唯一無二のライブハウスCBGBの歴史

January 29, 2018


唯一無二のライブハウスCBGBの歴史

皆さんもおそらくCBGBのことを一度は聞いたことがあるだろう。しかし、このイニシャルが何を意味するのかをじっくり考えたことはないにちがいない。Country、Blue GrassそしてBluesが略されて付けられたこの名前は、ロックにおける最大の誤称かもしれない。というのも、CBGBは、アメリカン・パンクとニュー・ウェイヴ・ムーヴメントと密接なつながりを持つこととなったからだ。そしてパンクとニュー・ウェイヴは、あまり健康的とはいえないこのクラブの中で融合した。

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同クラブは、オーナーのヒリー・クリスタルによって、ニューヨークのイーストヴィレッジにオープンした。住所はブリーカー・ストリートとの交差点バワリー315番地。1973年後半のことだった。当時、アメリカのメインストリーム・ロック・シーンでは、ピンク・フロイド、ジェスロ・タル、エルトン・ジョンといったイギリス人アーティストが活躍、全米シングル・チャートではドーンによるポップヒット「Tie A Yellow Ribbon」といった無難な曲に席巻されていた。しかしアンダーグラウンドでは、新たなタイプのカウンターカルチャーが煮えたぎっていた。こうした音楽が拠り所としたクラブがCBGBだ。そして新たな音楽は、ここから登場した。

薄暗くて湿っぽく、全く見栄えのしないこのクラブは、史上稀に見るほどに先端的で独創的かつ切迫したロック・ミュージックを生み出した。パティ・スミスからラモーンズ、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ブロンディ、ジョーン・ジェットに至るまで、CBGBは最先端のアメリカン・ミュージックの発信地となり、ここからスタートしたアーティストは、息の長いキャリアを積んだ。

CBGBといえば、誰もが「Gloria」「Blank Generation」「Marquee Moon」「Rip Her To Shred」「Sheena Was A Punk Rocker」といった確固たるニュー・ウェイヴ・クラシックを思い浮かべるだろう。こうした名曲やその他のアンセムはCBGBの全盛期に同クラブのステージから鳴り響いた。33年続いたCBGBは、2006年10月にパティ・スミスが最終公演を行って閉店した。それから1年も経たないうちに、クリスタル自身が肺がんにより75歳で死去。それでも、彼が築いたものは、永遠に生き続けるだろう。

1973年までに、ニューヨーク出身のヒリー・クリスタルは、ニューヨークのクラブ・シーンで20年以上にわたり重要人物となっていた。彼は1959年からグリニッジ・ヴィレッジで名高いクラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードのマネージャーを務めていた。ヴィレッジ・ヴァンガードは、後にCBGBとなる場所から1マイルほどアップタウン側にあった。1930年代からニューヨークの名所となっていたヴィレッジ・ヴァンガードは、50年代からはジャズのメッカとして、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス等のショウを主催し、現在に至るまでグリニッジ・ヴィレッジの生活の一部であり続けている。

セントラル・パーク・ミュージック・フェスティヴァルを共同設立した後、クリスタルは自身のバー、ヒリーズ・オン・ザ・バワリーをオープンした。しかし1973年、騒音の苦情により、彼は店を失う。しかしその後すぐに、彼は次のビジネスに着手した。そこはパレス・バーの跡地で、グリニッジ・ヴィレッジでもかなりうらぶれた場所だった。家賃は手頃だったが、2ブロック以内に安宿が6軒ほどあり、アルコール依存症患者や精神障害患者、ヴェトナム帰還兵など2,000人ほどが泊まっていた。

それでも、地元のアーティスト・コミュニティが拡大していることから、ヒリー・クリスタルは勝機があると考えた。新たなクラブがオープンすると、クラブの軒にはトレードマークとなるイニシャル、CBGBが堂々と並んでいた。そしてその下にはもうひとつ、OMFUGという頭文字が並んでおり、最初は通行人を困惑させた。これが意味するのは「Other Music For Uplifting Gormandizers(音楽の大食家を高揚させる他の音楽)」の略語である。

こうした音楽の大食漢たちは当初、酔っ払いの群れを避け、ストリートでうつぶせに倒れている人々を踏みながら、クラブにやって来たが、どれほどまでに興奮することになるか分かっていなかった。程なくして、CBGBは経験の浅い若手の演奏場所として有名になった――しかし、最初に同クラブで注目を浴びたアーティストの面々は、ヒリー・クリスタルが想定していたカントリー、ブルーグラス、ブルースとは全く関係ない音楽を演奏していた。

「俺たちがここに来た時は、バワリーの芸術家をはじめ、リキテンスタインやラウシェンバーグが大勢いた」。ヒリー・クリスタルは、2003年に出版されたマイク・エヴァンスの「Waking Up In New York City」で語っている。「俺は演奏した大半の人々を知っていたし、それが俺の意図だった。それでも……クラブを回すためには、人数が足りなかった。バワリーで毎日営業するためにはネタが足りなかったんだ。今とは少々、状況が違ったのさ。大変だったよ」

実際、CBGBで演奏した初期のアーティストは、大したビジネスを呼び込むこともなく、ほとんど話題にもならなかった。カントリーフォーク・アーティストのエリー・グリーンバーグ、メイン州を本拠とするコン・ファラム・バンド、ストリート・グループのレッチド・リフューズ・ストリング・バンドは、大きな間違いを犯したというヒリー・クリスタルの考えを覆すことはできなかった。しかしその後、ヒリー・クリスタルが犯した当初の判断ミスが、徐々に勝利へと変化していくことになる。

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ヒリー・クリスタルは、トム・ヴァーレインとリチャード・ヘルに偶然出会った。2人は数カ月まえにテレヴィジョンというバンドを結成したばかりだった。彼らのマネージャー、テリー・オークは、定期的にギグをやらせてほしいとヒリー・クリスタルに掛け合った。最初のギグで、妥協のない爆音と激しい演奏を聴くと、ヒリー・クリスタルの懸念はより大きくなった。また、彼らにはまだ多くのファンがついていなかった。それでも、これは別の世界への窓を開ける出来事だった。

テリー・オークは、テレヴィジョンにもう一度チャンスを与えるよう、ヒリー・クリスタルを説得した。また今回は、より騒々しく荒々しいクイーンズのグループも売り込んだ。彼らの機材はきちんと機能せず、彼らにはまともなファン・ベースもなかったが、それでも彼らの派手な演奏に何かを感じたクリスタルは、この挑戦的な新しい音楽に関する考えを改めた。このグループこそが、ラモーンズである。彼らは1974年にレジデンシー公演をスタートした。それからしばらくして、彼らは17分間で20曲を演奏するというアイディアを思いついた。

「(こうした若手バンドが)週に1~2回演奏できる場所は、いくつかあった」とヒリー・クリスタルはエヴァンスに語っている。「それでも大抵の場合、どのクラブも彼らにオリジナル曲を演奏させてはくれなかった。それを知った時、俺は彼らの好きに演奏させてやったんだ。あまりにも多いもんだから、『ポリシーが変わった。ここで演奏するには、オリジナル曲をやらなくちゃいけない』と俺は言ったのさ」。

「それから人がやって来るようになった。来るようになったのはお客じゃなくて、ミュージシャンだったがね……誰もが自分の音楽をやりたがっていた。酷いものもあったし、酷いを通り越した酷さのものもあったが、それでも面白かったよ」。サイは投げられた。CBGBは、若者たちが無検閲で音楽的な表現をする本拠地となったのだ。

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1974年から1975年の間に、若手バンドが続々とクラブに集まった。例えば、若いデボラ・ハリーを擁したスティレットーズ。デボラ・ハリーは後に、結成当初のブロンディでも同クラブを再訪する。エレクトロニック ・パンクの先導者、スーサイドもやって来た。1975年2月には、パティ・スミスがCBGBで初公演を行った。レコード契約を結ぶ前のトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、初期のトーキング・ヘッズ、ウェイン・カウンティ、ミンク・デヴィルもギグを行い、メディアも注目しはじめた。

このシーンを真っ先に取り上げた雑誌のひとつが、クリーム(Creem)だ。同誌は、デイヴ・マーシュがクエスチョン・マーク&ザ・ミステリアンズについて執筆した1971年の記事で、‘パンク・ロック’という言葉を使った初めてのメディアだった。1975年の夏、ヒリー・クリスタルが大胆にもFestival of the Top 40 Unrecorded New York Rock Bands(未契約のニューヨーク・ロック・バンドを集めたフェスティヴァル)」を開催した時、CBGBはイギリスのメロディ・メーカー誌からも注意を引いた。同フェスティヴァルには、テレヴィジョン、ラモーンズ、ミンク・デヴィル、ジョニー・サンダーズ&ザ・ハートブレイカーズ、ヴォイドイズ(テレヴィジョンを脱退したリチャード・ヘルの新バンド)も参加していた。

全てが一過性の話で終わってもおかしくなかったが、CBGBで演奏したバンドは、レコード契約を獲得するという評判が立った。まず契約を獲得したのは、パンクのゴッドマザー、パティ・スミスだ。クライヴ・デイヴィスの新レーベル、アリスタ・レコードと契約を結んだ。パティ・スミスは29歳の誕生日を迎える直前に『Horse』をリリース。同アルバムは、CBGBスピリットの先達ともいえるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルによってプロデュースされた。こうしてニュー・ウェイヴは支持すべきレコードを獲得し、クラブは新たなヒロインを獲得した。

CBGBの快進撃は続いた。1976年までに、CBGBの評判は高まり、アトランティック・レコードからコンピレーションもリリースされた。2枚組の『Live At CBGBs――The Home Of Underground Rock』は、ミンク・デヴィル、タフ・ダーツ、ザ・シャーツ、ラフィング・ドッグス等が収録された。ヒリー・クリスタルは、同コンピレーションのライナーノーツでこう記している。「このアルバムは、1975年から1976年の間にCBGBで公演した重要バンドの中で、私が最高にエキサイティングだと信じる『ライヴ・パフォーマンス』を録音したアンソロジーだ」

Blondie

他のメジャー・レーベルも、CBGBに一枚噛もうとし、CBGBで名声を確立したバンドの中には、批評家からの評価が、商業的なインパクトを上回ることもあった。サイアー・レコードはラモーンズと契約し、セルフタイトルのデビュー・アルバムを1976年春にリリース。前衛的なバンドとしてデビューした4人組、トーキング・ヘッズは「Talking Heads: 77」をリリース。プライヴェート・ストック・レコードはブロンディを獲得。1976年12月にリリースされたデビュー・アルバム『Blondie(邦題:妖女ブロンディ)』は、最もパンクな彼らが収められている。

どの場合においても、バンドはCBGBを卒業するまでに、そのクリエイティヴな影響力をアルバム・セールスに変換させていた。しかし、CBGBの存在なくしては、そこまでの成功を手に入れることはなかっただろう。ポスト・パンク時代に相次いで登場したモダン・ロッカーは、ニューヨーク以外、アメリカ以外の出身者も多く、彼らはCBGBで初演奏を行った。例えば、デッド・ボーイズやペル・ウブはクリーヴランド出身、ディーヴォはアクロン出身だ。また、ポリスはアメリカでの初公演をCBGBで行っている。

振り返ってみればCBGBは、イギリスで高まりを見せていたパンク・ムーヴメントを補完するものだったと考えられるだろう。ただし、当時ニューヨークでは、‘パンク’とは呼ばれていなかった。同クラブで演奏していたバンドは、想像力と変化に富んだスピリットを醸し出しており、定期的に演奏していたバンドの中で、同じようなサウンドを持つ者はいなかった。

クリスタルは、スラッシュからハードコアと扱うサブジャンルを変えて信念を貫き続けながら、デッド・ボーイズとザ・シャーツのマネジメントにも挑戦した。音楽シーンはかつてのようにCBGBを中心に展開することはなかったが、それでもクリスタルは自分が成し遂げてきた功績を誇りに思い、クラブのロゴを冠した商品を売っていた。

2006年にクラブが立ち退きを余儀なくされた時、かつてCBGBで演奏したアーティストの多くがクラブに敬意を表し、演奏しにやって来た。ディクテイターズとバッド・ブレインズは、最終週に数回公演を行い、ブロンディもアコースティック・ライヴを行った。10月15日、パティ・スミスはテレヴィジョンのリチャード・ロイド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーを招き、3時間半という長時間公演を行った。公演が終わりに近づく頃には、ラモーンズの「Blitzkrieg Bop」の要素を取り入れながら、「Gloria」を演奏した。最後のアンコール曲となったのは、締めくくりにふさわしい「Elegie」だった。

ロック・クラブは現れては消えてゆくが、CBGBは唯一無二の存在だ。プレイリスト・セレクションで、神聖化されたCBGBのサウンドを追体験してみてはいかがだろうか。

Written By Paul Sexton

♪ プレイリスト『City Scenes New York Punk & CBGB

♪ プレイリスト『ピュア・パンクをフォローして、ロック史上でも扇動的なこの時代を体感 しよう。

 



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