史上最高のオルタナ・カントリー・アーティスト10人

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80年代後半と90年代のオルタナ・カントリー・ブームを決定づけたミュージシャン達は、自分達のことをカントリー・ミュージック界とその時代の精神の“外側”にいると考えていた。この時代を代表するオルタナ・カントリー・ミュージシャンのルシンダ・ウィリアムスは、次のように述べている。「より伝統的なナッシュヴィルのカントリー・ミュージック界と自分で呼んでいるところには、わたしは属さないと強く感じている。わたしはあの世界とはまるで繋がっていない。ここではスティーヴ・アールと共に、アウトローみたいに思われているんじゃないかしら」。

オルタナ・カントリーという言葉は(時には“Insurgent Country / 反乱のカントリー”とも呼ばれる)、70年代後半から80年代に開花し始めたポップ調のカントリー・ミュージックを意図的に避けていた数多くのミュージシャンが表現していたものを指す。オルタナ・カントリーは時としてロックやパンク色までをも取り込んだが、その中でも百万枚以上の売り上げを記録したスティーヴ・アールの1988年ナンバー「Copperhead Road」は、同時代を代表する典型的なオルタナ・カントリー・ナンバーだ。

 

そのルーツはハンク・ウィリアムス、マール・ハガード、ウェイロン・ジェニングス、ウィリー・ネルソンといったカントリー・ミュージックのアイコン達まで遡るが、オルタナ・カントリーと最も直接関連する先駆者は、60年代後半のトラディショナル・カントリー・ミュージックとロックのミックスをプレイしていた、グラム・パーソンズとザ・フライング・ブリトー・ブラザーズだ。

 

オルタナ・カントリー・ミュージシャンを代表するミュージシャンにはさまざまなタイプがいる。1995年にノー・ディプレション誌(その名はオルタナ・カントリーの先駆者アンクル・テュペロのアルバム・タイトルから拝借。その彼等はこれを“天国には不況など存在しない”という、景気について綴られたカーター・ファミリーの歌詞から取っている)は、あまりにも広い意味を持つその言葉について “オルタナ・カントリー…それが何を意味しているかは知らん!”と評している。

さあ、自分達のブランドであるカントリー・ミュージックに尽力し、その名を残した、80年代と90年代のベスト・オルタナ・カントリー・アーティスト10人を紹介しよう。

 

■アンクル・テュペロ
オルタナ・カントリー・ムーヴメントはある意味90年代初期に、カントリーに影響されたロック・グループ、アンクル・テュペロのファン・グループを中心に、具体化したといっても過言ではない。トリオのファースト・アルバム『No Depression』は、彼等がベスト・オルタナ・カントリー・ミュージシャンとしての座を不動にしたターニング・ポイントと見なされている。1989-1993年にアンクル・テュペロで大成功を収めたジェフ・トゥイーディーは、ウィルコでエクスペリメンタル・ロック・フォークをやる為にバンドを離れたが、彼とジェイ・ファーラーとマイク・ハイドーンによるアンクル・テュペロは、ライアン・アダムスのウィスキータウンやジェイソン・イズベルのドライヴ・バイ・トラッカーズに影響を与えた。マイク・ハイドーンは自身の役割を、「俺達はウディ・ガスリーから始まり、60年代前半にザ・フライング・ブリトー・ブラザーズへと続いたものを引き継いだだけ。俺達がひとつのジャンルを始めたわけではない。ずっと続いていたかなり良い感じの音楽に貢献しただけ。当時はそう考えていたものさ。そうして曲の為に正しいと思うことをやっていた」と説明している。その他アンクル・テュペロの後を継いだバンドには、楽しいオルタナ・カントリーのメロディに、ラテン・スタイルを取り入れた、ザ・マーヴェリックス等がいる。

 

■ウィスキータウン/ライアン・アダムス
ウィスキータウンは、1994年にノースカロライナ州で結成された。その翌年、デビュー・シングル「Faithless Street」を歌ったライアン・アダムスは(皮肉を込めて、間違いなく)こう言った。「忌々しいカントリー・バンドを始めたのは、パンク・ロックは俺にはあまりにも歌い辛かったからさ」。ライアン・アダムスはウィスキータウンでスタジオ・アルバムを3枚制作後、2000年に脱退し、ソロとして輝かしいキャリアを築いた。彼のソロ・デビュー作『Heartbreaker』の非常に魅力的なナンバー「Oh My Sweet Carolina」には、エミルー・ハリスがフィーチャーされていた。アルバムは好評を博し、ロスト・ハイウェイからリリースされた次作『Gold』は、グラミー賞にノミネートされた。ライアン・アダムスは純粋なカントリーをやることはなかったが、その胸が張り裂けるような雰囲気をもつ歌詞と音楽的センスにより、現代のオルタナ・カントリー・スターの地位を得た。

 

■ライル・ラヴェット
ライル・ラヴェットは、偉大なシンガー・ソングライターのガイ・クラークから、ベスト・オルタナ・カントリー・ミュージシャンとして支持された。ガイ・クラークはタウンズ・ヴァン・ザントと共に、曲を個性的に表現するこのテキサス州出身のライル・ラヴェットをインスパイアした人物だ。ライル・ラヴェットの音楽は常に、ロックン・ロール、カントリー、フォーク、ブルースとゴスペルの創造力に富んだフュージョンであり、彼をオルタナ・カントリーの立役者にしたのは、非常にクレヴァーで鋭く、ウィットに富んだ歌詞を書く能力にあった。彼はロバート・アール・キーン等のカントリー・スター達と曲を書くこともあったが、アルバム『Pontiac』(1988年)収録曲の「If I Had A Boat」といった自身による優れた曲では、カントリー・ミュージック自体を持ち上げては落とした。同時代の知的で洗練されたオルタナ・カントリー作曲家には、この他にジェイムズ・ マクマートリーやトム・ラッセル等がいる。

 

■ロザンヌ・キャッシュ
ロザンヌ・キャッシュは、ジョニー・キャッシュと最初の妻ヴィヴィアンの長女だが、その著名な音楽一族を通してではなく、自身の素晴らしい作品によって世間に知られるようになった。彼女は80年代に優れたアルバムを5枚制作したが、その中でも秀でていたのは、1996年にレコーディングされた『10 Song Demo』(実際には計11曲収録)であろう。この飾り気のない感動的なアルバムには、ギタリストのラリー・キャンベルがフィーチャーされ、ロザンヌ・キャッシュがフランス人作家シドニー・ガブリエル・コレットについて書いた傑作「The Summer I Read Collette」が収録されている。これは知性のある洗練された最上級のカントリー・ミュージックだ。2015年にカントリー・ミュージック・ホール・オヴ・フェイムに殿堂入りした時、元夫でありオルタナ・カントリー仲間である偉大なロドニー・クロウェルが見守る中、彼女は次のように述べた。「人生ずっと、わたしはただソングライターになりたいだけでした。人生でわたしを最も突き動かす力は、優れたソングライターになろうという思いなのです」。

 

■ザ・ジェイホークス
ザ・ジェイホークスは1985年に、シンガーのマーク・オルセン、ギタリストのゲイリー・ローリス、ベーシストのマーク・パールマン、そしてドラマーのノーム・ロジャースによって結成された同時代を代表するオルタナ・カントリー・ミュージシャン集団だ。ミネソタ州ミネアポリス出身のバンドは、マーク・オルセン脱退後も元気に活動中で、最近ではR.E.M.やザ・キンクスのレイ・デイヴィスとコラボレートしている。ザ・ジェイホークスはヨーロッパ、その中でもとりわけスペインで非常に人気があり、そのサウンドは伝統的なカントリー・ミュージック・バンドのように聴こえることもあったが、1992年にアメリカン・レコーディングズよりリリース異彩を放つアルバム『Hollywood Town Hall』は、オルタナ・カントリー・ソングライティングとハーモニー・シンギングの手本として、ライアン・アダムスやロビー・フォルクスに影響を与えた。ザ・ジェイホークスのギタリスト兼ヴォーカリストのゲイリー・ローリスは、「俺達は自分達の小さな居場所を明白にし、自分達の声を見出したのさ」と述べている。

 

■ナンシー・グリフィス
80年代、音楽界がナンシー・グリフィスに本格的に注目するようになった頃、ナッシュヴィルは主に、ランディ・トラヴィスといった素晴らしい声をもつ伝統的な男性シンガーを宣伝していた。しかしk.d.ラングやメアリー・チェイピン・カーペンター等女性オルタナ・カントリー・シンガー達の小さな一群が、このカントリー・ミュージック史上芸術的に極めて豊かな時代に貢献していた。ナンシー・グリフィスは観察力をもった名ストーリーテラーであり、巧みで感情に訴えるシンガーとして、この発展の重要な鍵を握っていた。彼女はウディ・ガスリーとロレッタ・リンから影響を受けたと言い、その楽曲は数多くのミュージシャンにカヴァーされている。シンガー・ソングライターの先駆者として、ナンシー・グリフィスは、ジミー・デイル・ギルモアやアイリス・ディメント等アーティストの為に道を切り開いた。80年代後半に発表されたグリフィスの3作『Lone Star State Of Mind』『Little Love Affairs』『One Fair Summer Evening』は、フォークとモダン・カントリーをブレンドした傑作だ。

 

■ルシンダ・ウィリアムス
ルシンダ・ウィリアムスは、1953年にルイジアナ州レイク・チャールズで生まれ、アカデミックな環境の中で育った。詩人であり教授であった父親のミラーは、ルシンダの良き師だった。彼女はハンク・ウィリアムス等ミュージシャンと同じくらい、E.E.カミングスやチャールズ・ブコウスキーといった詩人にも影響を受けたと言う。自分の曲を“短い物語”と表現したのも不思議ではない。レコーディングを始めたのは1978年だが、1998年の出世作『Car Wheels On A Gravel Road』で、オルタナ・カントリー界屈指の存在としての地位を得るまで、ルシンダ・ウィリアムスはルーツ・ミュージック支持者以外には殆ど知られることのない存在だった。アルバムのレコーディングは混乱し長期に渡ったが、完成作品はアメリカン・ストーリー屈指のサウンドトラックに仕上がった。ルシンダ・ウィリアムスは2002年タイム誌にて、アメリカのベスト・ソングライターに選出されている。

 

■パティ・グリフィン
パティ・グリフィンはボストンのフォーク・クラブ・シーン周辺で経験を積んだ非常に才能に溢れたシンガー・ソングライターであり、幅広いジャンルの音楽を網羅する者にとって模範となるような人物だ。(オルタナ・カントリー界の著名人メアリー・ゴウシュのように)ひるむことのない率直さと美しさを誇る作詞家である彼女は、力強いソプラノ・ヴォイスで知られている。パティ・グリフィンはその輝かしいキャリア中、オルタナ・カントリーの領域で活躍してきたが(中でも特に素晴らしいのは初期のアルバム『Living With Ghosts』)、フォークとアメリカーナ作品でも成功を収めている。2010年の『Downtown Church』では、グラミー賞最優秀トラディショナル・ゴスペル・アルバム賞も獲得。パティ・グリフィンの崇拝者には、彼女のナンバーを3曲レコーディングしているディクシー・チックス等々がいる。また彼女はバディ&ジュリー・ミラー等オルタナ・カントリー・スター達と定期的に仕事をしている。

 

■スティーヴ・アール
スティーヴ・アールは、決して万人受けするカントリー・ミュージシャンではない。情熱的で、気まぐれな男で、ハンク・ウィリアムスやタウンズ・ヴァン・ザントと同じくらい、ブルース・スプリングスティーンからも影響も受けたスティーヴ・アールのMCAからのアルバムは『Guitar Town』『Exit O』『Copperhead Road』等と名作が続いた。彼は従来のカントリーの中心地であるナッシュヴィルの集団との相違を大いに楽しみ、自らの曲を書くということは、自分の音楽スタイルと内容をコントロールすることなのだと言った。「俺はカントリー・ミュージックを救えると本気で思っていた。俺自身がというのではなく、それを実行するものの一部になれると思っていた」とスティーヴ・アールは述べている。「Copperhead Road」といったシングルはほぼ例外なくロックのラジオ局でも掛けられたが、彼はカントリー・ミュージック・ファンからも支持され、『El Corazón』(1997)等のアルバムで、異なるジャンルを自由自在に行き来した。リハビリ中に書かれたスティーヴ・アールの「Good-Bye」は、ひりひりするような哀愁に満ちた、最高級のオルタナ・カントリー・ストーリーテリングを誇る曲だ。

 

■ギリアン・ウェルチ
ギリアン・ウェルチは、元は写真術を学ぶ為にカリフォルニア大学に入学した。ベスト・オルタナ・カントリー・ミュージシャンとしては珍しく、十代の頃にゴスロック・バンドでベースをプレイし始めた。彼女の転機になったのは、ブルーグラスのレジェンド、ザ・スタンレー・ブラザーズを初めて聴いた瞬間だった。その時に悟ったのだと彼女は述べている。曰く、「自分の音楽を見つけたの」。その結果、音楽パートナーでギタリストのデイヴ・ローリングスと組み、素晴らしいオルタナ・カントリー・デビュー・アルバムが誕生した。それが著名なT・ボーン・バーネットのプロデュースによる1996年の『Revival』だ。これに続く全てのアルバムには、オルタナ・カントリーの逸品が収録されている。ギリアン・ウェルチは、同時代で最も繊細で最も興味深いシンガー・ソングライターのひとりだ。

Written By Martin Chilton

♪ プレイリスト『Americana Highway


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