誰が最初のブルース・ギター・ヒーローで、後世のギタリストへどのように広まっていったのか

November 18, 2017


誰が最初のブルース・ギター・ヒーローで、後世のギタリストへどのように広まっていったのか

ブルースは、個人的な要素が強い。アーティストは、自身の音楽やフィーリングと一体化するのだ。ブルースのあらゆるニュアンスを感じ取り、それを演奏するギタリストはそのフィーリングを体現する。これこそが、ブルース・パワーだ。

1903年、‘ブルースの父’を自称していたW.C.ハンディは、ある男と出会った。ギターを弾くブルース・アーティストは昔から大勢いるが、この男は、自分なりのメッセージと楽器を弾く能力を兼ね備えた最初のブルース・アーティストとされている。そのプレイは常人の域を超え、神の仕業に思えるほどだった、もしくは、悪魔の仕業にも感じられたほどだ…

W.C.ハンディはこう語っている。「私はある夜、タトワイラーの鉄道駅で、9時間遅れの列車を待ちながらうたた寝していた。いきなり肩を掴まれたように、私はハッとして目を覚ました。関節の柔らかい痩せた黒人が、寝ていた私の隣でギターを弾き始めていたんだ……演奏しながら、彼はギターの弦にナイフを押し当てていた。これは、ハワイのギタリストが広めた手法だ。あのエフェクトは忘れられないものだった。彼の歌にもすぐさま魅了された。彼は、今までに全く聴いたことのない奇妙な音楽をギターで弾きながら、「Goin’ Where The Southern Cross’ The Dog.(サザン・レイルウェイとヤズー・デルタ・レイルウェイが交わるところへと向かっている)」と3回繰り返していた。

この男が、最初のブルース・ギター・ヒーローなのだろうか? 彼がレコーディングをしていた可能性は低いが、ここから‘ギター・スリンガー(ギターの名手)’という概念が誕生した時の様子がイメージできるだろう。大半の人々は、パパ・チャーリー・ジャクスンがレコーディングを行ったブルース・マン第一号だというが、それは事実ではない。エド・アンドリューズとチャールズ・アンダーソンの2人が、パパ・チャーリー・ジャクスンが1924年8月にデビュー曲をレコーディングするよりも、わずかに早くレコーディングを行っている。しかし、彼らのうちで‘ギター・スリンガー’の資格を持つのは1人しかいない。チャールズ・アンダーソンは、ピアニストを伴って歌うシンガーだった。そして、パパ・チャーリー・ジャクスンが演奏していたのはバンジョー(ギターよりも音が遥かに大きく、路上で演奏するには最適)だ。つまり、謎だらけのエド・アンドリューズだけが残る。彼は、1924年3月下旬にアトランタで「Barrel House Blues」をギターの弾き語りによってレコーディングした。エド・アンドリューズについては全く何も知られていないが、彼の曲の中で、いくつかの‘ギター・ソロ’を聴くことができる。これは、レコーディング史上初のブルース・マンによるギター・ソロである。エド・アンドリューズは、レコード上で多くを釈明しているのだ。

BLJefferson-110b-AB009[2]

一般的に、ギター・”ソロ”を演奏したブルースマン第一号は、ブラインド・レモン・ジェファーソン(素晴らしい名前だ)とされている。レモンが彼の本名か否か、それについては定かではないが、彼の名前がカントリー・ブルース・ミュージックの頂点に君臨していることについては、疑いの余地はない。ブラインド・レモン・ジェファーソンは、ダラスの街角に立ち、チップ目当てで演奏しはじめ、1日に150ドルもの稼ぎをあげていたとされている。そのまま街角で演奏を続けていても良かったが、先見の明のあるダラスの店主が、パラマウント・レコードに27歳になる盲目のシンガー/ギタリストのことを話し、レコーディングしたらどうかと提案した。

パラマウントはブラインド・レモン・ジェファーソンをレコーディングすることに同意し、1925年12月または1926年1月、彼はシカゴに招かれた。どういうわけか、ブラインド・レモン・ジェファーソンもパラマウントも、ブルース曲をレコーディングする気はなかったようで、ブラインド・レモン・ジェファーソンはスピリチュアル(黒人霊歌)を2曲レコーディングすると、故郷ダラスへと戻った。それから数カ月後、彼はシカゴに戻り、今回こそはブルースをレコーディングした。4曲がレコーディングされ、そのうちの1曲「Long Lonesome Blues」が彼のデビュー曲となると、1926年5月にリリースされた。こうして、パラマウントとブラインド・レモン・ジェファーソンはブルース・レコードの様相を一変させ、さらに、ポピュラー・ミュージックの方向性も変えたとも言えるだろう。

ブラインド・レモン・ジェファーソンは、その歌唱法、独特のフレージング、ギターとヴォーカルを組み合わせてメロディ・ラインを引き立てる手法で、比類なき存在となった。彼は1926年から1929年の間に90曲以上をリリースし、初期ブルース・マンの中で最多レコーディングを記録。また、その圧倒的なレコード・セールスで、2台の車と運転手1人も手に入れた。ブランド・レモン・ジェファーソンは、甲高い声と見事なギターの腕前を併せ持つ、独特の才能だった。ブラインド・レモン・ジェファーソンは、他のアーティストとは一線を画す‘サウンド’を作り出したのだ。こうして、アーティストは単なる素材ではなく、スターとなったのだった。

後続のギター・ゴッドの多くと同様、ブラインド・レモン・ジェファーソンも悲劇的な最期を迎えた。しかし、ブラインド・レモン・ジェファーソンの死は謎に包まれている。死因は心臓発作だったとも考えられているが、1929年のクリスマスの直前、シカゴの吹雪の中で凍死した可能性もあるとされている。

Blake

ブラインド・レモン・ジェファーソンの成功を受けて、レコード会社はそれぞれ、彼のライバルになり得るアーティストを探そうと努めた。そのうちの1人が、ブラインド・ブレイクだ。「Blind Arthur’s Breakdown」を一聴すれば、‘ギターの達人によるレコードは売れる’という考えはここから発祥したということが分かるはずだ。彼はブルースよりもラグタイムに近かったかもしれないが、それでも素晴らしいことには違いなかった。

そして1936年、25歳のロバート・ジョンソンが初レコーディングを行った。その短いキャリアの中で、彼はわずか29曲しかレコーディングをしていないが、どの曲も詳細に研究・分析されている。彼がなぜ素晴らしいかについて、ありとあらゆるニュアンスに至るまでが抽出されているのだ。彼の情報に対する需要は、とどまるところを知らない。また、彼の演奏だけでなく、その人生やモチベーション、影響力についても理解したいというニーズが存在するようである。1960年以降、ブルースを愛するあらゆるギタリストが、ロバート・ジョンソンをインスピレーションの源とするようになった。

しかし、戦前のギター・ヒーロ―は、ロバート・ジョンソンだけにとどまらない。アーロン・ティーボー・ウォーカーは10代後半の頃、ブラインド・レモン・ジェファーソンに付き添ってダラスのセントラル・アヴェニューを歩く姿をしばしば目撃されていた。 彼は独学でギターを学び、1923年頃から地元のパーティで演奏を始めると、後にメディスン・ショウ(薬の行商人が特効薬や売薬の宣伝・販売のために町かどや広場などで行った演芸)や、アイダ・コックスとのショウでツアーを行った。1929年、彼はダラスでオーク・クリフ・T・ボーンとして最初のレコーディングを行った。T・ボーン・ウォーカーの幼馴染み、チャーリー・クリスチャンは40年代初頭に一流ジャズ・ギタリストとなり、ブルース界におけるT・ボーン・ウォーカーと同様に、ジャズ界のインスピレーションとなった。

T-Bone-Walker-copy

1936年頃、T・ボーン・ウォーカーはエレキ・ギターで新機軸を打ち出し始めた。これは、現代音楽の中でも特に素晴らしい試みだとされている。40年代前半を通じて、T・ボーン・ウォーカーはギターを頭の後ろで弾きながらスプリットをやったり、脚の間でギターを弾いたりと、ステージ・アクトを発展させていき、このスタイルは後にジミ・ヘンドリックスやチャック・ベリーにも模倣された。しかし、彼のプレイは見せかけだけではなかった。彼の演奏方法には、実体が大いに伴っていたのだ。複雑なジャズ・コードと、極上の音色、強弱のセンスを全て備えたT・ボーン・ウォーカーは、後に続いたほぼ全てのギタリストのインスピレーションとなった。

1946年までにT・ボーン・ウォーカーはブラック&ホワイト・レコードと契約し、1947年には初のR&Bヒット「Bobby Sox Blues」、その翌年には「Call It Stormy Monday (But Tuesday Is Just As Bad)」(「Stormy Monday Blues」として一般には知られている)をリリース。T・ボーン・ウォーカーは正真正銘のギター・ゴッドである。これを信じられない人でも、B.B. キングの言葉なら信じられるだろう。「もちろん、チャーリー・クリスチャンにも夢中だった。そして、T・ボーン・ウォーカーの“Stormy Monday”を聴いた時、そのギターに夢中になり、全ての点で夢中になった。今まで全く聴いたことのないようなギターの音色だった」

23歳のライリー・B.キングは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組に影響を受け、1948年メンフィスに移り住むと、WDIAというラジオ局で仕事を見つけた。彼はビール・ストリート・ブルース・ボーイとして知られ、これが自然と短縮されてB.B. キングとなった。メンフィスでの人気に後押しされ、彼は1949年にブレット・レコードでレコーディングのチャンスを獲得する。デビュー当初のレコードはあまりヒットしなかったが、1950年9月、サム・フィリップスがB.B.キングを自身のメンフィス・レコーディング・サービス・スタジオに招いた。才能のあるアーティストを探してメンフィスを訪れていたビハリ兄弟は、B.B.キングを自身の主宰するRPMレーベルと契約し、フィリップスとレコーディングした楽曲をリリースすることに同意した。

b-b-king-the-hooks-brothers-1949

フィリップスのレコーディングによる楽曲もヒットしなかったため、末弟のジョー・ビハリはメンフィスを訪れ、1951年1月8日にYMCAの一室でB.B.キングをレコーディングした。ジョー・ビハリは次にメンフィスを訪れた時、ローウェル・フルスンによる「Three O’clock Blues」のB.B.キング・ヴァージョンをレコーディングした。これが1951年12月29日にチャート・インし、1952年初頭には5週間ナンバー・ワンに輝いた。B.B.キングは、瞬く間にスターになったわけではないが、モダン・ブルース史上において最も長期にわたって成功した彼のキャリアは、こうして始まったのだった。B.B.キングは、健在するブルース・ミュージシャンの中で最も多くのレコードをリリースしている(*注:B.B.キングは2015年5月14日に死去)。また、リリースしたレコードの枚数に関しては、大半のミュージシャンを上回る。そして、後続のアーティストの演奏を聴けば、ギター・プレイヤーとしての彼の影響力の大きさが分かるだろう。

B.B.キングの見事な技能は、激しく変動する現代音楽の波を乗り越え、興味深いアルバムをリリースし続けた点にある。彼はブルースの限界を打ち破り、ブルースをアメリカン・ミュージックのメインストリームに仲間入りさせた。多くの人々にとって、彼こそが‘ブルースの帝王’であるが、B.B.キングの王座の近くに鎮座するアーティストも数多く存在する。

シカゴ・ブルースの帝王という称号を有する男は、アラン・ローマックスが国会図書館用の録音のためにストーヴァルのプランテーション(大農園)を訪れた1941年の盛夏に初めてレコーディングを行った。26歳のマディ・ウォーターズは、「Country Blues」と「Burr Clover Country Blues」を歌った。1943年、マディ・ウォーターズはシカゴへと居を移した。ビッグ・ビル・ブルーンジーは、田舎出身のマディ・ウォーターズが都会のシーンに参入できるよう、手助けをした。そしてマディ・ウォーターズは、サニー・ボーイ・ウィリアムソン・Iのバックでギターを弾き、成功のきっかけを掴んだ。

1947年にサニーランド・スリムのバックでギターを弾いたことで、マディ・ウォーターズのレコーディング・キャリアはスタートした。マディ・ウォーターズとベース・プレイヤーのビッグ・クローフォードはその他に2曲レコーディングしたが、レナード・チェスはその出来に満足せず、リリースはされなかった。しかし翌年、マディ・ウォーターズとビッグ・クローフォードは再びスタジオに入り、「I Can’t Be Satisfied」と「Feel Like Going Home」をレコーディング。レナード・チェスは、同2曲をチェッカーからからリリースした。初回プレスは1日も経たずに売り切れ、R&Bチャートで第11位を記録した。

1951年までに、マディ・ウォーターズ・ブルース・バンドは、妥協のない猛烈なエレクトリック・ブルース・バンドの見本的な存在として、レコーディングを行っていた。今日のロック・ミュージックの根源となる音楽である。1950年代から1960年代前半を通じて、マディ・ウォーターズのバンドはシカゴで第一級のレコーディング・バンドで、正真正銘のブルース・アカデミーだった。ジミー・ロジャーズ、ルーサー・タッカー、パット・ヘア、アール・フッカー、バディ・ガイ等のギタリストも、マディ・ウォーターズと演奏した経験がある。

Muddy-and-Otis-Spann

1960年以降にキャリアをスタートしたギタリストの中で、チャック・ベリーの影響を受けなかった者などいない。1950年代半ば、チャック・ベリーはシカゴで働き始め、マディ・ウォーターズと出会うと、マディ・ウォーターズはチャック・ベリーをレナード・チェスを紹介した。それから数週間以内の1955年5月21日、チャック・ベリーは「Ida Red」をレコーディングする。チャック・ベリーはこのカントリー・ブルース曲を「Maybelline」と改題した。同レコードはR&Bチャートで11週間ナンバー・ワンを記録し、総合チャートでも第5位に入った。ロックン・ロールにおける決定的瞬間である。

それから60年代の初頭に至るまで、チャック・ベリーはR&Bチャートと総合チャートの常連となった。「Roll Over Beethoven」(1956年)、「School Day」(1957年)、「Sweet Little Sixteen」(1958年)、「Johnny B. Goode」(1958年)は、特に大きなヒットとなった。チャック・ベリーは明らかに正統派のブルース・プレイヤーではないが、彼のレコードは、ブルースのリックや影響に溢れている。

しかし、チャック・ベリーも他のギタリストと同様に、他のギタリストから影響を受けていた。1958年にリリースされた名曲「Johnny B. Goode」は、特徴的なイントロで幕を開ける。1946年、ルイ・ジョーダンは、あらゆる黒人ミュージシャンが尊敬するアーティストだった。彼はティンパニ・ファイヴとともに「Ain’t That Just Like A Woman」をレコーディングした。ティンパニ・ファイヴのギタリストはカール・ホーガンで、同曲で彼が弾いたギター・イントロは、チャック・ベリーの「Johnny B. Goode」のイントロとほとんど同じである。古い格言にあるとおり、新しいアイディアなるものは存在せず、再び考えられた古いアイディアがあるだけなのだ。

1950年代と1960年代初頭のシカゴは、腕利きギタリストの宝庫だった。本稿で既に触れたギタリストの他にも、ボー・ディドリー、ヒューバート・サムリン(ハウリン・ウルフのギタリスト)、ハウリン・ウルフ、エディ・テイラー、オーティス・ラッシュなどがいた。また、デトロイトのジョン・リー・フッカーも、シカゴでレコーディングしていた。こうしたミュージシャンは皆、ギター・ゴッド志望のイギリス人ミュージシャンに影響を及ぼした。しかし、後にシカゴでレコーディングをしたものの、ディープ・サウスでキャリアをスタートしたギタリストが1人いる。そして、南部での暮らしが何よりも彼のキャリアに大きく役立った。

エルモア・ジェイムスは1933年、初めてギターを買った。20ドルのナショナル製ギターだ。彼はクリーンヘッドやジョー・ウィリー・ジェイムスといった名前で、ハウス・パーティや酒場でギターを弾き始めた。程なくすると、彼はデルタ地域の至るところで演奏をするようになった。1937年、エルモア・ジェイムスはミシシッピ州グリーンヴィルに引っ越し、そこでサニー・ボーイ・ウィリアムソン(ライス・ミラー)やロバート・ジュニア・ロックウッドと出会い、演奏を共にする。また、彼はここでロバート・ジョンソンとも出会い、おそらくロバート・ジョンソンの「I Believe I’ll Dust My Broom」を初めて聴いたはずである。同曲は後に、エルモア・ジェイムスの名声を確立した楽曲である。また、ギターの音色を‘スライド’させるために、金属片を使うことをエルモア・ジェイムスに教えたのはロバート・ジョンソンだ、とも推測されている。これは、後にエルモア・ジェイムスが極めた技法である。

第二次世界大戦が終わり、陸軍での兵役を終えたエルモア・ジェイムスは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンとホームシック・ジェイムズと再会した。2人とも、ミシシッピ州ヘレナのKFFAでラジオ番組を持っていた。エルモア・ジェイムスも彼らの番組で時間をもらい「Dust My Broom」をよく演奏していた。そして1951年には、サニー・ボーイ・ウィリアムソンを通じてトランペット・レコードと契約を交わし、1952年にエルモ・ジェイムス名義で「Dust My Broom」をレコーディング。同曲はR&Bチャートで第9位を記録した。1953年初頭までに、彼は「I Believe」で再びR&Bチャートのトップ10に入り、シカゴに定住した。1959年、ファイア・レコードはエルモア・ジェイムスと契約を結び、彼は同レーベルで傑作をいくつかレコーディングした。「The Sky Is Crying」はR&Bチャートで第15位を記録し、彼の作品の中でも特にヒットした楽曲となった。

「The Sky Is Crying」がチャート・インした直後、19歳のブライアン・ジョーンズは、チェルトナムでクリス・バーバー・バンドを観に行った。同バンドは、ブルースのセグメントでアレクシス・コーナーを擁していた。1カ月後、ブライアン・ジョーンズはロンドンでアレクシス・コーナーのもとを訪ね、エルモア・ジェイムスのレコードを初めて聴くと、すぐにエレキ・ギターを買った。それから1年以内に、当初エルモ・ルイスと名乗っていたブライアン・ジョーンズは、ザ・ローリング・ストーンズを結成した。

Rolling-Stones-Marquee-July-1962_edited-1

ブライアン・ジョーンズ、キース・リチャーズ、ミック・ジャガーは皆、ブルースの大ファンで、エルモア・ジェイムス、チャック・ベリー、ボ・ディドリー、マディ・ウォーターズといったギタリストは、結成当初のザ・ローリング・ストーンズのサウンドや、演奏する楽曲に大きな影響を与えた。それから50年以上にわたり、ザ・ローリング・ストーンズのブルース愛が衰えることなかった。特にキース・リチャーズは、最初はミック・テイラー、後にロン・ウッドとともにブルース・ギターのサウンドを磨いた。マディ・ウォーターズは、後年こう語っている。「ザ・ローリング・ストーンズが登場する前は、誰も俺のことを知らなかったし、何も知ろうとしなかった。俺は‘レイス(黒人)・レコード’と呼ばれるレコードを作っていた。俺のレコードを買ったキッズに大人たちが何て言っていたかを教えてやろう、『それは何だ? ニガーの音楽などかけるのは止めろ!』。それからザ・ローリング・ストーンズが登場し、ブルースを演奏すると、キッズは俺のレコードを買い、俺のレコードを聴いているんだ」。

ザ・ローリング・ストーンズがロンドン南西部のクローダディ・クラブでデビューした時、ザ・ローリング・ストーンズよりも若干年下で、アート・スクールに通っていたブルース好きのエリック・クラプトンは、観客の中にいた。1963年10月、エリック・クラプトンはヤードバーズに加入、その後、同グループを脱退すると、ジョン・メイオール率いるザ・ブルースブレイカーズに加入した。同バンドは、ヤードバーズよりもブルース色が強かったのだ。エリック・クラプトンに代わり、ヤードバーズにはジェフ・ベックが加入した。1966年6月までに、ジミー・ペイジもヤードバーズに入ったが、それから数か月後、ジェフ・ベックは自身のバンドを結成するために同バンドを脱退した。

1968年の夏、ジミー・ペイジはアルバムをレコーディングしており、ザ・ニュー・ヤードバーズ名義でアルバムをリリースしようと考えていた。しかし、アルバムをリリースする頃には、そのバンドはレッド・ツェッペリンと呼ばれていた。その続きは、言うまでもなく有名な話である。レッド・ツェッペリンは、ブルースを完全かつ絶対的に信奉しており、その影響はロバート・ジョンソン、さらにはブラインド・レモン・ジェファーソンにまで遡る。レッド・ツェッペリンのセカンド・アルバムに収録された「The Lemon Song」は、ハウリン・ウルフの「Killing Floor」、そしてセックスから大きな影響を受けているだろうが、テキサスの伝説ブラインド・レモン・ジェファーソンを持ち出していると思わないのは、野暮というものだろう。

エリック・クラプトンがジョン・メイオールのバンドを脱退してクリームを結成した後は、ピーター・グリーン(後にフリートウッド・マックを結成)とミック・テイラーがブルースブレイカーズに在籍していた。イギリス人ギタリストは皆、1960年代初期から半ばにかけて台頭してきた新世代のアメリカのギタリスト/ブルース・マンの大ファンだった。例えば、マット・ギター・マーフィやフレディ・キング、アルバート・キング、アルバート・コリンズ等は、独特の演奏スタイルをブルースに残した。

エリック・クラプトンはクリームを脱退し、スティーヴ・ウィンウッドとブラインド・フェイスを結成した。エリック・クラプトンがデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成し、3人のアメリカ人ミュージシャンを加えて、さらにはデュアン・オールマンもゲスト参加させると、ブルースはより人気を増した。他のイギリス人バンドも、レコーディングやライヴでブルースを中心に据えていた。ジョン・メイオールのもとを離れた後、ピーター・グリーン、ミック・フリートウッド、ジョン・マクヴィーは、フリートウッド・マックを強力なブルース・バンドに仕立て上げた。また、1960年代にはテイスト(ロリー・ギャラガーのバンド)、サヴォイ・ブラウン、テン・イヤーズ・アフターなどもおり、1970年代になる頃には、フリーやバッド・カンパニーが、偉大なリード・ギタリストと実力派シンガーというコンセプトをベースに活動していた。その後、ゲイリー・ムーアが登場し、実質1人でブルース・リヴァイヴァル・マシーンとなった。

しかし、ブルースの影響は、イギリスだけに及ぼされていたわけではない。1964年3月24日、ザ・ローリング・ストーンズがイギリスのリッチモンドのステーション・ホテルで演奏していた時、アメリカでは20代前半から半ばのアメリカ人3人が、ウィスコンシン州ミルウォーキーのウーマンズ・クラブでレコーディングしていた。ジョン・コーナー、デイヴ・レイ、トニー・グローヴァーの3人は、ミネソタ大学で出会った。ジョン・コーナーとデイヴ・レイは、同校で授業を取っており、トニー・グローヴァーは気の合うブルース・ファンを探して同校に出入りしていたのだ。

そして3人は、ナン=ブッシュ・シュー・カンパニーの継承者で、オーディオファイルというレコード・レーベルを主宰していたE.D.ナンに出会う。ただし当時、同レーベルで最大のセールスを記録していたのは、激しい雷雨の音だけを片面に収録したアルバムだった。コーナー、レイ&グローヴァーは自身のアルバムで、レッド・ベリー、マディ・ウォーターズ、ブラインド・レモン・ジェファーソン等をカヴァーした。また、「Dust My Broom」の見事なカヴァーも収録されており、彼らはアメリカで初めて「ブルースを演奏するホワイト・ボーイズ」となったとされている。

Mike-Bloomfield

それから1年後、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドがデビュー・アルバムをリリースした。同バンドでギターを弾いていたのは、シカゴ出身のマイク・ブルームフィールドだ。ただし、彼は黒人ではなく、白人でユダヤ人だったため、ブルースを自然に演奏する血統ではなかった。それでも彼は、初めて純粋にブルース・ギターの名手となったアメリカン・ホワイト・ボーイの1人となった。同様の音楽をやりながらも、よりエレクトリックなサウンドを演奏していたのは、ニューヨークで結成されたザ・ブルース・プロジェクトだ。彼らは後にヴァ―ヴ・レコードと契約を結び、エキサイティングな音楽(特にライヴ音楽)を作った。

その後、デュアン・オールマンの在籍するバンド、アワー・グラスが登場した。デュアン・オールマンは弟のグレッグとともにブルースを演奏したいと思っていたが、プロデューサーは、彼らを‘ホワイト・ボーイズがモータウンを演奏する’といった趣旨のバンドにしようとしていた。しかし1969年までに、彼らはオールマン・ブラザーズ・バンドとなり、ギタリストのディッキー・ベッツとともに、彼らはブルースに影響を受けた屈指のアメリカ産ロックを演奏した。1971年3月にニューヨークでレコーディングされたフィルモア・イースト公演では、バンドのオリジナル曲の他に、ウィリー・マクテルの「Statesboro Blues」、エルモア・ジェイムスの「Done Somebody Wrong」、T・ボーン・ウォーカーの「Stormy Monday」等が演奏されている。また、デュアン・オールマンとディキー・ベッツのツイン・リード・ギターは、ツイン・リード・ギター形態取るあらゆるバンドのお手本となっている。

彼らに続き、ブルース全盛期に登場したアーティストに関しては、テキサス出身のアルビノ、ジョニー・ウィンターを忘れてはならない。ブルースに対する深い敬意と、完璧なまでのスキルで、ウィンターは1970年代、マディ・ウォーターズと素晴らしい音楽をレコーディングするに至った。

同様に、その演奏でエレキ・ギターの概念を全てひっくり返したジミ・ヘンドリックスも、ギターを弾く際にはブルースをよく演奏していた。ジミ・ヘンドリックスはライヴ・ショウで、ブルース・ジャムを長時間よく演奏していた。「Red House」や「Catfish Blues」といった楽曲は、ジミ・ヘンドリックスのブルースに対する強い関心を示している。ニューヨークでの公演も含めて、ジミ・ヘンドリックスは初期のショウで、ロバート・ジョンソンやジミー・リードの曲を演奏している。彼の作品を聴けば、マディ・ウォーターズ、B.B.キング、チャック・ベリーからの影響が分かるが、その中でも特にバディ・ガイの影響が感じ取れる。

さらにその後、スティーヴィー・レイ・ヴォーンが登場したが、彼はエレキ・ギターによる演奏の可能性を探求しつくす前に悲劇的な死を遂げた。しかし幸いにも、彼はアルバート・キングとの激しくパワフルなアルバムをはじめ、名作を遺している。

ギターを弾き、ブルースを歌っていたのは男性だけではない。1940年代、シスター・ロゼッタ・サープはメンフィス・ミニーに影響を受け、エレキ・ギターで機知に富んだブルースを演奏していた。2人は、1967年にギグを始めた18歳のボニー・レイットが活躍する土台を作った。ボニー・レイットはその後、ジョン・ハモンド・ジュニア、サン・ハウス、ミシシッピ・フレッド・マクダウェル、ロバート・ピート・ウィリアムスと共演するようになった。

本稿のスペースでは、紹介できなかったアーティストが大勢いる。我々には皆それぞれ、お気に入りのギター・ゴッドがいるが、その理由はほぼ例外なく、彼らが我々の大好きなブルースを弾いているからだ。凄腕のギタリストが目を閉じ、首を傾けながら、そのギターから苦痛と苦悶に満ちた物悲しい音色を響かせる。その姿には、何か格別なものがあるのだ。その演奏を聴きながら、我々は心を高揚させ、豊かな気持ちになり、良い気分になるのだ。ブルースは、悲しい時のみの音楽だというのは間違いである。ブルースはあらゆる場に適した音楽だ。人々がギターを弾く限り、誰かが必ずブルースを弾き続けるだろう。

Written By Richard Havers


<関連記事>


News
Features
uDiscover Playlists
Competitions
Stories
Artists
Quizzes
Join
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

, , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , ,