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【追悼】ジャズ界の巨匠、アーマッド・ジャマルが92歳で死去。その功績を辿る

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Photo: Peter Symes/Redferns

柔らかなサウンドのビバップを世界に広めたことで知られるピッツバーグ生まれのジャズ・ピアニスト、アーマッド・ジャマル(Ahmad Jamal)が92歳でこの世を去った。

前立腺がんを患っていた彼は2023年4月16日の日曜日に、マサチューセッツのアシュリー・フォールズにある自宅で息を引き取った。娘のスマイア・ジャマルが、ニューヨーク・タイムズ紙に彼の死を伝えた。

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その評価

この上なく繊細なタッチで知られるジャマルは、きらめくようなメロディーに、幻想的で儚いコードを組み合わせた独特のスタイルを確立した。同世代のモダン・ジャズの名手であるエロル・ガーナーやオスカー・ピーターソンなどは派手やかなスタイルで有名だが、それに対して彼は抑制の効いたアプローチを好んだ。ジャマルは、メロディー性の高いフレーズの合間に余白を設けたり、音量や音色のコントラストをつけたりすることで劇的なサウンドを生み出したのだ。

そのスタイルは、彼の友人でもあるジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスにも強い影響を与えた。「余白を作り出す彼の考え方や、軽やかなタッチ、音色やコードや音節の表現の仕方などに俺は衝撃を受けた」。デイヴィスは1988年に出版した回顧録『マイルス・デイヴィス自伝』の中でそんな風に綴っている。

ジャマルは70年以上に亘るキャリアを通して70作近いアルバムを発表してきたが、彼はその中でも、ある1作で特にその名を知られている。それが、1958年にトリオ編成で制作したライヴ・アルバム『At The Pershing: But Not For Me』である。

みずみずしいバラード・ナンバーと軽快にスウィングするグルーヴが満載の同作は、本格的なジャズ・アルバムでありながらカジュアルなパーティーにぴったりの作風だった。結果としてこのアルバムは100万枚以上を売り上げ、米ポップ・チャートに107週ものあいだランクインした。2019年、彼は『At The Pershing: But Not For Me』の影響力についてuDiscover Musicにこう話してくれた。

「人生が変わった。そしてあのアルバムがきっかけで、俺の人生はいまでも変わり続けている。あの作品のおかげで俺はこの61年間、生活費をまかなえている。いまでも影響力を持ち続けているんだ。本当にすごいことだよ」

王道のジャズの人気に陰りが出始めた1970年代、ジャマルはジャズ・ファンク路線を打ち出した。電子キーボードを操り、当時のソウルやR&Bのヒット曲のカヴァーもレパートリーに加えるようになったのだ。そして1980年代になると、彼は愛してやまないスタインウェイのグランド・ピアノを再び弾くようになった。だが、楽器が変わろうとも、彼の音楽から素朴な美しさや気品が失われることは一度もなかった。1988年、彼はボストン・グローブ紙の取材でこう話している。

「演奏するときは、闘牛場のマタドールになったような気分だ。自分のやっていることへの集中を切らしてしまえば、とんでもない目に遭うのさ」

 

個人的な信条と“ジャズ”という言葉に対する嫌悪感

そんなジャマルは洗練されていて、主張の明確な人物だった。他方で彼は、メディアに対する態度がいささか慎重だったことでも知られている。インタビュー中は笑うことも多かったが、個人的な信条を深掘りされることに対しては非常に敏感で、1950年に改宗したイスラム教への信仰については滅多に語ろうとしなかった。

また、記事の中で彼の出生名を使用したことで、1986年にジャズ評論家のレナード・フェザーを訴えたことは有名な話だ。そしてその一件のあと、彼は厳しいガイドラインに従うことに合意した記者のインタビューしか受けないようになった。そのガイドラインでは、ジャマルの出生名や彼の信仰、フェザーの名前に関しても取材で触れることが一切禁じられていたのである。

さらにジャマルは、“ジャズ”という言葉に対する嫌悪感を隠そうとしなかった。彼は、その言葉には自分の音楽へのリスペクトが感じられないと考えていたのだ。そのためジャマルは、デューク・エリントンやビリー・テイラーといったピアニストたちに倣い、“アメリカン・クラシカル・ミュージック”という表現を好んだ。彼は1994年にアメリカン・ビジョンズ誌の取材でこう話している。

「“ジャズ”という表現では間違いなく不十分だ。それはもともと、音楽を悪く言うときに使われた言葉なんだ」

 

その生涯

ジャマルは1930年7月2日、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれた。父のロバート・ジョーンズは製鋼所の工員で、母のロッティーはハウス・クリーニング業者として働いていた。そんな家庭で育ったジャマルは幼児のころから、家にあったアップライト・ピアノに興味を示していたという。彼は2019年、レコード・コレクター誌の取材でこう話している。

「俺が3歳のとき、おじのローレンスがピアノを弾きながら“お前にはまだ弾けないだろう”と言って俺をからかってきたんだ。彼が弾いた通りに俺がピアノを弾くと、家族はみんな倒れそうなほど驚いていたよ。俺がピアノを弾いたのはそのときが初めてだったんだから無理もないね」

彼に非凡な才能を見出した母のロッティーは、彼をピアノのレッスンに通わせるためお金を節約し始めた。1990年、ジャマルはジャズ評論家のビル・キングに次のように明かしている。

「俺のレッスンに必要な1ドルを捻出するために、 (母は) 仕事にも徒歩で通っていた。毎日、自分を犠牲にしてくれていたんだ」

そうして7歳からヨーロッパ式のクラシック・ピアノを学び始めると、ジャマルは目覚ましい成長を遂げた。実際、10歳には客前で演奏して初めてのギャラを受け取っている。その後はセミプロとして活動を続けていったが、ティーンエイジャーになった彼はジャズのサウンドに深く魅了されるようになる。特に彼は、同じくピッツバーグ出身のピアニストであるエロル・ガーナーの音楽に熱中するようになった。ジャマルより10歳年上のガーナーは、華やかなスタイルで知られるミュージシャンだ。

「彼からは、ほかの誰より強い影響を受けた」とジャマルはレコード・コレクター誌の取材で語っている。「彼とは小学校もハイスクールも一緒だったし、母親同士も知り合いだった」。彼はまた、14歳のときに出会った名ピアニストのアート・テイタムにも感化されていた。視覚障害を持つテイタムは、ピッツバーグのジャズ・クラブでジャマルの演奏を聴いたといい、そのときから若い彼を“将来の大物”として有望視していた。

 

プロとして、そして改名

ジャマルは1951年に初めてのレコーディングを行ったが、そのころまでに彼はハイスクールを卒業し、いくつかのジャズ・グループでツアーを経験。さらには拠点をシカゴに移していた。彼はのちにシカゴ・トリビューン紙の取材で、当時のシカゴについて「すさまじい数の名手が集まる才能のるつぼ」と表現している。また、前年の1950年に彼はイスラム教に改宗し、名前をアーマッド・ジャマルに改名。1950年代には彼のように、イスラム教に傾倒するアフリカ系アメリカ人が少なくなかった。

彼は13年間をシカゴで過ごしたが、その当初は“アーマッド・ジャマルズ・スリー・ストリングス”というドラムレスのトリオを率いていた。ピアノ、ギター、ベースというその編成は、ナット・キング・コールのグループに範を取ったものだったという。そして、彼が最初にレコーディングしたのは「The Surrey With The Fringe On Top (飾りのついた四輪馬車) 」という曲だった。同曲はロジャース&ハマースタインによるミュージカル『オクラホマ!』からの1曲で、彼はシンプルなアレンジでこれをカヴァーした。

Surrey with the Fringe on Top (Remastered)

 

マイルス・デイヴィスからの賛辞

クールで肩の力の抜けたそのサウンドは、東海岸のミュージシャン仲間たちが作り出していたハードで荒々しいビバップとは正反対だった。しかし、その作風に当初から魅せられていた人物がいた。それは、ハーレムで活動していたマイルス・デイヴィスという当時新進気鋭のトランペッターだった。デイヴィスは当時、ポスト・ビバップの先駆者の一人として名を上げ始めたところだった。

デイヴィスは1950年代を通して、ジャマルの代表曲を13曲もカヴァーしている。「Ahmad’s Blues」や「The Surrey With The Fringe On Top」もその一部だが、もっとも有名なのは「New Rhumba」だろう。同曲は、ギル・エヴァンスがオーケストラ・アレンジを施した1957年のアルバム『Miles Ahead』に収録されている。「 (マイルスの) 初期の作品は、楽曲を纏め上げたり、そこにコンセプトを持たせたりする上で、アーマッドからの影響を色濃く受けている」。当時、デイヴィスのグループでドラマーを務めていた故ジミー・コブは、2019年にビルボード誌の取材でそう話している。また、デイヴィス自身も回顧録の中で、ジャマルに惜しげもない賛辞を次のように綴っている。

「叙情性のある彼の演奏が俺は大好きだった。彼は素晴らしいピアノ奏者だったが、正当な評価を受けられなかった」

New Rhumba

デイヴィスには激賞される一方、ジャマルを批判するアンチも存在した。1950年代後半に彼の評判が高まると、“体のいいパーティー向けのピアニスト”と彼をあざ笑うジャズ評論家が現れ始めたのだ。高音域の軽快なピアノのメロディーや、聴き心地のいいグルーヴがそうした評論家からの批判の的になったのである。一方で、アメリカ人ジャズ評論家/作家として名高いスタンリー・クラウチのように、彼を先駆者の一人とみなす者もいた。クラウチは、2006年に出版した著書『Considering Genius: Writings On Jazz』の中でこう綴っている。

「演奏に余白を設けたり、リズムやテンポを変化させたりすることで、ジャマルは新たなグループ・サウンドを作り上げた。ビッグ・バンドの音を想像力豊かに再現したかのようなそのサウンドは、驚きと劇的な変化に満ちている」

ジャマルによる“チェンバー・ジャズ” ―― これは少人数のグループによる上品なアレンジを指して一部の評論家が使用していた表現だ ―― の美学は、『At The Pershing: But Not For Me』でその極致に達した。

同作は1958年にシカゴのパーシング・ホテルで行われたライヴを録音したもので、チェス・レコード傘下のジャズ・レーベル、アーゴからリリースされた。そのときまでにジャマルは、ギタリストに替えてドラマーのヴァーネル・フォーニアをグループに加入させていた。フォーニアとベーシストのイスラエル・クロスビーは、ジャマルの音楽に巧みなシンコペーションを入れ込んでみせた。そうして二人は、ガーシュウィン兄弟作の「But Not For Me」や、カール・スースドーフとジョン・ブラックバーンが書いた「Moonlight In Vermont」などのスタンダード・ナンバーを、対話的で深みのある演奏へと進化させたのである。この三人組はまるで、テレパシーによって心を一つにして演奏しているかのように思えた。ジャマルはのちにuDiscover Musicの取材でこう話してくれた。

「毎晩のように5ステージも一緒にこなしていると、ほかには真似できない団結力や音楽的な絆が生まれてくるものさ。そのおかげで、夢にも思わないような結果に繋がったよ」

そんな同アルバムを代表する1曲といえば「Poinciana」だろう。同曲はキューバ民謡を基に作られたともいわれる物憂げなバラードで、1940年代にはグレン・ミラーとビング・クロスビーも録音している。ジャマルはその1曲を、エキゾチックで詩的な音楽に仕上げてみせた。そこでは結晶のかけらのようなメロディーが、優しく揺らめくコードと、軽快なリズムで全体を支えるパーカッションの上できらめいているように聴こえる。この「Poinciana」はその後、ジャマルのキャリアでもっとも有名な1曲になった。

Poinciana (Live At The Pershing, Chicago, 1958)

そんな「Poinciana」の人気もあり、収録アルバムの『At The Pershing: But Not For Me』は非常に大きな成功を収めた。ジャンルの垣根を越え、米ポップ・チャートに2年ものあいだランクインし続けたのである。なお、1995年には、1950年代後半を舞台にしたクリント・イーストウッド監督の映画『マディソン郡の橋』の劇中に使用されたことで、数十年の時を経て「Poinciana」の人気が再燃している。

彼は1958年の暮れにも、「Secret Love」をヒットさせてその成功を揺るぎないものにした。同曲はドリス・デイが1954年にチャートの首位に送り込んだナンバーで、軽やかにスウィングするジャマルのインストゥルメンタル・ヴァージョンは、米R&Bチャートで18位まで上昇した。そうして富を手にしたジャマルは、飲食業にも挑戦。“ジ・アルハンブラ”という、アルコール販売をしないレストランをシカゴで開業したが、翌年には店を閉め、トリオも解散させている。そしてニューヨークに移った彼は、英気を養うべく3年のあいだジャズ界から離れたのだった。

Secret love

 

ミュージシャンと実業家

1964年に新たなトリオを率いて音楽界に復帰すると、彼の作風はより実験的なものに変化していた。モード・ジャズ風の自由なスタイルの楽曲が増え、ラテン調のリズムを取り入れるようになったのである。とはいえ、彼のトレードマークといえる哀愁たっぷりの叙情性はここでも健在だった。そのため彼の音楽は、ほかのジャズ・ミュージシャンたちが追求していた前衛的なサウンドよりもはるかに親しみやすいものに仕上がっていた。

1969年、彼は再び実業家としての挑戦を試みた。今度は自身のソロ・キャリアを脇に置いて、レーベル兼制作会社の“ジャマル”をニューヨークで設立したのだ。同社はビバップ界の名サックス奏者であるソニー・スティットなど有望なアーティストたちと契約したものの、この事業も成功を収めるには至らず、ジャマルは1971年に会社を畳んでいる。

レコード会社のオーナー業が長続きしなかったことに落胆した彼は、再び自身の創作活動に専念することを決意。1973年には20thセンチュリー・レコードと契約を交わした。同レーベルに所属した7年のあいだに彼が残した作品群は、そのキャリアにおいても特に多様性に満ちている。その中にはオーケストラとともに制作したコンセプト性の高い楽曲もあれば、ソウル・ナンバーのインストゥルメンタル・カヴァーや、ジャズ・ファンク・サウンドのオリジナル曲 ―― そこで彼は電子ピアノやシンセサイザーにまで手を広げている ―― なども含まれる。

また、彼はこの時期に4作のアルバムを米R&Bチャートに送り込んでいる。特に、その一つである1974年のアルバム『Jamalca』は、エレクトリック・ジャズ、ソウル、ファンクを見事に融合させた痛快作である。

Ahmad Jamal – Ghetto Child

1980年代に入るとジャマルは、1970年代の作品の特徴だったポップ風のサウンド作りや入り組んだアレンジと決別。アコースティック・ピアノによる演奏に回帰し、主に三人組や四人組の編成でステージに立つようになった。そして晩年になっても、彼はほとんど1年に1作のペースで新作をリリースし続けた。

また、2014年にはツアー日程を減らすようになったが、2020年に90歳の誕生日を迎えるまで単発のライヴは精力的に行っていた。彼にとって生涯最後のアルバムとなった2019年作『Ballades』は、アコースティック・ピアノによるソロ演奏が大半を占める内容で、米ジャズ・チャートで4位まで上昇。同作には、あの「Poinciana」の印象的なヴァージョンも収められている。巧みな装飾的フレーズや、驚くほど劇的な抑揚に満ちた同ヴァージョンは、もはや感情のこもった即興演奏といえる仕上がりである。

Ahmad Jamal – Poinciana

 

栄誉と賛辞

アーマッド・ジャマルは、その生涯でいくつかの栄誉を手にしてもいる。1997年にはNEAジャズ・マスターズを受賞し、2007年にはフランスの芸術文化勲章を受章。2017年にもグラミー賞の特別功労賞生涯業績賞に輝いている。

ジャマルは誰もが知る有名アーティストにこそならなかったが、史上屈指の伝説的トランペッター (マイルス・デイヴィス) のほか、マシュー・シップ、ジェイソン・モラン、アーロン・ディールなど、現代のアメリカを代表するジャズ・ピアニストたちも彼のファンであることを公言している。そして、ナズ、デ・ラ・ソウル、ジェイ・Zなどのヒップホップ界のレジェンドが彼の音楽を愛していたことは、1990年代にそれをサンプリングしていたことからも明らかだろう。

少人数のグループによるアコースティック・ジャズから、ダンスフロア向きのエレクトリック・ファンクまで幅広い作品を残した通り、彼は実に多才なミュージシャンだった。しかしジャマルの最大の功績は、1950年代に一人のピアニストとして、抑制の効いたジャズによる革命を起こしたことだろう。彼は作曲家として多くの自作曲を残したわけではないが、ジャズのスタンダード・ナンバーを、原型を留めないほど大胆かつ繊細なアレンジで演奏してみせた。そのアレンジは、その曲を彼のオリジナルのように感じさせてしまうほど個性的なものだった。

同世代の多くのミュージシャンが力強さや激しさを追い求める中で、ジャマルはピアノで軽やかなフレーズを弾き、ジャズという芸術の繊細な側面を世界に知らしめた。素朴な音楽でも、多大な影響力を持ち得ることを示したのである。

2013年、ガーディアン紙の記者が、気品溢れる楽曲群は何をヒントにしているのかを彼に尋ねた時、彼はこう応えた。

「神様からの贈り物、としか言えないな。俺たちは作り出すのではなく、見つけ出しているんだ。そして、見つけ出す過程の中でエネルギーが湧いてくるんだ」

Written By Charles Waring




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