「My Boy Lollipop」で知られるジャマイカ人歌手、ミリー・スモールが72歳で逝去。その半生を辿る

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Photo: Dezo Hoffman, courtesy of Island Records

1964年の大ヒット曲「My Boy Lollipop」で知られるジャマイカ出身のシンガー、ミリー・スモール(Millie Small)が2020年5月5日に逝去した。72歳だった。この訃報を受けて、アイランド・レコードの創設者であるクリス・ブラックウェルは、「本当に優しい人でした」と哀悼の意を捧げている。

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The Blue Beat Girl

「The Blue Beat Girl」の愛称で呼ばれることもあったミリー・スモールが、アイランド・レコードからの同名シングルで国際的なセンセーションを巻き起こした当時、彼女はまだ17歳だった。1947年10月6日にジャマイカのクラレンドン教区に生まれたミリー・スモールこと、本名ミリセント・スモールは、12歳の時にモンテゴ・ベイのパラディウム・シアターで行われたタレント・コンテスト、“ヴェレ・ジョンズ・オポチュニティ・アワー”で優勝したことがきっかけとなり音楽の世界に足を踏み入れた。

首都キングストンへと移り住み、本格的に歌のキャリアを続けることを決心したミリー・スモールは、1962年に自身の歌手デビュー曲となるオーウェン・グレイとのデュエット「Sugar Plum」をキングストンのフェデラル・レコーディング・スタジオでレコーディングし、その直後にはロイ・パントンと歌ったスカ・シングル「We’ll Meet」をコクソン・ドッドのレーベル“スタジオ・ワン”からリリース。この2曲は地元ジャマイカで立て続けにヒットを記録し、クリス・ブラックウェルの目に留まることになる。

当時、自身のレーベル“アイランド・レコード”のために地元ジャマイカの才能を探していたクリス・ブラックウェルは、コクソン・ドッドを説得し、彼がマネージメントを務めるという条件のもと、ミリー・スモールと契約を交わす。程なくして、ミリー・スモールはイギリスへと渡り、1963年にはクリス・ブラックウェルが彼女のマネージャー兼法定後見人となった。

「イギリスに行くのがずっと夢だった」

ミリー・スモールはジャマイカのグリーナー紙のインタビューで当時をこう振り返っている。

「ブラックウェルさんが私の両親に手紙を書いて、両親が(イギリスへ行くことを)承諾してくれた時、私は家から出て、ひとり座っていました。イギリスに行くのがずっと夢だったので、それが実現するのが信じられなかったんです。周囲の人々には行くなと言われましたが、わたしはそれに耳を傾けず、母の言うことをききました」

そうしてイギリスへと渡ったミリー・スモールは、1963年にシングル「Don’t You Know」をレコーディングしたが、彼女がブレイクを掴むシングルをリリースするまで、そこから1年を要した。

「My Boy Lollipop」は彼女にとってこれ以上ないクロスオーバー・ヒットとなった。1956年にバーバラ・ゲイが録音したこの曲は、イギリスの聴衆にはすでに馴染みがあり、ミリー・スモールの若々しく高揚感のある歌声は瞬く間にヒットを記録した。

クリス・ブラックウェルは、ジャマイカのセッション・ギタリストで、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「It Hurts To Be Alone」で実績をつくっていたアーニー・ラングリンに「My Boy Lollipop」のアレンジを依頼し、この曲にイギリスのR&Bのテイストを加えたいと考えた彼は、彼女のバッキングバンドにUKブルース・バンド、ファイブ・ディメンションズを迎えた。

アイランド・レコードの台頭

全英・全米チャートで2位を記録し、全世界で推定600万枚のセールスを記録した「My Boy Lollipop」は、アイランド・レコーズの名を世界に知らしめ、現在でもレゲエやスカのヒット曲の中で史上最も売れた作品のひとつであり続けている。ミリー・スモールと「My Boy Lollipop」は、ジャマイカの将来有望なミュージシャンたちがメインストリームで成功するための道を切り開く手助けをしたのだ。

彼女の訃報を受けて、クリス・ブラックウェルはニューヨークから地元ジャマイカ・オブザーバー紙の取材に応じ、次のように語っている。

「‘My Boy Lollipop’は彼女の最初のヒット・レコードで、このシングルは世界各地でヒットを記録しました。僕は彼女がスカを世界へ広めてくれたのだと思っています。各国から彼女にテレビ番組などの出演オファーをもらって、彼女と一緒に世界中を廻りましたが、どこへ行っても彼女の歌声は素晴らしかった。本当に優しくて、とても面白くて、ユーモアのセンスも抜群。彼女は本当に特別な人でした」

急速な成功を収めた彼女は、「レディ・ステディ・ゴー」「トップ・オブ・ザ・ポップス」「ジューク・ボックス・ジュリー」「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」といったイギリスの人気TV番組にゲスト出演するようになる。

 

ミリー・スモールの代表曲であり続けた「My Boy Lollipop」に続く「Sweet William」は、全英30位、全米40位を記録する緩やかなチャートでの成功を収め、「Bloodshot Eyes」もイギリスで1週間チャートインした。その後も世界各地を広く巡るツアー活動を行っていた彼女は、1965年のファッツ・ドミノへのトリビュート作品を含む、全4作のアルバムをリリースしている。1970年にトロージャン・レコードで録音した最後のアルバム『Time Will Tell』には、ニック・ドレイク「Mayfair」のカヴァーが収録されている。ピート・パフィデスによる伝記本『Nick Drake Companion』によると、「’Mayfair’は、他のシンガーにカヴァーされたニック・ドレイクの最初の作品だった」という。

 

「夢が終わりを迎えた」

「1970年にレコーディングをやめたのは、単純に夢が終わりを迎え、そうすべき時期が来たのだと感じたからです」と、ミリー・スモールは、2016年に行われたデイリー・エクスプレス紙によるインタビューの中で明かしている。70年代にシンガポールに移住し、その後再びイギリスへと戻った彼女だったが、最終的には音楽業界からの引退を決意した。

「娘が生まれた1984年から育児に専念しました。以降は寝て、夢を見て、瞑想してといった平穏な生活を送っています」と彼女は語っていた 。ミリー・スモールは、ロンドンを拠点に活動するレコーディング・アーティストである娘のジェイリーを後に残した。

Written By Laura Stavropoulos




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