神レヴェルの天才でも、時には手助けを受けることもある。ウェイラーズの一員として、『Catch A fire』と『Burnin’』を世界リリースしたボブ・マーリーは、アルバムをチャートインさせようと既に相当な努力をしてきた。1973年にリリースされた2枚のアルバムは、最終的には“名盤”として認められたが、アメリカでもイギリスでもトップ100入りすることはなかった。
クリス・ブラックウェルとアイランド・レコードが対処しなければならなかった課題は、“新しい”アーティストの売り込みだけではない。メインストリームの音楽メディアでは未だ馴染みの薄いレゲエというジャンルを売り込まなければならなかったのだ。
エリック・クラプトンによる「I Shot The Sherriff」のカヴァーが全てを変えた、と言うのは大袈裟だろう。しかし、これにより、大衆のレゲエに対するイメージが大きく変化したことは間違いない。当時のエリック・クラプトンは、メインストリーム・ロックで支配的な力を持つ声であり、サウンドだった。「I Shot The Sherriff」はアメリカでナンバーワン・ヒットとなった(エリック・クラプトン唯一の全米ナンバーワン・ヒットだ)。また、エリック・クラプトンはオリジナル・ヴァージョン(『Burnin’』に収録)とアレンジをあまり変えることなく、ボブ・マーリーの曲を熱心に宣伝したため、レゲエ・ミュージック全般、特にボブ・マーリーに対する大衆の受け入れに大きな拍車をかけた。
エリック・クラプトンのカヴァー・ヴァージョンがヒットしたタイミングも最高だった。同ヴァージョンは1974年9月に全米チャートでトップに輝いた。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義になって初めてのアルバム『Natty Dread』がリリースされる1ヵ月前のことである。ピーター・トッシュとバニー・ウェイラーがソロ・キャリアを確立しようとグループを脱退した後、ボブ・マーリーが自信を新たにグループを仕切り、見事なアルバムを作り上げた。
今、アルバムを最初から聴いてみると、まるでグレイテスト・ヒッツ・コレクションを聴いているかのようだ。良く知られたタイトル・トラックへと辿り着く前に、「Lively Up Yourself」、「No Woman, No Cry」、「Them Belly Full (But We Hungry)」といった名曲が続くのだ。『Natty Dread』は、長く伸びたドレッドロックを持つボブ・マーリーが、ジャマイカのストリートでもらったニックネームだった。アルバムのカヴァー写真からも分かるように、彼のドレッドロックは、彼の音楽同様、自由になびいていた。
同アルバムの収録曲は、メロディと言葉遊びの豊かさだけでなく、ハーモニー・アレンジメントのヴァイタリティとイマジネーションでも注目に値した。このハーモニーを提供したのは、新たに採用されたヴォーカル・セクション、アイ・スリーズ(ボブの妻であるリタ・マーリー、マーシャ・グリフィス、ジュディ・モワット)によるものだ。ピーター・トッシュとバーニー・ウェイラーの脱退により、ヴォーカルのパワーが弱まると危惧していた人でも、「Rebel Music (3 O’Clock Roadblock)」や「Talkin Blues」といった曲で、すぐにその考えを改めたはずだ。どちらの曲も、リー・ジャフィが奏でるハーモニカのブルージーでもの悲しいサウンドと、心に残るヴォーカル・チャント、コール・アンド・レスポンスのアレンジメントで構成されている。
『Natty Dread』がヒット・コンピレーションに聞こえるもうひとつの理由は、1974年の時点ですら、ボブ・マーリーの共同プロデューサーを務めていたクリス・ブラックウェルが、ザ・ウェイラーズの過去曲を再レコーディングするというポリシーを続けていたためだ。「Lively Up Yourself」は1971年のシングルだ。また「Bend Down Low」は、1967年にザ・ウェイラーズがジャマイカでヒットさせた曲である。そして「Them Belly Full(But We Hungry)」は、「Bellyfull」、「Belly Full」というタイトルで過去にシングルとなっていた。しかし、こうした名曲を初めて聴いたファンの大半にとっては、そんなことは全く問題にならなかった。そして彼らは、その後もボブ・マーリーの曲を聴き続けるのだった。
ベースのアストン・バレット、ドラムのカールトン・バレットから構成されるバレット・ブラザーズのリズム・セクションは相変わらず素晴らしい。また、ホーン・セクションも騎馬隊のように到着し、ゴールまで突進すると、アルバム中の数曲を見事に仕上げている。メロディは非常に魅力的で、ボブ・マーリーの声に心惹かれない場合でも、その歌詞に心を捕らえられるだろう。「Them Belly Full (But We Hungry)」は、ディープでスピリチュアルな悲しみや不公平を題材にしながら、喜びに溢れた楽曲を作るというボブ・マーリーの音楽の驚くべきパワーが発揮された1曲だ。「Forget your troubles and dance(問題など忘れて踊れ)」は、この哲学の核心となるフレーズだ。「No Woman, No Cry」は、様々な困難や、トレンチタウンで一緒に育った友人たちとの心の絆に思いを馳せながら、ボブ・マーリーは 感情に訴えるパワーを持つ不朽の名曲を作り上げた。
『Natty Dread』のソングライティング・クレジットは、長らく憶測の対象となっていた。アルバムのレコーディング中、ボブ・マーリーは音楽出版社のケイマン・ミュージックと対立していた。これは、1972年の一時期、ボブ・マーリーのマネージャーも務めていたダニー・シムズが所有していた会社だ。争議が未解決の間、これ以上ダニー・シムズの手に自分の印税が渡らないよう、ボブ・マーリーはアルバム中の数曲のクレジットを他の人々へと譲渡したと考えられている。このため、ボブ・マーリーがラスタファリアニズムにより傾倒していく様を反映した「So Jah Seh」の作者は、ウィリー・フランシスコと正式にクレジットされている。パーカッション奏者のフランシスコ・ウィリー・ペップとしてより知られている人物だ(そこまで著名ではないが)。ボブ・マーリーがナレーターとして絶対的な主役の位置に立つ「Natty Dread」は、リタ・マーリーとアレン・コールが作者としてクレジットされている。そして、最も物議を醸しているのが、「No Woman, No Cry」だ。同曲のクレジットに関しては、ボブ・マーリーの死後長い時間が経過した後も、醜い法的闘争が続いたのだった。
『Natty Dread』をボブ・マーリーの最高傑作と考える人々も多い。そのため、Allmusic.comのジム・ニューサムは、これを‘史上最高のレゲエ・アルバム’と評している。しかしそれでも、同アルバムはイギリスでは最高43位、アメリカでは最高92位と、辛うじてチャートインしただけだった。実際のところ、『Natty Dread』は名盤の誉高いものの、ボブ・マーリーはまだまだ駆け出しだったのだ。
David Sinclair
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