特集:レゲエが世界中のジャンルに与えてきた歴史と見過ごされがちな影響

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レゲエ・ミュージックはカリブ海に浮かぶたったひとつの島から生まれた音楽だが、世界中のアーティストに多大なる影響を与えた。その影響は実に多方面に及んでいるので、知らないあいだにレゲエを耳にしていることもあるのではないだろうか。

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どんな音楽スタイルでも、世界中に広まるとは限らない。たとえばソカは、イギリスのポップス・ラジオでは滅多に聞くことができない。またバングラがアメリカで大人気になったことは一度もない。かなりメインストリームの音楽ジャンルであっても、国外では必ずしも受けがいいとは限らない。イギリスのインディーズは、アメリカではカルト的なファンだけが聴いている。逆にカントリー・ミュージックはアメリカでは何十年にも渡って盛り上がっているが、イギリスではさっぱりだ。しかしカリブ海に浮かぶたったひとつの島から生まれた音楽が、世界中でとてつもない人気を集めるようになった。つまりレゲエ・ミュージックである。レゲエは、そこら中に広まった。レゲエということを意識しないまま、レゲエを耳にしていることさえ、今では普通のことだ。

レゲエ・ミュージックの影響は(ヘヴィーなベース・サウンドのおかげもあって)ありとあらゆるロックやポップスの曲で感じられる。メインストリーム・ブリティッシュ・ポップも、ヒップホップも、レゲエ・ミュージックには大きな借りがある。レゲエの発祥地であるジャマイカと何の関係もない人たちも、レゲエのことを「クール」だと考え、レゲエは先鋭的なミュージシャンを惹きつけるほど複雑な要素を持ち合わせている。それと同時にとても受け入れやすい音楽であり、誰でも曲に合わせて一緒に踊ることができる。歌詞にはやや特徴があり、聖書にちなんだ内容が盛り込まれることが多い。しかし、その一方で「セクシー」なラブ・ソングを作ることもできる。自分が本物であることを示すために、一種のルーツ感覚を醸し出すこともできる。よちよち歩きを始めたばかりの子供でも楽しむことができるし、恋人たちが曲に合わせて腰を「揺らす」こともできる。オルタナティブなライフスタイルを追求する人たちは、レゲエ・ミュージックに合わせてドレッドヘアを揺らしている。

 

レゲエ:音楽のペッパーソース

レゲエ・ミュージックは実に効果的だ。それゆえ、AOR、パンク、ヒップホップ、ブルースなどありとあらゆる方面でひょっこり姿を現すのも不思議はない。エキゾチックな風味を自分の作品に盛り込みたければ、音楽のペッパーソースとしてレゲエを少し加えればいい。こうやってレゲエ・ミュージックが聞かれ、使われ、さらには乱用されていくと、レゲエ・ミュージックの力が失われるのではないかと不安になる人もいるかもしれない。しかし、そんな心配は無用だ。レゲエ・ミュージシャンは、そんなことで気を揉んだりしない。彼らは、レゲエ・ミュージックが50年以上にわたってさまざまなかたちで生き延びてきたことを知っている。無限に薄められても、レゲエ・ミュージックは力を失わない。過去数十年のあいだに、最先端を行く人たちがレゲエに夢中になることが何度もあった。しかも、その反動で嫌われるということすらなかった。こんなことが、はたしてありうるものだろうか?

本物のルーツ・レゲエを聞きたいのなら、本家本元までさかのぼるのが良いのは確か。けれども、そこにこだわりすぎると、これまでにレゲエ・ミュージックがたどってきた他の道があっという間に忘れられてしまう。今回は、レゲエが他のジャンルに与えてきた見過ごされがちな影響を取り上げよう。ジャマイカ音楽から影響を受けているとアーティスト自身は気づいていなくても、レゲエ・ミュージックに刺激されてエネルギーを注入されているという作品はかなりある。この長い物語の中では、ハード・ロック、レイヴ、ジャズ、モダン・ポップなど、ありとあらゆるジャンルの楽曲が取り上げられている。時間をかけてゆっくりと見つめれば、レゲエ・ミュージックはいたるところで見つかるのだ。

 

メインストリームに登場したジャマイカ音楽

ジャマイカ音楽が初めてブームを巻き起こしたのは1950年代中期のこと。それはレゲエ・ミュージックが存在するずっと前のことだった。ニューヨーク生まれのハリー・ベラフォンテは、活動初期はラウンジ・ジャズやポップスの歌手だった。しかし彼は、よりフォークっぽいサウンドに惹かれるようになった。そして50年代中期に、ジャマイカ出身の両親が楽しんでいたアコースティックな曲のカヴァー・ヴァージョンをレコーディングして有名になった。

カリプソ歌手として売り出された彼は、数百万枚のアルバムを売り上げた。とはいえ彼のレコードは、カリプソの本場であるトリニダード・トバゴで当時流行していた騒々しくて皮肉に満ちた陽気なカリプソ音楽とはかなり異なっていた。むしろベラフォンテのサウンドは、メント(スカが登場する前のジャマイカ音楽)を小綺麗に洗練させたものに近かった。「Matilda」や「The Banana Boat Song」といったレコードは無害な異国風の音楽であり、それをアメリカの音楽ファンは熱心に聞いていたのだ。しかし、ベラフォンテを単なる心地よいムード音楽の歌い手と考えてはいけない。彼を通じて、「カリプソ」はアメリカでマンボやチャチャチャと並ぶ人気ジャンルとなった。またベラフォンテは社会運動にも非常に熱心であり、市民権や世界的な人道主義の問題といった難しい話題を世間に広める役割も担っていた。彼はレゲエ・ミュージックを演奏しなかったが、自分のルーツにオマージュを捧げた。そして彼には良心があった。その意味でも、レゲエの重要な先駆者と言える。

ベラフォンテの影響は幅広い分野で認められているが、彼の音楽そのものは今はいくぶん古びて聞こえるかもしれない。とはいえ、次に登場したジャマイカの音楽スタイルは今も勢いを失っていない。それはスカである。1950年代後期からキングストンで流行り始めたスカは、ギターのカッティングの面から見ても、政治問題や個人の問題を取り上げた歌詞の面から見ても、レゲエ・ミュージックの直接の先祖だと言える。スカは、ルード・ボーイ・カルチャーやバッド・ボーイの振る舞いと切っても切れない関係になった。スカのスター、たとえばプリンス・バスターやスカタライツ、ウェイラーズは長く人気を保った(ちなみにウェイラーズのメンバーのひとりはロバート・ネスタ・マーリーという若者、すなわちのちのボブ・マーリーだった)。またスカ専門のレコード会社のひとつ、アイランドは、さまざまなジャンルを手がける大手レーベルに成長していった。

 

多方面に広がっていったレゲエ・ミュージックの影響

しかしスカの反響はそれだけにとどまらなかった。この音楽の魅力はアフリカ系やジャマイカ系以外のアーティストをもひきつけ始めた。そのひとり、ジョージィ・フェイムは、デビュー・アルバム『Live At The Flamingo』でエリック・モリスの「Humpty Dumpty」をカヴァーしている。そして最初のシングル2枚(ブルー・フレイムズ名義)はスカの曲であり、イギリスの「R&B」というレーベルから発売された。このR&Bレーベルは、1948年以降に当時英国領だったカリブ海の島々からイギリスに移住してきた移民たち「ウィンドラッシュ世代」をターゲットとしたレコード会社だった。

イギリスのポップ・グループ、マイジル・ファイヴは、レス・ポール&メリー・フォードの「Mockin’ Bird Hill」をスカでカヴァーし、全英チャートで最高10位を記録。またアメリカでは、ラジオDJ のニッキー・リーがプリンス・バスターの「Ten Commandments Of Man」のカヴァーに挑戦した。中国系ジャマイカ人のスカのパイオニア、バイロン・リーは、ミュージシャン/実業家として40年のキャリアを誇る人物であり、ジェームズ・ボンド映画の第一作『007 ドクター・ノオ』に出演している(この映画は、ジャマイカのクールなイメージを世界中に広げるのにかなりの役割を果たした)。

 

プリンス・バスターに影響を受けた非ジャマイカ人アーティストはニッキー・リーだけに留まらなかった。プリンス・バスターの「Big Five」は、イギリスではほとんどラジオで放送されなかったが、それでも数千枚のシングルが売れる人気曲になっていた。この曲にヒントを受けた白人のレゲエ・ファン、アレックス・ヒューズは、1970年代初期に歌手としてのキャリアを築き上げた。ヒューズは、また別のプリンス・バスターの曲にちなんだ芸名ジャッジ・ドレッドを名乗り、「Big Six」や「Big Seven」といった曲を発表。そうしたレコードは、口コミの宣伝で人気が広がり、全英チャート入りを果たした。さらにはこのヒューズの芸名がヒントとなり、コミックのキャラクター、ジャッジ・ドレッドが生まれた。そう、レゲエはコミック作品『ジャッジ・ドレッド Mega-City One』にも影響を与えているのである。

 

イギリスの2トーン、ルード・ボーイ、レゲエ

バスターの猥雑な雰囲気は、イアン・デューリーの一部の作品にも、まるで幽霊のように付きまとっている。たとえば「You’re More Than Fair」や「Billericay Dickie」といった曲だ。そのデューリーの乱雑なロンドン・スタイルの作風に多大なる影響を受けたバンドがマッドネスである。彼らは1979年にポスト・パンクの2トーン・ムーブメントから頭角を現した。このムーブメントは、ジャマイカの1960年代のルード・ボーイ・カルチャーを新たにイギリスの環境で発展させたものだった。忘れてはいけないことだが、マッドネスのデビュー・シングル「The Prince」はプリンス・バスターに捧げたトリビュートだった。また、このバンド名もそもそもはバスターが1964年に発表した曲からきていた。2トーン・ムーブメントにはバスターの影響がいたるところに見られる。たとえばスペシャルズの場合、1981年に発表した代表曲「Ghost Town」のリフは、バスターのあまり有名でない1967年のシングル「Seven Wonders Of The World」から借用したものだった。

 

70年代中期にロンドンのパブ・ロック・バンドでレゲエ・ミュージックを多少演奏した白人はイアン・デューリーだけではない。リー・コスミン・バンドやブリンズリー・シュウォーツのようなグループもレゲエを少々取り上げていたし、GT・ムーア&ザ・レゲエ・ギターズのようにレゲエを本格的に追求していた例もある。こうした通好みのルーツ回帰のパブ・ロック勢とは別に、当時の有名バンドもレゲエ・ミュージックに手を出していた。それはレッド・ツェッペリンだ。

彼らは1973年のアルバム『Houses Of The Holy』で「D’yer Mak’er」というレゲエの曲を発表している(曲名は「ジャマイカ」をもじったもので、「ジャ・メイカ」と発音する)。この曲は、ハード・ロックを聞きたがっていたツェッペリンのファンの一部をいらだたせることになった。

 

そしてエリック・クラプトンは、ボブ・マーリーの「I Shot The Sheriff」のカヴァー・ヴァージョンでキャリアを再スタートさせた。これがヒットしたおかげもあり、レゲエ・ミュージックの象徴とも言えるボブ・マーリーは一躍注目を浴び、評論家から絶賛される存在になった。

ローリング・ストーンズもジャマイカのグルーヴを活用している。彼らはジャマイカのキングストンにあったダイナミック・サウンド・スタジオでアルバム『Goats Head Soup』をレコーディングし、1976年にはアルバム『Black And Blue』でエリック・ドナルドソンの名曲「Cherry Oh Baby」をカヴァー。ストーンズのメンバーは、グループでもソロでもレゲエとの付き合いが続いている。ミック・ジャガーは、ピーター・トッシュがカヴァーしたテンプテーションズの「Don’t Look Back」にゲスト参加。さらにはトッシュをローリング・ストーンズ・レーベルと契約させている。

 

1970年代のブリティッシュ・ロックの中でももっと知名度の低いバンドに目を向けると、プログレ界でもジャマイカのグルーヴに手を出したグループがいた。デッカの子レーベルのデラムと契約していたブリストル出身のプログレッシヴ・バンド、イースト・オブ・エデンはソウル・ブラザーズの60年代中期のスカ・インストゥルメンタル「Confucius」と「Marcus Junior」を1970年の名盤『Snafu』でカヴァーしている。スカとプログレ・バンドというのは意外な組み合わせかもしれない。とはいえ、これもある意味、当然のことだった。何しろプログレッシブな音作りの先駆者であったグループ、すなわちビートルズも1968年に「Oh-Bla-Di, Oh-Bla-Da」を発表していたのだから。音楽スタイルの面で言えば、「Oh-Bla-Di, Oh-Bla-Da」は「Yesterday Man」に似ていた。「Yesterday Man」は、クリス・アンドリュースが1965年にヒットさせていたスカ・スタイルのソロ・シングルだった(アンドリュースは、音楽的なブレーンとしてサンディー・ショウの活動を裏で支えていた)。

 

プログレッシヴ・ロックの世界に話を戻すと、ミック・エイブラハムズ率いるジャズ・ロック・バンド、ブロッドウィン・ピッグはコミカルなレゲエ・ソング「To Rassman」を1970年発売のセカンド・アルバム『Getting To This』でレコーディングしている。

一方コヴェントリー出身のバンド、ステイヴリー・メイクピースは、実験的な音作りを専門としていた。そこから派生したバンド、ルーテナント・ピジョンは、1972年にインストゥルメンタル「Mouldy Old Dough」を全英チャートの首位に送り込んでいる。そのB面「The Villain」は、ダブに挑戦したロック作品だった。ダブといえば、デヴィッド・エセックスの1973年のヒット曲「Rock On」は、明らかにジャマイカのダブ・ミキシングに影響を受けていた。それからビーツ・インターナショナルが1990年にリリースした大ヒット作「Dub Be Good To Me」も忘れてはいけない(ちなみにこれはカヴァー曲。オリジナル・ヴァージョンの「Just Be Good To Me」はSOSバンドが1980年代に発表したダンス・ソウルの曲で、そちらもヒットしていた)。

 

世界中のレゲエ

ジャマイカのリズムの可能性を追求したのはイギリスのバンドだけではない。フランスでは、セルジュ・ゲンスブールが全曲レゲエ・ミュージックのアルバムを吹き込んでいる。また彼がジェーン・バーキンと組んでレコーディングした世界的な大ヒット曲「Je T’aime…Moi Non Plus」は、カリブ海の「スラックネス」(あからさまに性愛について歌うこと)の伝統に則った作品だった。メン・アット・ワークの恐ろしくキャッチーな「Down Under」は、オーストラリア流のポップ・レゲエ。またエイス・オブ・ベースは80年代後期のジャマイカのダンスホール・サウンドをスウェーデンで仕立て直し、ヒットをいくつか生み出している。

アメリカでは、ふたりのアーティストが他に先んじてレゲエ・ミュージックを取り入れている。R&B歌手のジョニー・ナッシュは、1968年からレゲエ・スタイルでヒットを連発。彼はボブ・マーリーの曲「Stir It Up」をカヴァーし、これによりマーリーは世界進出の足がかりをつかんだ。またポール・サイモンも、1972年の「Mother And Child Reunion」をジャマイカでレコーディングしている。とはいえ、アメリカの音楽ファンがレゲエをはっきりと意識するようになったのは、1970年代に大物ロック・バンドがレゲエのリズムを導入し始めてからのことだった。

イーグルスの「Hotel California」の仮タイトルは「Mexican Reggae」だった。ここには、彼らの意図がはっきりと現れている。活動全盛期を迎えていた1977年のイーグルスは、わざわざレゲエのリズムを使わなくてもヒットソングを作れたはずだ。しかし彼らはレゲエが好きだったため、あの名曲をレゲエアレンジで作り上げることにした。

イーグルスと同じように、スティーリー・ダンもありとあらゆる音楽スタイルを吸収して、自らのものにすることができた。彼らの1976年のヒット曲「Haitian Divorce」は、ジャマイカっぽい雰囲気の曲に合わせて悲しげな歌詞が歌われる作品に仕上がっていた(言うまでもないことだが、音楽の伝わり方は一方通行ではない。この曲のヒントになったのは、おそらくバート・バカラックの「Mexican Divorce」だった。この「Mexican Divorce」は、ジャマイカで何十年にもわたっていたくさんのアーティストにカヴァーされていた)。

イーグルスのメンバーだったジョー・ウォルシュは、1979年にソロで皮肉たっぷりの曲「Life’s Been Good」をヒットさせている。彼のアルバム『But Seriously, Folks…』には、8分間にわたるこの曲のロング・ヴァージョンも収録された。これもレゲエであることには間違いないが、ジャマイカ人が知っているようなレゲエとは一味違っている。

 

「パンキー・レゲエ・パーティ」

イーグルスやスティーリー・ダンがレゲエ風味の曲をヒットさせていた一方で、イギリスではかなり違う形のロックとスカンク(Skank)の融合が進んでいた。非メインストリームの仲間を求めていたイギリスのパンク・バンドが、ジャマイカのサウンドにオマージュを捧げていたのである。そうして生まれた曲の中にはぎこちない仕上がりのものも時にはあったが、彼らは真剣な気持ちでそうしたサウンドを追求していた。この動きを、ボブ・マーリーは「パンキー・レゲエ・パーティ」と呼んだ。

例えばクラッシュはリー・”スクラッチ”・ペリーをプロデューサーに起用して、シングル「Complete Control」をレコーディング。さらには、ジュニア・マーヴィンの「Police And Thieves」やウィリー・ウィリアムズの「Armagideon Time」などのレゲエ・ソングをカヴァーしていた。とはいえクラッシュが作り出した一番のレゲエ・ソングは「Bankrobber」だった。これは、ノリのいいスカンク・グルーヴの曲になっている。

ザ・ラッツは後にも先にもあまり例のないかたちでロックとレゲエ・ミュージックを組み合わせ、パンクの名曲「Babylon’s Burning」を作り上げた。エルヴィス・コステロは長年の苦労のあと、1977年の「Watching The Detectives」でようやく大ヒットを飛ばしたが、これはダブに接近したサウンドになっている。彼はその後1979年にザ・スペシャルズのデビューアルバムをプロデュースするが、そこでこの種のサウンドを再び再現している。ザ・メンバーズは、ジャマイカでパラゴンズがレコーディングした名曲「Happy Go Lucky Girl」のリズムを借用して、すばらしい「Offshore Banking Business」を作り出した。

ブロンディの最大のヒット曲は、これまたパラゴンズの曲「The Tide Is High」のカヴァーだった。男性ばかりが優遇されるロックの世界に果敢に挑戦したザ・スリッツも、やはりパラゴンズの曲「Man Next Door」を取り上げている。その後スリッツのアリ・アップは、オーセンティックなレゲエ・ミュージシャンとしてキャリアを築いていった。ザ・ポリスは、おそらく少ない要素で多くを作り出せるレゲエ・ミュージックの特色に気付いたのだろう。3人編成のバンドにレゲエは適したサウンドであり、彼らはレゲエを活用して大スターになった(グループ解散後も、スティングはレゲエから離れていない。彼はシャギーとの共演アルバム『44/876』も発表してい)。

 

イギリスのポスト・パンクはスカンクから花開いた。2トーンはルード・ボーイ・スカとロックステディを新たな文脈で発展させた(たとえばザ・スペシャルズ、ザ・セレクター、ザ・ビート、ボディスナッチャーズなどが活躍している)。それ以外でも、ダブの影響はジョイ・ディヴィジョンに現れている。このバンドの強烈なサウンドは、まず間違いなくカールトンズの「Better Days」のような曲に刺激されて生み出されたものだ。ジョイ・ディヴィジョンのマネージャーのロブ・グレットンはレゲエ・ミュージックの熱狂的マニアであり、リー・ペリーがプロデュースしたこの「Better Days」を好んで聴いていたはずだ。

1980年代初頭に人気者になったカルチャー・クラブの大ヒット曲「Karma Chameleon」では、ラスタ・カラーの赤・金・緑が歌詞に歌いこまれていた。シニード・オコナーは活動を進めるうちにロックからレゲエ・ミュージックへとシフトし、彼女ならではのレベル・ミュージックを作り出した。1980年代のレゲエ・グループの中で最も売れたのはUB40だった。このグループは、イングランド中部地方のパンク/フォーク・シーンから頭角を現してきた。彼らが人気を博したことについて、ジャマイカの人間は何の恨みを抱いていなかった。UB40は、レゲエ・ソングをカヴァーする場合、オリジナルの作者に印税が入るようにきちんと配慮していたからだ。

 

他方、アメリカの黒人とレゲエ・ミュージックの関係は複雑なものになっていった。1970年代にはニューヨークシティやマイアミでジャマイカ移民がたくさんのレゲエ・レーベルを設立した。しかしそうしたレーベルからリリースしたレコードは、当時全盛だったソウルやファンクに圧倒され、飲み込まれていたような状態だった。ステイプル・シンガーズが1973年にリリースしたヒット曲「If You’re Ready (Come Go With Me)」はクールなスカンク・リズムに乗った曲だったが、そのイントロは、明らかにハリー・J・オールスターズの「Liquidator」から借用したものだった。

とはいえ、ややこしいことに「Liquidator」という曲もアメリカのR&Bのヒット曲、キング・カーティスの「Soul Serenade」を借用したものだった。カーティス・メイフィールドは、ジャマイカでスカのレコードを何枚かプロデュースしている。彼はジャマイカで深く尊敬される存在だったが、自分自身ではレゲエ・ミュージックのレコードを作らなかった。一方ドニー・エルバートは、名曲「Without You」をレコーディングしている。この正真正銘のロックステディのシングルは、デッカの子レーベル、デラムから1969年に発売された。

冒険心に富んだミュージシャン、スティーヴィー・ワンダーはスカンクにも果敢に挑んだ。1972年、彼は当時の妻シリータ・ライトのヒット曲「Your Kiss Is Sweet」をプロデュースしたが、これはレゲエのリズムになっていた。また自身も、1980年に「Master Blaster (Jammin’)」でヒットを記録している。この曲はアメリカのレゲエ・スタイルの作品で、歌詞にはボブ・マーリーも登場する。

 

ヒップホップの誕生

1970年代後期になると、ジャズ/ファンク系のミュージシャンたちがスカンクに手を染めていった。フルート奏者のハービー・マンはアルバム『Raggae』を制作。アメリカとジャマイカのミュージシャンたちが共演したジャム・アルバム『Negril』には、ギタリストのエリック・ゲイルも参加している。しかし、アフリカ系アメリカ人のグループでレゲエ・カルチャーが大きな役割を果たし始めるのは、1970年代末にヒップホップが流行しはじめてからのことだった。当時のヒップホップ・ファンはほとんどそのことに気づいていなかったが。

ヒップホップはアメリカのファンクとディスコを土台としていたかもしれないが、心構えやテクニックの面ではかなりジャマイカからの影響があった。ヒップホップの創始者の多くは、ジャマイカ系の人間だった。たとえばヒップホップのパイオニアとして知られるDJクール・ハークは、ジャマイカのキングストン生まれで、12歳の時に家族と共にニューヨークのブロンクスに移住してきた。

レゲエ・ミュージックは、あちこちに移動できるサウンド・システムで再生され、人の耳に入る。一方ヒップホップのDJは、完成済みのトラックの上で喋りまくる。レゲエ・ミュージックでは、同じリズム・トラックに新たなヴォーカルを(ライヴの場やスタジオで)被せることで「ヴァージョン」をいくつも作ることがある。これが直接のヒントになって、ラッパーやヒップホップのDJ が使う「ブレイク」が生まれた。

レゲエのサウンドシステムでは、熟練したターンテーブリスト(セレクター)が曲を流すあいだに、MC(DeeJay)が語りを入れる。親世代の文化を通じてレゲエを聴いて育ったヒップホップ・ミュージシャンは、そうした手法をアメリカでも新たな環境の中で仕立て直した。その例としては、KRS-ワン、ブッシュウィック・ビル、バスタ・ライムズ、ピート・ロック、ビギー・スモールズ、スリック・リックなどが挙げられる。ビートはレゲエ、ジャマイカの音楽はヒップホップの骨格の一部になっているのだ(時にはレゲエのリズムを取り入れたヒップホップも生まれた。フー・シュニッケンズの「Ring The Alarm」やブラザー・アリの「The Truth Is Here」はその代表格だ)。

ショーン・ポール、カティ・ランクス、シャバ・ランクスといったヒップホップ・ミュージシャンは、レゲエとヒップホップのあいだをやすやすと行き来している。2010年には、ニューヨークのヒップホップの象徴とも言えるナズがボブ・マーリーの息子のひとりダミアン・マーリーと共演アルバム『Distant Relatives』を作り上げている。

 

1980年代のイギリスでは、ロンドン・ポッセやデーモン・ボーイズといったレゲエ育ちのMCが頭角を現した。才能あふれるロック/ジャズ・ドラマーのロングシー・Dは、カットマスター・MCと共演した「Hip-Hop Reggae」でラップとジャマイカのビートを融合させている。彼はさらに「This Is Ska」もアンダーグラウンド・シーンでヒットさせた。これはレゲエの要素と、アップテンポのハウス・ビートを組み合わせた曲だった。

イギリスでドラムンベースとブレイクビーツが盛り上がると、レゲエ・ミュージックの要素がさらにダンス・ビートに吸収された始めた。そもそもレゲエは、1970年代のダブが証明しているように、ドラムのビートとベースに大きく頼る音楽の本家本元だった。こうしたつながりがメインストリームでも露わになったのは、1992年のことだった。この年、プロディジーがマックス・ロメオの1976年の代表曲「Chase The Devil」をサンプリングし、「Out Of Space」を作り上げたのである。

よりディープなシーンでは、レゲエMCのジェネラル・リーヴィやトップ・キャットらが、ブレイクビーツ、ドラムンベース、ダンスホール・レゲエを違和感なく融合させた曲を作り出している。それに、ラガ・ツインズやピーター・バウンサーも忘れてはいけない。彼らは90年代初期のレイヴ・シーンやチャートにレゲエの感覚を持ち込んでいたが、それはロンドンの草の根サウンド・システム・シーンで学んだものだった。

 

ライフスタイルとしてのレゲエ

現在レゲエ・ミュージックはそこら中に広まっている。それゆえ、今時のポップスやロックのミュージシャンにとって、レゲエはよくあるありふれた素材のひとつにすぎない。過去の世代の非ジャマイカ人がレゲエのノリを自分のものにするのに悪戦苦闘していたのがまるで嘘のようだ。1970年代初期の白人ロッカーの一部はレゲエ・ミュージックの演奏に挑戦し、(興味深くはあったが)ぎこちない作品を作り上げていた。しかし今では、ポップスとレゲエの融合は非の打ち所がないほど自然なものになってきている。例えばリリー・アレンは、ジャッキー・ミットゥの「Free Soul」を実にさりげなくサンプリングしている。この曲を聴くと、現在のロンドンの少女が1966年のジャマイカの曲をモダンなアーバン・ポップとミックスするのがごく簡単なことのように思えてしまう。ケリスはハーレムの出身で、ジャマイカの血を引いているわけではないが、「Milkshake」の中で「ザ・ヤード」という言葉を使っている。これは「故郷」を意味するジャマイカの方言だ。

レゲエ・ミュージックは、特定のライフスタイルと関連付けて語られることが多い。たとえばレゲエには、マリファナを讃える曲が無数にある。ジャマイカのスターたちがマリファナを楽しんでいる様子を映した写真もたくさんある。当然の流れだが、同じ趣味を愛好する非ジャマイカ人ミュージシャンたちもレゲエに惹きつけられてきた。その代表例がスヌープ・ドッグとグレイトフル・デッドである。スヌープはレゲエ・アーティストに変身し(スヌープ・ライオン)、レゲエ・ファンの多くから認められた。レゲエ・ファンたちは、スヌープの変身がカネ目当てのものでないことに気づいていた。何しろ、レゲエのスターで大金持ちになって死んだ者はほとんどいないのだから。

グレイトフル・デッドの場合、あの長大なライヴ・ステージでレゲエの曲を取り上げることが度々あった。彼らはボブ・マーリーの「Stir It Up」も演奏していた。そうした行為を賞賛するため、レゲエ・ミュージシャンたちは『Fire On The Mountain Volumes 1 & 2』というデッドのカヴァー・アルバムを作り上げている。ネブラスカ州オマハのバンド、311はロックとスカンクをミックスし、さらにはマリファナ電子タバコの独自ブランドまで販売した。とはいえ、レゲエ・ミュージックとマリファナの関係は大げさに語られすぎているのかもしれない。キング・タビーやコーネル・キャンベルといったレゲエのパイオニアたちは、マリファナに耽溺することは決してなかった。

 

さらに受け継がれていくレゲエ・ミュージック

レゲエ・ミュージックに挑戦して、うまく自分たちのスタイルに合わせることができたアーティストは他にいるだろうか? その例は枚挙にいとまがない。ディスパッチ、フィッシュ、マティスヤフなどなど……。元々フィッシュの熱心なファンだったマティスヤフは、ユダヤ系の才能あふれるレゲエ・シンガー/ビートボクサーとなっている。

デヴェンドラ・バンハートの奇妙な曲「White Reggae Troll」は、サイケデリック・スカンクだ。ヴァンパイア・ウィークエンドは、「Time To Say Goodbye」のような曲でレゲエのスタイルを上手く取り入れながら、それを自分のものにしている。また日本には、ダンスホール、スカ・リバイバル、ルーツ・ミュージックのバリエーションを試みるアーティストが数え切れないほどいる。ラッキー・デューブ、アルファ・ブロンディ、その他の数多くのアフリカ人ミュージシャンは、反抗的なジャマイカ・サウンドを自分たちのものとして受け入れている。それはちょうど、ラスタファリアンがアフリカを自らのルーツとして受け入れたのと同じだ。

カナダのグループ、マジック!は、レゲエ・ポップ・サウンドのデビュー・シングル「Rude」を大ヒットさせた。それはジャマイカ風というよりもザ・ポリスのスタイルに近いものだった。メジャー・レイザーもレゲエからの影響を活かして、他のダンス系アーティストにはあまり見られない深みのあるサウンドを作り出している。レゲトンというジャンルでは「リディム」 という言葉を使われているが、それはジャマイカで言う「リディム」とは少々異なり、ラテンの伝統とヒップホップを融合させたものになっている。そしてジャンル分けされることを拒否していた歌手エイミー・ワインハウスは、ライヴのステージ上で昔のスカの名曲を好んでカヴァーしていた。彼女は惜しくも若くして亡くなってしまったが、もし長生きしていたらジャマイカ音楽をどのように料理していただろうか?

レゲエ・ミュージックを聞きたいという人は、ただ耳をすませばいい。レゲエはいたるところに存在するのだから。

Written By Reggie Mint



 

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