映画界で活躍するミュージシャンとロック映画の世界:プレスリーからビートルズ、フーやプリンスまで

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ミュージシャンが映画で本人役を演じるのは、トーキー時代初期から行われてきたことだ。そしてロック映画の長い歴史は、一連のエルヴィス・プレスリー映画を含む大手映画会社製作の長編映画から、ザ・バンドの70年代の名作ライヴ映画『ラスト・ワルツ』等の独立系のドキュメンタリー、そしてジャン=リュック・ゴダール監督によるザ・ローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画『ワン・プラス・ワン/悪魔を憐れむ歌』といった前衛作品に至るまで、多岐に及んでいる。

ロックと若者の関係は、映画内における描写と密接に結び付いていると言えよう。1955年9月にジェームズ・ディーンが亡くなると、ティーンエイジャーの憧れのヒーローの座は空席となったが、それを埋めたのがミュージシャン達であった。作品の中でロックン・ロールが流れた最初の映画『暴力教室』(1955年)は、ビル・ヘイリーの「Rock Around The Clock」を都会の不良少年達と結び付け、ロック音楽の不良っぽさを煽り立てていた。当時15歳だったフランク・ザッパは、「10代の主張を“支持”してくれるこの映画を観て、嬉しくて映画館で小躍りした」と、その時のことを振り返っている。

 

それを追うように、50年代には沢山のロックン・ロール映画が続々と製作され、ファッツ・ドミノや、チャック・ベリー、ジーン・ヴィンセント、リトル・リチャード、プラターズ、エディ・コクランら、当時台頭してきた大物達が、多くの作品に出演。大抵の場合、そこに映し出されていたのはミュージシャン達が曲を演奏・歌唱している姿であり、舞台裏での放縦な振る舞いは殆ど収められていなかった。ちなみにジーン・ヴィンセントの1958年の映画『ホット・ロッド・ギャング』でダンサー役を演じた女優ケイ・ウィーラーの回想によれば、ポップ・スターのジーン・ヴィンセントが映画撮影中に彼女の自宅を訪れ、スパゲッティの夕食を共にした際、彼はとても礼儀正しく、彼女の姉妹にも親切だったそうである。

ロックン・ロールの王様エルヴィス・プレスリーは、映画界でも驚くべきキャリアを築いていた。1956年から1971年にかけ、エルヴィス・プレスリーは33本の映画に出演。1作を除き、残りの全てで主役を務めていた。その中には『監獄ロック』や『闇に響く声』といった良作もあったものの、エルヴィス・プレスリー自身にとって彼の映画キャリアは、人生の中で最も不満を感じる部分であった。撮影現場のセットにいる間、彼は大勢のボディガードを従え、殆ど共演俳優達と溶け込むこともなく、一人で空手の練習をして過ごす方を好んでいた。11作のエルヴィス・プレスリー映画を手がけた広報担当者スタン・ブロセットは、「プロデューサー達からは、彼をパーティーに連れて来るよう相当なプレッシャーをかけられたが、彼は一度も行かなかった」と述べている。

映画のシーンの中には、彼を戸惑わせたものもあった。例えば『ガール!ガール!ガール!』で、獲れたてのエビの傍らで歌うことになった場面がそうだ。撮影が延び、着心地の悪いゴム製のウェットスーツ姿で長時間待たされた後、愛車のロールスロイスに牛乳パックを投げつけた時のように、思いもよらぬ負担を強いられて、彼が癇癪を起こしたこともある。しかし彼のもとには、絶え間なく映画の出演要請が寄せられていた。莫大な額の利益を生み出していたからだ。その興行収入は、現在の価値に換算すると米国だけで20億ドル(約2,400億円)以上に達していた。

最後の映画『エルヴィス・オン・ツアー』(1972年)の撮影時、エルヴィス・プレスリーは共同監督のピエール・アディジに、自分が健康を害してしまったのは、こういった古いロックン・ロール映画を作っていたせいだと語っていた。ピエール・アディジはローリング・ストーン誌とのインタビューで、エルヴィス・プレスリーが次のように話していたことを回想している。「ハリウッドが描き出していた僕のイメージは間違っていたし、僕自身も分かっていた。でも、それについて何も言えなかったんだ」。

にもかかわらず、エルヴィス・プレスリーは、後追いをした人々にとって格好の手本となった。英国では、エルヴィス・プレスリーの映画と米国のジュークボックス・ミュージカルの成功が引き金となり、トミー・スティールや、クリフ・リチャード、アダム・フェイス、ビリー・フューリーらの出演映画が次々と製作されていく。

クリフ・リチャードの一連の“健全な”ティーン映画に対しては、当然のように反動が起きた。それは、ザ・ビートルズが即興的かつ想像力豊かなロックン・ロール映画の制作を開始した時のことだ。リチャード・レスター監督の『ハード・デイズ・ナイト』(1964年)が製作されたのは、ビートルマニアの熱狂が頂点に達していた頃で、ジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンリンゴ・スターの4人が、リヴァプールからロンドンへ移動する36時間に密着。多忙を極めるロック・グループの姿を描きながら、その喜びと興奮、そして記憶に焼きつく彼らの音楽がフィルムに捉えられていた。舞台裏の撮影もごく自然に行われ、 当時21歳のジョージ・ハリスンが、同じく20歳だった恋人で端役女優のパティ・ボイドに「結婚してくれませんか?」とプロポーズした場面までをも収録。その2年後、彼女はジョージ・ハリスンの最初の妻となった。

 

この映画の魅力の一端は、それがザ・ビートルズを個人として捉えていたことにある。最終的に、同作の興行収入はロック映画として革命的な数字を記録し、そのサウンドトラック・アルバムはグラミー賞を受賞。映画評論家アンドリュー・サリスは、同映画を「ジュークボックス・ミュージカル版『市民ケーン』だ」と賞賛している。金儲けのための青写真がそこにあると気づいたハリウッドは、すぐに2匹目のどじょうを狙い、モンキーズを使った映画は成功を収めた。英母国でも、映画『ハード・デイズ・ナイト』に追随する様々な作品が製作され、そこにはジェリー&ザ・ペースメイカーズ主演の『マージー河のフェリーボート』(1965年)といった作品が含まれている。

ザ・ビートルズは、映画界での初冒険で成功を収めた後、自身の映画キャリアは自身で管理することを決意。『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967年)や、『イエロー・サブマリン』(1968年)、そして『レット・イット・ビー』(1970年)は、スタイルや様式の面で、より彼らの音楽的感性と調和する作品となった。『レット・イット・ビー』には、予告なしに行われたあの有名な“ルーフトップ・コンサート”の模様が収められている。ロンドンのサヴィル・ロウにあるアップル本社の屋上でそのライヴが撮影されたのは、1969年1月の凍えるように寒い日のこと。マイクが拾う風の音を何とか軽減しようと、バンドが採った唯一の策は、覆いとして女性用のパンティーストッキングをマイクの上に被せることであった。

 

ザ・ビートルズ映画の中には、実現に至らなかった作品、そして最も無法なロック映画になるだろうと見込まれていた作品がある。それは劇作家ジョー・オールトンが脚本を手掛けた、幻のザ・ビートルズ映画『アップ・アゲインスト・イット』で、そこではザ・ビートルズの4人が女装する場面も予定されていた。ブライアン・エプスタインは当初このプロジェクトに乗り気だったものの、結局は中止されることとなり、没になった脚本に対する原稿料として、ジョー・オートンには1,000ポンドが支払われている。

60年代の大物ザ・ローリング・ストーンズにも、独自の映画作品があった。ザ・ローリング・ストーンズの音楽的な、そして社会的な重要性は、ロバート・フランクやジャン=リュック・ゴダールを含む、時代を代表する前衛映画監督やドキュメンタリー映画監督達を魅了。ジャン=リュック・ゴダールは、前述の問題作『ワン・プラス・ワン/悪魔を憐れむ歌』を製作した。銀幕でもカリスマ的な存在感を発揮していたのが、ミック・ジャガーである。評論家のロジャー・エヴァートは、英国のニコラス・ローグ監督による1970年の犯罪映画でミックが出演した『パフォーマンス』について、次のように評していた。「この映画の驚くべき点、そして本作を観るべき理由は、ミック・ジャガーの演技にある。それは単に優れているだけではない。彼の人生とスタイルとが、そこに反映されているのだ」。

 

ロック映画史上におけるもうひとつの画期的な作品が、『トミー』(1975年)だ。これはその6年前に発表された、ザ・フーの同名ロック・オペラ・コンセプト・アルバムの映像化である。耳が聞こえず、口もきけず、目も見えない主人公の少年が、まずピンボール界でチャンピオンになり、やがて救世主のような存在になるというシュールな物語は実に突飛で、医者役でカメオ出演したジャック・ニコルソンが歌うシーンすらあった。宣伝費にも莫大な予算が投じられ、パーティーやプレミアに10万ドル以上を割くという豪華ぶり。 20年後、ピート・タウンゼントは当時を振り返り、LAタイムズ紙にこう語っている。「映画『トミー』の制作中、ケン・ラッセル監督は4時間以上寝たことがなかったんだ。僕はコニャックを飲んで何とか生き延びていたよ。彼がどうやって徹夜していたのか、見当もつかないね、僕はいかにも当時の僕らしく、ひたすら傲慢な、半分酔っ払ったロック・スターとして振る舞っていて、何でも自分の思い通りにしていたっけ。エルトン・ジョンは既に馬鹿バカしいほど大金持ちで、自分で文字指定したナンバープレートの付いた、女王が乗るような巨大なロールスロイスで現場にやって来ていたね」。

 

長編映画と異なり、ロック・ドキュメンタリー映画の多くは、喜び溢れる音楽の祭典となっている。その最高傑作に数えられるのが、ボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』や、『モンタレー・ポップ フェスティバル ’67』、そしてマーティン・スコセッシ監督が手掛けた『ラスト・ワルツ』だ。 謎めいたデヴィッド・ボウイを題材にした、D・A・ペネベイカー監督による1973年のドキュメンタリー映画『ジギー・スターダスト』は、コンサート映画であると同時に、類い稀な超一流パフォーマーの素顔に迫った作品となっている。ペリー・ヘンゼル監督の『ハーダー・ゼイ・カム』は、ジミー・クリフとジャマイカ音楽を称えた作品で、1972年のヴェネツィア国際映画祭ではカルト・ヒットとなった。

ドキュメンタリー映画と一口に言っても多様な作品があり、中には一風変わったものもある。レッド・ツェッペリンのコンサート映画『レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ』には、ロバート・プラントが”美しい乙女を救う騎士“に扮するくだりなどの幻想シーンが盛り込まれていた。

こういった映画は、参加したミュージシャンにとって必ずしもプラスになったとは限らない。スレイドが主演した1975年公開の映画『スレイド・イン・フレーム』と同名のアルバムからは、「How Does It Feel?」という優れた曲が生まれたものの、フロントマンのノディ・ホルダーは、同映画を作ったことを後悔しており、「(映画のせいで)僕らのキャリアから大きな一部分が奪われてしまった。おかげで僕らは長い間ツアーもせず、長い間レコーディングも出来ず、曲を書くことも出来なかったんだ」と語っている。

ザ・ビートルズは解散後も、ロック映画の雛形に影響を与え続けていた。ビー・ジーズが主演を務めた1978年の映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』には、ギブ兄弟の他に、ピーター・フランプトン、アリス・クーパーエアロスミス、アース・ウィンド&ワイアー、ドナルド・プレザンス、そしてスティーヴ・マーティンが参加。ザ・ビートルズの同名アルバム及び『Abbey Road』の収録曲を、彼らがカヴァーして歌っている。ビー・ジーズが演じる架空バンドはアメリカ出身という設定だったが、彼らの英国的なアクセントによってそれが台無しになってしまっていると、映画製作者側が初めて気づいたのは、撮影が半ばを過ぎた頃のこと。結局、彼らの会話部分は削られ、台本が書き直されることになり、最終カットでは、コメディアンのジョージ・バーンズが演じるMr.カイトがナレーションを務めた。

 

映画『ロックンロール・ハイスクール』(1979年)は、10代の反抗を称える元気一杯な作品で、アラン・アーカッシュ監督によれば、自身がザ・ビートルズ・ファンだった若き日の、何かに夢中になる熱い気持ちを蘇らせようとしたとのことだ。同映画の主人公は、P・J・ソールズが魅力的に演じるリフ・ランデルという女子高生で、彼女はロック禁止の校則を破ってコンサートへと出掛ける。同作には、米パンク・パンドのラモーンズから、ジョー、ジョニー、ディー・ディー、そしてマーキーの全員が、本人役で出演。ラモーンズの面々が登場すると、あの印象的な台詞、「あなた達の両親は、あなたがラモーンズをやっていることを知っているの?」に繋がっていく。この映画で中心的な役割を果たしているラモーンズの曲のうちの2曲、つまり表題曲と「I Want You Around」のサウンドトラック・ヴァージョンは、フィル・スペクターがリミックスを手掛けている。映画『ロックンロール・ハイスクール』は独立系映画として公開され、興行的に大きな成功は収めなかったものの、高い評価を受け、すぐにカルト人気を獲得した。

優れた音楽伝記映画もまた、長年に渡って数多くが製作されている。そこに含まれているのが、例えばロレッタ・リンや、パッツィー・クライン、ジム・モリソン、ティナ・ターナー、ジョニー・キャッシュを取り上げた作品だ。映画界は、カメオ出演を含め、昔も今もミュージシャンにとって魅力的な分野であり続けている。映画『ブルース・ブラザーズ』では、ジェームス・ブラウン、キャブ・キャロウェイ、ジョン・リー・フッカー、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズが出色で、伝えられるところによれば、カメラの回っていないところでレイ・チャールズは下ネタを連発し、主演のダン・エイクロイドとジョン・ベルーシを爆笑させていたという。

 

また、ホラー映画に出演したミュージシャンも数多い。『レプラコーン・イン・ザ・フッド』のアイス-Tや、『ヴァンパイア/黒の十字架』で主役の吸血鬼ハンター役を演じたジョン・ボン・ジョヴィ、『ドラキュラ』のトム・ウェイツなど。そして気軽なカメオ出演を行った例としては、メル・ブルックス監督のコメディ映画『ブレージングサドル』のカウント・ベイシー、SFコメディ映画『マーズ・アタック!』で火星人が来襲した際に「It’s Not Unusual(邦題:よくあることさ)」を歌っていたトム・ジョーンズらが挙げられる。

1950年代、60年代、そして70年代はロック映画の黄金時代であったが、その後も各年代でロック映画の歴史に寄与する名作が誕生。オスカーを受賞したプリンスの『パープル・レイン』(1984年)や、ラッパーのエミネムが前途有望なヒップホップの若者ラビット役を演じた『8マイル』(2002年)がその好例だ。

 

時代は移り変わっても、物事はそれほど大きく変わらない。それは、映画『スタア誕生』を見ていただければ分かるだろう。出演スターの顔ぶれや役どころは、それぞれの時代を反映しているが、フォーマット自体に変わりはない。1930年代に公開されたオリジナル版では、元・無声映画の女優ジャネット・ゲイナーが主演。50年代版は、ジュディ・ガーランドの主演でリメイクされた。また3度目の70年代版『スター誕生』では、バーブラ・ストライサンドが主役を演じている。そして4度目の映画化は2018年後半公開予定で、レディー・ガガことステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタが主演を務めることとなっている。

Written By Martin Chilton


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