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パンクの勃興前後やピストルズ、そしてグランジまでの代表バンドと移り変わり

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1976年12月2日、“悪態と激憤 / The Filth and the Fury”という強烈な語句が、英デイリー・ミラー紙の朝刊の見出しを飾った。それはセックス・ピストルズの曲のタイトルとなってもおかしくないフレーズだったが、実際はその前日の夕方、セックス・ピストルズがテレビ番組の生放送中に“英国のテレビ放送史上、最も下品な言葉”を使ったとして一斉に報道された際の、一般的な新聞やメディアの反応であった。

今では悪名高い事件として知られるこの出来事。マスコミに大きく取り上げられて世間の注目を浴びたのは、その衝撃の大きさゆえだったが、当時セックス・ピストルズは、英国の若者の一部にとっては既に、自分達が共感できる選択肢を提供してくれるカルト・ヒーローとなっていた。

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若者達にとって手の届く音楽パンク・ロック

パンク・ロックはエキサイティングな“DIY(=自分の手で作る)音楽”であったが、何より重要だったのは、それが若者達にとって手の届く音楽であったこと、つまり、自尊心の高いパンクスが嫌っていた、もしくは憎んでいた全てを象徴するようなバンド、例えば、ELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)や、ELP(エマーソン、レイク&パーマー)、イエス、そしてとりわけピンク・フロイドといったバンドが鳴らす、古臭くて大仰なサウンドではなく、自分達にも演奏できそうな音楽であったという点だ。

また、パンクの肝はその音楽性にあった一方、音楽というものは結局、その創造性が人を惹きつけるかどうかが大事で、それは正に、“他とは違っている”ということと同じくらい重要な意味を持っていたのである。

1975年後半、ロンドンのシーンに初めて登場したセックス・ピストルズは、音楽と、ファッション、芸術、そして不敵な態度(アティテュード)を融合させた。刺激的なその融合体は即座に人々を惹きつけた。その融合は一面において、パンクの仕掛け人マルコム・マクラーレンの巧みな画策が、ある程度寄与したものでもあった。

UKパンク誕生の背景には、保守メディアの過剰とも言える反応があり、彼らは疑うことを知らない気の毒な読者達に、礼儀正しき社会の門前に野蛮人達が迫って来ているぞとしきりに警告したのだ。それが却って火に油を注ぐ形になった。マーガレット・サッチャーが保守党の党首となった年(1975年)に25歳以上だった大半の人は、直感的にパンクを嫌っていた。多くがその音楽をまだ聴いてもいなかった中で、パンクは自分達向けの音楽ではないことを彼らは悟っていたのである。

パンク・ロックが発明されたのは、1970年代半ばのロンドンではない。だが、それに磨きをかけて完成させたのは、実際にパンクを演奏していたバンドだけでなく、メディア、レコード会社、そしてほぼ全てのファンをひっくるめたシーン全体であった。それぞれが全く異なる理由から、何かを(もしくは何でもよいから)“次に来るブーム”にしたいという思惑や願いを抱いていたからである。

元祖パンクはロカビリーのアーティストだったと主張する者もいる。彼らは、つばの大きいカウボーイ・ハットをかぶったナッシュビル出身のカントリー&ウェスタン歌手に替わる、ダイナミックな音楽の選択肢を提供したからだと。更に遡るなら、ビー・バップ好きの、ズート・スーツできめた最先端のジャズ・ファン達は、当時としては極めて突拍子もなかったスタイルのジャズを支持し、激しい怒りを買っていた。ちょうど30年後の時代に、パンクがそうであったように。

 

レベル=反抗者:パンク以前のアメリカ

米国でブリティッシュ・インヴェイジョン(*英国の侵略:1964〜66年にかけ、英国産バンドが全米を席巻したブームのこと)が起きる前の60年代初頭、ニューヨークのブリル・ビルディング発のソングライター達がアメリカのみならず世界中に向けて強制的に送り込んでいた楽曲とは全く異なるものを提供していたのが、ビーチ・ボーイズやジャン&ディーンであった。

当時の音楽シーンは、ボビーという名の青年やら、お月様やら、6月やら、誇り高い最先端のティーンエイジャー達が望んでもいないようなライフスタイルやらをテーマにした曲が溢れ返り過ぎていた。そんな中でビーチ・ボーイズが取り上げていたのは、改造車や、とにかく‘Fun, Fun, Fun’と楽しむこと。彼らは“パンク”ではなく、“レベル”(反抗者)と呼ばれていた。

彼らは反抗者だったかもしれないが、それは決して理由なき反抗ではなかった。そしてその反抗心は、パンク・ロックや、その祖先、およびその末裔が、音楽全体にとって大変重要な存在となる上で、不可欠なもうひとつの要素であった。しかしどんな先達があったにしても、パンク・ロックほどの衝撃を与えたものは、それまでひとつもない。

そこで何より重要だったのは、勢いと、そしてできるだけ早く自らの音楽的声明を広めて理解してもらうこと。その点においてロカビリーは、長らく忘れられていたパンクの祖先だと、自ら申し立てていいのかもしれない。

そういった60年代初期アメリカのサーフ&ギター・バンドの中から、ブリティッシュ・インヴェイジョンに代わるものとして登場したのが、パンクと呼ばれる最初のバンドのひとつ、サーティーンス・フロア・エレヴェイターズであった。彼らの1966年のアルバム『Psychedelic Sounds Of 13th Floor Elevators』には確かに、パンクの特徴と見なされる要素が数多く備わっている。つまり不敵な態度とエネルギーとが充満する、シンプルで激しくて短い曲だ。

You're Gonna Miss Me

 

デビュー当時のザ・ローリング・ストーンズのイメージ作り

“ブランク・ジェネレーション(=空白の世代)のトム・パーカー大佐”とかつて呼ばれていたマルコム・マクラーレンは、ポップ・マネージメント界の仕掛け人業務に携わっていた人々から、その手法を学んでいた。とりわけ手本としていたのが、ザ・ローリング・ストーンズのイメージ作りにおいて重要な役割を果たしていたアンドリュー・ルーグ・オールダムだ。

アンドリュー・ルーグ・オールダムは、(少なくとも初期段階のザ・ビートルズが喜んで受け入れていたイメージである)いわゆる“ポピュラー音楽ミュージシャン”という体制順応的な基本方針に従うことを良しとしない、反体制的な知性派ミュージシャン一派に多大な貢献を果たしていた。

音楽的には、ザ・ローリング・ストーンズはブルースとR&Bに傾倒しており、パンク・ロックの音楽的な祖先ではない。だがブルースの熱心な信奉者であった彼らは、スーツをビシッと着こなした1960年代初頭のビート・ブームのバンドとは一線を画した存在でありたいと明確に考えており、既成の枠を打ち破りたいと願っていた、自尊心あるパンク・バンドに通じるものがあった。

ロンドンでパンク・シーンが勃興する10年以上前、ザ・ローリング・ストーンズは、ガソリン・スタンドの壁に立ち小便をしたり、当局に対して敬意を欠いたり、当時の複数の新聞記事の表現を借りれば “石器時代人”のような服装や行動を敢えてしていたことから、物笑いの種にされていた。

確かに60年代初頭の英国の親世代にとって、ザ・ローリング・ストーンズは体も洗わない連中だと噂されていた事実は、想像を絶するほど衝撃的だったのである。そのイメージは、郊外に暮らす一般家庭の人々に対し、アンドリュー・ルーグ・オールダムが問いかけたこんな発言によって拍車がかかった。

「あなたの姉妹がザ・ローリング・ストーンズのメンバーと交際したいと言ったら、許しますか?」

The Rolling Stones – Jumpin' Jack Flash (Official Video) [4K]

当時のザ・ローリング・ストーンズの突飛な行動の数々は、後の時代に起きたことに比べれば大人しいものだったと今では思えるが、マルコム・マクラーレンはアンドリュー・ルーグ・オールダム同様、単に素晴らしい音楽を演奏するだけでは不十分であるという、シンプルな指針を採用した。つまり、バンドがその他大勢の集団から抜け出すためには、世間から何らかの反応を引き起こし、注目を浴びる必要があるということ。特にそれがひどい反感だとしたら、なお良いということだ。

ポップとロックの進歩において、常にその鍵となってきたのが、音楽的な両極の対立だ。パンクの主根と見なされていたバンド群が当初、“サマー・オブ・ラヴ”やカリフォルニアのヒッピー田園詩の、気だるく狂気じみた時代に対抗しようとしていたのは間違いない。アメリカの若者達、少なくともその一部は、ビーズ・アクセサリーだの、カフタン風の服装だの、ふわっとした歌詞だのに飽き飽きしていた。彼らが求めていたのはハード・コアなもので、デトロイトという街は反撃を開始するのに理想的な場所であった。

 

デトロイトのシーン

“自動車の街”ことデトロイトで間もなく人気を博すようになったのが、ストゥージズとMC5だ。とはいえ両バンド共に、元々はデトロイト出身ではなく、MC5はイリノイ州のリンカーン・パーク(現在はその地に名称が由来するバンド、リンキン・パークがいる)出身、ストゥージズはミシガン州南東部アナーバーの出身だった。どちらのバンドも荒々しく、彼らの音楽には粗削りな部分があったが、それは後のパンク・バンドに対する意見が、観客と批評家の間で分かれる原因となった側面でもある。

音楽評論家レスター・バングズが“史上最もパンキーなバンド”と称したストゥージズは、1969年、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの元ベーシスト、ジョン・ケイルがプロデュースしたアルバム『The Stooges』でデビューを果たした。

Iggy & The Stooges – TV Eye (Live)

 

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド

そんなジョン・ケイルが在籍していたヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコのデビュー作は、1960年代における最も重要なアルバムのひとつに挙げられている。彼らのバンド名を冠した同作は、1967年の発表当時は売れ行きが芳しくなく、恐らくは1万枚程度しか売れなかったものの、“このアルバムを購入した誰もがバンドを結成した”として、引き合いに出されることの多い作品だ。

彼らがヴェルヴェット・アンダーグラウンドと名乗るようになったのは1965年のこと。バンド名の由来は、60年代初めの性サブ・カルチャーを題材にしたSM小説で、その音楽性の推進力となっていたのが、ルー・リードのソングライティング力と、クラシック音楽を学んだ英ウェールズ出身のジョン・ケイルのベース奏法であった。

アンディ・ウォーホルがバンドのマネージャーとなり、デビュー作がリリースされる頃には、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコは、後にパンクが部分的に影響を受けることになる“アート・ミーツ・ミュージック(芸術と音楽の融合)”のテンプレート的なものを作り上げていた。

the velvet underground live 1968 – white light white heat

 

ニューヨーク・ドールズとT・レックス

1970年代初頭、グラム・ロックの要素をふんだんに取り入れながら、パンクの姿勢と音楽とを新しい方向に向かわせていたのがニューヨーク・ドールズだ。バンド名を冠した彼らの1972年のデビュー・アルバムは、元ナッズのトッド・ラングレンがプロデュースを担当。そのナッズもまた、多くの後進に影響を与え、デビュー作に数々のプロト・パンク曲を収録していたバンドであった。

ニューヨーク・ドールズは、パンク・ロックというよりグラム・ロックであると主張する人もおり、それは真実かもしれないが、彼らがこれほどまでに重要な存在となっているのは、その影響力ゆえだ。ニューヨーク・パンク・シーンに君臨していたニューヨーク・ドールズは、1975年に解散。ファースト・アルバムのジャケット写真で彼らが化粧をしていたという事実がセールスを損なったのだが、皮肉なことにデヴィッド・ボウイにとってそれが問題となったことはなかった。

New York Dolls – Personality Crisis

 

初期のT・レックスがステージでエレクトリック・ミュージックを演奏するのを見たことがある人なら、彼らの音楽的アプローチにパンク的な感性があったことが分かるはずだ。1972年には既に、マーク・ボランは“綺麗目なパンク”と呼ばれていた。

ザ・ダムドの一番のお気に入りだったT・レックスには、ニューヨーク・ドールズ同様、焼け付くようなエネルギーがあり、それもまた1970年代後半のパンク・ロック・ムーヴメントにおいて非常に重要なもうひとつの要素であった。ロンドンの汗まみれのクラブで演奏されるパンクの粗削りなパワーと興奮は、抗いがたい魅力に溢れていたのである。

T. Rex – 20th Century Boy [Original Super 8 Roger Hill Archive Recording) [HD]

 

米国に話を戻すと、USシーンでは、ラモーンズ、ハートブレイカーズ、ブロンディ、テレヴィジョンら、ニューヨーク・シティ拠点のバンドがパンク・ロックと呼ばれ、ファンはCBGBや、マザーズ、マックス・カンザス・シティといったNYのクラブに集っていた。この時点では、世界のパンク・ロックの首都はニューヨーク・シティであった。

 

マルコム・マクラーレンとセックス・ピストルズ

マルコム・マクラーレンが、彼の恋人でデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドとキングズ・ロードで経営していた洋服店は、それまで何度か形態と名称を変えており、“レット・イット・ロック”や“トゥ・ファスト・トゥ・リヴ・トゥ・ヤング・トゥ・ダイ”といった店名を経て、1975年には“SEX”と改名。

マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドはニューヨークを訪れ、ニューヨーク・ドールズにステージ衣装を提供するに至った。1975年頃には、マルコム・マクラーレンはセックス・ピストルズのマネージャーとなっており、彼らのバンド名に彼とヴィヴィアン・ウエストウッドの店の名前が取り入れられていたのは、単なる偶然ではない。マルコム・マクラーレンの任務の中心には、常にマーケティングが据えられていたのである。

1975年11月に行われたセックス・ピストルズの初ライヴで、ジョン・ライドンが着ていたのは、破れたピンク・フロイドのTシャツだった。それは敬意からではなく、ピンク・フロイドがピストルズの対極にある全ての象徴だったからだ。ジョン・ライドンが更にそのTシャツに書き殴っていたのが、“大嫌いだ(I Hate)”という一言。それは大仰で虚飾に満ちたメインストリームのロックに対してだけでなく、他の全てのことに対する彼とバンドの姿勢の要約であった。

1976年初め、ジョニー・ロットンと改名したリード・ヴォーカルのジョン・ライドンは、こう語っている。

「俺はヒッピーが大嫌いなんだよ……長髪が大嫌いだし、パブ・バンドも大嫌いだ。俺は状況を変えたいんだ。俺達みたいなバンドがもっと出て来られるようにね」

John Lydon 'I really love Pink Floyd'

それは彼ら以前に存在した数多くのバンド、そして彼らに続いた数多くのバンドの声を代弁していたであろう、心からの叫びであった。

パンクの精髄を抽出したセックス・ピストルズのシングル「God Save The Queen」(皮肉なことに当初の曲名は「No Future」=“未来はない”だった)は、まず1977年3月にA&Mからリリースされたものの、バンドが不品行によりA&Mから契約を解除されたため、5月にヴァージン・レコーズから再リリース。既にこの頃、パンクは自己再生産の兆候を示していたと言える。セックス・ピストルズ唯一のスタジオ・アルバム『Never Mind The Bollocks(勝手にしやがれ!!)』がリリースされたのは、同じ年の10月。あれから40年を経た現在でも、このアルバムは発売当時と同じくらい新鮮でエキサイティングな音を鳴らしている。

Sex Pistols – God Save The Queen

 

パンクのウッドストック

UKパンクとUSパンクの根本的な違いは、その年齢層にあった。ジョニー・ロットンを始めとするセックス・ピストルズのメンバーは、名を成した時点で全員20歳そこそこ。一方、米国のパンク・ロッカー達は20代半ばになっており、英国のパンクスからすると遥かに保守的に見えた。

1976年9月末、パンクの精神的拠点であるロンドンの”100クラブ”で2日間にわたりパンク・フェスティバルが開催されると、このイベントは、かつてウッドストックがロックに新たな衝撃の到来を告げたのと同じ役割をパンクに果たすこととなった。

初日はセックス・ピストルズがヘッドライナーを務め、前座としてサブウェイ・セクト、スージー&ザ・バンシーズ、そしてザ・クラッシュが出演。2日目の夜はバズコックスがトリとなり、スティンキー・トーイズ、クリス・スペディング&ザ・ヴァイブレイターズ、そしてザ・ダムドが前座を務めていた。

スージー&ザ・バンシーズがリハーサルを1曲も行わずに即興演奏でライヴ本番に臨んだのは、真のパンク精神の現れだと主張する者もいるだろう。彼らのセットリストには、「主の祈り(Lord’s Prayer)」の朗読すら含まれており、これは正にパフォーマンス・アートであった。とは言え、パンク・ロックがアート・ロックと何らかの関係があると示唆しているわけでは決してない。

Siouxsie and the Banshees – First Performance (100 Club Punk Festival: September 20, 1976)

スージー・スーは、人々に衝撃を与えることを目的としたメイクや服装で身を固め、映画『時計じかけのオレンジ』でマルコム・マクダウェルが演じた主人公のキャラクターを手本にしていた。バンシーズは(何回かのメンバー・チェンジを経て)1978年6月にレコード会社と契約を結び、デビュー・アルバム『The Scream』を1978年11月にリリース。先行シングル「Hong Kong Garden」は、既に全英トップ10入りを果たしていた。

コアなパンク・ファン達(恐らく、かつてロンドンの街中に「バンシーズと契約しろ」というスローガンのグラフィティを描き、自主的なキャンペーンを展開したのと同じ人々)の中には、“裏切り者”と嘆いた者もいた一方、バンドは30枚のシングルを全英チャートに送り込み、パンクの威信とチャートにおける成功とをバランス良く両立させながらキャリアを築き上げた。

Siouxsie And The Banshees – Hong Kong Garden (Official Music Video)

 

ザ・ダムド:英国初のパンク・レコード

大論争を巻き起こした前述の不運なテレビ出演の後、セックス・ピストルズは初の全英ツアーを敢行。前座としてザ・クラッシュと、元ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースが率いるザ・ハートブレイカーズが同行。数公演にはザ・ダムドも加わった。

この<アナーキー・ツアー>は、ピストルズのデビュー・シングル「Anarchy In The U.K.」と連動して計画されたものだったが、最悪の事態を恐れた会場側から公演のキャンセルが相次ぐ結果に。だが会場側が最も懸念していた対象がバンド自身だったのか、あるいはファンのことだったのかは定かではない。1977年2月には、シド・ヴィシャスがバンドに加入。しかしセックス・ピストルズは短命に終わり、悲劇的な最後を迎えることとなった。だが、それ以外の終わり方が果たしてあり得たのだろうか?

ザ・ダムドが1976年10月下旬にリリースしたシングル「New Rose」は、英国初のパンク・レコードという栄誉を得た。同曲は、ニック・ロウがプロデュースを手掛け、1977年2月にスティッフ・レコードから発売されたデビュー・アルバム『Damned, Damned, Damned』にも収録されている。

The Damned – New Rose (Official HD video)

セックス・ピストルズ同様、彼らも芸名を好んで採用しており、オリジナル・メンバーはそれぞれ、デイヴ・ヴァニアン(本名デヴィッド・レッツ)、キャプテン・センシブル(本名レイモンド・バーンズ)、そして恐らくこの中で最強のパンク・ネームであるラット・スケイビーズ(=ネズミ疥癬という意味。本名クリス・ミラー)と名乗っていた。これもまた、パンクというパッケージ全体に不可欠な部分であり、それによって、パンクというミッションに全身どっぷり浸かることが出来たのである。

もしパンクのエネルギーを疑う人がいるなら、名曲「Neat, Neat, Neat」を含む彼らのデビュー・アルバムが、ロンドン北部のパスウェイ・スタジオで僅か1日でレコーディングされたという事実についてよく考えていただきたい。ちなみにその5ヶ月後には同じスタジオで、あらゆる点でパンクの対極にあるダイアー・ストレイツが『Sultans Of Swing(悲しきサルタン)』のデモのレコーディングを行っている。

the Damned – Neat Neat Neat

スティッフ・レコーズの元ゼネラル・マネージャーのポール・コンロイによれば、ザ・ダムドについてこう語っている。

「事務所の隣のパブ“ダーラム・カッスル”で昼飯時を過ごした後、ザ・ダムドのメンバーは、僕がレコード会社業務の雑事に取り組んでいるところにやって来ては、大いに仕事の邪魔をしてくれたもんさ。まずは大抵、書類の上にビールをこぼしたりしてね。スティッフとザ・ダムドは完璧な組み合わせだった。彼らは当時最もエキサイティングなバンドのひとつで、僕らは一緒に素晴らしい音楽を作ることが出来たよ」

 

最初のゴス:ザ・キュアー

やがてザ・ダムドは、スージー&ザ・バンシーズやザ・キュアーと共に、ゴスと呼ばれることになる最初のバンドのひとつへと進化した。ザ・キュアーは当初マリスと名乗っていたが、1977年1月頃には、地元である英南部クローリーでイージー・キュアーとして知られるようになっていた。

フィクション・レコードからリリースされることになるデビュー・アルバム『Three Imaginary Boys』のレコーディング直後、1978年5月には、ヴォーカル兼ギターのロバート・スミスの命により、イージー・キュアーから“イージー”を外していた。アルバム発表後まもなく、ザ・キュアーはスージー&ザ・バンシーズと共にツアーに乗り出したが、途中バンシーズのギタリストが辞めたのを受け、一晩スミスが代役として急遽ギターを担当したこともあった。ザ・キュアーは、ポストパンクとゴスの間の橋渡し役として最大の貢献を果たしたバンドであり、この時代に活動を始めた英国のバンドとしては、米国で輝かしいキャリアを築き大成功を収めた数少ないアクトのひとつであった。

The Cure – Boys Don't Cry

 

ザ・ジャム:ポスト・モッズ・バンド

ロンドンはパンク・ロックの心の故郷で、このシーンを自ら目の当たりにするため、英国各地の若者達がロンドンまで足を運んだものだった。ポール・ウェラーはこう語る。

「退屈なウォーキングの町(サリー州)とはかけ離れているように思えたんだ……。その感覚を捉えようとして、俺達はよくロンドン詣でをしたものさ」

1972年にポスト・モッズ・バンドとしてポール・ウェラーが学友達と結成したザ・ジャムは、1976年にパンク・シーンに飛び込んだ。ポリドールと1977年初頭に契約すると、デビュー・アルバム『In The City』をレコーディング。他の多くのパンク・バンドと比べ、ザ・ジャムは音楽的に完成度が高く、60年代的な感性とポール・ウェラーの政治色を帯びた熟練の作詞・作曲によって、大半のバンドより一段優れた存在であった。

留まるところを知らないザ・ジャムの勢いは、シングルやライヴだけでは収まりきらなくなり、デビュー・アルバム発表からわずか7か月後には、2作目のアルバム『This Is The Modern World』をリリース。勢いは、パンクにまつわる全ての生命線であった。当時ニック・ロウがよく口にしていた言葉を借りれば、「ガツンと叩き出し、ガッと投げ付け」ていたのである。

The Jam Live at 100club "Punk in London (1977)"

 

 

ザ・ジャムのデビューから1年後、サリー州近郊ハーシャム出身のジミー・パーシーが率いるシャム69が、シングル「Borstal Breakout」でポリドールからメジャー・デビュー。当初これは元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルが手掛けることになっていたのだが、結局ジミー・パーシー自身がプロデュースを行うことになった。「Borstal Breakout」はまた、アグレッシヴなパンク・ノイズを特徴とする“Oi Music”の先駆けともなり、優れたパンク・レコードの大半がそうであったように、各曲が3分足らずの長さを維持していた。

Sham 69 – Borstal Breakout

後に成功を収めることになるもう1つのポストパンク・バンドが、1980年にセルフ・タイトルのデビュー・アルバムをリリースしたキリング・ジョークだ。チャート順位の面で言えば、デビュー当時の売れ行きはそこそこであったが、彼らは数多くの後進バンドに影響を与えることとなり、とりわけ米国ではニルヴァーナやサウンドガーデンがその筆頭に挙がっている。

Killing Joke – Eighties

 

ソニック・ユース

パンクのルーツはアメリカにあったが、1970年代後半のブリティッシュ・パンク・ロック勃発後、パンクがUKからアメリカに向けて大西洋を再横断し、アメリカの若者達にその影響力を行使したのは全く自然なことに思える。

英国で起きていたことを見聞きしていた彼らは、そのイメージでバンドを始めることを切望していた。ソニック・ユースが結成されたのは、1981年の半ば。MC5のソニックことフレッド・スミスのニックネームと、レゲエ・アーティストのビッグ・ユースを組み合わせたのがバンド名の由来だ。

彼らの影響源を考えれば、バンドが当初、地元ニューヨークよりもヨーロッパでより広く受け入れられていたのも不思議ではない。1992年のアルバム『Dirty』は、全英トップ10入りを果たし、他のヨーロッパ・チャートにもランクインしていた一方、全米ではトップ100入りがやっとであった。

Sonic Youth – Bull In The Heather (Official Music Video)

 

パンクから多大な影響を受けたグランジ

1980年代半ばから後半にかけて、シアトルで誕生したUSグランジ・シーンは、歌の力強さ、歪んだギター、そして社会的テーマや社会の偏見を中心的に取り上げた歌詞など、パンク・ミュージックから多大な影響を受けていた。

元ハードコア・パンク・バンドのドラマーだったデイヴ・グロールが牽引したニルヴァーナの粗削りで簡素なサウンドは、ジャーニーや、スターシップ、REOスピードワゴン、フォリナーといったバンドによる仰々しいスタジアム・ロックに代わる完璧な選択肢となった。

パンク同様、グランジには激しい非難をぶつける対象があり、1991年に2作目『Nevermind』をリリースしたニルヴァーナは、アンダーグラウンドの地位から飛び出して商業的な成功を収めた。同アルバム収録の「Smells Like Teen Spirit」は全米シングル・チャートでトップ10入りを果たし、その勢いに乗った『Nevermind』は、マイケル・ジャクソンの『Dangerous』を引き摺り下ろす形で全米アルバム・チャート首位に輝いた。

Nirvana – Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)

ニルヴァーナと共にグランジ人気を支えたのは、もう1つのシアトル出身バンドのサウンドガーデンで、1989年にA&Mと契約した彼らは、シアトル初のメジャー・レーベル所属バンドとなった。

A&M移籍第一弾となった通算2作目『Louder Than Love』は、“MC5とストゥージズがレッド・ツェッペリンと融合したよう”と評されているが、バンドのギタリスト、キム・セイルは当時、彼らのサウンドは「ヘヴィ・メタルからの影響と同じくらい、キリング・ジョークやバウハウスといったイギリスのバンドの影響を強く受けている」と語っていた。

Soundgarden – Loud Love

パンクをポップ・パンクに変貌させたのは、カリフォルニアのバンド、ブリンク182だ。1999年のアルバム『Enema Of The State』が全米でトップ10入りしたほか、「What’s My Age Again?」のミュージック・ビデオ内で、彼らがロサンゼルスの通りを裸で走っていたことから、誇り高きパンク・バンドとして程良い波紋を呼んだ。

ブリンク182は、ザ・キュアーを主な影響源として挙げているが、遥かに楽観的な彼らの歌詞は、純粋なパンクとは一線を画している。唯一パンク直系の血統を受け継いでいる点は、彼らの中でも特に優れた曲の多くのテンポが速いところだ。

blink-182 – What's My Age Again? (Official Music Video)

 

パンクがこれほど重要な存在になったのはなぜか? パンクに対する我々の情熱は、なぜこんなにも長く持続しているのか? もちろんその音楽性が理由であるが、そのアートも重要な理由である。つまり、驚くほど素晴らしいジャケットのシングルや、アルバムのアートワーク、そして関連のグラフィック・デザインはどれも皆、現在どの月刊音楽雑誌の表紙を飾った場合にも、売上増を保証するものだ。だがそれだけでなく、パンクの反性差別主義的な姿勢もまた、パンクがなかったら掴み得なかったかもしれないチャンスを、数多くの女性ミュージシャン達に提供していた。

パンク・ミュージックが提供するものとは、当時も今も、希望である。アティテュードが十分にあれば、誰もがミュージシャンになれるという希望。パンク誕生以前の1970年代初頭には、音楽は誰でも成し遂げられるようなものではないという感覚があった。セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズの有名な発言に「ミュージシャンというのは、天から降ってくるものだと思っていた」というのがある。

セックス・ピストルズを始め、ザ・スリッツや、ザ・ディッキーズ、エディ&ザ・ホット・ロッズらを含む様々なバンドが、成せばなるということを証明した。そのイメージを強調し、パンク神話を支えていたのが、スニッフィン・グルー誌のようなファンジンだ。だが、それは神話だったのだろうか? そのことを簡潔に説明するひとつのパンク・ファンジンがあった。A、E、Gのギター・コード表を掲載し、「これが1つ目のコード、これが2つ目、そしてこれが3つ目……さあ、バンドを結成しようぜ」と。

ザ・ダムドやザ・キュアーといったバンドは、パンク・ロックを遥か超えた先にも音楽人生があることを証明している。そして彼らや他の多くのバンドがきっかけとなり、数々の次世代ミュージシャン達が世に出ることとなる。ディスチャージ、クラス、ナパーム・デスは、パンク・ムーヴメントから生まれたバンドのほんの数例だが、彼ら自身もまた大きな影響力を及ぼす存在となった。もちろん、パンクの怒りが削ぎ落とされた後には、ニュー・ロマンティクスが登場……。万物は流転し、ロックとポップは再び前に進んで行く。

それでもやはりパンクの記憶は、他のほとんどの音楽ジャンルよりも、長く我々の心に長く生き続けていくことだろう。特に、1956年1月31日(ジョニー・ロットンことジョン・ライドンの誕生日)より後に生まれた人にとっては。彼が生まれたのは、エルヴィス・プレスリーが全米ネットワーク・テレビに初出演した3日後のこと。アメリカの新聞数紙の言葉を借りれば、エルヴィスは“ただのパンク野郎”以外の何者でもなかった。

Written By Richard Havers



 

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