。2月25日から27日の3日間、このメンバーでステージに上がり、録音前の「Children’s Crusade」「We Work the Black Seam (黒い傷あと)」「Moon Over Bourbon Street (バーボン・ストリートの月)」「If You Love Somebody Set Them Free」を披露している。「レコーディング前にメンバーのアイデンティティを融合させるためのアイデアだった」とはスティングの談。翌週にバンドはカリブ海のバルバドスに飛んだ。

 

ジャズ・ミュージシャンたちとの録音

1985年3月4日から4月21日、バルバドスで録音が行われた。「常駐評論家」としてバルバドスに招かれたのは先述のキーパーソンであるヴィクター・ガルバリーニである。ヴィクター曰く「なぜ最初のソロ・アルバムで若い黒人ジャズ・ミュージシャンたちと演奏することにしたのか、スティング自身も分かっていなかった。おそらく、自分の思考からはインスピレーションが湧いてこなかったからだろう」。

バルバドスで最初に録音した曲は「Shadows in the Rain」。ポリスのアルバム『Zenyatta Mondatta』(1980年)のB面4曲目に収められた、決して目立つわけではない1曲である。スティングはアップテンポなR&Bトラックを書いたつもりが、ポリスではモダンで抽象的な出来栄えになり満足していなかった。

マイルス・デイヴィス・バンドのベーシストであるダリル・ジョーンズ(後にザ・ローリング・ストーンズのレギュラー・ベーシストになる)、ウェザー・リポートのドラマーのオマー・ハキム、ウィントン・マルサリスのグループでキーボードを弾くケニー・カークランド、そしてスティングがスタジオに入る。

オマーのスナップ&ロール、ダリルがキック・インするブレイクにスティングもギターを入れ込み、ケニーがヤマハDX7で繰り出すローラー・コースター・ソロでトラックが形作られると、サックスは翌日に録ればいいと言うスティングに対しブランフォード・マルサリスは即座の録音を主張し、即興で決めてトラックが完成した。ポリスの曲で『The Dream of the Blue Turtles』に入ったのはこの1曲だけである。ポリスの録音とは大きく異なり、新たに生まれ変わって収録された。

録音2日目には「Children’s Crusade」の演奏を全員で高め、テンションを上げ、本当のパッションを得た。スティングは「バンドとしてひとつになった」と喜んだ。

「If You Love Somebody Set Them Free」は1984年夏の段階でスティングがデモを有していたが、英国でセカンド・シングルになる「Love Is the Seventh Wave」は1985年3月から4月のアルバム録音時の即興から生まれた曲である。

「Fortress Around Your Heart」(米セカンド・シングル)、「Russians」(英米サード・シングル)とも、1985年2月のニューヨークでは演奏されていない。アルバム・セールスの原動力となったこれらのシングル曲は3月の録音セッションの中で形になったようである。バルバドスでの録音が活気に満ちていたことをうかがわせる。録音は7週間で順調に終了した。

1985年4月29日にスティングはミキシング前のテープを持ってニューヨークに赴き、A&Mレコードの幹部に音を聴かせる。その後、カナダのケベックでミキシングを行い、アルバムが完成した。

 

発売後の動き

1985年5月15日、バンドはパリに集結。パリ9区で現在も営業を続けるモガドール劇場で5月22日から31日に7公演を行う。5月28日には「If You Love Somebody Set Them Free」がアルバムからの先行シングルとして発売された。

1985年6月3日、英国BBCテレビのトークショウ『Wogan』に出演し、バンドは「If You Love Somebody Set Them Free」を演奏。ロンドン市内を車で移動しながらスティングはタブロイド紙『The Mail On Sunday』のインタビューを受ける。さらに同日夜、ロンドン市内にてA&M主催で開催された関係者向けアルバム試聴会にも出席。先行シングルが発売されアルバムの発売を2週間後に控えるタイミングでの、重要な宣伝活動の1日となった。

1985年6月17日、アルバム『The Dream of the Blue Turtles』発売。6月29日付で初登場全英3位、アメリカでは9月7日付で2位まで上昇するヒットとなった。本作の1位を阻んだのは、この頃アメリカで9週間にわたりナンバーワンを独走中だったダイアー・ストレイツの『Brothers in Arms』であり、奇しくもスティングがヴォーカルで参加したシングル「Money for Nothing」が数週後の1位に向けヒット・チャートを上昇中であった。

 

ソロとしての来日公演

1985年8月10日に東京・お台場で開催された「SUPER ROCK ’85 IN JAPAN」のためにスティングとメンバーが来日。ディオ、フォリナーなどが出演し、土曜夜から日曜朝にかけて行われた〈オールナイト12時間コンサート〉のステージに立った。

『BURRN!』誌(1985年10月号、表紙ポール・スタンレー)には大野奈鷹美さんによる「緊急速報 SUPER ROCK ’85」が掲載され、「天候は『スーパー・ロック』に味方してくれなかった」「『東京湾お台場運動公園』(※当時の通称)の地面は、夕方にはすでに田んぼのようにぬかるんでいた」が、スティングのステージは「音が抜群に良かった」「屋外で演奏しているとは思えないほどクリアーなサウンドが会場を包み、ため息が出るほどの完璧さだった」と伝えている。

1970年代から『ミュージック・ライフ』誌の「ロンドン在住特約カメラマン」として活躍し、ポリスとスティングに長年帯同したカメラマンである浅沼ワタルさんの証言によると、当日のバックステージでスティングのバンド・メンバーと主催者とが条件で折り合わず、スティングひとりがアコースティックでステージに上がる、という話にまでなったという。しかしドレットが自分は出ると主張し、結局メンバー全員が「2時間遅れ」(浅沼さん談)でステージに上がることになる。

伊藤政則さんの著書『伊藤政則の“遺言”3』(2021年、シンコーミュージック)の「第6章 黎明期のフェス」にこの日に関する記述がある。一部を引用させて頂くと、「押して押して押して」「まだスティングが始まってないんだから」「裏で揉めてるんだよ」「出る/出ないなんだよ」「お金じゃないですか?」と、舞台裏の様子が記されている。

この日、『The Dream of the Blue Turtles』の楽曲を中心にアンコール含め13曲が演奏された。直後にバンドはアメリカに渡り、8月13日のカリフォルニア州サンディエゴから世界ツアーを開始するので、このお台場でのたった1回の日本でのショウが、『The Dream of the Blue Turtles』世界ツアーのプレ・オープニングだったと言ってもよい。

『音楽専科』誌(1985年10月号、表紙ゲイリー・ムーア)に掲載された三宅はるおさんによる「SUPER ROCK ’85 再現レポート」では「(登場は)ちょうど9時を回るところだったナ」「若手ジャズメンを中心としたバック(女性コーラスが2人)をつけて歌いだすスティング」「ポリスという枠から離れたスティング・ミュージックの一つの型ってトコじゃないかな」と評された。

『ミュージック・マガジン』誌(1985年10月号、表紙桑田佳祐)では清宮基邦さんが「とても素晴らしいステージだった」「スティング自身の”うた”の核心、歌心が表出されたものだったと思う」と雨天の悪条件をはねのけた演奏を称賛している。

前述の『週刊FM』誌のインタビューは、お台場公演の前日(8月9日)に品川プリンスホテルのスイートルームで行われたと、表紙写真とインタビューカットを撮影した浅沼ワタルさんが記憶している。写真には積乱雲の浮かぶ晴天の東京の空と、品川駅のプラットフォームが窓越しに写り込んでいる。気象庁の記録によると8月9日の東京は降水なし、8月10日は曇り時々雨、8月11日は大雨であった。

 

アルバム制作の裏側を捉えたドキュメンタリー

1986年2月25日、「We Are the World」が最優秀レコード賞を受賞する第28回グラミー賞で、スティングはバンドにオーケストラを加え「Russians」を演奏。楽曲「The Dream of the Blue Turtles」がジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス(グループ)の候補になるが、受賞したのはウィントン・マルサリス。

スティングは「ジャズ・カテゴリーにノミネートされて困惑した。ブランフォードの兄のウィントンが受賞したのは嬉しいし、それが正しい。賞を取らなくて安心したのは初めて」とライヴアルバム『Bring On the Night』(1986年)のブックレットに記している。受賞には至らなかったが、『The Dream of the Blue Turtles』は「最優秀アルバム」含め4部門の候補になった。

1986年11月、5月にパリで撮影されたフィルムは、映画『Bring On the Night』としてアメリカで劇場公開。日本では邦題『スティング/ブリング・オン・ザ・ナイト』(一部で『ブルー・タートルの夢/スティング』とも)として1986年5月30日に東京で、8月14日に大阪で劇場公開された。

この映画には、アルバム『The Dream of the Blue Turtles』の録音後・発売前のタイミングのバンドの姿が収められた。他にもメンバー全員での記者会見、インタビュー、リハーサル、パリ9区で現在も営業を続けるモガドール劇場での7日間のショウ、さらに1985年5月24日の朝にトゥルーディ・スタイラーが分娩室にスティングを同伴して息子ジェイク・サムナーを産む瞬間の様子までもが描かれている。カナダの『RECORD』誌(1985年6月号)は記者会見を取材しており、スティングが「今朝子供が生まれた」と話すのを記録している。

作品中でスティングは「コンサートでは50%は観客の期待に応えてヒット曲を。50%は新しい世界をお見せする」「ポリスのために作った曲を捨てたわけじゃない。今でも自分の曲として生きている」と語っている。

 

131公演にもわたるワールドツアー

ツアーは1985年8月から翌年5月まで世界で131公演が開催された。アルバムから「If You Love Somebody Set Them Free」「Children’s Crusade」「Moon Over Bourbon Street」「Shadows in the Rain」「We Work the Black Seam」「Fortress Around Your Heart」「Consider Me Gone」がほぼすべての公演で披露され、その中から13曲がライヴアルバム『Bring On the Night』にも収められた。

一方、「観客の期待に応えるヒット曲」である「Every Breath You Take (見つめていたい)」「Roxanne」「Message in a Bottle (孤独のメッセージ)」もほぼ全公演で演奏されたが、ライヴ録音が作品として残されることはなかった。ポリスを離れたスティングは、新たなバンドで挑んだ新たな音楽のみをレコードとしてファンに届けたのである。

 

見つめていたいの“解毒剤”

また、「If You Love Somebody Set Them Free」は「Every Breath You Take」に対する「解毒剤」としてスティングが書いたというのはよく語られる事実である。

「『見つめていたい』は偏執病みたいに、愛する人を異常に監視することについての曲。それとは正反対の曲を書きたかった」(uDiscoverMusic Japan)

1983年ビルボード誌年間チャート1位の大ヒット曲「Every Breath You Take」をポリスの表看板として歌い続けたスティングは、「解毒剤」を必要としながらも、新バンドで同曲の演奏を続けた。「Every Breath You Take」の歌詞の一部「Every Breath You Take, Every Move You Make…」が、「Love Is the Seventh Wave」の終盤に引用されているのも興味深い。

先述の『週刊FM』の高橋健太郎さんのテキストには「この日(1985年8月9日)も、30分刻みで数誌のインタビューが組まれ」と記されている。その一誌であったであろう『ロッキング・オン』誌(1985年10月号、表紙ポール・ウェラー)では増井修さんの質問に対し、スティングは「今度のバンドをパーマネントなグループにするつもりも全くない」と答えている。

次作『…Nothing Like the Sun (…ナッシング・ライク・ザ・サン)』(1987年)にはケニー、ブランフォード、ドレット、ジャニスが継続して参加するが、ダリルとオマーはバンドを離れる。「多忙だったふたりはセッションシーンに戻った」と、映画『Bring On the Night』のDVDライナーノーツで赤岩和美さんが記している。

『The Dream of the Blue Turtles』の世界ツアーは日本に戻ってくることはなく、お台場での1回が日本での唯一の演奏となった。日本のファンは実に3年後、1988年10月20日に名古屋・レインボーホールを皮切りに全国で9公演行われた、次作『…Nothing Like the Sun』の日本ツアーを待つことになる。

 

「40周年記念盤」のCD 3の最後の1曲として収録されるのは、「Fortress Around Your Heart」の「ヒュー・パジャム・リミックス」。ポリスの『Ghost in the Machine』(1981年)、『Synchronicity』(1983年)をプロデュースした盟友ヒュー・パジャムの名前がここに登場する。

スティングがソロ名義でアルバムを出すようになってから40年が経過した。1991年にはアルバム『The Soul Cages』のギタリストとしてドミニク・ミラーが登場し、長く続くパートナーシップが始まる。オーケストラとの共演もあった。ポリスの再結成もあった。現在はドミニクを含むトリオ編成によるツアー「Sting 3.0」が進行している。

40年間には多くのチャレンジがあった。その第1章が、若きジャズ奏者たちと作り上げた『The Dream of the Blue Turtles』である。

『SPIN』誌(1985年7月号)のインタビューで、スティングは「先入観や期待を壊したかった。人々を混乱させるような、完全に異なることをやりたかった」と語っている。スティングはそれを達成した。そのすべてを堪能できる、40周年記念拡大版である。

Written By 大島 隆義



スティング『The Dream Of The Blue Turtles (Expanded Edition)』

2025年7月11日発売
日本限定CD
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