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デルタを夢見て- 大西洋の向こう側からみたブルース革命

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国でスキッフルとして知られるようになった音楽は、変化のカタリストであり、英国の多くのティーンエイジャーのインスピレーションとなった…ジョン・レノンもその1人だ。英国のティーンエイジャーは、彼らの親が好んだり承認した音楽を焼き直すのではなく、多分初めて、自分たちの音楽を持つことができた。スキッフルは、英国の自家製で“ジャズ集団”、すなわちブリティッシュ・ブルース・シーンの第一人者たちにより育てられた。

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1951年9月、パリに続き、ビッグ・ビル・ブルーンジー初となるロンドン公演のポスターが貼り出された。これは、ブルースがジャズの世界の一部になったことを意味した。“リサイタル”と呼ばれたこの公演は、ロンドン・ジャズ・クラブにより開催された。これが実現したのは、40年代、英国の著名なブルース・ライター、ポール・オリヴァーなどを通じ、ブルースへの関心が高まったからだった。オリヴァーは、サウス・ハローやワトフォードの教室を借り、ブルースやジャズ・コレクターのために『Rhythm Clubs』を書いていた。

40年代後半、ジャズ愛好家たちは、スリーピー・ジョン・エスティスの「Drop Down Mama」「Married Woman Blues」などの名盤をリリースするよう、英国のブランズウィック・レコードを説得した。

50年代に入ると、アメリカ人の民族音楽研究家アラン・ローマックスと音楽紙‘Melody Maker’のマックス・ジョーンズがしばし、BBCラジオでブルースについて語るようになった。金曜の夜、ハリー・パリーのラジオ番組‘Radio Rhythm Club’では、ブランズウィックからリリースされたジョシュ・ホワイトの「House Of The Rising Sun」など、ときどきブルースのレコードをプレイするようになった。少しずつだが、ブルースは英国の若者の想像力をかき立てるようになった。白人の彼らはどういうわけか、この音楽にロマンチックな幻想を抱いた。しかし、彼らは気づいていなかった――ブラック・ミュージックはすでに英国にチャンピオンたちを発見していたことを。

ブルーンジーがやって来るちょっと前、ブルースの“イージー”ブレンドを歌うジョシュ・ホワイトがUKを訪れ、ちょうど同じころ、ロニー・ジョンソンも大西洋を渡ってやって来た。3人とも、より洗練されたシカゴやニューヨークのアーバン・ブルース・シーンの出身だった。

1952年の夏の初め、‘Melody Maker’は、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世、リロイ・カーらのレコードのレビューを掲載した(彼らのレコードは遅ればせながら英国でリリースされるところだった)。‘Melody Maker’は基本的にジャズ専門紙だったが、これに本気で取り掛かり、彼らのブルース特集は、この音楽は単なるポピュラー・ミュージックではなく、よりシリアスだと認識させるのに一役買った。

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大西洋の向こう側のアーティストがぽつりぽつりと英国を訪れるようになった。ビリー・ホリディは1954年初めに、その数年後にはジミー・ラッシング、ジョー・ウィリアムスがやって来た。ブルーンジーは、ブラザー・ジョン・セラーズや白人のフォーク・ブルース・プレイヤー、ランブリン・ジャック・エリオットと共に戻ってきた。ジャズ・バンド・リーダーのクリス・バーバーは、英国でブルースの人気を高めた主要人物だった。1958年4月、バーバーは“アメリカの第一線のフォーク・ブルース・シンガーたち”と全国ツアーを行なった。サニー・テリーとブラウニー・マギーがロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでプレイし、客席からは、おそらくアメリカでのもの以上に盛大な歓声が上がった。数か月後、バーバーはマディ・ウォーターズとオーティス・スパンがリーズで開かれたフェスティバルでプレイするよう手配し、続いて1週間のUKツアーを行なった。皮肉なことに、マディにアンプを使わないよう頼むオーディエンスもいた。彼らはマディのメンター、ビッグ・ビル・ブルーンジーのブルースのほうを好み、ジャズはクラブではアンプを使わなかったからだ。

ブルー・ホライズン・レコードの創立者マイク・ヴァーノンはこう話している。「クラブのプロモーターたちは、クリス・バーバーが人気商品だったから、これらのアーティストも引き受けた。だから、クリスのブルースへの愛が彼らを呼び寄せることができたのだ。そして、プロモーターから文句は出なかった」

アメリカでは、チャック・ベリーが<ニューポート・ジャズ・フェスティバル>でプレイし、メディアは彼を“恥さらし”と非難した。しかし、英国では‘New Musical Express(NME)’が「ベリーはいまあるブルースの流れの一部だ」と評価。ベリーの「Sweet Little Sixteen」は英国のシングル・チャートに5週間留まり続け、たくさんの白人の若いギタリストが影響を受けていた。

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クリス・バーバーの英国での人気は、1958年に‘NME’が行なった人気投票で、“スモール・グループ”部門の2位をマークしたことに見てとれる。しかしながら、1位になったのはロニー・ドネガンだった。

その2年前、‘Melody Maker’は「スキッフルかプリッフル(ナンセンス)か?」という見出しをトップに飾った。この記事は、英国のスキッフル旋風をテーマに、アレクシス・コーナーが書いたものだった。彼はこう記した。「1952年、ケン・コリアがニューオーリンズから戻ってすぐ、ブライアンストン・ストリート・クラブの幕間でプレイするため、英国初のスキッフル・グループが結成された。このグループはケン・コリア、ロニー・ドネガンと僕がギター、ビリー・コリアがウォッシュボード、クリス・バーバーかジム・ブレイがストリング・ベースというラインナップだった」

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コーナーはスキッフルがヴォーカルの要素を取り入れたことを批判し、「商業的には成功したが、音楽的には並以上のものは稀だった」と表している。コーナーの意見はともかく、スキッフルが(英国の)音楽に影響を及ぼした、もしくはスーパースター、ロニー・ドネガンの誕生に影響を及ぼしたのは間違いない。1956年から1962年の間、ロニーは英国で30のヒット・シングルを生み出し、3回チャートの1位に輝いたほか14枚のシングルがトップ10入りした。彼の最初のヒット「Rock Island Line」は1956年、当時の英国のシングルには珍しく、アメリカのトップ10に入る快挙も成し遂げた。グラスゴー生まれのドネガンは、リード・ベリーの「Rock Island Line」、「Bring A Little Water Sylvie」「Pick A Bale Of Cotton」、ウッディ・ガスリーの「Camblin’ Man」「Dead Or Alive」などのブルースやフォーク・ソングをカヴァーした。

1956年、ドネガンはジョニー・バーネット・トリオと全米ツアーを行ない、ペリー・コモのTV番組に出演し、チャック・ベリーともパフォーマンスした。ヒットしたのはドネガンが初めてだったが、スキッフルのレコードはその前からリリースされていた。1955年半ば、ケン・コリアのグループはアレクシス・コーナーをギターに、リード・ベリーの「Take This Hammer」をリリースした。

ドネガンの成功は1957年、「Cumberland Gap」と「Gamblin’ Man」が1位に輝いたときピークを迎えた。この年の終わりから、スキッフルは衰退し始める。ナンシー・ウィスキーをフィーチャーしたチャス・マクデヴィットのスキッフル・グループ、ヴァイパーズ・スキッフル・グループ、テネシー生まれのジョニー・ダンカンと彼のブルー・グラス・ボーイズ…、彼らの栄光の日々は終わった。

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このDIY音楽のブーム――ロックンロールの原始――は、しかしながら、インスピレーションだった。スキッフルは多くの英国の若者に、彼らのヒーローに倣うチャンスを与えた…誰でもポップ・スターになれる。ザ・フー、レッド・ツェッペリン、ザ・ローリング・ストーンズザ・ビートルズのような60年代のロック・バンドにいる誰もが、この自家製ブルースをプレイすることで、そのキャリアをスタートした。

1958年晩春のある日、5人の若者がリバプールの電気屋で78回転をレコーディングした。このグループはザ・クオリーメンと名乗り、ジョン・レノンジョージ・ハリスンポール・マッカートニーが在籍していた。ポールはその後、こう言っていた。「ジョンは“Down, down, down to the penitentiary”と歌っていた。彼はブルースの節で埋めようとしていた。僕はいいなって思ったよ」

スキッフルは事実上、1958年初めには終わっていた。しかし、ロニー・ドネガンはヒットし続け、斬新な曲は彼の強みだった。アメリカ同様、英国もロックンロールにしっかり支配された。エルヴィス、ジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー&ザ・クリケッツ、エヴァリー・ブラザーズみんなが、1958~59年、英国でヒットした。50年代終わりの英国のチャートは、アメリカのロックンロール・スターと、フランク・シナトラやペリー・コモといったトラディショナルなアーティスト、それに、トミー・スティールやマーティ・ワイド、クリフ・リチャード、アダム・フェイスなど、自国のものだけでなくアメリカのヒットをカヴァーしていた英国の“模倣”ロックンローラーが入り混じっていた。

しかし、本物のブルースは、ジャズの忠実な愛好家たちの間で継承された。ポール・オリヴァーはこの分野のチャンピオンであり続け、クリス・バーバーほかはブルースマンたちとのツアーを続けた。チャンピオン・ジャック・デュプリーは1959年に英国を訪れ、翌年にはメンフィス・スリム、ルーズヴェルト・サイクス、ジェイムス・コットン、リトル・ブラザー・モンゴメリー、ジェシー・フラーらが大西洋を越えてやって来た。

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彼らの大半は、アレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスが開いたクラブで演奏していた。彼らは、コーナーのギター、デイヴィスのハーモニカと、パブの中にあるこのロンドン・ブルース・アンド・バレルハウス・クラブで、自分たちのカントリー・ブルースをパフォーマンスした。彼らはまた、クリス・バーバーのバンドとも共演し、オティリー・パターソン(1959年にバーバーと結婚)とブルースの曲をプレイした。バーバーは、1960年にリリースしたアルバム『Chris Barber’s Blues Book』にジム・ジャクソンの「Kansas City Blues」、リロイ・カーの「Blues Before Sunrise」などのブルースの名曲を収録し、この分野のチャンピオンであり続けた。

ギリシャ人とオーストリア人の両親を持つコーナーは1961年、デイヴィスとブルース・インコーポレイテッドを結成した。その妥協を許さないブルース・サウンドとイーリング・リズム・アンド・ブルース・クラブでのレギュラー出演により、彼らは、本場デルタから数千マイルも離れた場所で、ブルースをプレイしたいと熱く願う若い才能たちの師となった。

1961年終わり、19歳のブライアン・ジョーンズは、チェルトナムのタウンホールで、コーナーがクリス・バーバーのバンドと演奏するのを観た。その数ヶ月後の1962年3月17日、ブライアンはイーリング・クラブでブルース・インコーポレイティドを観るため、ヒッチハイクでロンドンへ向かった。ラインナップはコーナーとデイヴィスのほか、ピアノにデイヴ・スティーヴンズ、ベースにアンディ・フーゲンブーム、テナー・サックスにディック・ヘクストール・スミスがおり、そして、ジャズを愛するドラマーの名前はチャーリー・ワッツだった。これは、ブライアンの人生を変えた――そして、世界の音楽マップも。

1962年10月5日、ザ・ローリング・ストーンズがマーキュリー・クラブでデビューを飾った数ヶ月後、ザ・ビートルズがデビュー・シングル「Love Me Do」をリリースした。1963年1月、英国のポピュラー・ミュージックは変革の最初の波を経験した。ブルース・インコーポレイティドが‘The 6.25 Show’でBBC初出演を果たした。ザ・ビートルズが登場する前、60年代のチャートは50年代の終わりと変わりがなかった。フランク・アイフィールドがハンク・ウィリアムスの1949年のヒット「Lovesick Blues」のカヴァーで1位を飾ったことはあったものの、そのほかは、クリフ・リチャード、エルヴィス、ザ・シャドウズ、デル・シャノン、マーク・ウィンター、マーティ・ロビンスばかりだった。

ジョン・レノンはこう話していた。「ブルース好きの友達がいた。彼の影響で僕はブルースにはまった。本物のブルースに目覚めたんだ」ザ・ビートルズが成功すると、英国のレコード会社はあらゆる “ビート”グループ、とくにリバプール出身のグループと契約を交わそうとした。ロンドンが英国のブルースのキャピタルである一方、リバプールはR&Bの傾向が強かった。しかしながら、レコード会社のスカウトマンを魅了したのはリバプールだけではなく、マンチェスター、バーミンガム、ニューキャッスルもA&Rを引き寄せた。

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4月の終わり、ザ・ビートルズはリッチモンドのクロウダディ・クラブへストーンズを観に行き、ストーンズはその後すぐデッカ・レコードと契約した。その数ヶ月後の1963年8月、サリー州リッチモンドで<ナショナル・リズム&ブルース・フェスティバル>が開かれた。ラインナップは英国のアーティストで占められ、クリス・バーバー、グレアム・ボンド・カルテット、シリル・デイヴィス、ロング・ジョン・ボールドリー、ジョージィ・フェイム、そして、ザ・ローリング・ストーンズが出演した。

1963年が1964年に変わると、ザ・ストーンズは、レノン&マッカートニー作の「I Wanna Be Your Man」でUKチャートを駆け上った。1964年には、初めてチャートのトップを飾った。ブラック・アーティストによる本物のブルース・レコードがUKシングル・チャート入りを果たしたのも同じ年だ。ハウリン・ウルフの「Smokestack Lightning」が6月初め、チャート・インした。

ストーンズがチャートに入った翌週、ジョン・リー・フッカーの「Dimples」(オリジナルは1956年にヴィージェイからリリース)が夏中、チャート・インし続けた。チャート・インした翌週、フッカーはオックスフォード、マグダレン・カレッジで開かれたストーンズの公演をサポートした。4日後、フッカーとジョン・メイオールのブルースブレイカーズは、ロンドンのアレクサンドラ・パレスで開かれたオールナイトのイベントで、ストーンズとプレイした。フッカーはまた、TV番組‘Ready Steady Go!’に出演するチャンスもつかみ、ブリティッシュ・ミュージック・シーンにおいてブルースの存在がより大きくなる未来へ向け小さな一歩を踏み込んだ、

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あらゆるタイプのアーティストがブルースにインスピレーションを見出した。ビリー・フューリーはジミー・リードの「Baby What You Want Me To Do」をカヴァーし、トミー・ブルースは「Boom Boom」をリリース。アニマルズは、BBCでジョシュ・ホワイトがこの曲を歌ったのを聴いたのかもしれない、「House Of The Rising Sun」で1位を獲得した。

ザ・ゾンビーズの「She’s Not There」は夏の終わり、12位をマークした。コリン・ブランストーンの天使のような歌声を持つこのグループも、この曲もブルースではないが、これを作曲したキーボード・プレイヤーのロッド・アージェントは、こう話している、「ジョン・リー・フッカーのアルバム『The Big Soul of John Lee Hooker』に収録される「No One Told Me」って曲を聴けば、彼が「No one told me it was just a feeling I had inside」って歌っているのを聴くだろう。このメロディとコードと同じものは、どこにもない。本当に小さなフレーズなんだけど」

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ピート・タウンゼントと美術学校に通い、彼のバンドをザ・ズート・スーツと名付けたリチャード・バーンズは、「彼らは知っているもの全てをプレイした。そして、毎晩プレイした。当時の大半のバンドと同じようにね」と振り返っている。そのすぐ後、彼らは、バンドのマネージャーから自分が“書いた”曲を録音し、再び、バンドの名前を変えるよう説得された。彼らは1964年、ザ・フーの前身、ザ・ハイ・ナンバーズとして、スリム・ハーポの「Got Love If You Want It」をもとに作った「I’m The Face」をリリースした。

多くのバンドがブルースのシングルをリリースし、中には戦後のシカゴの名曲のカヴァーもあった。1964年、デイヴ・ベリー&ザ・クルーザーズは「Hoochie Coochie Man」をリリースした。シェフィールズはマディ・ウォーターズの「Got My Mojo Working」を、スペンサー・デイヴィス・グループはフッカーの「Dimples」、ヤードバーズは「I Wish You Would」、ロッド・スチュワートは「Good Morning Little Schoolgirl!」をリワークした。ザ・ストーンズもウルフの「Little Red Rooster」をカヴァーし、UKチャートの1位を獲得した。これらは、意欲的なUKのブルース・バンドにカヴァーされた数えきれないほどのブルースの一例に過ぎない。

1965年4月、エリック・クラプトンはヤードバーズを辞め、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズに加入した。メイオールは“ポップ・スター”らしくなかった。まず、30歳を超えていた! 1963年に彼が結成したブルースブレイカーズは、ラインナップの面ではモダン・ミュージック史上彼らに敵うものはないだろう。彼らはデッカのスタッフ・プロデューサー、マイク・ヴァーノンの目に留まり、彼が、彼らと契約するようレーベルを説得した。ブルースブレイカーズの最初のシングル「Crawling Up The Hill」と「Mr James」のカップリングは1964年4月にリリースされた。メイオールとベースをプレイしていたのが、ジョン・マクヴィーだった。1965年10月、クラプトンが参加するころには、ヒューイ・フリントがドラムをプレイしていた。翌年の初め、彼らは傑作『Bluesbreakers With Eric Clapton』を発表する。人気を博したが、クラプトンは間もなく脱退し、ピーター・グリーンが加入した。

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フリントもまた、脱退し、エインズレー・ダンバーが加入した。さらなる名作が発表され続け、1967年初めには、メイオールは英国の第一級のブルース・アクトになっていた。彼らのレパートリーは、メイオールのオリジナルに、「Dust My Boom」、オーティス・ラッシュの「So Many Roads」「Double Trouble」といったブルースの名曲が加えられていた。1967年半ばには、ミック・フリートウッドがドラムをプレイしていた。しかし、彼とグリーン、マクヴィーはすぐにブルースブレイカーズを去り、フリートウッド・マックを結成した。時間を置かず、メイオールは新しいギタリスト/シンガーのミック・テイラー、ドラマーのキーフ・ハートリーとスタジオへ入った。メイオールのヴァラエティに富むラインナップの物語を追うには、スペースが足りない。

クラプトンはブルースブレイカーズを辞めた後、1966年に、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーと共にクリームを結成した。ブルースにどっぷり浸かっていた彼らは、デルタの名曲を独創的かつ創造的にカヴァーし、模範的なブルース・ロック・バンドになった。また、エネルギッシュなロック・トリオのいい見本ともなった。彼らは、「I’m So Glad」(スキップ・ジェイムス)、「Crossroads」(ロバート・ジョンソン)、「Spoonful」(ハウリン・ウルフ)、「Outside Woman Blues」(ブラインド・ジョー・レイノルズ)など、デルタのブルースの素晴らしいリワークを生み出した。だから、彼らのオーディエンスの多くが、これらの曲が30年以上も前に作られていたことをよく、もしくは全く知らなかったとしても不思議ではない。当然、クリームは彼らをだまそうとしていたわけではない。

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マクヴィー、フリートウッド、グリーンがメイオールのブルース学校を卒業したとき、彼らは自分たちの未来について不確かだったかもしれない。フリートウッド・マックのデビューは、1967年8月、<ウィンザー・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル>でのことだった(ベースはボブ・ブラニングだった)。彼らの1stシングルは、エルモア・ジェイムスの「I Believe My Time Ain’t Long」のカヴァーで、ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック名義だった。この頃までに、ブランニングに代わり、マクヴィーが加入している。彼らはブルースを愛しており、グリーンはB.B.キングをヒーローだと崇拝、(ジェレミー・)スペンサーはエルモア・ジェイムスに心酔していた。このコンビネーションは強力だった。

ザ・ストーンズ、クリーム、フリートウッド・マック、そのほか数えきれないほどの英国のバンドがブルースに夢中だった。彼らは、いまロック・ミュージックと呼ばれるようになったものの誕生に極めて重要な役割を果たした。マディ・ウォーターズがこう言ったのは有名だ。「ブルースには赤ちゃんがいて、ロックン・ロールと名付けられた」少なからずこれは、ミシシッピ・デルタ、シカゴのマクスウェル・ストリートやサウスサイドのクラブを夢みた英国の白人の少年たちが、ブルースの里親となり、大切に育てたことにも起因する。

Written By Richard Havers


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