ブライアン・イーノ『アポロ』解説:人類初の月面着陸から着想を得たアンビエントの金字塔
1969年7月21日午前2時56分(世界協定時刻)、アポロ11号の月着陸船イーグルからニール・アームストロングが降り立ち、人類で初めて月面に足跡を刻んだ。この瞬間は、人類史に残る画期的な偉業であり、科学技術の可能性を世界に示した歴史的出来事として広く称えられた。
しかし、この偉業がもたらした感動は、技術的な達成だけにとどまらない。実際に月面へ降り立つとは、どのような感覚だったのか――。そんな人間的な側面に思いを巡らせることも、この出来事が人々を魅了し続ける理由の一つだった。
その「感覚」を音楽で描き出したのが、ブライアン・イーノ(Brian Eno)である。
月面着陸から10年以上を経た1983年、イーノはドキュメンタリー作品のために制作したアルバム『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』を発表。当初は映像作品のサウンドトラックとして制作されたが、その後は独立した音楽作品としても高く評価され、アンビエント・ミュージックの金字塔と見なされるようになった。
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畏敬、静寂、そして郷愁
ジャーナリストであり映画監督でもあるアル・レイナートは、ドキュメンタリー映画『宇宙へのフロンティア』(原題:For All Mankind)で、月面着陸という歴史的偉業を“人間の体験”という視点から描こうと考えた。そのため彼が求めたのは、宇宙開発という壮大な挑戦が持つスケール感だけでなく、その裏側にある繊細な感情までも表現できる音楽だった。しかも、安易に感傷へ流れることなく、その感情を静かに伝えるサウンドである。
実際、アポロ計画に参加した宇宙飛行士たちは、自らの体験を畏敬の念、静かな安らぎ、そして地球への郷愁が入り混じるものだったと語っている。一方で彼らは、任務を遂行するプロフェッショナルとして冷静さを失うこともなかった。彼らが直面していた宇宙は、決して“敵意”に満ちた場所ではない。しかし、人間の存在など意に介さない完全な無関心に支配された空間だった。その事実こそが、想像できるどんな最悪のシナリオよりも恐ろしく感じられたのかもしれない。
1980年代初頭までに、ブライアン・イーノは、静寂と抑制を基調としながら豊かな情感を喚起するアンビエント・ミュージックの第一人者として確固たる地位を築いていた。『Music for Airports』や『Music for Films』といった作品には明確なテーマが与えられていたものの、その音楽は決して感情を押しつけることはない。むしろ、あえて余白を残し、その空白を聴き手自身の記憶や想像力で埋められるよう設計されていた。その“欠落”こそが作品を完成させる重要な要素であり、イーノによるアンビエント作品の本質でもあった。
その手法に深く感銘を受けたアル・レイナートは、型破りな音響作家であるイーノに『宇宙へのフロンティア』の音楽制作を依頼する。そして、その成果として生まれたのが、後にアンビエント・ミュージックの金字塔と称される『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』だった。
宇宙に思いを巡らせて
このプロジェクトでブライアン・イーノは、実弟のロジャー・イーノ、そしてカナダ人プロデューサー/ミュージシャンのダニエル・ラノワとタッグを組んだ。当時のラノワは、イーノの『Ambient 4: On Land』で共同エンジニアを務めたばかりで、後にU2、ピーター・ガブリエル、ボブ・ディランらを手掛ける名プロデューサーとして名を馳せる以前のことだった。
ロジャー・イーノはuDiscover Musicのインタビューで、当時をこう振り返っている。
「兄のブライアンとは昔からとても親しい関係でした。1983年、私は90分間ほとんど変化のない自作曲をカセットテープに録音して彼に送りました。それまで約2年半、精神科病院で音楽療法士として働いていて、“娯楽”だけを目的としない音楽に以前から強い関心を持っていたんです。その考え方は兄のアプローチとも通じるものがあり、それで彼からダン・ラノワと一緒に“Apollo”を制作しようと誘われました」
レコーディングは、ラノワの拠点であるカナダ・オンタリオ州ハミルトンのGrant Avenue Studioで行われた。ブライアンとロジャーの直感的な発想に、ラノワの卓越した音楽性とテクノロジーへの理解が加わったことで、このコラボレーションは理想的な形で機能した。ロジャーは、自身の役割について次のように語っている。
「大まかに言えば、私はメロディやハーモニーの部分を担当しました。ただ、そういう言い方はあまり好きではありません。まるで機械的で作為的な分担だったように聞こえますが、実際はまったく違いました。あの時期は本当に楽しい思い出ばかりです。僕たちは3人とも気が合って、しょっちゅう涙が出るほど笑っていました。しかも誰一人としてエゴを振りかざすことがなかったので、制作は驚くほどスムーズでした。誰でも思いついたアイデアを自由にスタジオに持ち込めて、採用されなくても気分を害する人はいませんでした。誰も自分を証明しようとはしていなかったし、制作の参考になる素晴らしい映像素材もありました」
1983年7月にリリースされた『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』は、もともとは宇宙探査の映像に寄り添うためのサウンドトラックとして制作された作品だった。しかし、その幻想的で繊細な音の質感と果てしなく広がる音響空間は、映像から切り離されてもなお、聴き手に宇宙そのものへの思索を促す力を持っている。
アルバムの中心を支えるのは、Yamaha CS-80が奏でる柔らかく脈打つようなシンセサイザーの響きだ。一方で、イーノたちはSuzuki Omnichordという比較的安価な電子楽器も巧みに活用し、その音程を低く加工することで、どこか異世界を思わせる重厚な響きを生み出している。
また、作品全体にギターも随所に用いられているが、その演奏は驚くほど控えめで繊細だ。音はまるで管制室のコンソールに点滅する小さなランプのように、かすかに存在を感じさせる程度にとどまる。例えば、「Always Returning」で聴かれる澄んだ倍音と遠くから響く逆回転ギターの余韻、「Under Stars」を静かに貫く加工された揺らぎのあるギター・サウンドは、その代表的な例といえる。
さらに意外なのは、ダニエル・ラノワが「Deep Blue Day」と「Weightless」でペダル・スティール・ギターを取り入れていることだ。この“スペース・カウボーイ”的なアプローチは、実はアポロ計画の宇宙飛行士たちの嗜好を反映したものでもある。彼らの多くは、月へのミッションにカントリー・ミュージックのカセットテープを持って行ったと伝えられている。
「Deep Blue Day」には、まるで「さあ行こう、相棒」と語りかけるような、ゆったりと揺れるカントリー風のリズムがさりげなく盛り込まれており、この愛嬌たっぷりでウィットに富んだ演出は、アルバムの時空的な文脈の中で見事に機能している。
『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』は、霞がかったように繊細で幽玄な響きを湛えた作品でありながら、人々の記憶に深く刻まれ、発表後も長く愛され続けることになった。その影響力を象徴する例のひとつが、2012年のロンドン・オリンピック開会式である。
同式典では、2005年7月7日にロンドンで発生した同時爆破テロ(7/7テロ)の犠牲者を追悼する場面で、「An Ending (Ascent)」が静かに流れ、深い感動を呼んだ。開会式の演出を担当した映画監督ダニー・ボイルは、この楽曲を以前にも自身の映画『28日後…』(2002年)のサウンドトラックで使用している。また、スティーヴン・ソダーバーグも映画『トラフィック』(2000年)で同曲を採用しており、その普遍的な美しさは映画音楽としても高く評価されてきた。
一方、「Deep Blue Day」は、ダニー・ボイル監督の代表作『トレインスポッティング』(1996年)で使用され、作品中でも特に強烈な印象を残すシーンを彩る楽曲として知られている。映像作品のために生まれた『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』は、その後もさまざまな映画や映像作品で新たな命を与えられ、アンビエント・ミュージックの金字塔として世代を超えて受け継がれている。
『For All Mankind』──2019年リイシューと新録音
ニール・アームストロングによる歴史的な月面着陸から半世紀を迎えた2019年、『Apollo: Atmospheres And Soundtracks』は、マスタリング・エンジニアのマイルズ・ショーウェルによってアビイ・ロードでリマスターされ、2019年7月19日に拡張版として再発された。
このリイシュー盤には、ブライアン・イーノ、ロジャー・イーノ、ダニエル・ラノワが新たに録音した楽曲を収めたボーナス・ディスクも付属。3人が再び顔をそろえて制作を行ったのは、1981~82年のオリジナル・セッション以来、実に約40年ぶりのことだった。当時、ロジャー・イーノは新録音について次のように説明している。
「2枚目のディスクは、オリジナルとはまったく異なる発想で制作しました。まず今回は、誰一人として同じ部屋にはいませんでした。制作にはメールでやり取りしたMIDIデータを使ったんです。ダンはロサンゼルスから、私はイングランドの田舎から、それぞれ3曲ずつブライアンに送り、彼がロンドンでそれらを加工し、新たな音を加えました。そしてブライアン自身も5曲を書き下ろし、それが今回収録されている作品です」
さらに彼は、現代ならではの制作方法についてこう続けている。
「1983年当時には、現在のようなエフェクトやサンプル音源は存在しませんでしたし、そもそもこうした方法で離れた場所から共同制作を行うという発想自体がありませんでした。だからこそ、今回はあえて新しい手法を採用することがふさわしいと考えたのです。それによってオリジナルを単に再現したり、模倣したりするのではなく、あくまでオリジナル作品への応答として新たな音楽を生み出すことができました」
新たな11曲は、『For All Mankind』というタイトルのもとにまとめられ、アル・レイナート監督の映画との結びつきもより明確なものとなった。収録曲は、「Over The Canaries」の堂々とした気品ある響きから、原始的なドラムマシンを効果的に用いた「At The Foot Of A Ladder」の不穏で緊張感に満ちたサウンドまで、その表情は実に幅広い。
また、「Last Step From The Surface」で繰り返されるわずか3音のモチーフは、テレビ局のジングルのように簡潔でありながら強い印象を残す。そして「Waking Up」では、音と音の間に漂う静寂そのものが音楽となり、オリジナル盤を特徴づけていた、ゆったりと瞑想的な空気感を見事に受け継いでいる。
この拡張版全体を通して流れる音楽は、宇宙そのもののようだ。果てしなく広大で、人知を超え、永遠の空虚を思わせながら、その内側には計り知れない意味と存在が満ちている。それは同時に、広大な宇宙という尺度の中で、人類という存在がいかに小さく、そしてかけがえのないものなのかを静かに思い起こさせてくれる。その気づきは、私たちを謙虚な気持ちにすると同時に、不思議な安らぎをも与えてくれるのである。
Written By Oregano Rathbone
ブライアン・イーノ『Apollo: Atmospheres And Soundtracks(Extended Edition)』
1983年7月29日発売(2019年7月19日再発)
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