音楽史上最高のヴォーカル・デュオTOP11

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誰もが知っている曲にある通り、”It takes two, baby”(二人でなけゃダメなんだ、ベイビー)。二つの声が合わさって、唯一無二のブレンドを生み出すことが出来れば、人々の記憶に残る決して色あせることのない名曲の決定版音源として認められることができる。マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「Ain’t No Mountain High Enough」を超えるヴァージョンを生み出したデュオはいただろうか? あるいは「You’ve Lost That Lovin’ Feelin‘」でライチャス・ブラザーズのビル・メドレーとボビー・ハットフィールドが成し遂げたよりも強い胸の疼きを与えたデュオはいただろうか? 我々には考えつかないが、ここでは通常のトップ10よりもう一組余分に、史上最高のヴォーカル・デュオのトップ11をリストアップしてみた。

あなたの予想は我々のチョイスと上手く重なっているだろうか? それともどこかに不協和音が出ているだろうか? コメント欄に是非ご意見を。

1: ライチャス・ブラザーズ
彼らは実の兄弟でもなければ、牧師でもない[訳注:righteousには「(道徳的に)正しい、徳が高い」という意味がある]。ソウルフルなシンガー2人組、ビル・メドレーとボビー・ハットフィールドがこのステージ・ネームを名乗るようになったのは、あるアフリカ系アメリカ人の観客が、彼らのギグの最中に「イカすぜ、ブラザー!(Righteous, brothers!)」と叫んだところからだった。

カリフォルニア州出身のライチャス・ブラザーズは、何枚ものシングルをリリースするものの唯一のヒット曲は騒々しいR&B的お祭り騒ぎの 「Little Latin Lupe Lu」だけというデュオだったが、1964年にフィル・スペクターがプロデュースを手掛けるようになって状況は一変する。彼はまず「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(邦題:ふられた気持ち)」を世に出した。この曲は全米のラジオ及びTVにおいて、20世紀最もオンエアされた曲だ。もっとも彼らも単なるフィル・スペクターの操り人形ではなくて、彼らのレコードの中で二番目に記憶に残る「Unchained Melody」は、ボビー・ハットフィールドがヴォーカルを、ビル・メドレーがプロデュースを担当している。

彼らは「Ebb Tide」(1965年)と「Soul And Inspiration」(1966年)でも注目を集め、1968年に一旦袂を分かったものの、1974年には再結成し、3曲のヒットを出した。また彼らの往年の名曲たちも世界各地で折にふれチャートを賑わせ、とりわけロマンティック映画『ゴースト/ニューヨークの幻』に使われた 「Unchained Melody」は大ヒットを記録した。ハットフィールドは2003年にこの世を去ったが、ビル・メドレーは現在も新たな“兄弟”のバッキー・ハードと歌手活動を続けている。

オススメトラック: 「You’ve Lost That Lovin’ Feelin」 (1964)

 

2: カーペンターズ
彼らのトレードマークの声と言えばカレン・カーペンターだが、彼女の傍らで優しくキーボードを奏でる兄リチャード・カーペンターは彼女の才能を輝かせるため手綱を取りつつ、彼自身も優れた歌い手だった。彼らのサウンドの鍵はその親密さにある。リチャードがカレンのヴォーカルを極端に近い位置でマイキングしていたので、レコードには彼女の呼吸が余さず拾われている。彼らの作る音楽は子供向けではなかったためか、彼らが契約したのはストレス社会で生きる大人たちを癒すサウンドがお得意のA&Mだった。

1970年にカーペンターズは 「(They Long To Be) Close To You」で大ブレイクする。耳に心地良いアレンジメントと、ミルクたっぷりのコーヒーに更にふんだんにクリームを足すようなハーモニーを組み合わせる手法は、その後の「We’ve Only Just Begun(邦題:愛のプレリュード)」、 「Rainy Days And Mondays(邦題:雨の日と月曜日は)」他、数々のヒット曲でも一貫していた。彼らの音楽を“単なる鎮痛剤”と評したプレスはセンスがないとしか言いようがない。「Goodbye To Love(邦題:愛にさよならを)」(1972年)でエンディングにかけてフィーチャーされているファズボックス・ギター・ソロは、絶望に満ちた曲を総括する感情むき出しの終章である。彼らのアルバム・セールスは何百万枚と言う数字に達し、特にコンピレーション盤『The Singles1969-1973』はアメリカだけで700万枚を突破している。1983年のカレンの死と共に、ポップ・ミュージック界は愛すべき才能を喪ったのだった。

オススメトラック: 「Rainy Days And Mondays」 (1971)

 

3: マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル
デュオの中にはレコード会社のマーケティング部門が、所属アーティストのキャリアを伸ばすために、デュエットを組み、パートナーの認知度を上げる目的で急ごしらえした組み合わせも少なくない。だがそんな企画ものからも、思わぬケミストリーが生まれることがある。マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルなどはその完璧な例だ。

モータウンの巨人マーヴィン・ゲイはタミー・テレルと組む以前、メアリー・ウェルズとキム・ウェストンと組んだ経験があったが、いずれも成功とは言い難い結果に終わった。だが今回は違ったのだ。プロデューサー兼ソングライター・チームのアシュフォード&シンプソンは自らも男女のヴォーカル・デュオであり、マーヴィン・ゲイとタミー・テレルには何が合うか、ツボを心得ていた。二人は1967年の心揺さぶる 「Ain’t No Mountain High Enough」を皮切りに、1969年の非の打ちどころのないポップ・ソング「The Onion Song」まで、数々のヒット曲を放った。だが、タミー・テレルはコンビ後期に深刻な体調不良に陥り、24歳にして脳腫瘍で悲劇的な最期を迎える。マーヴィン・ゲイは彼女の死に激しく動揺し、それから2年の間、公の場から姿を消した。後に彼はもう一度だけ、ダイアナ・ロスとマイクを分け合う試みをしたが、亡くなったタミー・テレルを超える音楽の心の伴侶は存在し得なかったようだ。

オススメトラック: 「Ain’t No Mountain High Enough」 (1967)

 

4: サイモン&ガーファンクル
小柄な黒髪の方が曲を書き、背の高い金髪の方が至高のハーモニーを提供する。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルが、エヴァリー・ブラザーズを模倣した「Hey Schoolgirl」を携え、初めて――トムとジェリーという名前で!――表舞台に登場したのは15歳の時だった。恐らく、トムとジェリーのままその後のリリースがヒットしなかったのは彼らにとっては幸いと言っていいだろう。

1963年、ニューヨーク・シティのクラブ回りをしながら歌っていた彼らはコロンビア・レコードと契約を交わし、デビュー・アルバムとなる意欲作『Wednesday Morning, 3AM(邦題:水曜の朝、午前3時)』をリリースする。これは鳴かず飛ばずで、ポール・サイモンはひとり全英フォーク・サーキット巡りを敢行し、1965年にソロLP『The Paul Simon Songbook』を出した。そんな時、アメリカではプロデューサーのトム・ウィルソンが、『Wednesday Morning, 3AM』に収められていた 「The Sound Of Silence」に可能性を感じ、ロックのアレンジのを加える。ポール・サイモンはたいそう忌み嫌ったが、このアレンジのレコードは全米チャートで1位となった。

二人はエレクトリックと言う必要悪に白旗を揚げ、ポール・サイモンのソロ・アルバムに収録されていた曲を再録してアルバム『Sounds Of Silence』を作り上げた。シングル・カットされた「Homeward Bound(邦題:早く家へ帰りたい)」と「I Am A Rock」によって 彼らは66年のチャートの顔となり、アルバム『Parsley, Sage, Rosemary & Thyme』はマルチ・プラチナムを獲得した。コンセプト・アルバム的な『Bookends』には、アメリカ映画史に残る映画『卒業(邦題:The Graduate)』にフィーチャーされた、ノリのいい曲調と皮肉に満ちた歌詞を持つ 「Mrs. Robinson」が収められている。

1970年1月にリリースされた『Bridge Over Troubled Water(邦題:明日に架ける橋)』は2,500万枚のセールスを記録した。しかしながら、二人は激しい意見の対立から解散を選び、1975年のシングル1枚と僅か数本のショウを除いて、いまだ再結成には至っていない。ポール・サイモンいわく、「アーサーと僕は殆ど何ひとつ意見が合うことがないんだ」。けれどそんな不協和な二人から、アダルト・ロックの最高峰を極めるハーモニーが生まれていたのだ……

オススメトラック: 「A Hazy Shade Of Winter(邦題:冬の散歩道)」(1968)

 

5: リチャード&リンダ・トンプソン
1970年代ブリティッシュ・フォーク界きっての大物カップル、リチャード&リンダ・トンプソンのキャリアは愛すべき作品たちで溢れている。リチャード・トンプソンが結成メンバーのひとりだったロンドンのフォーク・ロックの先駆け的存在、フェアポート・コンヴェンションを離れたのは1971年のことで、72年にはデビュー・ソロLP『Henry The Human Fly』がリリースされた。彼のガールフレンドだったリンダ・ピータースもレコーディングに参加しており、二人はその年に結婚する。二人のデュオ・デビュー作『I Want To See The Bright Lights Tonight』は1974年に発売された。リチャードのディープでダークな曲がぎっしり詰まったこのアルバムは、たちまち飛ぶように売れる、ということにはならなかったものの、 評価は着実に高まっていった。リチャード・トンプソンのギター・プレイは聡明で、作品全体に漂う親密な空気と二人の声のブレンドは美しいの一言である。

次いでリリースされた『Hokey Pokey』(1974)では、人生経験豊富なリチャード・トンプソンの眼が現代社会の不満要素に向けられた。このアルバムが世に出るのと前後して、トンプソン夫妻は イスラム神秘主義を崇拝するコミューンに移住する。彼らの3枚目のアルバム『Pour Down Like Silver』はより宗教色の濃い内容だったが、これは彼らの宗教指導者から、リチャード・トンプソンは音楽制作を辞めるべきだと言われた後に作られた作品とされている。

アメリカのロック・ミュージシャンたちをフィーチャーした『First Light』(1978)は全体として必ずしも上手く機能していたわけではないが、『Sunnyvista』と『Shoot Out The Lights』(1982) はどちらも力強い作品だった。夫妻は後者がリリースされる前に離婚を発表する。それでも二人が豊かな心と知性で、当代屈指のフォーク・ロックを生み出していたことは紛れもない事実である。

オススメトラック: 「I Want To See The Bright Lights Tonight」(1974)

 

6: エヴァリー・ブラザーズ
ドンとフィルのエヴァリー兄弟はアイオワ州シェナンドーで生まれ育った。二人は1957年、ティーンエイジャーにしてケイデンス・レコードと契約を交わし、パンチの効いたアコースティック・ギター・コードと躍動感のあるリズムに、タイトな二部構成のハーモニーを絡めた「Bye Bye Love」で一気にチャートを席巻する。エヴァリーズはこのフェリス&ボードロー・ブライアントのペンによる鮮烈な一曲で、彼らのトレードマークであるサウンドの完成形を披露し、パフォーマンス上でも曲作りの上でも相棒としてしばらく活動を共にし、「All I Have To Do Is Dream(邦題:夢を見るだけ)」、「Wake Up Little Susie(邦題:起きろよ スージー)」そして 「Bird Dog」といった楽曲を生み出した。また、2歳年上の兄ドンはソングライターとしてもめきめき頭角を現し、「(Till) I Kissed You」が1959年に第4位に、兄弟二人で書いた「Kathy’s Clown」は翌年に第1位に輝いている。

彼らのヒットは1962年まで続いたが、ザ・ビートルズがシーンに登場すると、彼らのサウンドはどこか古臭く思われるようになったようだ。けれど、エヴァリー兄弟はその後も変わらず重要な作品を次々に生み出し続ける。『Beat And Soul』(1965)には彼ら自身が書いた怒りに満ちた 「Man With Money」がフィーチャーされ、同じ年に全英では「The Price Of Love」がヒット・チャートを賑わせた。『Two Yanks In England』(1966) は双方向の交流から生まれたアルバムである。バッキングを務めた60年代ポップ・スターのザ・ホリーズは、彼らのハーモニーの恩恵を大いに享受した。彼らの『Our Daddy Taught Us』(1958)の楽曲は60年代フォーク・ミュージックに絶大な影響を及ぼし、『Roots』(1968)はカントリー・ロックの礎となったのである。

オススメトラック: 「The Price Of Love」 (1965)

 

7: サム&デイヴ
サム・ムーアとデヴィッド・プレイターが “ダブル・ダイナマイト”と呼ばれたのは決して伊達ではない。二人のサザン・ソウル・シンガーはレコードでも、ホットでスリリングなステージ・ショウでも常に本領を発揮し、彼らと同じくらいオーディエンスにも汗をかかせたものだ。60年代初期にサザン・ゴスペル・サーキットで意気投合した二人のうち、デイヴ・プレイターは唸るような迫力のバリトン・ヴォイスを、サム・ムーアはスウィートなテナーを担当した。彼らは1965年にアトランティックと契約したが、そこから傘下のメンフィス・ソウル・レコード、スタックスへと移された。ライティング兼プロダクション・チームであったアイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターが、二人のポテンシャルを見極めるのには数枚のシングルを要したが、そこから先は「You Don’t Know Like I Know」、「Hold On, I’m Comin’」、「You Got Me Hummin’」、「Soul Man」そして「Soothe Me」といった曲で、彼らはアメリカでもヨーロッパでも多くのファンを虜にしていった。1968年にアトランティックとスタックスの契約が打ち切られると、二人は苦境に立たされるが、名曲「Soul Sister, Brown Sugar」で見事に窮乏を脱した。二人は1970年の夏にコンビを解消し、その後同じステージに立つ機会はごく稀だった。悲しいことに、彼らはお互い激しく嫌い合っていたのである。それでもかつての彼らは、自分たちよりビッグ・ネームのパフォーマーたちを毎晩のように食っていたのである。デイヴ・プレイターは1988年にこの世を去ったが、サム・ムーアは今も素晴らしく表現力豊かな現役シンガーだ。

オススメトラック: 「Soul Sister, Brown Sugar」(1968)

 

8: ルーヴィン・ブラザーズ
チャーリー・ルーヴィンとアイダ・ルーヴィンの革新的なサウンドはポップ・ミュージックの世界にその後何十年にもわたり轟き渡っていたが、彼らに影響を受けたエヴァリー・ブラザーズやザ・バーズ等のファンは、彼らの名前を耳にしたことは一度もないかも知れない。本当の苗字をラウーダーミルク(Loudermilk)というルーヴィン兄弟が、この「ルーヴィン・ブラザーズ」といういステージ・ネームを手に入れたのは1940年のことだった。教会の聖歌に地獄の業火云々が登場するバプティスト派の一家で育ったものの、兄弟の才能は泥臭いカントリーに費やされて終わるべきものではなかった。

彼らはMGMで「The Great Atomic Power」(1952)をはじめとする3枚のゴスペル・シングルをリリースする。この曲は”アメリカに死の雨が降ったら、自分の魂は救われるものだろうか”と問いかける内容だった。彼らの1959年のアルバム『Satan Is Real』には、張りぼてのベルゼブブ(魔王)の前で神を称える歌を歌う二人の姿があるが、彼ら自身は決して聖人君子ではなかった。アイラ・ルーヴィンは短気なアル中で、時にはステージの上で自前のマンドリンを叩き壊した。彼の3番目の妻のフェイは、彼にコードで首を絞められそうになった後、彼を銃で何度も撃っている。ちなみにどちらも命に別状はなかった。

キャピトルと契約を交わした兄弟は、1956年の「When I Stop Dreaming」から実に7年間、カントリー・チャートに連続ランクインの記録を達成する。彼らのキャリアが終わりを迎えたのは、アイラ・ルーヴィンと4番目の妻のアンが、ミズーリでのギグの後の移動中に交通事故で命を落としたためだった。

ルーヴィン・ブラザーズはどちらもヴォーカリストとしても非常に評価が高く、エヴァリー・ブラザーズが広めた密集和声サウンドは、元はと言えば彼らが火付け役だった。彼らの大ファンだったザ・バーズは、カントリー・ロックの草分け的アルバム『Sweetheart Of The Rodeo』で、ルーヴィン・ブラザーズの「The Christian Life」をカヴァーしている。

オススメトラック: 「I Don’t Believe You Met My Baby」(1956)

 

9: コクラン・ブラザーズ
エディ・コクランと言えば自ら書き上げた珠玉のナンバーを携えて1955年に颯爽とシーンに登場した真に偉大なロック・ギタリストのパイオニアのひとりである。だが、いかにしてそんなことが可能だったか? それは、彼が“兄弟分”のハンク・コクランと、コクラン・ブラザーズで見習い時代を経験していたからである。ハンクとエディは実の兄弟ではなく、単に苗字が同じだっただけで、カリフォルニアでのコンサートで出会った時に、その偶然に揃って気まぐれを起こしたせいだった。才能あるソングライターのハンク・コクランと腕利きギタリストのエディ・コクランは、お気楽なスタイルの骨太なヒルビリー・グルーヴを次々に繰り出す。「Teenage Cutie」、「Tired And Sleepy」、「Slow Down」――これらは殆ど人々の耳に届くことのなかった、ロックン・ロールの原型だった。彼らは1954年から55年にかけて4枚のシングルを出し、その後エディ・コクランはソロ契約を得て、1956年の映画『女はそれを我慢できない』に出演、その後の活躍はご存知の通りだ。ハンクもソングライターとして、パッツィ・クラインやバール・アイヴス、ミッキー・ジリーらに曲を提供した。

オススメトラック: 「Tired And Sleepy」 (1955)

 

10: ワム!
もしワム!があれほどハンサムでなければ、彼らは80年代において屈指のポップ・センセーションとして評価されていたかも知れない。彼らが歌っていたのはどこかハッピーだがほぼプロテスト・ソングに近かった。ロンドンで生まれ育ち、元スカ狂いの弱小バンド、ジ・エグゼクティヴ(The Executive)にいたジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーが、ワム!名義でデビュー・シングル 「Wham Rap! (Enjoy What You Do)(邦題:ワム・ラップ!(楽しんでるかい?))」をリリースしたのは、1982年の夏のことだった。この曲は彼らに、辛いことがあっても楽しみを求めて街へ繰り出す悪ガキどもというイメージを与え、「Young Guns (Go For It)(邦題:ヤング・ガンズ(やりたいことをしようぜ!))」でも同じテーマが続いた。「Club Tropicana」のヒットと共に人気商売に付きものの狂想が幕を開け、やがて人々はソングライターでありリード・ヴォーカリスト兼プロデューサーでもあるジョージ・マイケルの才能に気づき始める。1984年、 「Careless Whisper」は彼のソロ・デビュー・シングルとなり(ただしこれはアンドリュー・リッジリーとの共作曲)、更にワム!としてリリースした「Wake Me Up Before You Go-Go(邦題:ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ)、「Freedom」、そして「Last Christmas」はいずれも大ヒットを記録した。

1985年、彼らは「I’m Your Man」でチャートの第1位を獲得する、ワム!のクリエイティヴ・フォースはもはやティーン・ポップ・アイドルでいることに飽き足らなくなっていた。「The Edge Of Heaven’」と、何やら冷ややかな「Where Did Your Heart Go」を置きみやげに、1986年、彼らは活動を停止する。ジョージ・マイケルのコンサートにごく稀にアンドリュー・リッジリーがゲスト出演することはあったものの、ワム!はポップ界のデュオには珍しく、その後一度もよりを戻すことはなかった。

オススメトラック: 「Freedom」 (1984)

 

11: ザ・プロクレイマーズ
インディ・ミュージックの世界にも歌うデュオは存在するが、中でも一番知られていたのは、抗い難いキャッチーさと心温まるサウンドで世界を魅了したスコットランド出身の双子、ザ・プロクレイマーズだろう。

クレイグとリチャードのリード兄弟は1983年、21歳の時に、彼らのツーマン・アコースティック・サウンドをひっさげてロードに出る。1987年に『This Is The Story』が世に出ると、その中の1曲「Letter From America」に可能性を見出したジェリー・ラファティ(「Baker Street」で知られる)が、バンドによる新たなヴァージョンのレコーディングを持ちかけてプロデュースを担当するとこれが全英第3位のヒットとなった。88年には「I’m Gonna Be (500 Miles)」と、「Sunshine On Leith」もチャートインする。ザ・プロクレイマーズのコンサートは祝祭となった。彼らの音楽に賭ける思いと、耳をくすぐるエモーショナルな歌はファンに心から愛された。

英国での人気が下火になり始めた頃、今度はアメリカで彼らの人気に火が点き始め、1993年には映画『妹の恋人』にフィーチャーされた「I’m Gonna Be (500 Miles)」が第3位まで上昇する。90年代後半は収穫の乏しい時期だったが、コメディアンのピーター・ケイとマット・ルーカスが彼らと共に出演した2007年の『Comic Relief』で「I’m Gonna Be (500 Miles)」の新ヴァージョンを披露すると、この曲はUKチャートの第1位に輝き、ザ・プロクレイマーズのポップ・ミュージック界での位置を不動のものにした。

オススメトラック: 「Sunshine On Leith」 (1988)

By Ian McCann


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