ロックンロールのパイオニア、ジェリー・リー・ルイスが逝去。その功績を辿る

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Jerry Lee Lewis - Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

“ザ・キラー”として広く知られるロックンロールのパイオニアの一人、ジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)が2022年10月28日に87歳で逝去した。死因は現時点では公表されていない。

グラミー賞を4度受賞したルイスは、先駆的なレコーディングとステージでのはしゃぎっぷりで世界中に知られ、愛されてきたが、私生活ではしばしば論争を引き起こし物議を醸しだした人物だ。しかし、1957年にサン・レコードから発売された初期のシングル、「Whole Lotta Shakin’ Going On」と「Great Balls Of Fire(火の玉ロック)」の2曲によって、ロックンロール勃興期の偉人たちの中に彼の名前が輝くことになった。

後年、ルイスはカントリーのジャンルで絶大な人気を博し、シングルやアルバムは次々とトップ10入りを果たした。さらに2000年代から2010年にかけては、一連のコラボレーション・アルバム(『Last Man Standing』『Mean Old Man』『Rock & Roll Time』)で、彼が下の世代のアーティストに与えた影響から再評価されることになり、ブルース・スプリングスティーン、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョン・フォガティ、ロビー・ロバートソンなどが、この作品に手を貸したのだった。

ルイスは、多くの人にとってロックンロールの最初の“野人”であり、ステージの外でも気まぐれで、メディアとの付き合いではしばしば辛辣な態度をとったが、後年、彼の性格はかなり軟化している。

ジェリー・リー・ルイスは、自身も数十年にわたり深刻な健康問題を克服していた。2019年2月に脳卒中を克服し、2020年1月にプロデューサーのT・ボーン・バーネットとともにナッシュビルのスタジオに入り、失ったと思われていた能力を取り戻し、新しいアルバムの制作に取りかかった。彼は後にローリング・ストーン誌に語っている。

「そこで私は右手でピアノを弾いていた。もう二度と弾けないと思っていたよ」

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キャリア初期

ロックンロールの魂は、その音楽ジャンルに名前が付けられる前からジェリー・リー・ルイスの手の中にあった。彼は1935年9月29日にルイジアナ州北東部の小さな町フェリデイに生まれ、生涯ピアノに捧げたのは、両親が農場を担保にして楽器を買ってくれたおかげだ。カントリー・スターのミッキー・ギリーやテレビの伝道師ジミー・スワガートといった、後に有名になる2人のいとこと一緒にピアノを弾いたのが彼のキャリアの始まりだった。

ジェリー・リー・ルイスは14歳の誕生日を迎えるとすぐに地元のステージに立ち、両親から受け継いだスピリチュアルな音楽と世俗的な音楽を融合させた。ジャーナリスト、Robert Sandallは 1987 年、Sunday Timesに次のように記している。

「道の向かいにあった黒人ブルースの店(ハニーズ・ビッグハウス:彼はそこでブギウギ・ピアニストや偉大なブルース・ギタリストB.B.キングを聴いた)、彼の父が家でかけていたジャズのレコード、敬虔な母が毎週日曜日に連れて行ってくれたプロテスタント教会の賛美歌、ジェリー・リー・ルイスはそういったものから影響を受け、早熟ながらも独学のスタイルを確立。すぐに地元のカントリーバンドで一晩9ドル稼ぐようになった」

「15歳のとき、彼は自身のピアノの腕前と母親の熱心な信仰心によって、テキサス州の神学校、サウス・ウェスタン・バイブル・インスティチュートに入学することができた。しかし讃美歌“わが神は実在す”をブギウギで演奏したため、すぐに退学になったという話もある。それが事実かどうかは別として、この先の彼に降りかかる騒動を予感させるものだった」

 

初期のレコーディング

ジェリー・リー・ルイスは旅に出て、ルイジアナを越えてミシシッピやテネシーでもショーを行い、苦労しながらも経験を積み重ねた。1954年に最初のデモを制作し、1956年にはパンピング・ピアノと共にサン・レコードを訪ねた。創始者サム・フィリップスは不在だったが、プロデューサー兼エンジニアのジャック・クレメントの鋭い耳は、ジェリー・リー・ルイスのほとんど野性的なパワーを聞き取り、そこで契約を取り付けた。

サン・レコード時代、彼は自分のレコードを作るだけでなく、カール・パーキンスやジョニー・キャッシュなど、多くのスター候補と共演した。その中でも1956年12月、ルイス、パーキンス、キャッシュ、そしてエルヴィス・プレスリーによるいわゆる「ミリオン・ダラー・カルテット」を捉えた録音は、ロックンロールの初期の最も楽しい表現の貴重な実例として残っている。

ジェリー・リー・ルイスは1957年6月24日の週に「Whole Lotta Shakin’ Going On」で全米チャートデビューし、最高3位まで上昇。翌年初頭には「Great Balls Of Fire(火の玉ロック)」が1ヶ月間もの間、2位を記録した。後にグラミー賞の殿堂とロックの殿堂入りを果たしているこの2曲は、ポピュラー音楽を演奏したり、聴いたりしたことのあるほとんどの人が、知ってか知らずか感動している曲だろう。

1958年前半、彼は「Breathless」と「High School Confidential」で刺激的で熱狂的なロッカーの楽曲をそのカタログに加えた。“フェリデイの火の玉”と呼ばれた彼は、この頃、汗と髪の毛で自分を熱狂させ、ピアノのスツールを蹴飛ばし、足で鍵盤を弾き、その上に立つことさえするパフォーマンスで有名になっていた。

 

運命の英国ツアー

1958年5月に英国を訪れた際、ジェリー・リー・ルイスは記者に新妻の年齢を偽ってしまった(実際は13歳だったが、15歳と言った)。あまりにも若い妻との結婚が物議を呼び、ツアーは中止。彼は不名誉な思いをして帰国し、サン社はその後、彼のプロモーションを渋るようになった。彼は、自分の個人的な状況を説明するために企業広告を出したが、彼の名誉がすぐに回復することはなく、これ以降全米シングルチャートのトップ10にヒット曲を送り込むこともできなくなった。

しかし、彼はツアーとレコーディングを続け、少しずつ評判を回復させ、1961年にはレイ・チャールズの「What’d I Say」の独特なカバーで全英トップ10まで上昇した。その好状況を受け、翌年、ルイスはUKに戻り、英国で唯一チャートインすることができたアルバム『Jerry Lee Lewis Vol.2』をリリースした。NMEは、1963年のバーミンガム・タウン・ホールでの公演で、中にいた最初の観客が「ジェリーが欲しい!」と叫び、外で待っていた観客も同じように叫んだと報じている。

1964年末にも、ヤードバーズやトゥインクルらとパッケージでUKを訪れている。1966年には、プロデューサーのジャック・グッドによるオセロのミュージカル「Catch My Soul」でイアーゴの役を演じ、ダイナミックなルイスのキャリアは大胆に変化した。彼は当時メロディメーカーにこう語っている。

「私は見たままを演じるんだ。レッスンは受けていない。この種の仕事をもっと増やしたいと思っている。でも、歌やレコード製作をあきらめることはないだろうね」

 

カントリーでの活躍

そして1967年、彼はマーキュリー・レコードにて新キャリアを切り開き、カントリーミュージックに転向し、大成功を収めることになる。アメリカのカントリー・ラジオは、彼のキャリア初期のロックンロールの側面を常に好意的に受け止めていたのだ。2020年初頭、彼はローリング・ストーン誌に当時をこう振り返っている。

「私はいつもカントリー・アーティストだったと思う。“Whole Lotta Shakin’ Going On”はカントリーでNo.1だった。“Great Balls of Fire”もそうだったよね」

1968年「Another Place Another Time」は、カントリーにおける長年の大成功の先駆けとなった。また、ルイスの叙情的なピアノは、「What’s Made Milwaukee Famous (Has Made A Loser Out Of Me)」、トム・ジョーンズの英国No.1ヴァージョンに直接影響を与えた「Green, Green Grass Of Home」、「She Even Woke Me Up To Say Goodbye」といった名曲に見られるホンキートンクの伝統的な曲に完璧にマッチしている。

1969年初頭から1972年春にかけて、ルイスがマーキュリー・レコードから発売した「To Make Love Sweeter For You」「There Must Be More To Love Than This」「Would You Take Another Chance On Me」、そしてビッグ・ボッパー「Chantilly Lace」のカバーがカントリー・チャート上位を飾った。

「Chantilly Lace」はアルバム『The ‘Killer’ Rocks On』の収録楽曲で、ルイスは1972年8月にウェンブリー・スタジアムで開催された第1回ロンドン・ロックンロール・フェスティバルで現れたリバイバルの先陣を切ることになった。そこで彼は、ビル・ヘイリー、ボ・ディドリー、チャック・ベリー、リトル・リチャードといった一緒に登場したミュージシャンとともに会場の時を巻き戻した。この頃はアメリカでは、『アメリカン・グラフィティ』のような新しいノスタルジアの先陣を切るワイルドな人気映画の勢いがあった頃だ。

ルイスは、1980年代初頭まで28曲のトップ10ヒットを放ったが、その成績のほとんどはカントリー・チャートにとどまった。古い楽曲に精通した彼は「Over The Rainbow」で再びその才能を発揮し、「Thirty Nine and Holding」では、過ぎ行く歳月を表現した。

1973年には、ルイスの影響を受けて育ったピーター・フランプトン、アルバート・リー、アルビン・リー、ロリー・ギャラガー、ディレイニー・ブラムレット、ケニー・ジョーンズといったアーティストたちとロンドンでオールディーズ集『The Session』を制作。そしてルイスは 1970年代半ばにマーキュリー・レコードを離れ、数々の深刻な健康不安、家族の悲劇、そして事件や論争が彼を襲った。

1976年、かつてサン・レコードのレーベルメイトだったエルヴィス・プレスリーのグレイスランドの家の門の外でピストルを振り回して逮捕された。彼のワイルドな傾向がまだ残っていることを強調した事件だ。1984年、6番目の妻と結婚した年に脱税の疑いで逮捕となっている(結局は無罪に)。

しかしそういった私生活を乗り越え、1986年、ジェリー・リーはロックの殿堂入りを果たし、1989年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにも殿堂入りとなった。またこの年、ジム・マクブライド監督によるジェリー・リー・ルイスの伝記映画『グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー』が公開。彼を演じたデニス・クエイドは、まさにうってつけの人物だった。

レコードでは、1986年にリリースされた『Class of ’55: Memphis Rock & Roll Homecoming』で、サン時代の仲間であるカール・パーキンス、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソンとリフや思い出を語り合ったことがファンから特に喜ばれた。

 

晩年

アンディ・ペイリーがプロデュースし、1950年代のオールディーズの魅力的なヴァージョンを収録した1995年のアルバム『Youngblood』もお薦めの1枚だ。しかし、90年代は、さらなる脱税容疑、コンサートへの不参加といった醜聞が何十年も終わらずに続いていくことになる。

前述した『Last Man Standing』『Mean Old Man』『Rock & Roll Time』という一連のオールスター・アルバムは、ルイスの伝説にさらに磨きをかけた。2020年初頭のローリング・ストーン誌のインタビューでは、たとえ体調不良で公の場に出ることが制限され、演奏活動を休止しているように見えたとしても、ジェリー・リー・ルイスにはまだトレードマークのうなり声があることが示された。ジェリー・リー・ルイスは、ヒット曲が出なくなった時期について、ライターのパトリック・ドイルにこう語っている。

「私はただ身を引いて、邪魔をしないで、他の誰かのために場所を空けようと思ったんだよ」

生前、メンフィスの近くに住んでいた彼は、時折、サン・スタジオの前を通りかかることがあった。その時、どんな思いがしたのだろう。「貴重な思い出だ」と彼は言った。

1990年のQ誌のインタビューでは、巨匠の粋なはからいで、自分のことを三人称で表現している。

「私たちはジェリー・リー・ルイスについて話しているだろ。ジェリー・リー・ルイスは個人であり、彼はジェリー・リー・ルイスであり、他のエンターテイナーは存在しないし、ジェリー・リー・ルイスのような才能はもう存在しない。それは私のせいではありません。神が私に課したものだよ」

2022年5月、ルイスがカントリーミュージックの殿堂入りを果たすことが発表された。式典は10月に行われたが、残念なことにジェリー・リー・ルイスで体調が悪く、出席することができなかった。この栄誉を聞いて、彼はこうコメントを寄せている。

「カントリーミュージックから最高の栄誉を認められるということは、身の引き締まる思いです。ジミー・ロジャースやハンク・ウィリアムスの曲を聴いていたロサンゼルスのフェリデイ出身の少年は、まさか自分が彼らと同じ場所に立つことになるとは思ってもみなかったと思います。ジェリー・リー・ルイスの音楽がカントリーミュージックであることを認めてくれたすべての人々に感謝し、全能の神の尽きることのない救済の恩寵に感謝します」

Written By Paul Sexton



 

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