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“ブラインド・オウル”ウィルソンのブルースとキャンド・ヒートの物語

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アラン・クリスティ・ウィルソンはアメリカが第二次世界大戦に突入した2年後の1943年7月4日に生まれ、1970年9月3日に亡くなった。こうして、彼は27歳で若くして亡くなった者たちの”27クラブ”の一員となった。一方で、彼はキャンド・ヒートの創設者、そしてメイン・ソングライターとして”ブラインド・オウル”ウィルソンの名で知られている。

アラン・ウィルソンはケンブリッジのマサチューセッツ・コーヒー・ハウスでカントリー・ブルースを歌い始め、その後LAへと拠点を移し、カリフォルニア、トーランス出身で、ディクス・ジョッキーを目指していたボブ・”ザ・ベアー”・ハイトに出会った。

1965年にワシントン出身のフランク・クックとヘンリー・ヴェスティンが加入したことで、バンドは最初の大きな変革期を迎えた。彼らのオリジナル・ベースは、後にデヴィッド・リンドレー率いるアメリカのバンド、カライドスコープへ加わったスチュアート・ブロットマンだったが、途中で、後にスピリットの共同設立者となるマーク・アンデスに入れ替わり、その後ニューヨーク出身のサミュエル・ラリー・テイラーが入ってからはバンドに定着した。彼はチェック・ベリージェリー・リー・ルイスのもとで見習いを経験し、モンキーズのヒット曲でも演奏していた人物だった。

1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演後、キャンド・ヒートはリバティ・レコードを契約した。その年の7月にはセルフ・タイトル・アルバムをリリースし、全米アルバム・チャート76位を記録し、続く1968年の『Boogie With Canned Heat』は全米チャートに3週間残った。1968年には2枚組の『Living the Blues』を、続く1969年、バンドがウッドストックに出演する直前に『Hallelujah』をリリースした。

彼らにとってはウッドストックのステージに出演できるだけでも幸運なことだったが、さらに幸運なことに彼らの「Going Up The Country」がウッドストックのドキュメンタリー映画のオープニングに、かなり効果的なかたちで使われたのだった。元ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのギタリストだったヘンリー・ヴェスティンは、ウッドストックの2日前にフィルモア・イーストでベースのラリー・テイラーと喧嘩したことが原因でバンドを辞めていた。代わりにハーベイ・マンデルが加入するも、ドラマーのアドルフォ・デ・ラ・パーラは、ウッドストックへ向けて十分なリハーサルができていないと感じ、バンドを去ってしまった。マネージャーは彼が閉じこもっていた部屋に入り、なんとか彼を説得して、ヘリコプターでウッドストックの会場へと飛び、出演時間にギリギリ間に合わせた。それがハーベイ・マンデルのバンドでの3度目の演奏だった。キャンド・ヒートが出演する頃には、ちょうど日が暮れてきて、全体のスケジュールが遅れていた2日目の一番いい枠での出番となり、コンサート・フィルムに登場することになったのだ。

Canned Heat – Going Up the Country live Woodstock 1969

 

「ハーベイ・マンデルとアラン・ウィルソンは技術的に、世界最高峰のギター・デュオである」、ダウンビート・マガジンはモンタレー・ポップ・フェスティバル出演後にそう評価した。そして、アラン・ウィルソンは間違いなく最も優れた白人ハーモニカ奏者でもあった。ボブ・ハイトのパワフルなヴォーカルも伴って、1950年代のカントリーやシカゴ・ブルースを思わせる彼らの楽曲の素晴らしく巧みで、気取らないパフォーマンスを前に、もはやその音楽かどの人種のものかなど関係なかった。

1968年にメキシコ・シティに生まれたアドルフォ・デ・ラ・パーラがフランク・クックの代わりにドラマーとして加入し、その直後からバンドはその独特のブルース・サウンドでヒットを出し始めた。「On The Road Again」は1968年の夏の終わりにアメリカで16位まで上昇し、1969年の初旬にはアラン・ウィルソンが書いた「Going Up The Country」が全米チャート最高11位を記録。さらに、その年の春には「Time Was」が全米チャート67位となった。また、彼らはイギリスでも「On The Road Again」がTOP10入り、そして「Going Up The Country」がTOP 20入りするなど、高い人気を獲得した。

ウッドストックの映画で使われた「Going Up The Country」は、バンドがアンコールで演奏する「On The Road Again」とのカップリング曲だったが、この楽曲によりバンドはより広く認知されていった。「Woodstock Boogie」はお決まりのドラム・ソロを含む、15分にも及ぶ即興の一曲だが、アルバム『Boogie With Canned Heat』に収録された「Fried Hockey Boogie」のリメイクである。

ボブ・ハイトはウッドストックでのパフォーマンスについて「何曲かの演奏はイマイチで、”Going Up The Country”もその1曲だったが、それ以外がとてつもなく素晴らしかったんだ」と振り返っている。

Canned Heat Hooker In Heat

ウッドストックの出演から1年後、アラン・ウィルソンはトパンガ・キャニオンのボブ・ハイト邸の庭で、睡眠薬の過剰摂取により亡くなっていたのが発見された。彼は鬱病に悩まされていたという。ジョン・リー・フッカーが”これまで聴いた中で最も才能あるハーモニカ奏者”と評価していた、その音楽は彼の死によって奪われてしまった。当時バンドは、ジョン・リー・フッカーと共にアルバム『Hooker ‘N’ Heat』を制作中だった。そして、その翌月にはアルバム『Hallelujah』からの「Let’s Work Together」が全米チャートで26位を記録、彼らの最後のシングルとして全英チャートでは2位を獲得した。

1970年半ばまでは、途中でバンドに戻ったヘンリー・ヴェスティンとボブ・ハイトがオリジナル・メンバーとして残っていたが、ボブ・ハイトが1981年4月に亡くなったことで、バンドの歴史において一つの節目を終えた。その後も、サミュエル・テイラーとアドルフォ・デ・ラ・パーラ、ジュニア・ワトソン(後期のマイティ フライヤーズ)、ウォルター・トラウトによってバンドは継続され、ジョン・リー・フッカーが大きな成功を収めた1989年のアルバム『The Healer』でバンドがフィーチャーされた頃にはヘンリー・ヴェスティンが再び復帰していた。ヘンリー・ヴェスティンは1997年に心臓麻痺と呼吸不全によって、パリ郊外のホテルで亡くなった。彼は自分の遺灰を、偉大な天体物理学者だった彼の父の名前から名付けられた月の裏側のクレーターに撒いて欲しかったそうだ。

キャンド・ヒートが長く続いた要因としては、ゼネラルモーターズ、ミラー・ビール、リーバイス、ペプシ、そしてセブンアップなどの、大西洋の両側にある大手企業のキャンペーン広告で定期的に彼らの楽曲が使われていたことが関係しているかもしれない。ただ、やはりそれだけ彼らの音楽とブルースへの愛がとても魅力的だったということは否定できない。彼らの楽曲は、多くの若い世代にとって初めて聴くカントリー・ブルースだったに違いなく、その功績は、戦前のカントリー・ブルースの精神を現代に置き換えることに成功した”ブラインド・オウル”ウィルソンによるところが大きい。「On the Road Again」のイントロを聴いていると、1957年のアメリカの裏道をシボレーのトラックで走りながら、ブルースの水源を探し求める旅に出ているかのようだ。

Written By Richard Havers



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