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“マイク恐怖症”の新人ルイ・アームストロングと黒人向けに作られた最初のブルース

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「初めてレコード会社“Okeh”に出向いたころ、私たちは実は揃って“マイク恐怖症”だった。“Gut Bucket Blues”をレコーディングしたその日、私たちはマイクの前に立つと、自分がどれほど気後れしてしまうか、初めて思い知らされたのだ」― ルイ・アームストロング

1925年、ルイ・アームストロングは再びシカゴに戻ってきた。これは、彼のキャリアにとって重要な出来事だった。この年の秋、ルイはオーケイ・レーベルと専属レコーディング契約を結んだ。ほとんどのミュージシャンにとって自分の名前でレコードを出すのは夢であり、それはルイも同じだった。レコードの売り上げから来る収入は大した額にはならなかった。それでもレコードを出したおかげで知名度は上がり、もっと実入りのいいライヴの仕事を得るチャンスも出てきた。また、新たに名前が知れ渡ることで、さらに多くのことが変える力を得ることにもなった。

オーケイとの契約で重要な役割を果たしたのは、ラルフ・ピアだった。彼は以前コロンビア・レーベルに務めていたが、1920年にオーケイに制作ディレクターとして移ってきた。それからまもない1920年8月、ピアは歴史に残るレコーディングを手がける。メイミー・スミス&ジャズ・ハウンズの「Crazy Blues」を録音したのである。これは、黒人向けに作られた最初のブルース・レコードだった。

http://dippermouth.blogspot.com/2015/11/90-years-of-louis-armstrong-and-his-hot.html

ルイがラルフ・ピアと知り合ったのは、キング・オリヴァーのバンドにいたころだった。ルイの主張によれば、レコーディング契約を結んでくれたのはオーケイの親会社の社長だったエルマー・ファーンだったという。しかしこれはスター級の契約ではなかった。自分の名前で初めてレコードを吹き込む前の週、ルイはオーケイの歌手のレコーディングで伴奏を務めている。そうした歌手(バーサ・”チッピー”・ヒルやブランチ・キャロウェイ)は、今ではほぼ忘れ去られた存在になっている。

1925年11月12日の午前中に、ルイ、妻のリル、キッド・オーリー(トロンボーン)、ジョニー・ドッズ(クラリネット)、ジョニー・セント・サー(バンジョー)はシカゴのスタジオに入った。彼らは、ホット・ファイヴというバンド名で「Well I’m in the Barrel」「Gut Bucket Blues」「My Heart」を録音。最初の2曲は、ルイ・アームストロング&ホット・ファイヴの初のレコードとしてオーケイから発売された。ルイには1曲につき50ドル支払われ、また作者であるルイとリルにも恐らくは似たような金額が渡ったはずだ。オーケイはこのレコードを1枚75セントで売っていた。のちにルイはこう語っている。「あのころは、印税とかそういうものにあまり注意してなかったんだ」。

セント・サーが「Gut Bucket Blues」のイントロを弾き始めると、当時24歳のルイは曲の紹介を始めた。「それ弾いてごらん、ミスター・セント・サー! お前さんにも弾けるよ。ニューオーリンズの人間なら誰だって弾けるさ、ヘイヘイ!」 そのあとで、ルイは他の年上のメンバーの紹介もしている。このレコーディングでブルースが採り上げられたのは、どうやらファンのリクエストによるものだったようだ。おそらくこれは、「ジャズとブルースに二股をかける」という戦略だったのだろう。そうしてオーケイは、どちらで売れるのか見きわめようとしていた。当時はどこのレーベルもどこの新人アーティストも、何が売れるのかよくわからず、暗中模索だったのだ。ライヴでの人気者とアメリカ全土でレコードが売れるアーティストとのあいだには、大きな隔たりがあった。当時のルイはローカル・タレントであり、全国的な有名人ではなかった。

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コンソリデイティッド・トーキング・マシン・カンパニーの機材を使用したオーケイの簡易スタジオにルイとホット・ファイヴが再び入ったのは、それから3カ月後のことだった。それまでのあいだ、彼らはライヴの仕事に戻っていた。バンドの名前はリル・アームストロングズ・ドリームランド・シンコペイターズ。その看板ミュージシャンは、「世界一のジャズ・コルネット奏者」ことルイ・アームストロングだった。出演していた店は、シカゴ・サウスサイドの歓楽街「ストロール」のサウス・ステート・ストリート3520番地にあったダンス・ホールだった。またホット・ファイヴの一部のメンバーは、他のシカゴのバンドで演奏していた。たとえばセント・サーは、ドク・クックやジミー・ヌーンのバンドに参加していた。

ホット・ファイヴが聴衆の前で演奏したのは一度きりだった。しかし、そのときルイの伝説が始まったのである。

By Richard Havers



 

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