ヌーディー・コーン、仕立て屋でありヌーディー・スーツを創った伝説の男の半生を孫娘のジェイミーが振り返る

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長年、ウェスタンというポピュラー・カルチャーの定義は“無骨で寡黙な男たち”、“ダスティ・ブーツ”、そしてそれらと同じくらい飾り気のない“服装”だった。だがそこへ登場したのがヌーディー・コーンという働き者のウクライナ移民の仕立て屋はきら星の如きロデオ・マンの時代を先導し、ウェスタンのファッションとカントリー・ミュージックを一変させたのだった。

このスター御用達の仕立て屋の名前は聞いたことがなくても、ヌーディー・スーツを目にしたことがない人はまずいないはずだ。恐ろしく緻密な刺繍飾りのデザインと、細かくびっしりとちりばめられたラインストーンが特徴の、これぞアメリカーナの魅力を掛け値なしに純粋な形で表現したアートである。

 

かつてはローリング・ストーン誌の表紙を飾ったこともあるヌーディー・コーンは、カントリー界、ロック界、そしてハリウッドのスターたちを40年あまりにわたって着飾らせてきた張本人である。彼の顧客リストはハンク・ウィリアムス、ロイ・ロジャース、ドリー・パートン、ジョニー・キャッシュらカントリー創生期の大御所たちから、ジョン・レノンエルトン・ジョン、シェール、グラム・パーソンズまで多岐に及び、とりわけ有名なのがエルヴィス・プレスリーのグレイテスト・ヒッツ・アルバム『50,000,000 Elvis Fans Can’t Be Wrong』のカヴァー・アートワークでお披露目された、時価1万ドルのゴールドのラメ・スーツだった。

「彼があのスーツを着て滑るようにステージに姿を現すと、黄金色の火花が散ったんですって」とヌーディー・コーンの孫娘で、一族が代々経営していたカリフォルニア州ノース・ハリウッドの『Nudie’s Rodeo Tailors』の運営を手伝っていたジェイミー・コーンが言う。

ヌーディー・コーンはカントリー・ミュージックとファッションにある種のけばけばしさとショウマンシップを持ち込み、アメリカン・ポップ・カルチャーに現代にも通じるファッションを確立した。ヌーディー・スーツを好んで着ている現代のカントリー・スター、ミッドランドは、uDiscover Musicにこう語ってくれた 「俺たちはアーティストなんだ……税理士みたいなナリをする気はないんだ」。グラミー賞授賞式のレッド・カーペットからランウェイを眺めても、ますます多くの人々が彼の編み出した芸術作品を熱心に再現しようとしており、ヌーディーの存在感は今も絶大だ。

 

「どれもみんな代表的なデザインよ」とジェイミーは言う。「おじいちゃんが手がけたどのデザインにも物語があるの。その物語はずっと受け継がれてゆくのよ」。

ヌーディーの物語とは、彼が子供の頃に憧れていたカウボーイ・ウェスタンと同じくらい、典型的なアメリカ人の物語だ。多くの移民たち同様、彼の興味深い変名はエリス島[訳注:アメリカにやってきた移民たちの入国手続きが行なわれる場所]でのたどたどしい英語の発音が元で、ヌータ・コトリャレンコがヌーディー・コーンにされてしまったのだった。彼は僅か11歳で、生まれ故郷のキエフから、兄のユリウスと共に両親の手でニューヨークに送り出されて来たのである。年かさの兄が早々に女の子に興味を惹かれる一方で、ヌーディーが見出した楽しみは、街の古い映画館でウェスタン映画を観ることだった。

彼の父親はブーツ職人だったので、ヌーディーは何とか手に職と言えるほどの裁縫のスキルは身につけていた。それから数年間、アメリカ中を転々としながら仕事をこなした後、新妻のボビーを連れてニューヨークに戻って来た彼は、ヴォードヴィル・アクトやバーレスクのパフォーマーたちのために派手な飾りつきのGストリング[訳注:日本ではバタフライと呼ばれる、ストリッパー等が舞台で使用するヒモ状の下着]を仕立てる、その名も「Nudie’s For The Ladies」というおあつらえ向きの屋号を掲げ、夫婦で最初の商売を旗揚げした。やがて彼は吸い寄せられるように西へと向かい、ヌーディー・コーンとその一家はハリウッドに店を構え、更に後にはサン・フェルナンド・ヴァリーに落ち着いた。程なくして彼が憧れていた‘カウボーイたち’が彼の顧客となったが、その第一号はウェスタン・スウィングのミュージシャン、テックス・ウィリアムズで、彼はニューディーの後援者として、ミシン1台の購入代金として150ドルを貸し付けてくれた。この援助で彼は商売を始めることが可能になり、それがヌーディーの精巧なカントリー・ウェア御用達の仕立て屋としての足がかりとなったのである。

ハリウッドからお声がかかるようになるまでにはそれほど時間はかからなかった。最初はジーン・オートリーで、続く “King Of The Cowboys(カウボーイたちの王様)”、ロイ・ロジャースは、ヌーディーのデザインを彼と彼の妻デイル・エヴァンスが出演していた人気TV番組 『The Roy Rogers Show』の中で採用した。このロイ・ロジャースとの運命的な出会いと関わりが、ヌーディーのクリエイティヴな発想に大きなチャンスを与えてくれたのである。

ロイ・ロジャースとデイル・エヴァンス、1989年の第61回アカデミー賞授賞式にて

「ロイは言ったんだそうよ、『なあ、あんたの評判はそこら中で聞いてるよ。実は今度マディソン・スクエア・ガーデンでプレイするんだけど、その時に着る衣装が欲しいんだ。てっぺんの方の安い席の若い子たちまで、ステージの上の俺が見えるようなやつがさ』って」とジェイミーは語る。

「そこでおじいちゃんは、シャツにフリンジをつけて、そのフリンジのひとつひとつに上から下までラインストーンを付けるっていうアイディアを思いついたの。それがロイ・ロジャースのトレードマークになったのよ」。

ロイ・ロジャースとの仕事はヌーディーの名前を更に広めることになったが、ハリウッドからその向こうまで、彼の評判を不動のものにしたのは、何と言ってもレフティ・フリッツェルとの仕事だった。1957年、このホンキー・トンク・シンガーから、大勢の出演者たちの中で断トツに目立ちたいという相談を持ちかけられ、仕立て屋ヌーディー・コーンはこう答えた。「レフティ、もしもあんたに着こなすガッツがあるなら、こいつはヒットだ、俺が請け合うよ」。彼はスーツの両方の襟の折り返し部分にブルーのラインストーンをびっしりと散りばめ、ここにひとつのトレードマークが生まれたのだった。

ヌーディー・スーツはそれを纏う人々と同じくらいカラフルだった。一着一着が完全なる一点ものであり、注文主ひとりひとりのイメージを反映したデザインが施されていた。一面バラで覆われたスーツと、星の装飾が施された帽子はエルトン・ジョンの「Rocket Man」のカヴァー・アートに。

そして幌馬車の車輪はポーター・ワゴナーに。そして勿論、かの有名なケシと錠剤と麻の葉のデザインはアメリカーナの父祖グラム・パーソンズのために。フライング・ブリトー・ブラザーズのメンバーたちは全員カスタム・メイドのニューディー・スーツをあつらえており、かのシンガー・ソング・ライター兼ギタリストと仕立て屋は特別な関係を築いていた。

Flying Burrito Brothersの象徴的なNudieスーツ

「グラム・パーソンズはヌーディーのことを理想の父親像として崇めていたし、おじいちゃんはグラムを自分では持ったことのない息子として見ていたの」とジェイミーは言う。「あの人たち、俳優に、ミュージシャンに、スターと呼ばれる人々。彼らはみんな友達になったり、家族も同然になったわ。私が娘を産んで病院から戻ってきたその日に、マーティ・ロビンスが彼女を抱っこしてる写真があるわよ。私はグレン・キャンベルの子供さんたちの誕生パーティに招ばれてたしね。私は彼らと一緒に大きくなったのよ」。

ヌーディーの有名人のお得意様の中でも、ハンク・ウィリアムスなどはいささか孫娘のジェイミーには年を取り過ぎていたかも知れないが、70年代のティーン・アイドル、デヴィッド・キャシディが店に入ってきたのは、10代の頃彼に夢中だったジェイミーにとっては非現実的な光景だった。それから随分経って、ヴェガスで行なわれたデヴィッド・キャシディのショウをジェイミーが観に行くと、テレビ・ドラマから出てきたスターはパフォーマンスの最中にステージを降りてきて彼女の膝に座った。ショウが終わった後で彼女がバックステージに行くと、彼はこう言ったと言う。「キミのおじいさんがどれほど素晴らしい人だったか、きっとキミには分からないだろうなぁ」。

 

ヌーディー・コーン対する深い共感は、恐らくヌーディーの仕事に対する姿勢とも関係しているのだろう。彼が未払いの代金を免除したり、刑務所に入った顧客の保釈金を払ってやったり、社会復帰に手を貸したというエピソードは幾つもある。

「ヌーディーの店はただ単に行ってカスタム・メイドのスーツを造ってもらうための場所と言うより、みんなが集まる場だったのよ」とジェイミーは言う。「店ではいつもジャム・セッションが行なわれていたわ。ラジオの生中継でライヴを演ったこともあってね、その時には私はひたすらコーヒーを淹れ続けるって役目を仰せつかったの」。

この時の役目が、ジェイミーに自分のカフェ「Nudie’s Custom Java」を開くというアイディアをもたらした。現在この店はコーヒーハウスと、かつてヌーディーの店に飾られていた数え切れないほど沢山の写真やメモラビリアの展示場所を兼ねている。前述の長いジャム・セッションの最中には、ヌーディーが自前のマンドリンで参加することもあった。彼は後に自分名義でもレコードを作り、『Nudie And His Mandolin』と題されたそのアルバムは、カントリー専門の音楽番組『Hometown Jamboree』の司会者として有名なカントリー歌手、クリフ・ストーンがプロデュースを手掛け、1974年に発売されている。プレスされたレコードの半分近くは、彼が自分であちこちに無料でバラまいていただけだったとジェイミーは言うが、ヌーディーにとって音楽がその生涯を通して情熱を注ぐ対象であったことは間違いない。

「カントリー・ミュージックはロックン・ロールを凌駕したんだ」1969年、ヌーディーはローリング・ストーン誌に語っている。「俺は誰が服を買ってくれようと構わない。とにかくベストを尽くすだけさ」。

 

ヌーディーは音楽の進化に順応し、ジョン・レノンやソニー&シェール、ZZトップ、デヴィッド・リー・ロスらロック・アイコンたちのためにスーツをデザインし、スライ・ストーンやアレサ・フランクリンといったところまで顧客に迎えた。年を重ねるうち、ニューディーはカスタム仕様のニューディー・モービルズでサンセット・ストリップを転がし、ロキシー・シアター、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーやレインボー・ルームといった地元の有名クラブに出没しては、派手な衣装を求めている新しい顧客を探すようになった。

ヌーディー・スーツを彼らの様式に則った中世風タペストリーとするなら、ヌーディー・モービルズはそれ自体ポップ・カルチャーのアイコンである。内装にはスーツと同じ精巧なチェーンステッチが施され、車の外側に着けられた子牛の角と銀のドル硬貨、六連発銃に至るまで、街を走り回るこの車はそのままヌーディーのシンボルだった。ヌーディー・モービルズは何台も作られたが、今やその大半は(スーツ同様)一般人には手の届かない場所にある。ベイカーズフィールドのバック・オーウェンズ・クリスタル・パレス、サン・フェルナンド・ヴァリーのザ・ヴァリー・レリックス・ミュージアム、ベルギーのエンターテイナー、ボッベジャーン・ショーペンがベルギーに設立した西部劇のテーマパーク、ボッベジャーンランド。そしてこのほどナッシュヴィルにオープンしたばかりのヌーディーズ・ホンキー・トンクは、ジェイミーが情熱を注いできた最新プロジェクトである。

 

ジェイミー・コーンは先頃ナッシュヴィルに相次いで開館したパッツィ・クライン博物館やジョニー・キャッシュ博物館の仕掛け人であるビル・ミラーと手を組み、所有するコレクションから選りすぐりのヌーディー・スーツ数着と、2台のヌーディー・モービルズをこの新しいホンキー・トンクな施設に貸し出している。3階建てで、延べ床面積1万2000平方メートルの酒場には、ライヴ演奏用に3つのステージが作られ、ミュージック・シティであるナッシュヴィルを訪れる人々は、ヌーディー独特の華やかなデザインや、それを生み出すインスピレーションとなった類の音楽を身をもって体験することができるのだ。

いつのまにか一族の歴史学者という役割を背負った格好のジェイミーは、裁縫机の奥からではなく、こうした表の仕事を通してヌーディーの遺した遺産を維持することに一役買っているのである。

「祖父が私に裁縫の技術を学ばせようとしなかったのは、彼自身に関して、そしてビジネスの仕組みについてもっと知って欲しいと思ってたからなのよ」とジェイミー・コーンは言う。「そのことについてはとても感謝してるの。今の私はお客さんに売れるようなものは何ひとつ縫えないけど、彼らに関することなら何でも話せるもの」。

By Laura Stavropoulos



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