アメリカだけで800万以上も売れた全米1位のライブ盤、ピーター・フランプトン『Frampton Comes Alive!』

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1975年の夏には、ピーター・プランプトンはすでにソロ・キャリアにおいて4枚のスタジオ・アルバムを制作していた。18歳でザ・ハードのメンバーとして成功を味わっていた最後の頃にレイヴ誌から“Face of ‘68(1968年の顔)”との有名なフレーズをつけられた時から7年が経っていた。

シンガー、ソングライター、そして特にギタリストとして広く業界で尊敬を集めていたピーター・フランプトンの1972年の『Wind Of Change』には、リンゴ・スター,やビリー・プレストン、クラウス・フォアマン、アンディ・ボウン、リック・ウィルズやニッキー・ホプキンスといったアーティストたちが参加。精力的にツアーを行い、リリースしたアルバムは定期的に全米アルバム・チャートにランクインをしていた。だがこの先彼に訪れようとしていた出来事は予想だにしていなかっただろう。すべては1975年6月13日のサンフランシスコでのコンサートで形となり、翌年4月10日にはチャートNo.1の記録へと繋がったのだ。

その暑い夏、ピーター・フランプトンは同年の3月にA&Mからリリースしたアルバム『Frampton』を提げてツアーを行っていた。ピーター・フランプトンとクリス・キムジーにプロデュースされた本作には「Baby, I Love Your Way」や「Show Me The Way」のスタジオ・レコーディングが収録された。「Show Me The Way」は独特で、当時は革新的だったトークボックスのエフェクトをピーター・フランプトンの声に加えており、のちにこれがピーター・フランプトンのトレードマークのひとつとなった。

6月13日にピーター・フランプトンとバンドはサンフランシスコのウィンターランド・ボールルームでライヴを行った。「サンフランシスコの電波を乗っ取っていたよ」と2003年にピーター・フランプトンは話した。「アルバム『Frampton』が出てからサンフランシスコでは失敗しようがなかった、サンフランシスコでヘッドライン・ツアーをしたのはあの時が初めてだったね」。

「ステージに出たら観客が7,500人ぐらいいて、“Oh my God”と思ったよ。それでとにかく気合が入ったんだと思う。ライヴが終わった時に“ライブを録音しておけば良かった”と思うような内容だった。実際にはレコーディングしてたんだけどね。とにかく特別なライヴだったよ」。

さらにカリフォルニア州サンラファエルのマリン・シヴィック・センター、ニューヨーク州コマックのアイランド・ミュージック・センター、ニューヨーク州プラッツバーグのニューヨーク州立大学のキャンパスでのライヴのレコーディングとともに、史上最も成功したライヴ・アルバム『Frampton Comes Alive!』に収録された。

2枚組のこのライブ・アルバムはアメリカで1976年1月16日にリリースされ、その2週間後に全米アルバム・チャートで初登場191位を記録した。ラジオで大ヒットとなり、アメリカ、イギリス、その他の国でもトップ10入りしていた「Show Me The Way」に支えられ、アルバムはチャートを登り続けた。4月初めには全米アルバムチャート1位を獲得。このアルバム『Frampton Comes Alive!』はイーグルスの『Greatest Hits 1971-1975』から王座を勝ち取り、ウィングスの『At The Speed Of Sound』と交代を繰り返しながらも、1位を通算10週間もの間勝ち取っていた。

その同じ週に『Frampton Comes Alive!』は100万枚の出荷を超えた自身初となるアメリカでのプラチナムに認定された。6月にはピーター・フランプトンは同アルバムからもう1曲のシングル「Baby, I Love Your Way」がヒット。9月にはさらに「Do You Feel Like We Do」でもヒットを獲得した。


ピーター・フランプトンはアルバムがリリースされた時に「今回は50万枚ぐらい売れて、ゴールド・ディスクまではいけるかも、と思っていたんだけど、最初の2週間で達成したんだ。多分6週間ぐらいで1位を達成して、夏の間ずっと1位、2位、1位、2位と繰り返していた。本当に信じられなかったよ」と振り返る。メロディー・メーカー誌のクリス・ウェルチは、アルバムは「ピーター・フランプトンが何年もの経験を経て、メジャーなロックの人物へと進化を遂げたことを記している」と述べた。

『Frampton Comes Alive!』は1976年のアメリカのアルバム・ベストセラーとなり、それ以来今だに売れ続けている。2011年の夏にRIAAは8xプラチナと認定し、世界中でのセールスはその合計の倍と推定されている。

このようなスケールでの成功を再び遂げることはなかったが、ピーター・フランプトンは1977年の夏にはすでに次のスタジオ・アルバム『I’m In You』を完成させており、アメリカでは1か月2位を記録し、そのタイトル・トラックであるリード・シングルも全米シングル・チャートで2位を達成した。1975年のサンフランシスコでの歴史的な夜以降、ピーター・フランプトンのキャリアは新たな卓越した領域へと進み、その水平線の先にはマルチ・プラチナの輝きが見えていたのだ。

Written by Paul Sexton



  

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