ザ・レッキン・クルーのベーシスト、ジョー・オズボーン死去。その経歴とカーペンターズとの関係を辿る

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ザ・レッキン・クルーとして知られるロサンゼルスの伝説的セッション・ミュージシャン集団でベースを演奏していたジョー・オズボーンが12月14日、81歳で亡くなった。膵臓癌で闘病していたという。

ジョー・オズボーンの名前は200曲以上の全米TOP40ヒットに刻まれ、彼がセッションに参加した数千曲の中には、サイモン&ガーファンクルの「Bridge Over Troubled Water(邦題:明日に架ける橋)」、カーペンターズの「Close To You(邦題:遥かなる影)」、リチャード・ハリスの「MacArthur Park」、そしてママス&パパスの「California Dreamin」など、音楽史上に残る名作が含まれている。

2008年に発表されたドキュメンタリー映画『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』の監督を務めたジョン・テデスコは彼についてこう語っていた。

「彼はもの静かな人でしたが、彼のファンが楽しんでいる様子を見るその目には輝きが宿っていました。僕は彼のことを“優しい熊さん”と呼んでいました」。

グレン・キャンベルやニール・ダイアモンド、リッキー・ネルソンといったロックやポップの中心的人物たちのキャリアと密接な関わりを持つジョー・オズボーンは、彼らのレコーディングにおいて大きな貢献を果たしたことで知られている。

また彼は、チェット・アトキンス、エディ・ラビット、リーバ・マッキンタイア、ケニー・ロジャースをはじめとする著名カントリー・アーティストたちの作品において、最も需要のあったスタジオ・ミュージシャンの一人でもあり、彼の演奏はザ・フーのジョン・エントウィッスル、ブッカー・T&ザ・MG’sのドナルド・ダック・ダン、モータウンが誇るファンク・ブラザーズのジェームス・ジェマーソンといった、傑出した同輩ベーシストたちにも影響を与えたと言われている。

ルイジアナ州マディソン郡のマウンドに生まれたジョー・オズボーンは、地元のバンドのギタリストとしてデイル・ホーキンズらとの仕事を経て、ラスベガスへ移住してからはボブ・ルーマンとロイ・ブキャナンらと演奏を共にしていた。1960年頃までにギターからベースへ転向してからは、同様に絶賛されたジェームズ・バートンと共に当時ポップ・アイドルだったネルソンのバンドに加入し、「Travelin’ Man」などのヒット曲に参加した。映画『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』の中で、ジョー・オズボーンは、「リッキー・ネルソンとの仕事は、当時の僕を思いもよらない場所へと導く絶好の機会を与えてくれたんです」と語っていた。

このバンドの解散直後となる1964年に、ジョー・オズボーンはロサンゼルスへと移り住み、ウィスキー・ア・ゴーゴーでジョニー・リバースらと演奏を共にするようになる。彼の軽快な演奏スタイルはすぐに大きな需要を生んだ。キーボーディストのラリー・ネクテル、ドラマーのハル・ブレインと共にザ・レッキン・クルーの主要メンバーになった彼は、その後10年間、映画のサウンドトラック、テレビ・コマーシャル曲等、西海岸から生まれたヒット曲に貢献した。

1966年、ジョー・オズボーンが一時的にマジック・ランプ・レーベルを経営していた頃に、オーディションを受けにきたあるトランペッターに同伴していたのが当時まだ無名のリチャード&カレン・カーペンター兄妹だった。その後、彼の自宅の4トラックの機材で、初めてこのデュオを録音し、その後多くのヒットに繋がる彼らの美しいハーモニーを創り出す手助けをした。

2015年、ジョー・オズボーンは、アナウンサーのエディ・ウィンターズとのインタビューの中で、カーペンターズという才能の発掘について、「はじめはどうしていいのかわからなかった」と語っていた。「でもそこから彼らと話をしているうちに、リチャードが数曲を書き上げてはいたけれど、レコーディングする術を持っていなかったことを知って、僕のスタジオでやってみないかとオファーをしたんだ。当時、彼らはリチャード・カーペンター・ジャズ・トリオとして活動していて、カレンはその若さにして素晴らしいジャズ・ドラマーだったし、リチャードは幼い頃からクラシック音楽を精通していた。二人とも、あの頃既に完成されたミュージシャンだったんだ」。

 

1996年、リチャード・カーペンターは、カーペンターズ作品における印象的なベース・サウンドについて尋ねられた時にこう答えていた。「それはジョー・オズボーンの仕事です。僕はただ曲を書いただけで、ベースは重要なパートだとは思っていたんですが、僕たちの初期の作品ではイマイチだった。そこに彼がやってきて、そのフェンダーで‘Travelin’ Man’を演奏し始めた時にあのサウンドが生まれだんです」。

その他にも、リヴァーズ、モンキーズ、アソシエイション、グラスルーツ、フィフス・ディメンション、カウシルズ、そしてトミー・ロウなどといった、当時の全米ポップ・チャートにおける常連アーティストたちの作品でもその華麗な演奏を披露していた。

キャリア後期の仕事としては、パートリッジ・ファミリー、アメリカ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー、ヘレン・レディ、シールズ&クロフツ、そしてオリビア・ニュートン=ジョンらのヒット曲の数々、さらには、ビーチ・ボーイズの『Sunflower』、ニール・ヤングの『Comes A Time』や『Old Ways』、ビリー・ジョエルの『Cold Spring Harbor』、そしてポール・サイモンのセルフタイトルが付けられたソロ・デビュー・アルバムにも参加していた。

1974年に穏やかな生活を求め、ナッシュビルへと引っ越してからは、以前ほど頻繁にレコーディングの仕事はしていなかったものの、カントリー・ミュージシャンの中では常に引っ張りだこで、エディ・ラビット、メル・ティリス、ジミー・バフェット他、多くのアーティスト達との仕事を続けていた。その後、1988年にルイジアナ州のシュリーブポート近くの町へと再び移り住んだが、レコーディングやインタビュー取材、メディア主催のイベントなどがある度に馴染みの地へと戻ってきていた。

Written by Paul Sexton


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