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ザ・ローリング・ストーンズ「Fool To Cry (愚か者の涙)」: 荘厳で甘美な『Black And Blue』収録曲
1974年12月、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、ミック・テイラーが発表した声明文にはこんな風に書かれていた。
「ストーンズと過ごしたこの5年半はとてもエキサイティングで、最高に刺激的な年月だった。ストーンズに対しては尊敬の念しかない。しかし今は、別の場に移って何か新しいことをすべき時が来たと感じている」
1969年6月に20歳だったころにザ・ローリング・ストーンズに加入したテイラーは、この声明文を発表すると同時にグループから脱退した。その結果ストーンズは、13枚目のアルバム『Black And Blue』のレコーディングを開始する直前にメンバーが欠けた状態になったのだった。
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ミック・テイラーの脱退
テイラーの脱退は、ストーンズの他のメンバーたちにとってショッキングな出来事だった。“世界最高のロックンロール・バンドのメンバー”という美味しい仕事を手放したいと思う人間がこの世にいることを、彼らは到底信じられなかったのである。先に触れた声明文が発表される数週間前、ミック・ジャガーはテイラーに会っていた。ミックの回想によれば、そのときのテイラーは脱退するそぶりさえ見せなかったという。ミックはこう語っている。
「そのとき、あいつは何の問題もないように見えた。あいつがたくさんの問題 ―― 個人的な問題 ―― を抱えているのは明らかだけれども、それは俺たちとは何の関係もない。そういう問題の本当の根っこがどこにあるのか、俺には見当もつかないんだ」
テイラーの決断を後押しした要因は、おそらく2つほどあった。まずストーンズの曲作りで、彼はかなりの貢献を行っていたという事実である。たとえば『Sticky Fingers』や『Exile On Main St. (メイン・ストリートのならず者)』では、テイラーによる、高い技巧に支えられた流れるような演奏がストーンズを革新的な新しい方向へと導いていた。そうした貢献があったにもかかわらず、それらの仕事ぶりはバンド内で十分に認められてはいなかったのである。
もうひとつの要因はドラッグだった。テイラーは自分が使う薬物が増えつつあることを自覚し、ストーンズのメンバーという仕事に付きまとう享楽的なライフスタイルから距離を置こうとしていたのだった。テイラーはのちにこう説明している。
「“ザ・ローリング・ストーンズを離れたことを悔やんではいませんか?”なんて俺に質問するのは、間違っているよ。ただし、なかなか答えられないような難しい質問もある。つまりそれは“ストーンズに加入したことを悔やんでいませんか”っていう質問だ」
新作発売から2か月後のスタジオ入りと新ギタリスト
1974年12月のテイラーによる爆弾発言があった翌日、ストーンズの残りのメンバーは予定されていたレコーディング・セッションを行うためにドイツのミュンヘンに到着した。当時の最新アルバム『It’s Only Rock ‘N’ Roll』はリリースされてからまだ2カ月しか経っていなかったが、彼らはミュージックランド・スタジオに再び入り、次のアルバムの制作に着手したのだった。
前作と同じように、このレコーディング・セッションでもプロデューサーは、ミックとキースが”グリマー・ツインズ”という偽名で担当することになっていた。当時のキースは薬物中毒と戦っている最中だった。そしておそらくは、これまで通り、2人のギタリストが組むことによって生じる相乗効果を得ることを求めていた。そのためにキースは、新しい相棒を探していた。「ザ・ローリング・ストーンズのサウンドに何か秘密が隠されているとすれば、それは2本のギターの鳴らし方だ」とかつてキースは語ったことがあった。
このセッションの時期、さらには1975年の初頭まで、ストーンズはさまざまなギタリストを呼び寄せ、一緒に演奏をした。その表向きの理由は、キースのサポート役となるギタリストのオーディションだった。このオーディションには、ジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、元スモール・フェイセズのリード・シンガー、スティーヴ・マリオットも挑戦した。しかしこの3人の参加した演奏は、どれも完成したレコードには採用されなかった。
ストーンズが1975年3月にミュージックランドに再び赴いた時は、アメリカのブルース・ギタリスト、ハーヴィー・マンデル (キャンド・ヒートの元メンバー) が一緒に演奏した。マンデルは「Hot Stuff」と「Memory Motel」のレコ―ディングに参加しており、それらの2曲はやがて『Black And Blue』に収録されることになる。
ロニー・ウッドとウェイン・パーキンス
そしてロニー・ウッドもまた「テスト」としてスタジオに招かれた。ロニーは既にミック・ジャガーと「It’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)」を共作し、レコーディングにも関わっていた。またキースともプライベートで親密になっていた。やがて彼が所属していたバンド、フェイセズが崩壊する。こうして最終的に、ロニーがストーンズの正式メンバーとして迎え入れられることになったのだった。
しかし1974年12月に行われたレコーディングでは、アルバムの中で最も優しげなバラード「Fool to Cry」の録音に別のギタリストがゲスト・スターとして参加していた。それは、アラバマ生まれのウェイン・パーキンスだった。パーキンズはかつてレオン・ラッセルと一緒に演奏していたときにエリック・クラプトンと出会い、そのクラプトンの推薦でストーンズのセッションに参加したのである。
これはストーンズにとって絶好のチャンスだった。この曲はブルー・アイド・ソウルから強い影響を受けており、パーキンスのようなアメリカ南部のギタリストの力を借りることで本物のブルー・アイド・ソウルの雰囲気を強化できたからである。以前パーキンスは、伝説的なマッスル・ショールズ・スタジオでセッション・ギタリストとして活動していた。そうしてパーシー・スレッジ、ミリー・ジャクソン、ボビー・ウーマックといったアーティストたちのバックを務め、数々のブルー・アイド・ソウルの曲を録音していた。
「Fool To Cry」のレコーディング
「Fool To Cry」は、ミュンヘンで最初に取り組んだ楽曲のひとつだった。それゆえ、この曲がギターを中心としたロック・ナンバーでないことは意外でも何でもなかった。ここで中心となる楽器はキーボードだ。曲の冒頭で、ミック・ジャガーはぼんやりとしたエレクトリック・ピアノを弾き始める。そこに、長年のサイドマンであるニッキー・ホプキンスの明るく華やかなピアノとストリング・シンセサイザーの音色が加わる。
ギターがようやく登場するのは、丸1分も経過したあとのことで、そのギターも装飾的なフレーズだけを奏でていく。それはストーンズの代名詞と言える強烈なパワー・コードではない。フェイザーがかかったキースのギターはワウワウを通して演奏され、ミュートされたファンクっぽい雰囲気が醸し出される。一方ホーキンスのクリーンなギターは、ミックとキースのゆらめくような演奏の隙間を埋めていく。それは、2年前にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『Catch A Fire』で彼が弾いたギターにも似た雰囲気たっぷりのサウンドを描き出している。
リズム・セクションはストレートで安定した演奏を続ける。チャーリー・ワッツの刻むハイハットにビルのベースが絡んでいくうちに、サビと倍のテンポのブレイクで活気が出てくる。こうしたメンバーそれぞれの演奏を融合させたストーンズは、感傷的なソウルをも上手にこなせる力の持ち主であることを見事に示していた。感動的なシンフォニック・オーケストレーションで仕上げられた「Fool To Cry」は、デルフォニックスやスタイリスティックスの最高に甘美な楽曲に匹敵する優雅さと気品を備えていた。
ヴォーカルのレコーディング
1975年の1月末、ストーンズはオランダのロッテルダムに再び集結する。レコーディングは巨大なデ・ドーレン・ホールで再開された。「Fool To Cry」のリード・ヴォーカルはここで録音された可能性が高い。「Fool To Cry」でミック・ジャガーが演じる主人公は、心がズタズタになっている人間だ。言うなれば、絶望に打ちひしがれた恋の病の被害者である。幼い娘をあやしているときも、他の恋人とのロマンスに耽っているときも、友人たちと遊んでいるときも、彼は別の誰かを想わずにはいられない。そんな思いが募るあまり、彼は「折り紙付きの愚か者」になってしまう。
この曲が最も感動的に響き渡るのはサビのパートだ。熱のこもったミックの歌声は、儚げで甘いファルセットへと変化していく。曲が先に進んでいくと、彼の切ない叫びはさらに絶望的になる。こうして「Fool To Cry」は、ミックの傷ついたエゴのすべてをさらけ出すことになる。キースは後にこう語っている。
「ああいうファルセットを歌えるやつがバンドの中にいて、とにかく嬉しかった。俺も、ファルセットはかなりうまく歌えるんだ。でも、手近にヴォーカリストがいて、そいつがああいう高いところまで歌えるのなら、ぜひやらせなきゃね。ミックは前からずっとアーロン・ネヴィルのようなファルセットのソウル・シンガーに夢中だった。あれは技巧がいる歌なんだ。そうだろ?」
延び延びになった『Black And Blue』の発売
ストーンズは、1975年夏に予定されていたコンサート・ツアーに先駆けてニュー・アルバムをリリースしたいと考えていた。しかし完成した楽曲がアルバム1枚分にならなかったため、代わりに『Made In The Shade』を発表した。これはツアーの宣伝に便乗したコンピレーションで、それまでの5年間に録音された曲が集められていた。
ロニー・ウッドをギターに迎えたツアーの後、ストーンズは10月にモントルー、12月にミュンヘンでレコーディングを続けた。そして1976年の最初の数カ月にニューヨークでミキシング・セッションを行った後、『Black And Blue』を発表する準備がようやく整った。このアルバムがようやくリリースされたのは4月26日だった。
このアルバムに対しては、賛否両論の反応が起こった。さまざまなリズムの楽曲が収められ、全体としてまとまりがないように感じられたため、ファンの側が戸惑いを覚えたのである。ひとつひとつの曲がそれぞれ異なるジャンル (ファンク、ディスコ、レゲエ、ソウル、ロック) をカヴァーしていた。その理由は、おそらくバンド内に亀裂が入り、ゲスト・ミュージシャンが多様なスタイルを持ち込んだことにあったのだろう。このアルバムは、大ヒットするような曲を収録していないように思えた。とはいえ、グルーヴを重視した1970年代のブラック・ミュージックのスタイルを効果的に探求していた点は高く評価された。
シングルのリリース
「Fool To Cry」はアルバム・リリースのちょうど1カ月前にシングルで発表された。トップ10入りを諦めたかのような曲が並ぶアルバムの中で、この曲は明らかに際立つ内容だった。ただしこれをシングル・カットすることにミックが反対したため、彼を説得しなければならなかった。当時ミックはこう語っていた。
「あのアルバムの中にシングル用の曲があるとは思わない。でも、この曲を気に入った人がたくさんいるみたいで、みんなこれがシングルだって言うんだ」
このシングルはイギリスのチャートでとりわけ良い成績を収め、最高6位を記録した。一方アメリカのビルボード誌のホット100チャートでは10位を記録するに留まっている。『Black And Blue』からシングル・カットされた中でチャート入りを果たしたのは、この曲だけだった。
後世への影響
この曲がチャートで上記のような結果に終わった原因は、はっきりしている。つまりこの曲は、人によって好き嫌いが分かれるのである。これを荘厳で甘美な曲だと言う人がいる一方で、退屈で甘ったるくて自己憐憫が強い曲だと言う人もいた。キース・リチャーズは1976年のコンサートでこの曲を演奏している最中に一瞬眠ってしまったことがある。その瞬間にエフェクターを強く踏みすぎたため、耳をつんざくようなハウリングが起こり、びっくりして目が覚めたという。
そういう出来事があったせいか、このツアーのあとは「Fool To Cry」がステージで演奏されることはほとんどなかった。しかし、完全に忘れられたわけではない。『Black And Blue』の収録曲の中でコンピレーション『Forty Licks』に選ばれたのは、この曲だけだった。また、この曲の注目すべきカヴァー・ヴァージョンといえば1曲くらいしかない (そのティーガン&サラのカヴァーはHBOのドラマ『Girls』のサウンドトラックに収録された) 。それでもこの曲は隠れた名曲であり、発掘する価値は十分過ぎるくらいある。
Written By Simon Harper
ザ・ローリング・ストーンズ『Black and Blue』(デラックス・エディション)
2025年11月14日発売
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