マッドクラッチの創設メンバー、トム・リードンが71歳で逝去。その功績を辿る

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Tom Leadon (far right) with Mudcrutch - Photo: Jim McCrary/Redferns

1970年代初頭にトム・ペティと共同結成し、2008年の再結成でも注目を集めたマッドクラッチ(Mudcrutch)の創設メンバーで、シンガー兼ギタリストのトム・リードン(Tom Leadon)が、3月22日に71歳で逝去した。死因は明らかにされていないが、トム・ペティの公式ファンクラブからの投稿では、“自然死”だったとされている。

マッドクラッチのバンドメイトで、数十年来の音楽仲間であるマイク・キャンベルは自身のツイッターで次のように追悼を捧げている。

「トム・リードンは、私にとって最も深いところで魂を分かち合ったのギター兄弟でした。私たちは数え切れないほどの時間をアコースティック・ギターの演奏に費やし、お互いに教え合いました。彼ほど思いやりに溢れる魂に触れたことはありません。彼の精神と寛容さをこれからもずっと恋しく思うでしょう。我が旧友よ、安らかにお眠りください」

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トムより5歳年上の兄バーニー・リードンは、、フライング・ブリトー・ブラザーズを経て、イーグルスの創設メンバーとして最初の4作のアルバムに参加。トム・リードンがバーニーと共作した「Hollywood Waltz」は、1965年のバンド初の全米No.1アルバム『One of These Nights』に収録された。

また、70年代半ばに彼が参加したカントリー・ロック・バンドのシルヴァー(Silver)は、シングル「Wham Bam Shang-A-Lang」で全米TOP20入りを記録している。

その生涯

1952年、ミネソタ州ミネアポリス近郊の農村ローズマウントに生まれたトム・リードンは、家族と共に1957年にサンディエゴへ、1964年にフロリダ州ゲインズビルへと移り住み、その地でマッドクラッチのバンドメイトたちと意気投合することになる。両親は共に音楽好きで、母親は教会の聖歌隊でピアノを弾き、航空宇宙産業の仕事をしていた父親もその聖歌隊で歌っていた。

若くして黒人教会の聖歌隊のバッグで演奏していたトム・リードンは、13歳で地元ゲインズビルのバンド、エピックスに加入。一方、トム・ペティは、ライバルのティーンバンド、サンダウナーズに所属していた。ある日、リハーサルでトム・ペティの演奏を見たトム・リードンは、その翌日には再び彼のバンドのもとを訪ね、そのドアをノックしたという。ゲインズビル・ロック・ヒストリーのインタビューの中で、トム・リードンは当時をこう振り返っている。

「それから3、4年、毎日のように通いました。私たちは切っても切れない関係だったんです。私はペティに魅了されていました」

マッドクラッチの誕生

その後、メンバーの募集広告を見たドラマーのランドール・マーシュが加わり、程なくしてランドール・マーシュの同居人だったギタリストのマイク・キャンベルが加入した。彼らは、当時多くのコンサートやフェスティバルが行われていた地元の農場から、バンドを“マッドクラッチ”と名付けた。

トム・リードンは、自身が脱退後にマッドクラッチに加入し、後にハートブレイカーズのキーボーディストとなるベンモント・テンチについて、「ベンモントが彼らと一緒に演奏し始めた頃にバンドを離れてしまったことが悔やまれます」と語っていた。

また彼は、マッドクラッチを脱退した理由について、「南カリフォルニアに行って、長年その地に根付いていたカントリー・ロックをやってみたかったからです」と明かしており、当時、彼の兄がすでに南カリフォルニアに行き、新生イーグルスに参加していたことに言及しつつ、こう振り返る。

「兄にLAで一緒に暮らさないかと誘われていたんです。イーグルスはとても素晴らしいバンドで、私がやりたかったカントリー・ロック的なことをやっていました。そこへ向かっていく上で、当時のバンドに焦りを感じていましたし、20歳だった私はそこまで我慢強くもなかった。そんな焦りから短気になってしまい、ペティと言い争いをしたこともあります。私の中にもっとブルーグラスやカントリー・ミュージックをやりたいという気持ちが芽生えていて、私たちは以前のように仲良くやれなくなってしまった」

マッドクラッチの脱退

1972年の終わりにマッドクラッチを脱退したトム・リードンは、ロサンゼルスへと移り住み、その翌年、当時人気急上昇中だったリンダ・ロンシュタットのバンドに短い期間参加した。兄のバーニーとトパンガ・キャニオンに暮らしていた彼が、その大自然に囲まれた環境に感動して書いた「The Acacias Are Blooming」という曲は、グレン・フライとドン・ヘンリーの手によって書き直され、「Hollywood Waltz」という曲名でイーグルスの全米No.1アルバム『One of These Nights』に収録された。ゲインズビル・ロック・ヒストリーのインタビューの中で、彼は当時の成功についてこう語っている。

「とても大きな助けになりましたし、真の意味での音楽ビジネスの教育になりました。出版について学び、人々がどのように印税を騙し取ることができるかを学びました。私は私が得るはずだった報酬を全て手に入れることはなかったものの、それでも沢山のお金が入ってきました。兄には感謝しています」

トム・リードン不遇の時代

1976年、ジョニー・リヴァースのバンドでベースを弾いていたトム・リードンに、クライヴ・デイヴィスと契約を交わしたシルヴァーというバンドに参加する機会が訪れる。バンドはシングル「Wham Bam Shang-A-Lang」で全米TOP20入りを果たし、彼の記憶では70万枚ほど売り上げたという。

しかし、それ以降は結果を出せないままレーベルから契約を打ち切られ、一発屋のレッテルを貼られたシルヴァーは、1977年に解散に至った。その後数年間は、モータウンのベーシストとして有名なジェームス・ジェマーソンなど、南カリフォルニアでバンド活動を続けていたが、以降は音楽シーンからほとんど姿を消した。

1984年にゲインズビルに戻った彼は、その後移り住んだナッシュビルで音楽インストラクターに転身した。一方、マッドクラッチはトム・リードンが脱退した2年後の1974年にLAへと拠点を移し、1枚のシングルをリリースするもチャートでは振るうことなく解散。程なくしてトム・ペティは数名のメンバーを再結集し、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズを結成した。

2006年にトム・ペティが映画監督のピーター・ボグダノヴィッチに依頼して制作したドキュメンタリー映画『Runnin’ Down a Dream』では、最初の1時間の大半が70年代のマッドクラッチの結成と解散について語られた。この映画の製作時に、トム・リードンはAmerican Blues Sceneの取材に次のように明かしていた。

「ピーターがこの映画で私のパートを撮影するためにナッシュビルに来た時、トムが再結成を考えていると言っていたんです。トムの娘アドリアは、映画のために撮影した私のインタビューの一部を彼(トム)と一緒に見て(その多くは本編には使われなかった)、その時にトムが私について語った素晴らしいことが契約の決め手になったと言っていました。彼は、私がいかに彼を愛し、何も見返りは求めなかったこと、そして私との友情を取り戻さなければいけないと語っていたそうです」

ペティから電話がかかってきた時、彼らは30年間以上話をしていなかったため、最初はイタズラだと思ったという。

マッドクラッチ再結成

トム・ペティ、マイク・キャンベル、ランドール・マーシュと共に、トム・リードンが初めてベンモント・テンチと肩を並べてマッドクラッチを再結成してから、2作のアルバムが誕生した。最初のアルバム『Mudcrutch』は2008年に、そして彼らにとって最後の作品となる2作目のアルバム『Mudcrutch 2』は2016年にリリースされた。

再結成を果たした彼らは大規模なツアーこそ行わなかったものの、2008年にマリブでの親密なショーから幕開け、トルバドールでの連続公演で締めくくる3週間にわたるクラブ・ツアーを敢行した。

2017年にトム・ペティが亡くなった時、トム・リードンはこう哀悼の意を捧げていた。

「トミーは私の生涯で最も親しい友人であり、本当に素晴らしくユニークな人物で、天性のエンターテイナーであり、一緒にいてとても楽しい人でした。そして、私は彼をひどく恋しく思っています」

彼は2022年にゲインズビルで開催されたトリビュート・イベント“トム・ペティ・ウィークエンド”で、トム・ペティの死後に書いたオリジナル曲「My Best Old Friend」などを披露した。

Written By Tim Peacock



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