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ボブ・マーリー:ジャマイカ最大のスターの人生とその功績

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Photo courtesy of Fifty-Six Hope Road Music, Ltd

無数の学生寮に飾られる肖像の人物。マリファナを愛する反逆者。何もかもきっとうまくいくと私たちを鼓舞してくれる男。ドレッド・ヘアを伸ばすよう世界中の人びとに勧める兄貴分、オランダの伝説的サッカー選手ルート・フリットもその影響でドレッドにしたうちの一人だったそうだが、当のボブ・マーリー自身もサッカーがうまかったらしい。

いわゆる”第三世界”の象徴的存在。瞳をきらきらと輝かせるセクシーな男。カリブ海から生まれた初めてのロック・スター。伝説の男……。このうちボブ・マーリーを指しているのはどの言葉だろう?もちろん、これらすべてである。しかし、一方でこれだけですべてというわけではない。

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ボブの遺産

毎年、私たちがボブの功績を称えるのは、彼の命日ではなく誕生日である。それは、文字通りの意味を除いて、ボブ・マーリーがいまも生き続けているからだ。彼の音楽はいまも人びとの心を動かし続けている。また、ジャマイカの人びとの苦難を伝え、アフリカにルーツを持つ人びと (人類学者によれば、全人類がそれに該当するそうだ) を鼓舞するという彼の任務は現在も続いている。

彼は物理的にはこの世を去ったかもしれないが、彼と同じレゲエ界のスターであるトゥーツ・ヒバートがトリビュート・ソングのタイトルにしている通り、His Songs Live On (=彼の楽曲は生き続けている)。それに加え、ボブの肖像は世界中に流通する製品を通して現在も生き続けている。

また、70年代前半、彼は芸術面・財政面での独立を果たすため、ウェイラーズのメンバーであるピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーとともにレコード会社を立ち上げた。このとき彼らが起ち上げたレーベル、タフ・ゴングは、いまもなおジャマイカの音楽界の第一線を走り続けている。

さらにボブ・マーリーは単なるシンガーではなく、夢の実現や希望の象徴として世界中で認知されている。ボブ・マーリーはきわめて貧しい家庭に生まれたが、自分の想いを届けるために、腐らず努力し続けていれば、きっといつかは報われることを彼は教えてくれる。ボブは、彼自身の想像を絶するほど多くのリスナーを獲得するに至った。その成功がきっかけで、ほかのレゲエ・シンガーへの世間の目も変わっていった。

ボブ・マーリーは“リーダー”ではあったかもしれないが、自分のことを“救世主”だとは考えていなかった。本人の言葉を借りるなら、彼はラスタファリのメッセージを世界に伝えるという“任務 (the works) ”を遂行していただけだった。つまり、彼を突き動かしていたのは虚栄心ではなく義務感であった。彼は正しいことをしようとしていただけなのである。

ボブは「War」「Exodus」「Get Up, Stand Up」(ピーター・トッシュとの共作) 、「One Love」、「Natty Dread」など数多くの楽曲を通じて、自分の伝えようとするメッセージを世界中に広く届けてきた。しかし、振り返ってみると、その“任務”を成し遂げながらこれほど大きな成功を収められる可能性はごくごくわずかだった。社会の一般的な価値観からいえば、ボブは“人生の敗者”になる運命にあったのである。

Bob Marley: LEGACY "75 Years A Legend"

 

ボブ・マーリーとウェイラーズの誕生

ボブ・マーリーは1945年2月6日、ジャマイカのセント・アン教区にあるナイン・マイルという田舎の小さな集落で生まれている。UK出身の父、ノーヴァルは、息子たちとは一緒に暮らしておらず、母のセデラに養育費だけを送っていた。そしてその父も、ボブが10歳のときにこの世を去ったため、ほとんど無一文になった母セデラはジャマイカの首都であるキングストンを目指して南下し、最終的に、トレンチタウンに住み着いている。

低所得者が暮らす地域として知られるトレンチタウンは、一方でスポーツや政治、文化など各界の著名人を数多く輩出している地域でもあった。そんな環境の影響もあって、少年時代のボブ・マーリーは、音楽、特にインプレッションズや、ミラクルズ、ムーングロウズといったアメリカのミュージシャンたちの音楽を心から愛するようになった。

幸いにも、彼は恵まれた歌声を持っていたため、1962年にはビヴァリーズ・レコードのオーナーであるレスリー・コングの下で数曲のレコーディングを経験。キングストンにあるフェデラル・スタジオで制作されたそれらの楽曲のうち3曲は、設立間もないアイランド・レコードを通じ、UKでもシングルとしてリリースされたが、その際にはまだ“ロバート・マーリー”の名義が使用されていた。

それら一連のシングルは商業的には失敗に終わったが、不屈の精神を持つボブは、そうした結果を見てもなお音楽を諦めようとはしなかった。そして彼は、トレンチタウンの公営団地に住む若者たちを集めてヴォーカル・グループを結成している。

ボブ自身とバニー・リヴィングストン、ピーター・トッシュを例外に、このグループのメンバーは入れ替わりが激しく、ジュニア・ブレイスウェイト、コンスタンティン・”ヴィジョン”・ウォーカー、女性ヴォーカリストのビヴァリー・ケルソ、チェリー・スミスといった顔触れも籍を置いた時期があった。このうちウォーカーは、ソウレッツというヴォーカル・グループの結成メンバーでもあったのだが、ソウレッツのリーダーは、のちにボブの妻となり、音楽活動の面でも彼をサポートしていくことになるリタ・アンダーソンだった。

ボブが結成したグループは、幾度かの改名を経たのち最終的には“ウェイラーズ”という名前に落ち着き、地元のスターであるジョー・ヒッグスの指導の下、ヴォーカル・ハーモニーの精度を高めていった。1964年、グループは、ヒッグスの誘いでスタジオ・ワンでレコーディングを行い、「Simmer Down」「It Hurts To Be Alone」「Rude Boy」「Put It On」「One Love」といったスカ調のヒット・ナンバーを次々に制作。作曲のほとんどはボブが手がけていたが、リード・ヴォーカルは曲によって異なるメンバーが担当していた。

Simmer Down (1992) – Bob Marley & The Wailers

また、多くの場合、彼らはインプレッションズに範を取ったハーモニーをジャマイカ特有のビートに乗せ、愛、古くからの言い伝え、不良少年の愚行などを歌っていた。こうしてウェイラーズはジャマイカ国内で若手スターとして知られるようになっていったが、彼らが手にする報酬はわずかなものでしかなかった。

 

気骨のある反抗的な作風

1966年、ボブ、バニー、ピーターという中心メンバーのみになったウェイラーズは、ウェイリン・ソウルムという自主レーベルを設立。この資金の一部は、ボブがしばらくのあいだアメリカに渡り、クライスラー社の生産ラインで働いて稼いだお金から賄われていた。この新会社からはロックステディ調の名曲 ―― その多くはシリアスな内容だった ―― が次々にリリースされたが、そのうち好セールスを記録したのは2曲のみにとどまった。示唆に富んだ内容の「Bend Down Low」と、思わず踊りたくなるロマンティックな1曲「Nice Time」である。

Bend Down Low (Live)

また、そこから得た収益は、スタジオやレコーディング、レコードのプレス、配給にかかる費用にすぐ消えていった。彼らはまだまだ、ジャマイカの言葉で言うところの“sufferers =苦しむ人びと”だったのである。だがそんなさなかの1966年4月、ボブがラスタファリ運動へ深く傾倒するきっかけとなる出来事が起こる。妻のリタが、ジャマイカを訪れたエチオピアのハイレ・セラシエ1世 (ラスタファリ運動において神の化身とされる人物) の姿を目撃したのだ。ボブはそれ以降、空港でハイレ・セラシエを出迎えた人物でもある宗教指導者のモーティマー・プラノから、この思想の手引きを受けるようになった。

1969年、ボブはウェイラーズの面々とともに再びビヴァリーズ・レコードの門を叩くが、レスリー・コングが得意としていたアップビートなサウンドは彼らにマッチしなかった。そこで1970年になって、異端的なプロデューサーであったリー・“スクラッチ”・ペリーと手を組むと、今度は制作が順調に進み始めた。スクラッチは彼らに宿る反抗心を見抜き、それを引き出してみせたのである。結果として、彼の下で作り上げた『Soul Rebels』と『Soul Revolution』の2作は、彼らの中に膨れ上がる闘志が感じられるアルバムになった。

また、ボブにそれまでより力強く歌うことを勧めたり、より飾り気のないサウンドを作れるよう彼らに助け舟を出したのもスクラッチだった。ボブは70年代半ばにようやく名をあげることになるが、「Small Axe」や「Sun Is Shining」など、その際に彼の人気を後押しすることになるいくつかの楽曲も、スクラッチを手を組んでいたこの時期に生まれている。

Small Axe (1973) – Bob Marley & The Wailers

その後、スクラッチの下を離れたウェイラーズは、アストン・”ファミリー・マン”・バレットとカールトン・バレットの兄弟を新たに迎えることになった。それぞれベースとドラムズを担当する二人は、スクラッチとも繋がりの深いミュージシャンだった。そうして新メンバーを加えた彼らは、タフ・ゴングと改名した自主レーベルでの活動に再び注力することを決めた。

ボブがアメリカ人スターのジョニー・ナッシュに楽曲提供するためヨーロッパを訪れたのもこのころで、彼はそこでクリス・ブラックウェルと出会う。ブラックウェルはボブに、自身のレーベルであるアイランドでウェイラーズのアルバムを作ってほしいと依頼。その第一弾となった『Catch A Fire』 (1973年) は気骨のある反抗的な作風となったが、この時期のロック・カルチャーも意識したサウンドの1作だった。また、それに続く『Burnin’』はそのタイトルに違わぬ“熱い”アルバムとなった。

そんなさなかの1974年、当時ではもっとも本格派のロック・ミュージシャンと考えられていたエリック・クラプトンが、ボブの「I Shot The Sheriff」をカヴァーして全米1位を獲得。これにより、ボブの株はさらに上がることになった。

Bob Marley & The Wailers – I Shot The Sheriff (Live At The Rainbow Theatre, London / 1977)

1975年には、ロンドンのライシアム・シアター公演の模様を収録したライヴ盤『Live!』を発表。彼とウェイラーズの喜びに満ちた演奏が楽しめる同作からは、シングル・カットされた「No Woman, No Cry」が大ヒットを記録した。

Bob Marley & The Wailers – No Woman, No Cry (Live At The Rainbow 4th June 1977)

ただ、このときのウェイラーズはすでに単なるバック・バンドになっていた。後進のアーティストにも影響を与えた1974年作『Natty Dread』の制作を前に、ピーターとバニーが脱退してしまったのだ。一方でこのころには、ボブの妻であるリタに、実績十分のレゲエ・シンガーであるマーシャ・グリフィスとジュディ・モワットを加えた三人が“アイ・スリーズ”としてヴォーカル・ハーモニーを担当するようになっていた。

 

“愛は一つ”

アイランド・レコードは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズをほかのロック・バンドと同じように売り出していった。それまで、一部の批評家のあいだでは「レゲエは取るに足りない音楽だ」という考えがくすぶっていた。だが、ドレッド・ヘアが特徴的な佇まいも助けとなって、ボブが発信するシリアスなメッセージはそうした考えを打ち破ったのである。

そうしてボブはジャマイカ国内において多大な影響力を持つようになったが、その代償としてか、1976年12月には殺し屋による銃撃未遂事件が発生。その明確な動機は不明のままだが、ジャマイカの当時の首相が主催する“スマイル・ジャマイカ・コンサート”への出演を決めたのがきっかけで、同国における派閥政治の暗部がボブに牙を剥いたのではないか、とも言われている。彼は腕と胸に傷を負ったものの、その2日後にはそのライヴのステージに上がっている。

ボブは勇敢な男だったが、決して無謀な行動は取らなかった。彼は安全な場所で回復に努めることを選び、ロンドンへと飛んだのだ。そして、この選択は彼の作品にも好影響を与えた。結果として完成した1977年のアルバム『Exodus』は、一年以上ものあいだ全英チャートにとどまり続け、「Jamming」「Waiting In Vain」「Three Little Birds」「One Love/People Get Ready」といったヒット曲も生み出した。同作はのちにタイム誌によって、“20世紀最高の音楽アルバム”にも選出されている。

同じように、引き続きUKで制作した次作『Kaya』も成功を収めた。1978年4月には、キングストンで開催された“ワン・ラヴ・ピース・コンサート”に出演。ここでボブは勇敢にも危険に立ち向かい、ジャマイカで激しく対立していた二大政党の党首を団結させた。二人の政治家は、ボブが「Jamming」を歌い上げる中で握手を交わしたのである。もはや、ボブの固い意志には誰にも逆らえなかったのだ。

その後も、ボブはそのままの勢いで進み続けた。シリアスな作風となった2作のアルバム『Survival』と『Uprising』からはそれぞれ、「Redemption Song」とアンセム調の「Zimbabwe」という対照的な二つの名曲が誕生。後者は1979年に書かれた1曲で、曲名にもなっているジンバブエの独立を記念して1980年4月17日に同国の首都ハラレで行われたステージでも、見事な演奏が披露されている。

だがこのころ、ボブは重い病を抱えていることを隠していた。彼は1977年にガンの宣告を受けていたのだ。病状は徐々に進行していき、ついにはニューヨークのセントラル・パークで倒れるに至った。そして、その二日後の1980年9月23日に行われたピッツバーグでのライヴが、彼にとって最後のステージになった。

1981年5月11日、ボブは別の世界で任務を遂行するためにこの世を去った。36歳という若さだった。彼は低所得地域に育ち、ジャマイカ国内の中流階級に拒絶されていた思想を心から信じていた。だが、同国政府はその男を国葬という形で弔った。ボブの功績は、祖国と生活に苦しむ国民たちにとって、どんな政府の施策よりも意味のあるものだったのだ。

それから数十年のあいだ、ボブがこの世に遺したものは大切に扱われてきた。彼の名にふさわしくないコンピレーション・アルバムに彼の楽曲が収録されることはなく、『Rebel Music』や『Songs Of Freedom』、そしていまなお人気の衰えない『Legend』といった公式コンピレーションは、彼の作品やメッセージへの十分な敬意をもって作られてきた。また、団結、精神性、自由などに関する彼のメッセージが永遠に消えないよう、中にはボブの肉体が現在も生き続けていると考えるファンも存在する。

彼の任務はいまも続いている。愛は一つ、心も一つ。そしてボブ・マーリーのような人物は一人しかいないのだ。

Written By Ian McCann



ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『Exodus: Deluxe Edition』
2022年6月24日発売
iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



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