(function(h,o,t,j,a,r){ h.hj=h.hj||function(){(h.hj.q=h.hj.q||[]).push(arguments)}; h._hjSettings={hjid:104204,hjsv:5}; a=o.getElementsByTagName('head')[0]; r=o.createElement('script');r.async=1; r.src=t+h._hjSettings.hjid+j+h._hjSettings.hjsv; a.appendChild(r); })(window,document,'//static.hotjar.com/c/hotjar-','.js?sv=');
Join us

Stories

ビリー・ホリデイ:売春宿、人種差別、ドラッグ、ヒモ男に惑わされた歌姫の奇妙な人生

Published on

Billie Holiday onstage at the Downbeat Club, New York, February 1947. Photo: Library Of Congress


幼児期に虐待を受けたビリー・ホリデイはカトリックの養護施設に預けられ、その後売春宿の女主人の元で掃除や小間使いの毎日を送った。1928年にはビリーの母親は娘を連れてハーレムへ移り住んでおり、その後間もなくして娘とともに売春宿で働くようになるが、14歳の時にビリーは放浪罪によって矯正施設に送られている。

施設を出所した後に出会ったサックス奏者とともに、ビリーはハーレムの安酒場で、レコードを聴いて大好きだったベッシー・スミスの真似をして歌うようになる。1933年10月、ハーレムのクラブでビリーの歌声を知った音楽評論家兼レコード・プロデューサーのジョン・ハモンドが、ベニー・グッドマンと彼女を組ませて数曲のレコーディング・セッションをさせている。しかしその時の「Your Mother’s Son-in-Law」を聞く限り、彼女の前途は何も見えない。

その後およそ1年の空白を経て、再びビリーにレコーディングの機会が訪れた。ハモンドがブランズウィックを説き伏せてレコーディングを実現させたのだ。そして誕生した『Teddy Wilson and his Orchestra』は、ビリーがウィルソンのピアノで行なった100回近くものレコーディングの最初のものだ。この時の4曲、すなわち「Miss Brown To You」「What a Little Moonlight Can Do」「I Wished upon the Moon」、そして「A Sunbonnet Blue」は、どのジャズ愛好者のレコード棚にもあるべき作品だ。この後に続く12ヶ月間にビリーは1ダース分のレコーディングをテディと行ない、そして彼女は自身の名前を掲げ、自身の楽団を率いて歌い始めるのだ。最初のセッションが行われたのは1936年7月。以降続いたレコーディングには、彼女自身の名によるものもあれば、ウィルソンの名が連なるものあった。レスター・ヤングのサックスをフィーチャーしているものもある。

1937年にビリーはカウント・ベイシー楽団をバックに歌っている。翌年にはアーティー・ショウと共演し、白人のオーケストラと仕事をした最初の黒人歌手の一人になったが、ケンタッキーでは観客の一人に罵られ、ビリーにとって決して楽しい仕事とは言い切れないものだった。ニューヨークのホテル・リンカーンでは表玄関を使わずにキッチンのドアから出入りするようホテル側に言われ、傷ついたビリーは1937年の暮れにショウの楽団との共演から降りている。

その後、ビリーの拠点はグリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ソサエティになった。彼女のパフォーマンスに誰もが驚愕したが、特に「I Cover The Waterfront」のような感傷的な作品での彼女はすばらしかった。しかし何よりも、このクラブに出演していた時期に彼女の代名詞とも呼べる作品が1曲生まれている。とある夜、ニューヨークの公立学校の教員ルイス・アレンが、カフェ・ソサエティのオーナーであるバーニー・ジョセフソンに、自分の書いた曲をビリーに歌ってもらうことは可能かどうかを尋ねたのがそのきっかけだ。その楽曲こそ、あの名曲「Strange Fruit(邦題:奇妙な果実)」だ。

Billie Holiday3
アレンの曲は黒人差別の激しい南部でリンチを受けた一人の黒人男性についてのものだった。音楽に乗せてリンチ反対を訴える歌詞のあまりの衝撃に対し、ビリーの所属レーベルであるコロンビアは発売を拒んだ。マイナー・レーベルのコモドアからリリースされたこの作品に対して、賛否の意見ははっきりと分かれた。ビリーがこの曲をライヴで披露すると、観客は一斉に沈黙し、涙する者は男女を問わなかった。

こと仕事に関しては順調なキャリアを歩んだビリーだったが、私生活ではそうはいかなかった。彼女は何人かと出会っている。そのうちの一人はギタリストのフレディ・グリーンであったが、1941年の夏に彼女が結婚したジミー・モンローは、最大限の誉め言葉で言ってもペテン師と呼ぶ以外にない男だった。ビリーがロス・アンゼルスのカフェ・ソサエティでノーマン・グランツと初めて会ったのも1941年の11月で、グランツは以降翌年にかけて人種の問題について意識を高めていくことになる。1942年にモンローはカリフォルニアにドラッグを持ち込んだことから逮捕され、ビリーが優れた弁護士を用意したのにもかかわらず、1年間の懲役刑を言い渡されている。モンローは、ビリーが何年も摂取していたマリワナを密輸していたのに加え、アヘンをも彼女の人生に持ち込んでいた。1944年にはビリーはヘロインにも手を出していた。ビリーを罠にかけたモンローの服役中に、ビリーはトランペット奏者と関係を持っていた。

1944年はビリーにとって大きな収穫のあった年で、デッカ・レコードと契約を交わした彼女は「Lover Man」をリリース。海外に赴任している軍人と故郷で暮らす彼らの妻や恋人たちの間で大きな共感を得た作品となった。1945年2月には、フィルハーモニー公会堂で行われ多くのアーティストが出演したジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック・コンサートに、最初の人物としてステージに立った。そしてその翌年には映画『New Orleans』 (1947年) の主役をルイ・アームストロングとともに務めている。

ドラッグの問題は遂にビリーを追い込み、1947年5月、フィラデルフィアで彼女はヘロイン所持で逮捕され、1年間の懲役刑を言い渡されてしまう。出所時の彼女は悪癖と決別しており、過去何年間もの彼女よりも健康な様子になっていた。そして1948年3月、彼女が刑期を終えるのを待っていたかのように用意されたカーネギー・ホールでのコンサートはソールドアウトの人気だった。彼女は長い間歌っていなかったのにもかかわらず「All of Me」「Fine and Mellow」、そしてもちろん「Strange Fruit」など合計30曲以上を披露した。とある新聞は次のように評した。「ビリーに対する賞賛は、まるで女王の受けるそれだった。短気で拗ねたような表現も、セクシャルさの漂うつぶやきも、彼女の声には今まで以上に強さがあった」。

Billie_Holiday_5 sm

連邦検事が「考えうる限りで最悪のヒモ男」と描写したジミー・モンローは、すぐさまビリーをかつての悪習慣に再び浸らせ、彼女は似たような罪によってまたもや逮捕されてしまうが、しかし今度は無罪になっている。そして程なくして、またも新たな人間が彼女の人生に入り込んでくる。クラブ経営者のジョン・レヴィーという男もまたモンローに負けないワルだった。強い男性に非常に依存するタイプだったビリーにつけ込んだ彼によって彼女はコントロールされてしまう。しかしそうしたことの全てを勘案しても、Metronome誌はビリーを1949年の年間ベスト女性シンガーに選出している。

1952年、ビリーはジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックのコンサートから離れ、クレフ・レーベルでの最初のレコーディングを行なった。バックを務めたのはオスカー・ピーターソン、バーニー・ケッセル、フリップ・フィリップス、チャーリー・シェイバースだ。この時のアルバム『Songs By Billie Holiday – Solitude』(1952年) は1957年にヴァ―ヴから再リリースされている。ヴァ―ヴは1957年、ビリーがまだ新作を出す前に『Lady Sings The Blues』(1955年) を始めとする一連のクリフ・レーベル録音のアルバムをリリースした。それらの作品の中で、彼女が人生のこの時期にどんな思いに駆られていたのかを知る手掛かりになる1枚として挙げられるのが『All or Nothing At All』(1955年) だろう。

1954年、ヨーロッパをツアーし、そしておそらくはルイ・マッケイという、ひとまずはドラッグを彼女から遠ざけてくれた新しい恋人のおかげだろうか、ビリーは以前までよりも幸福だったようだ。1956年、ビリーは前述の自叙伝「Lady Sings the Blues」を出版する。概ね評価されたのだが、実はこの本はジャーナリストを起用したフィクション作品だった。

560609 Billie Holiday gig copy 2
1957年、ビリーはルイス・マッケイと結婚。当初は仲睦まじかったものの、やがて二人の間では揉め事が常態化していき、特にビリーがリスクの高い投機で大金を失ったことが判明した時の争いはかなりのものだった。ビリーもまたドラッグに依存するようになった。そして二人は離婚し、ビリーは伴侶に犬を1匹連れてニューヨークのアパートに移り住んだ。大酒飲みだったこともあり、もはや自分が誰なのかも覚束なくなるほどに彼女のドラッグへの依存は強まっていった。

1959年3月、恐らくはビリーの生涯を通して真の友であり続けた存在であり、彼女にレディ・デイというニックネームを与えた人物でもあるレスター・ヤングが亡くなった。ビリーは打ちのめされた。その2ヵ月後にビリーはドラッグが原因で入院する。とある病院ではドラッグ使用者であることが理由で入院を拒否され、次の病院ではベッド脇に置いてあるドラッグが看護師に見つかり警察を呼ばれ、逮捕されてしまう。そしてその約1か月後の1959年7月17日、入院中で逮捕されたままのビリーはこの世を去った。

Billie Holiday1
ビリー・ホリデイは複雑な女性だった。彼女は友人をひどく怒らせることもあったが、同時に生き生きとしたすてきな女性でもあった。ドラッグやアルコール中毒から抜け出せない生活によって彼女の声と身体荒らされてしまう前の彼女の、抗いようのない魅力と肩を並べられる歌手はどこにもいなかった。いつの時代でもホリデイの再来を謳う歌手は現れるが、彼女のように心情を吐露できる才能を備えた歌い手は、実のところほかに一人もいない。

Written By Richard Havers


♪ プレイリスト『Lady Day in 20 Songs

  


Share this story
Share
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

Click to comment

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Don't Miss