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モンキーズのシンガーソングライターでギタリストのマイケル・ネスミスが逝去。その功績を辿る

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Michael Nesmith - Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

モンキーズ(The Monkees)のシンガーソングライターでギタリストのマイケル・ネスミス(マイク・ネスミス/Michael Nesmith)が、2021年12月10日に亡くなったことが家族によって公表された。享年78だった。家族は声明の中で、以下のようにコメントしている。

「無限の愛をもって、マイケル・ネスミスが今朝、家族に囲まれた自宅で穏やかに自然死したことをお知らせします。今は私たちのプライバシーを尊重していただき、皆様が彼と私たちに示してくださった愛と光に感謝しています」

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The Monkees – Daydream Believer (Official Music Video)

ザ・ビートルズの大ヒットを受け、アメリカでも同じようのグループを作り上げようとプロデューサーのボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーがポップグループの番組を作ろうとしていた1965年に、ヒューストン生まれのネスミスはモンキーズのオーディションを受けていた。モンキーズはボーカルと演技を担当するものを探していたが、ネスミスは、自分で作った曲をプロデューサーに披露。その後、モンキーズはネスミスのオリジナル曲を演奏することになり、最終的にネスミスは他のメンバー全員の合計よりも多くの作詞作曲クレジットを残すことになった。

2012年のRolling Stone誌のインタビューで、ネスミスは、当時モンキーズが大成功を収めていたにもかかわらず、自分たちで曲を書いて録音することに固執した理由をこう語っている。

「私たちは自分の好みの音楽を持った子供で、与えられた曲よりも、自分たちが好きな曲や作った曲を演奏する方が幸せだった。そのほうがいい演奏ができるし、そのほうが楽しい。これが論争の種になったのは、私にとっては不思議なこと、“何が問題なのか、なぜ私たちが歌っている曲を演奏させてくれないのか?”っていうことがね」

1966年にNBCで放映された『ザ・モンキーズ・ショー』は、その年に「I’m a Believer」(作詞:ニール・ダイアモンド)と「Last Train to Clarksville」(作詞:ボイス&ハート)でNo.1ヒットを記録。ネスミスとモンキーズは、やがて自分たちで楽器を演奏し、自分たちで曲を作ることを要求するようになり、1967年の3枚目のアルバム『Headquarters(灰色の影)』は、バンド自身が初めての作曲にかかわることになった作品だった。音楽家で評論家のボブ・スタンレーはデイリー・テレグラフ紙に書いている。

「モンキーズはポップスの最大の定義しづらいグループの一つだ。彼らは、最初に作られたボーイズバンドと見られているが、全員が曲を書いていた。彼らはプリファブ・フォー(Prefab Four)と呼ばれ、既存のグループのコピーと見られていたが、それはテレビの台本の中だけのことだった。ポップスの純真さを台無しにしたと非難されたが、彼らが残した最高の楽曲たちは60年代の名曲群の中心に存在している」

The Girl I Knew Somewhere (Stereo Remix)

ネスミスは、ソロアーティストとしても活動し、1968年に初のソロアルバム『Wichita Train Whistle Songs』をリリース。1968年に公開された映画『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』と2枚のアルバムが酷評された後、ネスミスはモンキーズを脱退した。

その後、彼は自分のグループ、ファースト・ナショナル・バンドを立ち上げ、1970年にRCAから2枚のアルバム『Magnetic South』と『Loose Salute』をリリースした。自分が影響を受けたものについて、ネスミスは次のように説明している。

「ハンク・ウィリアムス、ジェリー・リー・ルイス、そしてジミー・ロジャースは、私にとって音楽の三大巨頭のようなものです。なぜかいつも彼らに戻ってくる。彼らは、ディラン、プレスリー、キャッシュ、そしてビートルズのように、明確に定義された音楽的ポジションを持っていたし、今も持っている。彼らが歌ったり書いたりしたことに対する純粋なアプローチは、婉曲的な表現を排除し、彼ら自身の感情を生き生きと表現しています」

バンド解散後、イーグルスが「Take It Easy」でヒットを飛ばし、ネスミスは自分のカントリー・ロックへの野心が早すぎたことに気づいた。

ネスミスは70年代の大半を控えめなソロアルバムのリリースに費やしたが、1977年にはシングル「Rio」がプロモーション・ビデオのおかげでヒットチャートに登場し、UKではトップ30、ヨーロッパとオーストラリアではスマッシュ・ヒットとなった。

Michael Nesmith – Rio

「Rio」の成功を受けて、ネスミスは米ケーブルテレビチャンネルのニコロデオンで「PopClips」というテレビ番組を制作。その後、「PopClips」は1980年にTime Warner/Amexに売却され、この番組はMTVネットワークへと発展していった。2013年、彼はローリングストーン誌にこう語っている。

「ラジオにはレコードが必要であるように、テレビにはビデオが必要だって気づいたんです。そして、MTVが誕生したのです。私はそのアイデアをもとにいくつかのプログラムを作り、ワーナー・ブラザーズなどに送ったんです。その後は皆さんご存じの通り」

ネスミスは「PopClips」のほかにも、テレビ番組「Elephant Parts」を制作し、1982年には長編ミュージックビデオ部門で初のグラミー賞を受賞している。

ネスミスはその後もプロデュース活動を続け、モンキーズのさまざまなツアーや再結成にも参加した。

Written By Sam Armstrong



 

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