ラヴ・ソングの作り方:歴史や心に響く理由、そして多くの名作曲家たちのコメント

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何千年にもわたって、人間は魂からの激しい恋心、心からの激しい恋心、そして心からの深い後悔とを歌にしてきた。ラヴ・ソングは孔子からドリー・パートンにいたるまで、さまざまな人々によって書き継がれ、21世紀になっても、人生の核の一つとなっている。最初のデートから結婚まで、恋愛のすべての段階において、欠かせない要素となっているのだ。

“愛こそがすべて” なのかもしれない。ビートルズも確かにそう歌っていた。しかし、ソングライターたちは長年にわたり、レナード・コーエンが言うところの「心で思い描く風景を表現するための正しい言葉を見つける」という難題に直面してきた。グラミー賞受賞者で『Tunesmith: Inside The Art Of Songwriting』の著者でもあるジミー・ウェッブが強調した問題とは、「ラヴ / LOVE」という言葉そのものが、「使い古されているうえに、うまく韻がふめない」ということだ。なにせ、かつてシェイクスピアも『夏の夜の夢』を書いたときにこの困難にぶちあたり、「love」と「dove」を対にしたのだ。

 

ラヴ・ソングで何が言えるだろう?

光り輝く愛について語るための新しい言葉を探していたら、楽しい曲が誕生した。1934年のアイラ・ガーシュウィンとイップ・ハーバーグ、ハロルド・アーレンによるブロードウェイ・ミュージカル『Life Begins at 8:40』で歌われる、「What Can You Say In A Love Song?」には、こんな歌詞がある。

これまでたくさんの恋人たちが
おなじみの古い歌を口ずさんできた
昔と変わらず歌が心に響くのならば
ラブ・ソングで何が言えるというのだろう

まだ歌われていないことはあるのだろうか?

テッド・ジョイアは、2015年に出版した『Love Songs: The Hidden History』の中で、ラヴ・バラードは、中世の8世紀にスペインで捕虜にされたアラブ人の女性奴隷が奏でた調べから誕生したと説明している。それから約400年後の12世紀、ヨーロッパの吟遊詩人たちが求愛の歌を各地に広めた。このときから、ラヴ・ソングにおいて恋の喜びと苦しみは共寝の仲となったのだ。

これまでレコーディングされてきたラヴ・ソングの数は1億を超えるが、その内容もまた驚くほど千差万別である。エルヴィス・プレスリーからエド・シーランに至るまで脈々と受け継がれている“恋に落ちたときの歌”、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングがデュエットしたガーシュウィン兄弟による名曲「Our Love Is Here To Stay」のように“永遠の愛を誓う歌”、700万枚売れたテイラー・スウィフトの「We Are Never Ever Getting Back Together」のような“別れの歌”、ホイットニー・ヒューストンによるドリー・パートンのカヴァー「I Will Always Love You」のような“情熱的な愛の歌”、そしてエルトン・ジョンの「Sorry Seems To Be The Hardest Word」のような“許しと仲直りを請う歌”もある。

もちろん、マーヴィン・ゲイの「Sexual Healing」や「Let’s Get It On」などセックスや誘惑についての歌も数多くある。ギター初心者の定番曲としておなじみの「Greensleeves」ですら、もともとは売春についての歌だと言われている。ジョイアの解説によると「“Greensleeves”は、客を誘惑するためのメロディとして人気を博した」とあり、さらに「この題名は、客と屋外で性交した時に、娼婦の服に草の染みがつくことを示唆しているのかもしれない」と述べている。

 

「長く愛されるラヴ・ソングの大半は失恋の歌だ」

ラヴ・ソングは年齢や性別、国籍をも乗り越える。はてしなく求められるままに、悲しい歌は書かれ続け、聴き継がれてきた。「誰にでも、ちょっとした痛みを分かち合いたくなる時がある……望みがすべて消え失せたとき、悲しい歌がよく効くのさ」と、エルトン・ジョンは「Sad Songs (Say So Much)」で歌っている。「泣き疲れて眠るための悲しいラヴ・ソング / Sad Love Songs For Crying Yourself To Sleep」というSpotifyのプレイリストに36万人以上のフォロワーが存在することも、その証拠だ。

悲しいラヴ・ソングはよく効くだけではなく、恐ろしくよく売れる。映画『タイタニック』の不朽のテーマ曲、セリーヌ・ディオンの「My Heart Will Go On」は2,000万枚を売り上げた。テイラー・スウィフトが見事にやってのけたのは、何百万人ものファンに彼女のラヴ・ソングと一対一でつながっているかのように思わせたことだ。「私にとってソングライティングとは、いつだって洗いざらい打ち明けること。歌は私の人生と物語から生まれるものだから」と語っている。

 

ノスタルジアもまた重要な要素であり、胸に迫る歌をたくさん生み出してきた。ポール・マッカートニーの「Yesterday」もそのひとつだ。しかし、どうして演者も聴き手も憂鬱や絶望に満ちた歌に進んで身を委ねるのだろうか? エミルー・ハリスはこう語る。エヴァリー・ブラザーズが1960年にリリースした「Love Hurts」を聞いて、「心が燃えあがり、陰鬱な真っ暗闇の中、望みのない悲しい歌とともに恋がはじまった」と。

「長く愛されるラヴ・ソングの大半は失恋の歌だ。誰でも恋に苦しんでいるときは、物事をより深く感じるから。もしボブ・ディランが“Blood On The Tracks”で自分の結婚生活がどれくらい幸せかって歌っていたら、誰にも見向きもされなかっただろうね」と語るのは、ノラ・ジョーンズに提供したヒット曲「Don’t Know Why」でグラミー賞を受賞したジェシー・ハリスだ。

 

『これは自分の思っていることだ』と思わせるのが良いラヴ・ソング

カントリー・ミュージックは、悲しい恋の物語と密接に結びついている。しかし、その磁力はジャンルを超える。ハロルド・アーレンとテッド・ケーラーの「Stormy Weather」は失った恋を嘆く女の歌だが、1933年から何百回もカヴァーされてきた。その面々には、ソウル・シンガーのダイナ・ワシントン、リンゴ・スターにELOのジェフ・リンといったロック・スター、“クルーナー”の愛称で親しまれたビング・クロスビー、ヴィオラ・ウェルズといったポップ・シンガー、デューク・エリントンにエリック・ドルフィーといったジャズの人気ミュージシャンたちがいる。

さらに、ビリー・ホリデイもレスター・ヤングとカウント・ベイシーを従えて、心に訴えるカヴァーを披露した。「手に入れられない愛を追い求めることで、その状況やキャラクターの魅力がいっそう引き立つ。それが“Stormy Weather”のようなラブソングがグッとくる理由」と、ソングライターのマーサ・ウェインライトは話す。

興味深いのは、悲しいラヴ・ソングを聴いたからといって、気落ちするとは限らないということだ。2016年にモントリオール大学が『Frontiers In Psychology』誌で発表した研究では、「音楽が引き起こす悲しみがもたらす逆説的な快感」の科学的な証拠が示されている。それによると、聴き手が悲しい歌に感情移入すると生化学的な反応が起こり、有益なホルモンが誘発されるとのことだ。加えて、歌のメッセージを受け入れることの心理的な効用もある。「自分の感情を表現できない人は、ほんとうに多い。だから、そんな人たちに“まさに自分の思っていることだ”と言わせるのがいいラヴ・ソング」と、ライチャス・ブラザーズのヒット曲「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’」を共作したシンシア・ワイルは語る。

詩人かつ戯曲者のフェデリコ・ガルシア・ロルカは、スペイン語の「ドゥエンデ」という言葉について論じ、いかにしてドゥエンデが芸術作品の奥底にある名状しがたい悲しみが押しよせる瞬間を捉えるのかを考察している。ソングライターのニック・ケイヴは、1999年のウィーン・ポエトリー・フェスティバルで「ラヴ・ソングの秘密」と題した講演を行い、ドゥエンデについて「ラヴ・ソングにはドゥエンデが必要だ。ラヴ・ソングはただ楽しいだけのものではないのだから」と述べている。「なによりもまず、苦しみの気配が漂っていないといけない。苦痛や悲嘆を歌詞に含めることなく愛について歌うなんて、とうていラヴ・ソングとは言えない」

 

渇望が逃れられない前提として存在している……虚空への叫びだ

十代の頃のニック・ケイヴにとって、父親の突然の死をどう受けとめるべきか、という探究も曲作りのインスピレーションのひとつになったと語っている。「ラヴ・ソングはいろいろな形で生まれてくる。意気揚々とした歓喜の歌、怒りや失望の歌、エロティックな歌、無情な喪失の歌であったりもする。けれども、どれも神について歌っている。というのも、真のラヴ・ソングには、渇望が逃れられない前提として存在しているからだ。これは、虚空への叫びだ」。

ルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」は、人類愛を説くラブソングであり、ニック・ケイヴの基準からは外れるだろう。しかし、歌を作ることで苦痛を受け入れようとする衝動に駆られることは、多くのソングライターも経験しているはずだ。ルシンダ・ウィリアムスもその例にもれず、「失恋したことがなければ、いい歌は作れないでしょうね」と話す。ルシンダ・ウィリアムスのアルバム『Wheels On a Gravel Road』に収録されている「Jackson」は、痛切な別れの歌だ。

1966年にビーチ・ボーイズがリリースした「God Only Knows」は、恋の喜びと苦しみを描いた史上最高のラヴ・ソングと言っても過言ではない。「God Only Knows」はポール・マッカートニーのお気に入りの曲でもあり、ブライアン・ウィルソンと共演した時には、この曲の情感に圧倒され、感極まったと語っている。

 

明日も愛していてくれる?

世界的に有名なラヴ・ソングの中には、現実の色恋沙汰について歌ったものもある。1961年、フィル・スペクターは18歳のヴェロニカ・ベネット(のちのロニー・スペクター)に恋をした。キャンドルの灯る上品なディナーからはじまった関係は、すぐに火傷のしそうな熱い恋愛へと発展した。

「どんどんと燃えあがった。彼は私の声、私の体、私のすべてにのめりこんでいった。そして私も」とロニー・スペクターは後に回想している。フィル・スペクターがジェフ・バリー、エリー・グリニッチと共作した「Be My Baby」は“愛が爆発した最初の記録”として語っていた。1968年に2人は結婚している。

生活費を工面する必要から、素晴らしいラブソングが生まれることもある。エルヴィス・コステロが「Alison」を作ったのは、家族を養うためにコンピュータ技師として週給30ポンドで働いていたときだった。

ボードルー・ブライアントはトレーラーハウスで寝起きしている時に、「All I Have To Do Is Dream」を書いてフェリス・ブライアントに捧げた。ボードルーは十代のエレベーターガールだったフェリスと恋に落ち、出会って2日後に駆け落ちした。そしてその後2人は40年の年月をともに過ごした。

ジェリー・ゴフィンがブルックリンの化学工場で働いていた時、妻のキャロル・キングが子供のためにピアノを弾いていると、ふいに美しいメロディーが浮かんだ。家に帰ったゴフィンは、妻が書いたメロディに詞をのせた。こうして、今も色褪せることのない名曲「Will You Still Love Me Tomorrow」ができあがった。当時20歳だったゴフィンは、同世代の代弁者のひとりとなった。

「Will You Still Love Me Tomorrow」は、黒人女性で結成されたガール・グループ のシュレルズによって、1961年にレコーディング。歌詞の内容は当時にしては過激だったが(処女を捧げるティーンエイジャーを歌っている)、可愛らしく胸を打った。ところが、ゴフィンは自身の才能について斜に構えるようになり(「32歳になっても、こんなくだらないものを書かなきゃいけないのか?」)、何百万人もの若者の気持ちを代弁することができる言葉の才能を自らないがしろにした。歌に対するひねくれた感情からドラッグにのめりこみ、不貞をくり返し、キングとの結婚は暗礁に乗りあげ、ついには破綻した。

 

時空のない世界で君を愛している

創造性に富んだラヴ・ソングは、才能あるソングライターたちにも刺激を与える。2019年1月にパティ・グリフィンは、乳がんの療養中にレオン・ラッセルが1970年にリリースした珠玉の名曲「A Song For You」を聞いて気力を取り戻したと語った。この曲はこれまでレイ・チャールズ、ウィリー・ネルソン、エイミー・ワインハウス、カーペンターズ、エルトン・ジョン、ダニー・ハサウェイなどによってレコーディングされている。

「この曲には何か特別なものがあって、人生の一瞬一瞬を俯瞰しているような気持ちにさせられる。曲にこめられた思いが私を元気づけた」

この忘れがたい歌詞(「時空のない世界で君を愛している」)は、まさにラッセルの渾身の作である。「ちょうどその頃、スタンダードとなり得る曲を書こうとしていたんだ……レイ・チャールズやフランク・シナトラが歌うようなブルース曲をね。ニューヨークでリムジンの運転手からこんな話を聞いた。アレサ・フランクリンを乗せたときのことだという。車が目的地に着くと、“A Song For You”がかかった。アレサ・フレクリンは車を止めたまま、繰り返し20回も聴いたそうだ」と、ラッセルは映画監督のデニー・テデスコに語った。

 

ストップ!愛の名にかけて

ラヴ・ソングの領域は広く、現実の恋愛で起きる負の側面、笑いや災難も取り入れる。そんな状況をネタにして、とびきり皮肉家のソングライターたちは多くの歌を作った。たとえばランディ・ニューマンは、「Lover’s Prayer」の注文の多い主人公を通じて、ねじ曲がった欲望を描いた。(「メガネをかけた女はよこさないでくれ……夜間クラスに通う女もお断りだ」)

ラヴ・ソングは楽しくても悲しくても、感傷的でも情熱的でも、完成するまでに多大な労力を要しているのは間違いない。ラモン・ドジャーはソングライタートリオのホーランド=ドジャー=ホーランドとして、「Baby Love」や「Stop! In the Name Of Love」、「You Keep Me Hangin’ On」といった、モータウンのヒット曲を制作したときの苦労についてこう語っている。

「朝の9時から仕事をはじめ、夜の3時まで働き続けることもあった。血と汗と涙の結晶さ。ピアノを打ち鳴らして、何か思いついたら小さなレコーダーに録音し、ひたすらこねくりまわして、ようやく形になるんだ」

ときには、印象的なフレーズがあっさりと浮かぶこともある。1967年、郊外にあるエルトン・ジョンの両親の家で、バーニー・トーピンがキッチンのテーブルで朝食を食べていたとき、歌のアイデアが降りてきた。その歌詞を“汚れたメモ帳”に手書きして「Your Song」と名付けると、それがそのまま完成稿となった。歌詞が書かれたメモには、いまでもコーヒーのしみが残っている。この場面は映画『ロケットマン』でも描かれている。

17歳の少年が書き上げた歌は、それにメロディーをつけたエルトン・ジョンにヒットをもたらし、永遠に愛される名曲となった。その後もフランク・シナトラやレディー・ガガといった100人以上の歌い手によってレコーディングされた。「若いソングライターへのアドバイスは、心からの湧き上がる言葉を書けということだ」という、ジミー・ウェッブの言葉のこの上ない見本がバーニー・トーピンだと言えよう。

 

今でも輝いているのは、思いが本物だったから

「‘Your Song’はこれまで書かれてきた曲の中でも、一番と言えるくらい子供っぽい歌詞だ」と半世紀後にバーニー・トーピンは語っている。「しかし、今でも輝いているのは、あの頃の思いが本物だったからだ。ありのままの気持ちだった。僕は17歳だったし、恋愛についての知識も経験もまったく未熟で無知な若者が書いた歌だ……でもだからこそ、とてつもなく無垢な感情がそこにはあるんだ。あんな歌はもう二度と書けないだろう。今の僕が書いている歌は、僕と同年代の人たちの恋愛について綴っていて、結婚生活の破綻や子供をどうすべきかがテーマになっているものが多いからね。現時点で自分が置かれている立場から、曲を書かなければいけない」

ブルース・スプリングスティーンは、純粋なラヴ・ソングに限らず、どんな歌を作るときでも、「常に自分を悩ませる何かを抱えていなければならない。心の奥底から湧きあがる何かが必要なんだ」と主張する。おそらくそれゆえに、心が激しく揺さぶられる歌の中には、愛する者の死を題材にしたものがあるのだろう(4歳の息子の死を歌ったエリック・クラプトンの「Tears In Heaven」や、エミルー・ハリスがグラム・パーソンズの死を悼んだ「Boulder To Birmingham」など。)ジェイソン・イズベルは、愛する者を失うという逃れられない運命から着想を得て、いつまでも胸に残る「If We Were Vampires」を書いた。

別れの歌は、ポップ・ミュージックの中でもとびきり切ない歌詞を生み出してきた。1930年代の名曲「Smoke Gets In Your Eyes」も、ロッド・スチュワートのヒット曲「You’re In My Heart」であっても、その点は同じだ。ブリット・エクランドとの別れの後に、「You’re In My Heart」がリリースされた。

失恋の歌の巨匠が、カナダ出身のシンガー・ソングライター、ジョニ・ミッチェルであることに異論はないだろう。彼女が生み出した告白の歌は、詩のように見事に構築されている。至高のアルバム『Blue』において、欲望の苦しみをリリカルに綴り(「聖なる葡萄酒のように、あなたは私の血の中を流れる」と「A Case Of You」で歌っている)、また辛辣なウィットも披露している(「リチャードはスケート選手と結婚して、皿洗い機とコーヒー沸かし器を買ってあげたんだって」)。なにより、『Blue』はすべてを惜しみなく曝け出した嘘のない芸術だ。「他人の音楽を真似たことなんてないわ。全部私の中から生まれてきたものだから」とジョニ・ミッチェルは語る。「“Blue”ができたとき、クリス・クリストファーソンの前で歌ったら、“おいおい、ジョーン、少しくらいは隠しておけよ”と言われたの」。

 

ラヴ・イズ・ザ・ドラッグ

優秀なソングライターは誰もが職人であり、詩の技巧を駆使して、出会いや別れを独自の語り口で表現する。多いのは直喩だ。愛は酸素のようなもの、蝶のよう、熱波のよう、荒れた海に架かる橋のよう、テュペロ・ハニーのよう。隠喩の場合もある。戦場、悪魔、ドラッグ、聖堂、人の道。ポール・サイモンが歌った「愛の弧」という隠喩は、「Hearts And Bones」が現代における究極のラヴ・ソングであることを証明する数多の根拠のひとつである。

韻もまた、ラヴ・ソングの歌詞に必須の要素である(聖書の句を引用したスクイーズのヒット曲「ほかの果実をかじってみたら/ほんとの気持ちがわかったんだ tempted by the fruit of another/Tempted, but the truth is discovered」が好例だ)。韻を踏むことで、明快かつ鮮烈な歌い出しになる。モータウンが誇るソングライターの名手、ノーマン・ホィットフィールドとバレット・ストロングが手がけた「I Heard It Through the Grapevine」を見てみよう。

Ooh, I bet you’re wonderin’ how I knew
About your plans to make me blue
不思議に思ってるんだろ、どうして僕が知ったのか
君が僕を裏切ろうとしていることを

また、ポール・サイモンが書いた「Homeward Bound」はこのように始まる。

I’m sitting in the railway station
Got a ticket to my destination
駅で座って電車を待っている
向かう先への切符も買った

1950年代、風刺ソングで人気を博したトム・レーラーは、恋愛よりもおもに政治や社会風俗を題材にして、機知と皮肉に満ちた歌詞を書いた。しかし、そんなトム・レーラーが「愛する君」について歌うときには、公園の鳩に毒を撒くことを楽しむ奇妙な恋人たちの姿を、韻を使っておもしろ可笑しく表現した。

My pulse will be quickenin’
With each drop of strychnine
We feed to a pigeon
It just takes a smidgen
胸がドキドキしてしまう
ストリキニーネを撒くたびに
鳩にエサをあげる
ほんの少しで効果あり

ときには、ほんの少しの言葉から名曲が生まれることもある。ザ・ビートルズのアルバム『Abbey Road』に収録されたジョージ・ハリスンが書いた「Something」は、完璧なラヴ・ソングだと一部で称えられている。ジョージ・ハリスンがこの曲のアイデアを思いついたのは、ジェイムス・テイラーのデビュー・アルバムとなるオープンリールのデモテープを聴いて、「Something in The Way She Moves」というタイトルの曲を耳にした時だった。彼はこの一行から、唯一無二のラヴ・ソングを紡いだのだ。

ポール・サイモンは、昔の恋を懐かしむ中年男が主人公の愛らしい歌「Still Crazy After All These Years」を書くにあたり、最初にタイトルを決めて、そこから物語を作りあげた。さらにこの曲は、メロディがいかに大事であるかということも証明している。巧みなコードの変化によって、歌の印象が引き立てられているのだ。

「あの頃、ベーシストで作曲家のチャック・イスラエルと共にハーモニーについて学んでいたんだ。マイナー・コードではなく、メジャー・コードを取り入れることで新たな一歩を踏み出すことができた」

ラヴ・ソングのための新しい言葉を見つけるという課題に対して、ソングライターが取り得る手法のひとつに、個人的な体験や家族の歴史から斬新な言葉やフレーズを引き出すという手法がある。ラモン・ドジャーは「I Can’t Help Myself」のベースのリフを弾きながら、「シュガー・パイ、ハニー・バンチ」というフレーズが歌に命を吹きこむことに気づいた。

「『シュガー・パイ、ハニー・バンチ』とは、幼い時分に祖父がよく言っていた言葉だった。それが心に残っていて、このフォー・トップスの歌に入りこんできた。子供の頃の思い出がいっぱい蘇り、曲のタイトルとして使うようになったんだ」

優れたラヴ・ソングとは、結局のところ、優れた楽曲のことである。タウンズ・ヴァン・ザントは暗く重苦しい「Waiting Around to Die」を書いたが、一方では、心に沁みるラヴ・ソング「If I Needed You」も作った。恋愛以外にも歌の材料はいくらでもある。コメディアン兼フォークシンガーのビリー・コノリーはチクリと言う。

「歌の世界では、ひたすら好きになったりフラれたり、一日中恋に現を抜かしているようだ。他にもやらなければいけないことがあるだろう。ソーセージを買いに行くとか、靴を磨くとか」

 

ラヴ・ソングの書き方

では、ラヴ・ソングは簡単に書けるものなのだろうか?まず必要なのはコード進行を作るための基礎知識、メロディと歌詞の創作に、曲のアレンジだ。それに加えて、才能と独創性という妙薬がなければ、素敵な曲は出来上がらない。プロのミュージシャンにとっても、容易いことではない。

「突き詰めると、ラヴ・ソングを書くというのは、毎回賭けをしているようなものだ」とジミー・ウェッブは語る。マイク・ストーラーと組んで七十曲以上をヒットチャートに送りこんだジェリー・リーバーでさえ、こう認めている。「何年もの間、ラヴ・ソングが書けずに苦しんでいた」。

曲作りには原則なんてない。ラヴ・ソングはさっと書かれることもあれば(エルヴィス・コステロは「Everyday I Write The Book」を冗談半分で“10分のうちに書きあげた”と語っている)、時間をかけて生み出されることもある。レナード・コーエンの「Hallelujah」は完成までに4年の歳月を要し、80節が編集された。

バークリー音楽大学の教授で、作詞と詩について教えているパット・パティソンは『Writing Better Lyrics』の著者である。教え子の中には、グラミー賞を複数回受賞したジョン・メイヤーやギリアン・ウェルチといった華々しいミュージシャンもいる。ギリアン・ウェルチは映画『バスターのバラード』に提供した「When A Cowboy Trades His Spurs For Wings」で2019年度アカデミー賞において歌曲賞にノミネートされた。ギリアン・ウェルチによれば、その本のメッセージは、いいラヴ・ソングを書きたければ“使い古された言葉、退屈、怠惰が埋まった地雷原”に足を踏み入れてはならないということだと言う。「どれだけ注力しても、往々にしてそれによってすべてがぶち壊される」からだ。

いくらメロディーが優れていようとも、歌詞に力があっても、それを魅力的に伝えることができなければ、上出来とは言えない。1957年、イワン・マッコールはペギー・シーガーの愛を獲得しようと(当時彼はジョーン・リトルウッドと結婚していたのだが)「The First Time Ever I Saw Your Face」というラヴ・バラードを書いた。それがキングストン・トリオの1962年のヒット曲となり、後にピーター・ポール&マリーなどのスター歌手たちによってカヴァーされた。

しかし、イワン・マッコールはカヴァー・ヴァージョンを毛嫌いしていた。ロバータ・フラックによる極上のカヴァーですら、お気に召さなかったという。「1曲たりとも気に食わなかった。レコード・コレクションの中に、カヴァー・ヴァージョンばかりを集めた一隅を作って、恐怖の館と呼んでいた」と、マッコールの義理の娘、ジャスティン・ピカディは語っている。「エルヴィス・プレスリーのカヴァーは、ロンドンのBTタワーの真下からジュリエットに歌いかけているロミオのようだって言っていた。他のものも紛いものだと思っていたみたい。手を加えすぎたり、わざとらしかったり、優雅さに欠けるって」。

ひとりの歌い手のために仕立てられたような歌もある。ビリー・ホリデイは「Embraceable You」の世界に入りこみ、熟練の節回しで絶妙に歌いあげ、完全に自分のものにした。同様の例は、エラ・フィッツジェラルドの「Ev’ry Time We Say Goodbye」、サム・クックの「(What A) Wonderful World」、ナット・キング・コールの「When I Fall In Love」、オーティス・レディングの「These Arms Of Mine」、レイ・チャールズの「I Can’t Stop Loving You」などがある。スモーキー・ロビンソンは、マーク・ゴードンとハリー・ワーレンによる1942年のヒット曲「At Last」のエタ・ジェイムスによるカヴァーをいたく気に入り、自身の結婚式のダンスナンバーに選んだ。

ジャズ・トランぺッターのチェット・ベイカーのように、もとは楽器の腕前で名を馳せた演者であっても、その声に魅了される曲がある。「私の中でどんどんと存在感が色濃くなっていった歌は、チェット・ベイカーが歌う‘My Funny Valentine’だった」とルシンダ・ウィリアムスは語る。「父がよく私のためにかけてくれた。これは最高の歌。完璧でなくてもいい、そのままの君を愛しているのだから、って歌っているの」。

 

ラヴ・ソングの新しい潮流

この100年あまりの間、大衆の心を鷲掴みにし、歴史にその名を刻むラヴ・ソングが10年毎に生まれてきた。1914年にはW.C.ハンディの「St Louis Blues」。1927年にはホーギー・カーマイケルの「Stardust」、1935年にはアーヴィング・バーリンの「Cheek To Cheek」、1945年にはディーク・ワトソンの「I Love You (For Sentimental Reasons)」、1956年にはエルヴィス・プレスリーとケン・ダービーの「Love Me Tender」、1967年にはザ・ビートルズの「All You Need Is Love」、1975年には 10ccの「I’m Not in Love」、1981年にはソフト・セルの「Tainted Love」、1991年にはブライアン・アダムスの「(Everything I Do) I Do It For You」、2003年にはビヨンセの「Crazy In Love」、2011年にはリアーナの「We Found Love」が生まれた。

「僕たちの歌なんて、チャートに入った後、すぐに消えてしまうと思っていた。陽気な歌ばかりで、たいしてシリアスでもないからね」と、リーバーは語っているが、それ大間違いである。ラヴ・ソングはポピュラー・カルチャーの中に定着している。二度のピューリッツァー賞に輝いた作家ジョン・アップダイクは、小説『金持ちになったウサギ』でドナ・サマーのヒット曲「Hot Stuff」について言及している。ラヴ・ソングは頻繁に小説で引用され、映画やテレビ番組、広告においても雰囲気を醸しだすために使われてきた。

たとえ人間の恋心が、2500年前の孔子の時代から変わっていなくとも、音楽をめぐる風景は変化し、ラヴ・ソングは進化し続けている。ピューリッツァー賞を受賞したシンガー・ソングライター兼ラッパーのケンドリック・ラマーは、2017年にリリースした「LOVE.」でこう歌う。

「もし俺が高級車に乗っていなくても、俺を愛してくれるのかい?」この詞では、恋人が愛しているのは自分自身なのか、それとも立派な高級車でも購入できる自分の財力なのかを問いかけている。この曲を共作し、ともに歌うザカーリ・パカルドは、「これは、まったく新しいジャンルだと思う」と語っている。

来たるべき十年で、女性アーティストはラヴ・ソングの定義を書き換える役割を果たし続けるだろう。性行為における同意や男女間の政治闘争への関心が高まる時代が来ようとは、1930年代のブロードウェイ・ミュージカルのソングライターたちには思いもよらなかったことだろう。

「歴史上のあらゆる時代において、人々はアウトサイダー、つまり社会で最も貧しいとされる階級から、愛について歌う斬新な切り口を教えられてきた」とジョイアは語る。「1960年代には、リヴァプールからやって来た若者たちによって。1980年代には、都会に暮らすラッパーたちから。ラヴ・ソングの新しい潮流がどこから来るのかなんて、誰にも分からない。ただ、エリート層や支配層からでないことは確かだ」。

レナード・コーエンは、これ以上ないくらいに正しい言葉を見つけ出し、「Ain’t No Cure for Love」や「Famous Blue Raincoat」といったラヴ・ソングの傑作を書いた。ラヴ・ソングの中心には揺るぐことのない感情が息づき、だからこそラヴ・ソングは愛され続けるのだと、レナード・コーエンは信じていた。

「我々が人に対して抱く愛情や感情には不変的な不変的な何かがある」と彼は語っている。「人は変わる。肉体は衰えて死ぬ。しかし、愛には変わることのない何かがある。愛は不滅だ。愛についての歌を作るほどの強い思いがあるなら、その思いには滅びることのない何かがあるんだ」。

Written By Martin Chilton



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