ビースティ・ボーイズの書籍『Beastie Boys Book』が教えてくれる15の事実

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Photo: Sue Kwon

2018年10月29日に出版された500ページを超える書籍『Beastie Boys Book』(日本語版未発売)は、ヒップホップへの愛、ニューヨークへの愛、そして今は亡き伝説的MC、アダム・”MCA”・ヤウクへの愛にあふれた一冊である。

陽気でありながらも心のこもったこの本は、ビースティ・ボーイズについての情報を誰もが覚えていないことまで詳細に記録している。今回の記事では、『Beastie Boys Book』で読者の記憶に残る15の事実を紹介しよう。

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1. 「BEASTIE」とは「Boys Entering Anarchistic States Toward Internal Excellence(アナーキズム的な状態に入った少年たちは、内的な卓越性を目指す)」の略

「“Beastie”っていうフレーズの意味は俺にもわからない」とマイク・Dは語る。

「そもそもまったく意味を成さないフレーズだけど、これの後に“Boys”をつけるとさらに意味がわからない。だってもともとのフレーズの中に既に“Boys”が入ってるんだから。だから、このグループ名はバカバカしくて、くどいんだ(しかも不正確だった。だってうちのグループには女のドラマーもいたんだからね)」

その「女のドラマー」とはケイト・シェレンバックだ。彼女の脱退については、この本全体で率直に語られている(特に「Goodbye To You And Your Inflatable Penis」の章ではケイト本人の口から)。

写真左がドラマーのケイト・シェレンバック Photo courtesy of Beastie Boys

2. 最初はハードコア・パンク・グループだった

『Beastie Boys Book』によると、マイク・Dとアダム・ヤウクは1980年後半のバッド・ブレインズのコンサートで知り合ったという。マイクは、アダムの第一印象を次のように振り返る。

「俺たちと同じ年ごろのほかのガキどもは、黒のトレンチコートを着ていて、小さなハンドメイドのバンド・ボタンをいくつか付けて、黒のコンバット・ブーツを履いていた」

「友達になってからは、ヤウクと俺は一緒にレコードを延々と聴いて、くだらないことで笑っていた……あいつは仲間内でも一番強い決意と決断力を持っていたよ……しばらくすると、バンドやライヴをめぐる環境がだんだんと整ってきて、何かが見えてきたんだ。それで自分たちもやってみようと思ったわけ」

 

3. ローランドTR-808はアドロックが気まぐれで買った

ブリティッシュ・エアウェイズが彼らの曲「Cooky Puss」を広告に使用したあと、アダム・ホロヴィッツはその使用料の一部を手にしてリッケンバッカーのギターを買いに行った。

「ジャムのポール・ウェラーが演奏していたのと同じギターを買うつもりだった」

しかし『Beastie Boys Book』語られているように、ドラムマシンが彼の目に留まった。

「本当にラップミュージックを作ることになるとは思ってもいなかったんだけど、何かの理由で“どうとでもなれ”って思ったんだ……自然の摂理かもしれないけど、このドラム・マシンがとてもクールに見えたんだ。知り合いにドラム・マシンを持っている人間はいなかったしね」

そのローランドTR-808が「Brass Monkey」やRun-DMCの「Peter Piper」のビートを作ることになった。

 

4. Run-DMCと真の友人だった

『Beastie Boys Book』には、ニューヨーク・ヒップホップの黄金時代の写真がたくさん掲載されている。特に印象的なのが、ビースティーズがRun-DMCと一緒にいる写真である。Run-DMCのジョセフ・シモンズの兄は、ビースティーズと契約したデフ・ジャムの責任者ラッセル・シモンズだったのだ。

そうしてデフ・ジャムからリリースされた『Licensed To Ill』には、「Slow And Low」という曲が収録されている。これは、Run-DMCが自らのアルバム『King Of Rock』でデモを録音していた曲のカヴァーだった。また、Run-DMCは、ビースティーズと一緒に「Paul Revere」も共作している。

「俺たち3人がちょうどそこに座っていたら、Run-DMCが姿を現したんだ。あのRun-DMCの衣装を着ていた。帽子だのなんだのをね」とアドロックは「Paul Revere」のセッションを回想している。

「あいつらはすぐそこに立っていた。俺たちと同じぐらい興奮しているように見えた。そして、あの連中がイントロをやってくれたんだ。俺とアダムとマイクは興奮を抑えようとしていた。レブロン・ジェームズがボールをパスしてくれたら、ただボールを掴んで、“ああ、すげえ、すげえ、レブロン・ジェームズがボールをパスしてくれた!”って大声上げているだけじゃダメだろ? ガードしようとしてる奴を抜いて、猛烈にレーンを走らなきゃ」

この二組は、『Raising Hell』と『Together Forever』のツアーを合同で行っている。さらにビースティーズの各メンバーは、Run-DMCの象徴的なシューズにちなんだ記念品として、金色のアディダスのシェルトゥ・キーホルダーを授与された。

 

5. 初のメジャー・ツアーはマドンナの前座だった

ビースティーズもマドンナも、ニューヨークの似たようなシーンから頭角を現したが、マドンナは1985年のツアー中にアルバム『Like A Virgin』をリリースし、一夜にして真の大スターとなった。アドロックはこう振り返る。

「彼女はあのツアーで俺たちを使い続ける必要は全然なかったけど、それでも使ってくれたんだ。あれは俺たちにとってものすごく大きかった。俺たちはあのツアーに参加することで本当に多くのことを学んだよ。ツアーとはどんなものなのか。本物のショーとはどんなものなのか。マドンナは本当に最高で、完全にプロフェッショナルで、自分のビジネスをうまくこなしながら楽しんでいるパフォーマーだった。そういう人間の近くにいることができたのは目を見開かれされるような経験だったし、本当に刺激的だった」

 

6. 初のギャングスタ・ラップのレコードを“偶然”リリースした

と、『Licensed To Ill』を表現しているのは、ブルックリン生まれの小説家、ジョナサン・レテムである。

「もしギャングスタ・ラップが一人称で語られる犯罪、女性蔑視、薬物やアルコールの称讃、過剰な暴力、といったものによって識別可能であるならば、彼らは間違いなくギャングスタ・ラップを行っていた」

 

7. 現在は、自分たちが「カリカチュア」になったことを後悔している

『Beastie Boys Book』は、残酷なまでに正直に書かれた本である。それゆえ、「We Liked It. We Hated It」と題された章の中で、マイク・Dは『Licensed To Ill』を振り返りながら当時の心境を次のように回想している。

「……最初は “こんなにエキサイティングなのは生まれて初めてだ、俺たちが本当にロックスターだなんて信じられない!” とか思っていたけど、それが “やれやれ、毎晩毎晩こんな風に自分自身のバカみたいなカリカチュアをやることを期待されているんだ” と思うようになった。ああいうのは、まあ最悪だね」

アドロックは当時を振り返り、そして1987年以降は「(You Gotta) Fight For Your Right (To Party)」をライヴで演奏することを止めたと述べている。

「バカげたことを言ったりやったりする前には、本気で頭を使って考えなきゃいけない。いつもとは限らないけど、たいていは……ちょっと考える時間を作る。未来の自分が過去のことを振り返っているところを想像してみる。自分が一番大切にしている人たちのことを考えてみる。その人たちは俺たちのせいで恥ずかしい思いをしているんだろうか、それともあの人たちが俺たちのことを恥ずかしく思っているんだろうか? そう、きっとあの人たちにろくでなしだと思われるだろうな……とかね」

 

8. アダム・”MCA”・ヤウクはある種のマジシャンだった

アダム・ヤウクの天才的なアイデアをめぐるストーリーには事欠かない。正気を疑うようなとてつもないテープ・ループを考案して、伝説的な曲「Rhymin And Stealin」を作り出したり、チベット僧の窮状を世間に訴えたり。「そうそう……帽子からウサギを引っ張り出す方法があるって聞いたんだけど……ほら、今度はゾウだ」とアドロックはその様子を表現している。

アドロックによると「Paul Revere」のビートもいかにもMCAらしいやり方で生まれたという。ドラム・マシンを逆回転で録音するというアイデアが、このグループにとってもうひとつのブレイクスルーとなった。

「1986年のあの瞬間まで、あれほどファンキーでフレッシュでドープでハイプに聞こえるビートはなかったんだ……あのビートがあまりに素敵だったから、俺たちは我を忘れて夢中になっていたはずだ。何しろ、あの夜はヴォーカルを全然録音していなかったからね」

 

9. 「あなたの名前はマイケル・ダイアモンド?」と尋ねる男はたまたまやってきたメッセンジャー・ボーイだった

マイク・Dが『Beastie Boys Book』の中で回想しているようにアルバム『Paul’s Boutique』は「洒落たハリウッドのスタジオ」で録音され、収録楽曲「Shake Your Rump」の中に入っている「あなたの名前はマイケル・ダイアモンド?/Is your name Michael Diamond?」という部分についてマイクはこう語っている。

「そう尋ねた男は、スタジオにいた俺たちに前金の現金を届けに来た背の高いメッセンジャー・ボーイだった。金をもらうとき、俺たちはいつも興奮していた。それが自分たちの金だとしてもね。そのメッセンジャーにはルイというあだ名をつけていたよ」

 

10. 実際にポールズ・ブティックの留守番電話を管理していた

ビースティーズは、マンハッタンにあった洋服屋「ポールズ・ブティック」のラジオCMを同名のアルバム『Paul’s Boutique』の中で使っていた。やがてこのブティックが閉店すると、MCAは店の電話番号を購入した(しかも最初のうち、その事実を誰にも告げなかった)。

「あいつは、その番号にかかってきた電話をブルックリンの実家の地下室にある留守番電話に転送していたんだ」とアドロックは回想する。

そして『Paul’s Boutique』で使われていた「Yo, Paul, this is Allen, and you can kiss my ass 」というメッセージが実際にその留守番電話に録音されたメッセージだったと明かしている。

「電話番号をレコードに入れて、そのレコードが50万人の手に渡るような場合、その番号に電話をかけてみようと思う人間が結構出てくるんだ。しばらくすると、留守録のメッセージがかなり変なことになってきた」

その留守番電話の装置は引退したが「たまに引っ張り出されることがあった……2週間だけとか。もしかすると、本当にもしかするとだけど、今でもそういうことがあるかも」だそうだ。

 

11. アパレル・ブランド、雑誌、レコード会社を自ら運営していた

ロサンゼルスにあったビースティーズの本拠地G-Sonは、彼らのたまり場や音楽の録音スタジオ、バスケットボール・コートの役割を果たしていただけではなかった。ビースティー・ボーイズの起業家精神は、彼らを音楽以外の他の分野にも進出させたのだ。

アパレル・ブランドX-Largeは、もともとビースティーたちが夢中になっていた器材を販売するために設立された。しかし「かなり早い段階から、俺たちはほかのデザイナーの服で気に入るようなものがあまりなくてうんざりしていた。だから自分たちでどんどん服を作り始めたんだ」と、ビースティー・ボーイズ・ブックの中でマイク・Dは語っている。

グランド・ロイヤル・レコードも、やはり彼ら自身の好みを反映させたレーベルだった。ここはルシャス・ジャクソンやアタリ・ティーンエイジ・ライオットなどのカルト的な作品をリリースし、超クールなコンピレーション『At Home With The Groovebox』も作っていた。

一方、レーベルと同名の雑誌はQ-Tipやリー・”スクラッチ”・ペリーなどのインタビューを掲載し、ビースティーズの生活や好きなものについての情報を世間に広める役割を果たした。

 

12. インターネットの先駆者だった

紙媒体である雑誌の出版にはあまりにも多くの時間がかかったが、ビースティー・ボーイズはそれでもファンとのつながりを持ちたいと考えていた。そこで登場したのがイアン・ロジャーズだ。彼は1993年にインターネットのビースティ・ボーイズFAQを立ち上げた若いファンだった。その2年後、ビースティーズは彼を公式サイトの管理者として雇うことになった。イアン・ロジャーズはこう振り返る。

「ビースティーズには先を見通す力があり、すぐに新しいことを探求しようとする。ほかの人がやっていることをお手本にするのでなく、常に自分たちでやってしまうんだ。彼らはプロと組むこともできたはずだけど、その代わりにインディアナ出身のガキに見込みがあると考えて、そいつをサポートするほうを選んだんだ」

 

13. アドロックが考えるベスト・レコードは『Hello Nasty』である

その理由は以下の通り。

「“Intergalactic”という曲が収録されていて、それがもうムチャクチャ最高なんだ!」

「俺たちの最高のカヴァー・アートワークだ……『Hello Nasty』は俺たちが向かっていた場所だった。それは惑星のあいだ、宇宙空間にあった」

「あれはひとつの時代の終わりだった。新しい章の始まりだったのは確かだけれど、この後はいろいろ様変わりした。この後になると俺たちも大人になっていて……純真さがものすごいスピードで消えていった」

 

14. アダム・ヤウクはチベット僧の窮状を世に知らしめた

1990年代初頭、ヒマラヤでのトレッキング中に亡命チベット人に出会ったあと、アダム・ヤウクはチベットの問題に取り組むようになった。ダライ・ラマの講演に出席し、彼の影響を受けた曲を作るようになったのだ。1996年、彼はサンフランシスコのゴールデンゲートパークで2日間にわたってチベットフリーダムコンサートを開催し、1997年、98年、99年にはさらに大きな規模で展開した。アドロックは、第1回チベタン・フリーダム・コンサートについて畏敬の念を込めてこう語る。

「あれは”Live Aid”以来最大のチャリティー・コンサートだった。あいつがしたのは歴史的な偉業だった……何十万人もの人々が『チベットに自由を』と口にして、非暴力の呼びかけを聞いたんだ。ビースティ・ボーイズのあいつのおかげでね」

 

15. MCAという存在は今も惜しまれている

書籍『Beastie Boys Book』では直接語られていないが、MCAのスピリットとアイデアはこの本の中を貫き通している。最初と最後の章は彼の思い出に捧げられており、そのあいだに挟まれたどの章でもヤウクのらしさが語られている。アドロックは本の冒頭でこう語る。

「俺とマイクがラッキーだった理由のひとつは、自分でいろいろ勉強する必要がなかったということにある。なぜなら、ヤウクが既にいろんなことを知っていたからだ」

そして最終章では、マイク・Dがヤウクの思い出を語っている。

「支離滅裂でクレイジーなこと、仕事で関係なさそうなことをやるチャンスがあるときは、いつだって『ヤウクならどうするだろう?』と自問自答するんだ」

Written By Jason Draper



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