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ブライアン・アダムスとの想い出と「18 til I Die」
ラジオDJ、ライナー執筆など幅広く活躍されている今泉圭姫子さんの連載「今泉圭姫子のThrow Back to the Future」の第7回です。コラムの過去回はこちら。
ブライアン・アダムスのベスト・アルバム『Ultimate』が発売になりました。新曲2曲を含む全21曲を網羅したブライアンの輝かしいキャリアを感じさせる選曲となっています。よく21曲に絞れたな〜、と私が思うぐらいですから、本人は相当悩んだのではないかと思います
。今年2017年1月24日に5年振りの日本武道館公演が開催され、今回もファンを絶対に裏切らない、失望させないロック・コンサートを披露してくれました。なんでこんなに楽しいのでしょうか? きっと、心から音楽を楽しんでいるブライアンだからこそ、その音楽への愛がファンに伝わるのだと思います。大がかりなセットを組んだワールド・ツアーの一環としてのコンサート。豪華なステージ・セットでしたが、ブライアンのコンサートは、それがあってもなくても十分に楽しめる魔法のような時間を作ってくれます。
また2017年は『Into the Fire』発売30周年でした。『Reckless』30周年の時のような大々的なツアーはやりませんでしたが、全米トップ10に入ったこのアルバムは、30歳を目前にした20代最後のブライアンが、大人のロック・シンガーへと変貌を遂げようとした作品でした。やんちゃな青年からシリアスな歌を歌うロック・シンガーへと成長していくステップだったといえばいいでしょうか?
収録曲の中に「Home Again」という曲があるのですが、私は数あるブライアンのロック・バラードのなかでも一番好きな曲です。毎回会うたびに、「Home Again」やって〜とリクエストするのですが、鼻で笑われてしまい「いい曲なのにな〜」と肩を落とす、といった同じような会話を繰り返してきました(笑)。1月の日本武道館の楽屋でも言ってみたのですが、「Crazy!」と一言。これって、漫才コンビのネタのような感じです。
ところが30周年の記念として、ブライアンはインスタで『Into the Fire』の全曲を毎日1曲づつアコースティック・ギターの弾き語りを披露しアップしていました。映像ではありましたがついに「Home Again」を聴くことができました。次に会ったら、今度はステージでやってね、としつこくお願いしようと思います。
ブライアン・アダムスとはデュラン・デュランと同じぐらいデビュー時からインタビューをさせていただいています。東京、バンクーバー、マウイ島、ニューヨーク、ティナ・ターナーが出演したロンドン・ウエンブリー・アリーナのショウも見ました。そして何度かの電話インタビュー。時は確実に過ぎているのですが、いつも変わらぬブライアンです。初めて会ったのは1982年10月ヤマハ音楽祭で初来日した時でした。ブライアンは23歳。その時のモノクロ写真を見ると、23歳にしては幼いカナダの青年でした。初来日の時は日本ではまだまだ無名でした、道が混んでいた時は電車で移動させたと言う話を聞きました。
彼は18歳のときにジム・ヴァランスと出会い、ソングライターとしてA&Rと契約。その契約内容は契約してもらった、ぐらいのものだったそうです。「I’m Ready」、「Remember」、「Straight From The Heart」などはこの頃に書いたとのこと。1980年になってファースト・アルバム、1981年にボブ・クリアマウンテンを迎えてセカンド・アルバムをリリースしますが、カナダでは当時ヒットにまで至っていません。そんな時の初来日でした。
来日時には、すでに3枚目のアルバム『Cuts Like a Knife』のレコーディングが終わっていた頃だと思いますが、来日後に大ブレイクを果たすわけです。その後は新進ロック・スターのエネルギッシュな姿を経て、風格溢れるロック・スターとして音楽シーンのトップへ。イギリスに拠点を移してからは、カメラマンとしても大活躍し、音楽を中心にエンターテインメントの世界で新しい姿を見せてきました。近年は、好きなことをやり続けていくことの素晴らしさを身をもって証明しているアーティストといえます。
80年代は男性ロック・スターがシーンの中心にありました。ブライアンをはじめとして、コリー・ハート、ブルース・スプリングスティーン、リック・スプリングフィールド、ジョン・クーガーなど。ソロ・ロック・シンガーはなかなか成功しずらいという昨今の風潮がありますが(エド・シーラン、ブルーノ・マーズで変わったかもしれませんが)、彼らが成功した背景には、楽曲の良さ、一貫したロック・スピリット、ライヴでの熱いパフォーマンス、そのすべてが妙に飾らない、真実のものであったことを素直に受け入れられる時代でした。
90年代になってから、来日しても多くのメディアに登場しない時期がありました。そんな時はデビュー時のブライアンの担当でずっと交流を続けてきた木村麗子さん(現翻訳家)に手を引かれ、「スヌーピーはずっとインタビューしてきたんだから、やらないなんて言わせないわよ〜」と(ブライアンの最も親しい日本人ですから)楽屋に出向き、なぜインタビューしないと直談判したこともありました。そんな時のブライアンは、「やらないなんて言ってないよ〜。じゃあ、明日の朝ホテルでやろう」と快諾してくれました(押し切られたともいう)。
朝10時ぐらいだったと思います。ライヴ翌日に部屋を訪れる私たち。ヴェジタリアンのブライアンがフルーツを自分でカットしてボールに入れて食べているところを突撃し、インタビューしました(もちろん、当時の大人の事情をしっかりクリアーしてのインタビューですよ〜)。妙に媚びず、でもやる時はやる!(やらない時はやらない笑)そんなブライアンは昔から変わりません。一番変わった点は、デビュー時は、ワードローブに白いTシャツとブルージーンしかないなんて言っていましたが、いつからかずいぶんおしゃれになったことかな。
1996年『18 til I Die』をリリースした時のインタビューでは、死ぬまで18歳の気持ちで生きる、という人生のテーマを書き、ブライアン・ファンの共感を得ました。このアルバムは世界的に大きなヒットには至りませんでしたが、「(Everything I Do) I Do It for You」や「All For Love」といったメガ・ヒット・バラードを生んだ後に放ったテーマだからこそ、ブライアンの本質に触れられたようで、満足感を得られることができました。
来日時には、ブライアン自身がデザインした限定リングをブライアンから関係者に贈られました。私もちゃっかりいただいてしまいましたが、あまりにもごついので、チェーンに通して、私のモットーにもなった”18 til I Die”が刻まれたリングを首にかけ、大切にしています。
いつの間にか2児のパパになったブライアン。前回の来日では赤ちゃんのお披露目をしてくれました。抱っこした時の顔が優しいパパの顔になっていて微笑ましかったものです。ひとつひとつ自分の人生に新しい刺激を受け入れ、まさに18歳の時のように、好奇心旺盛に人生を謳歌しているブライアン・アダムス。一人のアーティストというよりも、成功した同級生を見るような、そんな思いで今後のブライアンの活躍を見守りたいと思います。
ブライアン・アダムス 『Ultimate』
日本盤CD(SHM-CD仕様)
連載『今泉圭姫子のThrow Back to the Future』 バックナンバー
- 第1回 :U2『The Joshua Tree』
- 第2回 :バグルス『ラジオ・スターの悲劇』
- 第3回 :ジャパン『Tin Drum』(邦題:錻力の太鼓)
- 第4回 :クイーンとの出会い…
- 第5回:クイーン『世界に捧ぐ』
- 第6回:フレディ・マーキュリーの命日に…
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