歴史に残る偉大な女性作曲家たち:クララ・シューマンをはじめとする22名の作曲家

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クラシック音楽の世界で最も優れた女性作曲家とはいったいどんな人たちだろうか?今回は、歴史に名を遺す偉大な女性作曲家たちをセレクトしてみた。

女性の作曲家は決してめずらしい存在ではない。ただ彼女たちの作品は、演奏されることがあまりにも少ないのである。そうした状況は未だに変わらない。以下のリストでは22人の作曲家を紹介しているが、ここに選ばれていてもおかしくない人は他にもたくさんいる。ここに選ばれたひとりひとりの陰には、同じくらい素晴らしい女性作曲家が少なくともあと5人ずついる (今回はそうした人たちをリストから外さざるをえなかった) 。このリストは、彼女たちの作品を探求していく上での出発点として使っていただきたい。

クララ・シューマン [Clara Schumann] (1819年年~1896年)

まずは、歴史上無視されてきた女性作曲家たちの象徴となった、19世紀のスーパー・ウーマンから始めよう。つまりクララ・シューマン (旧姓ヴィーク) である。
クララを有名な夫ロベルトの単なる助手とみなすのは、事実からほど遠い。最高の女性作曲家のひとりである彼女は、結婚当時、夫よりも有名だったのである。彼女は10代前半から国際的に賞賛される名ピアニストであり、フランツ・リスト自身と肩を並べるほどの神童だった。そして彼女はたくさんの曲も作曲していた。

わずか13歳で作り始めたピアノ協奏曲は、難易度が高く画期的な作品だった。この曲の緩やかな楽章にはチェロの独奏パートがあるが、これは後に友人のブラームスに影響を与えた可能性がある (ブラームスはピアノ協奏曲第2番でチェロを使用している) 。クララは彼女がまだ10代だったころにピアノ独奏曲や歌曲を多数作り上げており、30代になるとヴァイオリンとピアノのための作品、そして素晴らしいピアノ三重奏曲を作曲した。

悲しいことに、ロベルトが亡くなったあと、彼女は実質的に作曲を断念してしまう。夫との苦しみに満ちた死別と7人の子供の養育という重圧が重なり、時間的な余裕も気力もなかったのである。彼女の音楽的な表現スタイルはロベルトとは非常に異なっており、ことによるとメンデルスゾーンやショパンに近いかもしれない。しかしそれは、紛れもなく彼女自身のものである。

さて、ここからは歴史に登場する最初期の女性作曲家を取り上げてみたい……。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (ビンゲンのヒルデガルト) [Hildegard of Bingen] (1098年年~1179年頃)

聖ヒルデガルト、あるいは「ラインの巫女」という名で知られているヒルデガルトは、ドイツのベネディクト会系の修道院長で、作家、神秘主義者、詩人、哲学者、そして偉大なる女性作曲家のひとりだった。ヒルデガルトは生涯にわたって光の幻視体験を重ね、それを人間の営みに移し替えていった。”こうして私が見る光は空間的なものではないが、太陽を運ぶ雲よりもはるかに遠く、はるかに明るい……私はこれを「生きている光の反射」と呼ぶ。

そして、太陽、月、星が水に映るように、文章、説教、美徳、そしてある種の人間の行動が私の中で形を成して輝くのである”。彼女の作品のひとつは音楽道徳劇「Ordo virtutum (諸徳目の秩序) 」で、これには82の歌が含まれている。彼女の作った曲は、そのほかにも69曲の存在が確認されている。

 バルバラ・ストロッツィ [Barbara Strozzi] (1619年~1677年)

詩人ジュリオ・ストロッツィの私生児として生まれたバルバラ・ストロッツィは、17世紀のヴェネチアで芸術の世界に浸って育った。彼女は3人の子供を持つシングル・マザーだったが、驚くべきことに高級娼婦というレッテルを貼られずに済んだ (当時の女性は、多くの場合、芸術的な業績を上げるとそういう蔑称で呼ばれる運命にあった) 。

バルバラは、世俗音楽を自分の名前で出版した最初期の女性のひとりとなった。彼女の作品のほとんどは声楽曲で、細部へのこだわりが特徴となっており、テキストの繊細な取り扱い方はほとんど不可思議と言っていいくらい素晴らしかった。彼女は音楽の表現力をぎりぎりのところまで追求し、適切な感情を呼び起こすことができた。まずは試しに、「Lagrime Mie」や哀歌「L’Eraclito Amoroso」をお聴きになることをおすすめする。

 マリアンナ・マルティネス [Marianna Martines] (1744年~1812年)

マリアンナ・マルティネスは、ウィーンの中心部で育った。彼女の家には、歌劇の台本作家メタスタジオが下宿していた。また10代のヨーゼフ・ハイドンは、声が出なくなりシュテファンスドームの合唱団から追い出されたあと、やはり彼女の家の屋根裏部屋に住んでいた。マリアンナは歌手、ピアニスト、作曲家としての才能に非常に恵まれた人物だった。モーツァルトは彼女とデュエットで演奏していたし、彼女が毎週開催していたサロンにもハイドンと共にたびたび顔を出していた。

マリアンナはC.P.E.バッハになぞらえられるほどチェンバロの演奏がたくみで、皇后マリア・テレジアの前でもしばしば演奏していた。ストロッツィと同じように彼女も結婚を避け、妹と同居していた (ちなみにメタスタジオも死ぬまで下宿を続けていた) 。そして生涯を音楽に捧げながら、ミサ曲から世俗的なカンタータまでさまざまな合唱曲を発表した。

マリア・アンナ (“ナンネル”) ・モーツァルト [Maria Anna (‘Nannerl’) Mozart] (1751年~1829年)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの姉に生まれるという運命は、彼女について多くのことをを物語っている。幼いころ、この姉弟は誇り高き父レオポルドによってヨーロッパ各国の王宮を渡り歩いた。そしてふたりの演奏を聴いた人たちは、ナンネルの才能を弟以上に驚異的なものとして評価していた。

とはいえ結婚適齢期を迎えると、ナンネルはザルツブルクの実家でひたすら結婚の申し込みを待つ生活となり、一方ヴォルフガングはスターダムにのし上がるために独自の戦いを続けることになった。最終的に彼女は判事と結婚し、母の旧居であるザンクト・ギルゲンに居を構えた。夫の死後はザルツブルクで音楽教師の職に就いている。彼女は若いころに多くの作品を書いていたが、その作品はどれも現存していない。

 ルイーズ・ファランク [Louise Farrenc] (1804年~1875年)

19世紀半ばのパリでは、器楽曲は途方もないスケールのオペラに押されて影の薄いジャンルになっていた。そのため、ルイーズ・ファランクのキャリアはやや異色なものとなった。彼女の作品のほとんどは、管弦楽曲か室内楽曲だったのである (その中に含まれる3つの交響曲は、現在再び人気を集めている) 。彼女の作風は、同時代のフランス人作曲家よりも、ウィーンやドイツの初期ロマン派、特にシューベルトやウェーバーの作風にはるかに近かった。

彼女はパリ音楽院で最初の女性教授のひとりとなり、この音楽学校で何十年にもわたってピアノを教えていた。キャリアを積んだ彼女は、めずらしく家庭生活も充実させていたが、娘の死後、作曲活動を止めてしまった。

 ファニー・メンデルスゾーン [Fanny Mendelssohn] (1805年~1847年)

メンデルスゾーン4人兄弟の長女であり、偉大な女性作曲家のひとりであるファニーは、弟フェリックスと同じように天才的な才能を持ち、やはり素晴らしい文化教育を受けていた。しかし、そうした教育環境がいつまでも続くわけではなかった。父親が”女にとって音楽は家庭生活の「飾り」にしかならない”と言い出したのである。ファニーはそれに異を唱えた。彼女の夫となった画家のヴィルヘルム・ヘンゼルも、妻と同意見だった。そして彼は、毎朝、妻のために新しい五線紙を用意し、妻がいつでも作曲を開始できるようにしていた。

ファニーが作った歌曲の一部はフェリックスの名前で出版されたが、それはやがて困った事態を引き起こした。ヴィクトリア女王が気に入っていたフェリックスの曲が、実はファニーの曲だったと判明したのである。ファニーは合唱団を指揮し、ベルリンでハウス・コンサートを開き、決して作曲を止めることがなかった。42歳で亡くなったとき、彼女はようやく自分の名前で作品を発表するだけの自信を獲得したところだった。彼女の作品を聴き始めるなら、まずは驚異的なピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ曲集「Das Jahr (一年) 」あたりが良いだろう。

ポーリーヌ・ヴィアルド [Pauline Viardot] (1821年~1910年)

スペイン生まれのポーリーヌ・ヴィアルド (旧姓ガルシア) は19世紀を代表するオペラ歌手であり、彼女の知り合いの中にはヨーロッパでひとかどの文化人になった人たちがたくさんいた。彼女はショパンの伴奏で歌ったことがあり、リストからピアノのレッスンを受け、クララ・シューマンと親交があり、ワーグナーが『トリスタンとイゾルデ』第2幕を初めて試奏したときに歌唱を担当し、その後はもう少しでフォーレの義理の母になるところだった。その上、彼女は素晴らしい作曲家でもあった。

彼女の歌曲はメロディアスな着想に満ちあふれており、当時作られた中では最高の部類に入るものだった (率直に言って、彼女はグノーを完全にノックアウトすることができた) 。また恋人のイワン・ツルゲーネフが台本を書いたオペレッタも3曲作っており、その中でも特に「Le Dernier Sorcier (最後の魔法使い) 」は傑作となっている。彼女のヴァイオリンとピアノのための曲は、優れたヴァイオリニストである息子ポールのために書かれたものだった。

エセル・スマイス [Dame Ethel Smyth] (1858年~1944年)

イギリスの作曲家で婦人参政権論者でもあったエセル・スマイスは、音楽の勉強をするために両親と戦わなければならなかったが、その結果、ついにライプツィヒ音楽院に進学することができた。ある男性作曲家から彼女の初期作品を見せられたブラームスは、それをその男性作曲家の曲だと勘違いした。女性がこれほど優れた曲を書くことができるということがなかなか信じられなかったのである。

彼女は、オペラ、合唱曲、ヴァイオリンとホルンのための協奏曲、歌曲、ピアノ作品を数多く作曲した。1912年、彼女は参政権運動の直接行動によって逮捕され、ホロウェイ刑務所に2カ月間収監された。とはいえその10年後、女性作曲家として初めてDBE勲章を授与されている。フェミニストとしての活動は彼女の音楽活動ともうまく調和していた。たとえば1910年に作曲された「The March of the Women (女たちの行進) 」は、現在では彼女の主張のすべてを象徴する曲となっている。

マーガレット・ルスヴェン・ラング [Margaret Ruthven Lang] (1867年~1972年)

マーガレット・ルスヴェン・ラングは、ボストンの著名な音楽家の娘だった。彼女は最初期の作品を1890年代に出版し、1919年まで精力的に活躍を続け、さまざまなジャンルの曲を作っていった。彼女は、アメリカの主要な交響楽団に曲を取り上げられた最初の女性作曲家でもある。また長寿だったことから、ボストン交響楽団に最も長く寄付を続けた人物となった (ボストン交響楽団は、彼女の100歳の誕生日を祝うコンサートを開催している) 。

彼女は第一次世界大戦後、宗教活動に専念するために作曲を断念した。彼女の歌曲は数多く残っているものの、ショッキングなことに彼女はそれ以外のジャンルで発表した作品の多くを自らの手で破棄してしまった。

エイミー・ビーチ [Amy Beach] (1867年~1944年)

アメリカのピアニスト兼作曲家、エイミー・ビーチは、結婚後、公の場での演奏を年に2回に制限することを期待されるようになった。また夫の反対もあり、作曲を個人教師に習うこともできなかった。従って彼女は、ほぼ独学で作曲技法を身に付けることになった。彼女の「Mass in E-flat (ミサ曲 変ホ長調) 」は1892年にボストンのヘンデル・ハイドン協会が初演を行った (同協会が女性作曲家による大作を演奏するのはこの時が初めてだった) 。

彼女の作品の多くは後期ロマン派の音楽技法をふんだんに使っており、そうした先人たちの曲と同じように野心的なスケールの仕上がりになっている。その例としては、華麗なピアノ協奏曲、ピアノ五重奏曲、ヴァイオリンとピアノのソナタ、約150曲の歌曲などが挙げられる。1896年に発表した交響曲「Gaelic (ゲール風) 」がきっかけとなり、彼女は「ボストン6人組」あるいは「第二次ニューイングランド派」の作曲家のひとりとして認知されることとなった。1910年に夫が亡くなると、彼女はアメリカとドイツで公の場での音楽活動を再スタートさせた。

“ポルドフスキ” [“Poldowski”] (1879年~1932年)

“ポルドフスキ”は、ヴァイオリニストのヘンリク・ヴィエニャフスキの娘であるレジーヌ・ヴィエニャフスカのペンネームだった。ブリュッセルで生まれ育った彼女は、ピアニストとして活躍すると同時に、作曲家としても名高い存在になった。その作品は、繊細で洗練された幻想的な雰囲気が特徴となっている。彼女は1901年にイギリスの貴族と結婚し、ディーン・ポール卿夫人となった。そしてその数年後、幼い長男を亡くした後は、ポルドフスキという名前を使い始めた。

1920年代にはロンドンの上流音楽界に進出し、ヘンリー・ウッドが彼女のオーケストラ作品をいくつか指揮している。また彼女は、オートクチュールのブティックを開業していた。彼女の代表曲は、歌曲、特にヴェルレーヌの詩をもとにした作品である。とはいえ、いくつかの管弦楽曲は今後再評価されていくことだろう。

レベッカ・クラーク [Rebecca Clarke] (1886年~1979年)

アメリカ人の父とドイツ人の母のあいだに生まれたハロー出身のレベッカ・クラークも、偉大な女性作曲家のひとりである。彼女はロイヤル音楽カレッジでチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの指導を受けた最初の女性作曲家のひとりだった。やがて父親によって実家から追い出された結果、彼女はプロのヴィオリストになることを余儀なくされた。アメリカに渡ったあと、彼女はエリザベス・スプレイグ・クーリッジがスポンサーとなったコンクールに「Viola Sonata」を提出する。

この作品はアーネスト・ブロッホの作品と間違えられ、記者たちは女性がこのような優れた作品を作曲できることを信じようとしなかった。クラークは数多くの歌曲や室内楽曲を生み出したが、オーケストラ作品は作っていない。彼女が正当な評価を受けるようになったのは、1970年代になってからのことだ。とある評論家がピアニストのマイラ・ヘスについてクラークにインタビューを行い (ヘスとクラークは仕事でたびたび組んだ間柄だった) 、それがきっかけとなってようやく彼女の楽曲が発見されたのである。

フローレンス・プライス [Florence Price] (1887年~1953年)

偉大なる女性作曲家のひとり、フローレンス・プライスは、弱冠11歳で最初の作品を出版した神童だった。彼女は最初はアーカンソー州、後にシカゴで音楽学校の教授となった。そのシカゴでは、1933年にシカゴ交響楽団が彼女の交響曲第一番「ホ短調」を演奏している。こうしてフローレンスは、アメリカの一流オーケストラに作品が取り上げられた最初のアフリカ系アメリカ人女性となった。彼女はスピリチュアルやラグタイムと言ったアメリカ黒人の音楽的伝統をしばしば活用し、生涯を通じて多くの賞賛を集めた。

彼女の友人や同僚の中には、詩人のラングストン・ヒューズやコントラルト歌手のマリアン・アンダーソンもいた。とはいえ、1953年に亡くなった後、彼女の調性音楽は現代音楽の主流から外れていたため、ほとんど忘れ去られていた。2009年、イリノイ州セント・アンの荒れ果てた家から彼女の貴重な自筆譜面が発見され、その中には交響曲第四番と2曲のヴァイオリン協奏曲も含まれていた。喜ばしいことに、今、彼女の音楽は再評価されつつある。

リリ・ブーランジェ [Lili Boulanger] (1893年~1918年)

5歳にしてパリ音楽院で学んでいた天才児リリ・ブーランジェも偉大な女性作曲家のひとりであり、作曲家に与えられるフランス最高の栄誉” Prix de Rome (ローマ賞) “を女性として初めて受賞することになった。10代で病気 (クローン病と思われる) を患った彼女は、自分の寿命が限られていることを知り、残された時間の中でできる限りたくさんの曲を作ることにした。

24歳で死の床についたときも、姉のナディアの助けを借り、口述筆記で作曲を続けていた (後にナディアは、20世紀を代表する音楽教育者のひとりとなった) 。リリの詩篇130番「Du fond de l’abîme (深き淵より) 」 (1917年) は、第一次世界大戦の絶望が反映された曲だと思われる。ドビュッシーなどの影響を受けた力強く知的なスタイルでありつつ、より強烈なモダニズムを先取りしたリリ・ブーランジェは、24歳で亡くなった。それは計り知れない損失だった。

エリザベス・マコンキー [Elizabeth Maconchy] (1907年~1994年)

1907年、ハートフォードシャーで生まれたエリザベス・マコンキーは、イギリスとアイルランドで育ち、16歳でロイヤル音楽カレッジに入学。チャールズ・ウッドとラルフ・ヴォーン・ウィリアムズの指導を受けることになる。特にヴォーン・ウィリアムズは、作曲家を志す女性がまだめずらしかった時代に、そうした学生を受け入れていた (彼はグレース・ウィリアムズやアイナ・ボイルなども教えていた) 。とはいえ、バルトークに師事したいというマコンキーの願いを、彼は「静かに窒息させ、息絶えさせた」。バルトークへの憧れと中央ヨーロッパの影響をふまえた彼女は、洗練され明確なエッジを持つ独特なモダニズム・スタイルを作り上げていった。

「Nocturne for orchestra (オーケストラのための夜想曲) 」などを聴けばわかるように、彼女はロマン派の影響も受けている。とはいえ基本的には冷静沈着で明快な室内楽曲を作っており、13曲ある弦楽四重奏曲はその重要性においてショスタコーヴィチ作品になぞらえられることもある。彼女はかつてこう語っていた。”私にとっての最高の音楽とは、熱のこもった議論なのである”。1930年にはウィリアム・レファニュと結婚。彼女が重い結核を患ったとき、手厚く看護してくれたのは夫ウィリアムだった。彼女は作曲と伝統的な家庭生活を上手に両立させていた。2人の娘を育て、ジャムを作り、時には譜面を書きながら眠りこけることもあった。次女のニコラ・レファニュは、現在、著名な作曲家として活躍している。

グラジナ・バツェヴィチ [Grazyna Bacewicz] (1909年~1969年)

ポーランドの多作な作曲家グラジナ・バツェヴィチは、ヴァイオリニストとしてもよく知られており、1930年代半ばにはワルシャワのポーランド放送管弦楽団の首席奏者を務めた。ウッチで生まれた彼女は、パリでナディア・ブーランジェとヴァイオリニストのカール・フレッシュのもとで学んだ。第二次世界大戦中はワルシャワで地下活動に入りつつ音楽を続け、その後は家族と共にルブリンに逃れた。

やがてウッチの国立音楽院で教授となったが、1954年に交通事故に遭ったあとは他の活動から退き、作曲に専念した。その作風はダイナミックで情熱的であり、創意工夫にあふれている。彼女が残した作品の中には、ヴァイオリンの独奏曲、室内楽、技巧的なピアノ・ソナタ、多くの管弦楽曲、少なくとも7曲あるヴァイオリン協奏曲などが含まれている。

ソフィア・グバイドゥーリナ [Sofia Gubaidulina] (1931年生まれ)

齢90を超えてなお健在なソフィア・グバイドゥーリナは、20世紀後半から21世紀初頭にかけてのロシアを代表する重要な作曲家のひとりである。カザン音楽院で学んだ彼女は、精神的・宗教的な影響を作品に取り入れたり、モダニズム的な手法 (調律の変更など) を試したりしたことで大きなリスクを冒し、すぐにソ連当局からの非難にさらされた。とはいえショスタコーヴィチからは、”自分のスタイルに忠実であれ”と励まされている。

鉄のカーテンが崩壊した後、彼女はたちまち国際的な名声を博し、1992年にはドイツに移住した。彼女の膨大な楽曲は多彩なジャンルにまたがっており、ピアノ独奏曲や約30作品ある映画音楽も含んでいる。2019年、彼女はロンドンのロイヤル・フィルハーモニック協会からゴールド・メダルを授与された。

カイヤ・サーリアホ [Kaija Saariaho] (1952年生まれ)

2019年に『BBC Music Magazine』で行われた投票で、サーリアホは現代における最も偉大な作曲家に選ばれた。ヘルシンキで生まれた彼女は現在パリ在住。1980年代にはピエール・ブーレーズのIRCAMスタジオで音楽活動を繰り広げていた。彼女は器楽曲と電子音楽を融合させることが多いが、それぞれのジャンル単独の作品も制作している。

かつて師事した作曲家たちの厳格なセリアリズムへのこだわりは、彼女にとっては重苦しく耐え難いものだった。その代わり、彼女は「スペクトラリズム」と呼ばれる幻想的なポリフォニックな音世界を志向するようになった。そうした系統の作品は、聴く者をパーソナルで高尚な領域へと連れて行ってくれる。その代表例と言えるのがオペラ「L’Amour de Loin」で、これはメトロポリタン歌劇場など世界各地で上演されている。

エロリン・ウォーレン [Errollyn Wallen] (1958年生まれ)

ベリーズで生まれ、ロンドンで育ったエロリン・ウォーレンは、ジャンルを軽々と横断していく。時にはシンガー・ソングライターとして演奏し、時にはオペラの作曲まで手掛けている。彼女はバッハから影響を受けており、仕事に対する姿勢でもあの大作曲家を手本としている。また、アフリカ音楽や黒人霊歌からの影響も作品に表れている。

その代表例がオーケストラのために作曲された「Mighty River」で、これは2007年の奴隷貿易廃止法200周年記念日にフィルハーモニア管弦楽団によって初演された。彼女の最近の作品は、技術的な要求水準が高いが、それでいて聴く側と心を通わせるような魅力に満ちている。その中には、叙情的で明るく開放的なチェロ協奏曲や、チネケ!・オーケストラがライヴで録音したきらびやかな「Concerto Grosso」が含まれている。

チン・ウンスク [Unsuk Chin] (1961年生まれ)

クラシック音楽の重心が次第に極東へと移りつつある中、韓国出身のチン・ウンスクが一目置かれる存在として頭角を現してきた。彼女の目も眩むような魅力的な作品群は音楽の可能性を押し広げ、数々の賞を受賞している。”私の音楽は私の夢の反映である”と本人は語っている。”私は、夢の中で見る巨大な光と信じられないほどの壮大な色彩のビジョンを音楽に翻訳しようと努力している”。

オペラ「不思議の国のアリス」 (2004年~7年) はロサンゼルス・オペラ座で上演され、”ルイス・キャロルの原作と同じくらいアナーキーでシュール”と評された。管弦楽作品では、6つの協奏曲 (笙とオーケストラのための「Šu」を含む) が印象深い。これらの協奏曲は東洋と西洋からの影響を結びつけ、鮮やかでパーソナルな万華鏡にまとめ上げている。

ロクサンナ・パヌフニク [Roxanna Panufnik] (1968年生まれ)

イギリスの作曲家ロクサンナ・パヌフニクは、多くの場合、異なる文化や信仰を統合するような音楽を創作することを目指している。彼女に影響を与えた音楽のひとつはポーランドの民謡集だったが、これはやはり作曲家の父アンドレイ・パヌフニクから贈られたものだった。この民謡集をきっかけに、ロクサンナは世界中のさまざまな音楽文化を研究するようになった。彼女の画期的な代表作は、2000年の「Westminster Mass」である。これ以降、彼女は声楽曲や合唱曲で高い評価を得てきた。

とはいえ器楽分野での活動も活発であり、そちらの方面での代表曲としては「Four World Seasons」が挙げられる。これは、ヴァイオリニストのタスミン・リトルとロンドン・モーツァルト・プレイヤーズのために書き下ろされた曲だ。彼女の「Songs of Darkness, Dreams of Light」は、2018年のプロムス最終夜のために委嘱された作品だった。彼女の作風は和声の面では豪華絢爛。暖かく表現豊かであり、しばしば復調性の鋭さも持ち合わせている。そのため、すぐに彼女の作品だとわかる特徴的なものとなっている。

Written by uDiscover Team


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