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ルイ・アームストロングの20曲

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ルイ・アームストロングのキャリアを、どうすれば20曲で要約できるというのだろう? 我々は不可能なことに挑戦した。そして最終的に、1曲少ない19曲のリストを作った。残りの1曲に何を加えるべきか、皆さんの意見をぜひお聞かせ頂きたい。皆さん全員の声を聞いた後に、“ルイ・アームストロングの20曲”を完成させる所存だ。

ルイ・アームストロングの曲作りは、1923年4月5日、キング・オリヴァーのクレオール・ジャズ・バンドが、ジェネッツ・スタジオで、歴史に残る最初の28曲をレコーディングした時に始まった。それらの曲はルイ・アームストロングの初のレコーディング作品というだけでなく、リンカーン・ガーデンズで初めて、黒人ジャズ・バンドが観客を楽しませた音楽でもあった。

バンドがレコーディング初日に録音した曲のひとつが、「Dipper Mouth Blues」である。キング・オリヴァーとルイ・アームストロングの共作で、“Dipper Mouth(カバのように大きな口)”がルイ・アームストロングの口のことであるという意味も含まれていた。レコーディングの数週間後に発売され、すぐに早耳のレコード好き達の注目を集め始めた。

1924年6月、ルイ・アームストロングはオリヴァー・バンドを脱退。数ヶ月後の9月に、フレッチャー・ヘンダーソンがルイ・アームストロングに電報を打ち、ニューヨークに移って彼のバンドに加入しないかと尋ねた。フレッチャー・ヘンダーソンのバンドは米国で最も有名な黒人バンドだった。シカゴに住む妻のリルのもとを離れなければならないことを別にすると、ルイ・アームストロングにとって唯一のマイナス面は、ギャラだった。週55ドル。それはオリヴァーの報酬よりも少なかったが、より大勢の観客の前に立てることが、埋め合わせとなった。

バンドに加入して数週間後、フレッチャー・ヘンダーソンとの2度目のレコーディング・セッションで、彼らは素晴らしい「Shanghai Shuffle」を録音した。バンドのメンバーで、クラリネットとサクソフォーン担当のドン・レッドマンがアレンジした曲だ。そして、この時にルイ・アンダーソンと共にオーケストラに参加していたのが、一流のテナー・サクソフォン奏者、コールマン・ホーキンスだった。その翌年、ルイ・アームストロングはフレッチャー・ヘンダーソンのバンドと定期的にスタジオ入りを繰り返した。

フレッチャー・ヘンダーソンのオーケストラとのレコーディングと合わせて、ルイ・アームストロングは他の人達のセッション・プレイヤーとしての仕事でも稼ぎ、貴重な経験を得た。コロムビアでは、アルバータ・ハンター、ヴァージニア・リストン、マギー・ジョーンズ、そして“ブルースの女王”という名を獲得するほど高い評価を築いていたベッシー・スミス等のブルース・シンガー達と仕事をした。ルイ・アームストロングはベッシー・スミスのヴァージョンの「St Louis Blues」で、驚異的なトランペットのリフレインを披露している。

ルイ・アンダーソンはフレッチャー・ヘンダーソンのオーケストラを1925年10月に辞め、オーケー・レコードと契約し、シカゴでスタジオ入りした。ここに、ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・ホット・ファイヴが誕生した。1925年11月12日、ルイ・アームストロングは、リル、トロンボーン奏者のキッド・オーリー、クラリネット奏者のジョニー・ドッズ、バンジョー奏者のジョニー・St.シルと、「Well I’m In The Barrel」、「Gut Bucket Blues」、「My Heart」をレコーディングした。頭の2曲は、ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・ホット・ファイヴがオーケー・レコードから初めて発表した曲となり、ルイ・アームストロングは1曲50ドルを受け取った。彼とリルが書いた他の曲も、同じ位の値段だったであろう。オーケー・レコードは、彼らの曲を1曲75セントで販売した。

1926年、リルとルイ・アームストロングは、シカゴのサウスサイドの44丁目にある家に住んでおり、年末まで忙しく過していた。ホット・ファイヴは2月の最終週にスタジオに戻り、ルイ・アームストロングは再び初めてのことを成し遂げようとした。「Geogia Grind」を録音後、バンドはルイ・アームストロングがヴォーカルをとった「Heebie Jeebies」をレコーディングした時、2番目のヴァースが始まる前に、彼は歌詞が書かれた紙を落としてしまった。即興するしかなくなった彼は、初めて彼のトレードマークとなる“スキャット”で歌ったのである。

それはニュー・オリンズで”スキャット・ヴォーカル”と呼ばれていた歌い方であり、この街のミュージシャン達の発明でもなければ、ルイ・アームストロングの発明でもなかった。スキャット・ヴォーカルの記録は、1911年にジーン・グリーンが作った「King Of The Bungaloos」まで遡る。その5年後、ジーン・グリーンは同じような事を、偽の中国語のスキャットでやっていた。しかしながら、スキャットを”有名”にしたのはルイ・アームストロングである。「Heebie Jeebies」は4万枚売れたと言われており、当時の“有色人種の曲”としては大きな売り上げで、おそらく白人の観客にもクロス・オーヴァーしたことを示していた。

1927年5月、ホット・ファイヴはホット・セヴンになった。リル、ジョニー・ドッズ、ジョニー・St.シルの他に、トロンボーン奏者のジョン・トーマス、テューバ奏者のピート・ブリッグス、そしてルイの旧友のベイビー・ドッズがドラムという編成で、5月に初のレコーディングが行なわれたのだ。このレコーディングは、ドラマーが加わったというだけでなく、従来のアコースティックではなく、エレクトロニックでレコーディングされるという違いがあった。オーケー時代のルイ・アームストロングの曲は、それ以前の曲よりもずっといいサウンドになっていた。

ホット・セヴンでのレコーディングの3日後に、ルイ・アームストロングはスタジオに戻り、彼の代表作のひとつとなる名作「Potato Head Blues」を録音した。あらゆる面において名曲といえるこの曲を、ウディ・アレンは、人生を“生きる価値のあるもの”にしてくれるもののひとつだと評した。厳密に言うとブルース曲ではないが、この曲の後半にはルイ・アームストロングの最高のソロのひとつが入っており、最後に素晴らしいコーラス部分の手本が入っている。サッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)曰く、「タルーラ・バンクヘッドが、私の曲の中で一番好きだと言ったのが、「Potato Head Blues」だ。私自身も気に入っている!」。

1928年の6月28日、ホット・ファイヴが20世紀の画期的な名曲のひとつである「West End Blues」を録音した時、多くのジャズ愛好家達にとって、音楽、ジャズ、そしてルイ・アームストロングに関する偉大なものの全てがひとつになった。ルイ・アームストロングとリルとの結婚が終わりを迎え、代わりに素晴らしいアール・ハインズがバンドに加入していた。昔のホット・ファイヴとリルには、新しいメンバー達の力量による「West End Blues」は生み出せなかっただろう。彼らは、サヴォイ・ボールルームで「West End Blues」を生演奏していたので、その夜の仕事をレコーディングに変えただけだった。しかし多くのアーティストは、ルイ・アームストロングとバンドが達成したようなエキサイティングな曲を生み出すのに苦労しているものである。

この時期のルイ・アームストロングの最高の曲のひとつが、1928年12月5日にルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・ボールルーム・ファイヴがレコーディングした「Beau Koo Jack」だ。名前とは裏腹に、メンバーはルイ・アームストロングの他、アール・ハインズとクラリネット奏者のドン・レッドマンを含めて6人いた。1929年、シカゴで一番ホットなトランペット奏者は、アメリカで一番ホットなトランペット奏者への変遷を始めた。この旅の重要な一歩は、1929年3月5日に訪れた。ニューヨークに住むオーケー・レコードのレコーディング・デイレクター、ハリー・ロックウェルが、ルイ・アームストロングと彼のオーケストラを、ニューヨークのタイムズスクエア近くの西45丁目にあるレーベルのスタジオに入れたのだ。

「Knockin’ A Jug」は、彼らがレコーディング初日の朝に作った2曲のうちのひとつで、黒人と白人のミュージシャン達によって演奏されたルイ・アームストロングにとって初めての人種混合のセッションだった。ルイ・アームストロングの他は、トロンボーン奏者のジャック・ティーガーデン、テナー・サックス奏者のハッピー・コードウェル、ピアニストのジョー・サリヴァン、ドラマーのカイザー・マーシャル、そしてギタリストにエディ・ラングという編成だった。この華麗な曲はスタジオで作られた。そして、“ホット・ファイヴスとセヴンス”による最後の曲になった。それまでに彼らが作った曲を極めた曲であり、来るべき変化の前の最後の曲として完璧な役割を果たした。

ルイ・アームストロングはザ・ルイ・アームストロング・オーケストラとしてレコーディングするために、ニューヨーク市にいた。ピアニストのルイ・ラッセルと彼のバンドのメンバー達によって構成されており、彼らはサヴォイ・ボールルームで一緒に演奏をしていたミュージシャン達だった。オーケー・レコードのために彼がレコーディングした曲の中に、ファッツ・ウォーラーと共作した「Ain’t Misbehavin’」の驚異的なヴァージョンがある。1929年7月中旬に録音されたこの曲は、131丁目と7番街にあるハーレム・クラブ、コニーズ・インのヒット・ミュージカル『ホット・チョコレート』の曲だ。コニーズ・インでのルイ・アームストロングは、ショウ後半のオープニングで、オーケストラピットでこの曲を演奏し、常に観客を熱狂させた。これは彼のキャリアを通して、代表的な曲のひとつとなった。

それから数年、ルイ・アームストロングはレコーディングを続け、1932年1月に「All of Me」の秀逸なヴァージョンを録音した。この曲は、彼が全米チャートで首位を獲得した初の曲となった。しばらく後に、ルイ・アームストロングはヨーロッパを訪れ、年末に帰国しRCAビクターのためのレコーディングを行い。それはその後数年間続いた。

1934年の末、ルイ・アームストロングのマネージャーのジョー・グレイサーが、新しく創設されたデッカ・レコードと契約を結ぶ。アメリカでデッカが1歳になる前に、彼らはすでにビング・クロスビーと契約を結んでいた。アメリカ国内だけでデッカを運営したジャック・キャップは、レーベルが曲を作る際に、たったひとつのことを念頭に置いていた、それは「メロディはどこだ?」。これが、彼が全てのアーティスト達に言った言葉であり、それを忘れさせないために、デッカ・スタジオにこの言葉のサインを掲げた。

ルイ・アームストロングがデッカのためにレコーディングした最初の曲からは、彼がどこに向かっているのかというはっきりとした方向性は見えなかった。ジミー・マクヒューとドロシー・フィールズによる「I’m in the Mood For Love」は、メロディが溢れ出る曲で、ルイ・アームストロングはラッセル・バンドを従えて、それ以前の3、4年間に発表した多くの曲に欠けていた輝きを披露してみせた。1935年10月3日にレコーディングされ、後に全米チャートに3週間チャート入りし、アメリカのベストセラー曲の上位3位に入る曲となった。ルイ・アームストロングは、彼がいるべき場所に戻ったのだ。

1930年代の後半と、その後の第二次世界大戦時の大半を、ルイ・アームストロングはレコーディングとツアーに費やした。しかし、ポップ・ミュージックが変化したために、彼のスタイルは、一般大衆の間で従来ほどの人気がなくなっていた。ビッグ・バンドが新しいポップとなり、ルイ・アームストロングのスタイルはオールド・スクールであった。

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1947年、遂にルイ・アームストロングはメインストリームに復活する方法を見出した。それは、過去に立ち返って、ニューオリンズ・サウンドを再発明することだった。1947年の2月、ルイ・アームストロングはエドモンド・ホールが率いる6人編成のバンド—カフェ・ソサイエティ・アップタウン・オーケストラと共に、カーネギー・ホールで公演を行なった。これがオールスターズの始まりであった。一連の公演を成功のうちに終えた後、1947年11月、ルイ・アームストロングはボストンのシンフォニー・ホールでプレイした。録音されたこの公演から、我々は「Muskrat Ramble」を選んだ。過去最高に喜びに溢れた一曲である。

オールスターズは、その後数年間、大人気になった。そして、このグループでレコーディングすると同時に、デッカはルイ・アームストロングを様々なオーケストラと共にスタジオ入りさせるというアイディアを思いついた。そこには、優秀なアレンジャー、ゴードン・ジェンキンスが率いるオーケストラも含まれていた。1951年には、サイ・オリヴァーともレコーディングをした。それは彼のフルオーケストラではなく、ピアニストのビリー・カイルを含めた8人編成のバンドで、オールスターズは誰も参加していなかった。

彼らが録音した「A Kiss To Build a Dream On」は、何ケ月もの間、全米チャートのベストセラー曲として残った。この曲が成功したおかげでデッカはやる気になり、次にゴードン・ジェンキンスとの曲「When It’s Sleepy Time Down South」を発表した。これはルイ・アームストロングにとってテーマ曲のような曲で、トップ20ヒットとなった。

1954年の夏、ルイ・アームストロングはコロムビアのためにレコーディングをおこなった。ルイ・アームストロングにW.C.ハンディの曲を演奏させるというアイディアは、ジョージ・アヴァキアンのものだった。それは見事だった。W.C.ハンディの曲が、5分以上に拡大されたのだ。数人の伝記作家は、ルイ・アームストロングが典型的な“シングル”の長さである3分以上の曲をレコーディングしたのは、この時が初めてだと指摘している。そしてジョージ・アヴァキアンは、それをやったという点で、デッカにはなかったヴィジョンを持っていた。ひとつだけ例外があり、1950年のデッカからのファースト・アルバム『New Orleans Days』で、ルイ・アームストロングは「Bugle Call Rag」の9分のヴァージョンを録音している。しかしながら、その事実はジョージ・アヴァキアンの力と、ルイ・アームストロングとオールスターズがW.C.ハンディにオマージュを捧げた作品の価値を減らすことにはならない。彼らが素晴らしく豊かな演奏を披露している「Ole Miss Blues」をリストに入れた。

1955年の9月、ジョージ・アヴァキアンはルイ・アームストロングをコロンビアのニューヨークのスタジオに連れ戻し、「A Theme from the Threepenny Opera」、一般的には「Mack the Knife」として知られている曲を録音した。この曲は1956年の頭に全米チャート入りを果たし、約4ケ月チャートに留まって、ルイ・アームストロングの最大のヒット曲となった。

その後の10年間、ルイとオールスターズはツアーとレコーディングを続けて世界中の人々を楽しませ、いくつもの素晴らしい曲を残した。しかし、彼がシングル盤を購入する大衆に本当に大きな影響を与えたのは1964年で、その影響は巨大だった。

1964年の2月15日、「Hello Dolly」はビルボード・チャートの76位を記録した。デイヴ・クラーク・ファイヴの曲のひとつ上だった。それから12週間後、「Hello Dolly」はビートルズの「Can’t Buy Me Love」を首位から蹴落とし、彼らの14週連続の1位を終わらせた。サッチモことルイは、再び大きく返り咲いたのである。

1967年8月16日、サッチモのデューク・エリントンとのアルバムのプロデューサー、ボブ・シールが、彼とジョージ・ワイスが書いたある曲のデモを作った。もちろん、彼はこのデモを真っ先にグレーサーに聞かせ、次にワシントンDCで公演を行なっていたルイに聞かせた。後に明らかになったことだが、最初にトニー・ベネットが、この曲をきっぱりと断ったそうだ。そして、年齢的に人生の冬を迎えてつつあったルイが、この曲の感傷を完璧に表現し、結果的にファンに長く愛され続ける曲となった。当時、ABC-パラマウント・レコーズの社長は全くそれが理解できておらず、レーベルがこの曲に労力をかけることを禁止したため、アメリカでは何の記録も残さずに消えてしまった。

しかしイギリスでは、この曲を押さえつけることはできないことが証明された。この曲は徐々にチャートを上昇し、1968年の4月の最終週に1位を達成し、1ケ月首位を維持して、50万枚も売れたのである。今日、この曲を聞いてルイ・アームストロングを連想しない人は、世界中どこにもいないであろう。シングルとしてこの曲を購入した人もいるだろうし、コンピレーション・アルバムの中の1曲として所有している人もいれば、1988年の映画『グッドモーニング、ベトナム』のサウンドトラックや、インスピレーションを与えるメッセージをBGMとして使った数多くのコマーシャルで聴いた人もいるだろう。聴き慣れても軽んじられることのない曲であり、歴史上、最も高揚感があり、最も人生を肯定する曲のひとつである——それは全て、ルイ・アームストロングのおかげだ。

その曲とは勿論「What A Wonderful World 」である。

By Richard Havers


♪プレイリスト『ルイ・アームストロンの20曲』:Spotify

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