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モータウンが生んだ歌姫、ダイアナ・ロスの軌跡:女性アーティストの道を切り開いたソウル・スター

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Photo: Motown Records Archives

ダイアナ・ロス(Diana Ross)は2022年に78歳の誕生日を迎えた。76歳の誕生日を迎える人はたくさんいる。とはいえ、76年のうち60年間以上を歌手として大活躍してきたという人はそうそういない。その滅多にいない人物の一人こそがダイアナ・ロスだ。このモータウンの象徴的なソウル・スターは、絹のようになめらかなソプラノ・ヴォーカルで、数々のスマッシュ・ヒット曲や名曲を歌い上げてきた。

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シュープリームスで掴んだ成功

ダイアナはザ・プライメッツで歌のキャリアをスタートさせ、1960年にルーピン・レコーズでシングル「Tears Of Sorrow / Pretty Baby」を録音。ここではダイアナがリード・ヴォーカルを務めていた。このシングルが1960年に本当に出たのか、それとも数年後にザ・プライメッツがシュープリームスとしてモータウンからレコードを出すころまでお蔵入りになっていたのかは定かではない。いずれにせよ、このシングルは商業的には成功しなかった。

初期のシュープリームスは商業的な成功を収められずに悪戦苦闘していた。シングルを7枚出してもチャートにはランク入りせず、噂によればモータウンの社内では「ノー・ヒット・シュープリームス」というあだ名を付けられていたという。しかしヒットを出し始め、途端にこのグループはたちまちスターへと成長した。

「Where Did Our Love Go (愛はどこへ行ったの) 」は全米シングルチャートで1位を獲得。その後も「Baby Love」「Stop! In The Name Of Love」「I Hear A Symphony (一人ぼっちのシンフォニー) 」、「You Keep Me Hangin’ On」など全11枚のシングルが首位の座に就いた。

Baby Love

1967年になるとシュープリームスはメンバーが交代し、グループ名もダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスに変わる。ダイアナ・ロスは単独でリード・ヴォーカルを務めるようになり、グループ名が表す通り一番のスターとして扱われていた。シュープリームスにとって最後の首位獲得シングルとなったのは1969年の「Someday We’ll Be Together (またいつの日にか) 」だったが、この曲はダイアナ・ロスの初のソロ・レコードだったといってよいだろう。というのも、シュープリームスの他のメンバー、メアリー・ウィルソンとシンディ・バードソングはどちらも参加していなかった。

これらのヒット曲はどれもモータウンを象徴する曲になったが、モータウンはサウンドとほぼ同じくらいイメージも重要視していた。そして誰よりもそのモータウンのイメージを象徴していたのが、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスだった。モータウンの創設者であるベリー・ゴーディは、お抱えのアーティストたちがきちんとしたルックスで活動することに異常なほど神経質にこだわっていており、黒人と白人の両方にアピールするような抜群の一流アーティスト、それが彼の作り上げようとしていたモータウンのアーティスト像だった。

Someday We'll Be Together

 

グループからソロへ:どんな路線でも巧みにこなすアーティスト

モータウンのアーティストたちはみな、エチケット講師のマキシン・パウエルからエチケットや身だしなみを教わっていた。その徹底的な管理は、アーティストのファッションにまで及んでおり、ファッションの華やかさという点では、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスに匹敵するグループは存在しなかった。

キラキラと輝く紺碧、ディスコボールのようなシルバー、リッチなラズベリーピンク、泡立つようなピンクのティアードドレス、クレヨラの原色で仕立てられた完璧なスーツ、太もも部分にクリスタルの装飾が施された緑のオーガンザのコラムドレスなど、彼らのワードローブは豊かさを誇っていたのだ。それは、ダイアナがグループのライブパフォーマンスのための服だけでなく、自分で服を作るのが好きだったキャリアの初期の頃とはかけ離れたものだった。

時代が変わっても、外見的な華やかさが過剰に見えても、ダイアナ・ロスとシュープリームスは印象に残る服装をしていた。例えば、1968年のアルバム『Love Child』のフロントカバーで、ダイアナがレンガの戸口の中にもたれかかっている時に着ている、アイコニックなカナリアイエローのスウェットシャツを見てみるとそれがわかる。

Love Child

1970年になるとダイアナはソロ活動を開始し、スターとしての力の幅広さを示す2枚のアルバムを発表する。伝説の夫婦チーム、アシュフォード&シンプソンのプロデュースでソロ・デビュー・シングル「Reach Out And Touch (Somebody’s Hand) 」、さらにはゴージャスな「You’re All I Need To Get By」や「Ain’t No Mountain High Enough」といったカヴァー・シングルも出した。このうち「Ain’t No Mountain High Enough」は全米シングルチャートで1位を記録している。

そんなシングルを収録して1970年に発売したデビュー・アルバム『Diana Ross』のアルバムカヴァーには、短い髪にシンプルなTシャツとデニムのショートパンツを着たダイアナが写っていた。一方、同年末にリリースされたセカンド・アルバム『Everything Is Everything』では、ダイアナはダイヤモンドを散りばめた姿でジャケットを飾っている。

こうした対照的なジャケット・デザインを見ると、ソロ活動をどのように進めるのがベストなのか、ダイアナとモータウンが考えあぐねていたようにも思える。デビュー・アルバムのジャケットのように親しみやすくレイドバックしたソウル・シンガーになるべきなのだろうか? それとも『Everything Is Everything』のように派手な歌姫になるべきなのだろうか? とはいえ、ダイアナがどちらの路線も上手くこなせるアーティストだったのは明らかだった。

『Diana Ross』『Everything Is Everything』

 

愛情活動の幅を広げるアーティスト

ダイアナは、1972年には映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実 』でビリー・ホリデイを演じ、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。この映画のサウンドトラックも全米チャートで1位を獲得。翌1973年も同じように多忙な年となり、アルバム『Touch Me In The Morning』からシングル・カットされたタイトル曲はヒットを飛ばした。またダイアナは、いくつかの曲で自らプロデュースも担当している。

Touch Me In The Morning

この年の10月には、モータウンのもうひとりのソウル・スター、マーヴィン・ゲイをフィーチャーしたデュエット・アルバム『Diana & Marvin』では、ふたりのすばらしいヴォーカルを堪能することができる。さらに言えば、これはダイアナがヴォーカル・ハーモニーを実にうまくこなせる歌手だということを思い出させてくれるアルバムだった。彼女は、大成功を収めたガール・グループで無駄骨を折っていたわけではなかったのだ。

ここで抜群な出来になっていたのは、トム・ベルとリンダ・クリードが共作した「You Are Everything」と「Stop, Look, Listen To Your Heart」のカヴァーだった。これらの曲は、フィリー・ソウルのスター・グループだったスタイリスティックスがオリジナルヴァージョンを録音していたものだ。

Diana & Marvin – You're my everything

1970年代はその後もさらにヒット・レコードが生まれている。その中には、1975年の繊細な「Theme From Mahogany (Do You Know Where You’re Going To)」や、1976年のゴージャスなディスコ・ナンバー「Love Hangover」も含まれている。

1980年となると音楽の世界も変化の真っ只中にあったが、ダイアナはキャリア最大のヒット・アルバム『Diana』を発表することになった。当初はこのアルバムからのリード・シングルは発売されなかったが、アルバムそのものが大ヒットしたため、モータウンはすぐに方針を転換。

そうしてシングル・カットされた「Upside Down」は、チャートのトップにあっという間に昇りつめた。その後すぐに発表された「I’m Coming Out」は、LGBTのアンセムとして大きな人気を誇る曲になった

Upside Down

 

後進へのお手本となったダイアナ

コラボレーションで組む相手がシックであろうと、マイケル・ジャクソンであろうと、ビー・ジーズであろうと、1980年代のダイアナは新鮮で面白い曲を発表し続けることができた。彼女は、非常に幅広いスタイルのサウンドに自分のヴォーカルを適応させる能力に長けていたのだ。それがたとえ2分間のガール・グループのヒット曲であっても、間奏に語りが入った壮大なソウル・バラードであっても、エネルギーあふれるディスコ・ナンバーであっても、あるいはブルースのスタンダードであっても、彼女は上手にこなすことができた。それは、ダイアナ・ロスがパフォーマーとして驚くべき多才な力の持ち主であることを証明していた。

さらに言えば、彼女はパイオニアでもあった。柔軟な適応能力の価値を認識できる女性ヴォーカリストたちが、ダイアナの切り開いた道を通って頭角を現していったのである。ヴォーカル・グループ、デュエット、映画のサウンドトラック、俳優としての演技、そして大がかりなソロ・コンサートまで、ダイアナ・ロスのキャリアはビヨンセをはじめとする後のスターたちにとって強力なお手本となった。

Written By Hannah Vettese




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