アビー・ロード・スタジオとザ・ビートルズとの実りある相互関係とその歴史

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Memorabilia and equipment on show in Studio 2 at Abbey Road Studios in 2012 - Photo by Tim Whitby/Getty Images

EMIがロンドンに設立したアビー・ロード・スタジオ(Abbey Road Studios)は、20世紀における音楽の進化の縮図ともいえる場所だ。だから、20世紀でもっとも高い革新性を持っていたバンドことザ・ビートルズが、そこでの多くの技術発展に関わっていたこともなんら不思議ではない。

ザ・ビートルズがアビー・ロード3番地で作り上げた不動の作品群は、その神聖なスタジオで制作された多くの名作からの恩恵を受けると同時に、それらに影響を与えてきたのである。

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クラシックで使われていた初期の時代

EMIは、威厳あるその土地に手の込んだ三つのスタジオを造り、1931年に開業。当初はEMIスタジオという名称だった同地を最初に利用したのは、行進曲「Pomp And Circumstance (威風堂々)」の作曲でもっともよく知られるイギリス人作曲家のサー・エドワード・エルガーだった。彼はスタジオの開業式の一環としてロンドン交響楽団を指揮し、卒業式の定番として愛され続ける同曲を演奏した。

1950年代まで、同スタジオは主にクラシック音楽のレコーディングで使用されていた。1934年には、かのイーゴリ・ストラヴィンスキーがBBC合唱団を含む楽団を指揮して、自身のバレエ音楽「Les Noces (結婚)」を録音。その期間を通して、音楽史に名を残すピアニストのアルトゥル・シュナーベルから、伝説的なバリトン歌手のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウまで、クラシックの巨匠たちが次々に同地を利用した。

そんな同スタジオは、オーケストラの荘厳な演奏をテープに落とし込むのに理想的な環境だった。オーケストラを収容できるだけの広さはありながら、逆に広すぎることもなかったため、空間の広がりから自然に生まれるリバーブで交響楽の演奏が掻き消されてしまうようなことはなかったのである。

 

ザ・ビートルズの時代

そして、ザ・ビートルズがギター、ベース、ドラムによる基本的な楽器構成から脱却するようになると (プロデューサー/アレンジャーのジョージ・マーティンによる後押しやサポートも大きな要因だった) 、クラシック音楽に強みを持っていた同スタジオの特性が存分に活かされるようになった。

例えば、「Yesterday」では悲しげな弦楽四重奏が楽曲を彩り、「A Day In The Life」ではオーケストラによる混沌とした演奏がクライマックスの訪れを告げる ―― そこではオーケストラ全体が一番低い音から一番高い音へと向かいながら、満ち潮のように音量を高めていく ――。そして『Abbey Road』という、これ以上ない題名が付けられたグループ最終作のメドレーでは、金管楽器やストリングスの華々しい演奏が壮大なドラマを演出している。

 

クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ

UKのロックンロール・シーンはアメリカのそれに少々遅れを取っていたが、そんな中、アビー・ロードにてUKロック界に革命が起こった。1958年7月24日、クリフ・リチャード&ザ・ドリフターズがレコーディングのために同スタジオを訪れたのである。そのとき制作された攻撃的なナンバー「Move It」は、英国人もポップ・ミュージックを下敷きにした騒々しいサウンドを生み出せることの証明になった。

2022年に公開された同スタジオについてのドキュメンタリー映画『If These Walls Could Sing:アビー・ロード・スタジオの伝説』の中で、リチャードはこう分析している。

「アビー・ロードは (UKの) ロックンロールに命を吹き込んだ…。あの場所は、音楽史に残る大変革の最前線だったんだ」

この「Move It」は、当時10代だったポール・マッカートニーにも衝撃を与えていた。彼は同曲の冒頭のギター・リフを習得すると、わざわざジョン・レノンのもとへ出向いてそれを披露したともいわれている。また、リチャードの話によれば、あるときレノンは「クリフ・リチャードが現れて<Move It>をリリースする前、イングランドに聴く価値のあるものなど何もなかった」と話していたという。

リチャードが率いていたドリフターズは、ほどなくしてシャドウズへと発展。同グループはリチャードのバックを務めながら、独立したインストゥルメンタル・バンドとしても並行して活動した。そんな彼らは1960年6月、アビー・ロードにて自分たちの手で革新的な1曲「Apache」を制作。

リード・ギタリストのハンク・マーヴィンは、テープ・エコーの導入と卓越したトレモロ・アームさばきにより、聴く者を釘付けにする目新しいサウンドを作り出した。耳に残るその音色はまるで、ベンチャーズ (当時はまだ最初のヒットを飛ばしたばかりだった) の作品と、エンニオ・モリコーネが手がけたマカロニ・ウェスタン映画のサウンド・トラック (それらが作られるのはこのさらに数年後のことだ) の中間に位置するようなものだった。

 

ザ・ビートルズのアビー・ロードでの初レコーディング

60年代UKのロック・ギタリストはもれなくハンク・マーヴィンに憧れていたが、シャドウズのサウンドがザ・ビートルズの面々に与えた影響は特に大きかった。リバプール出身の彼らは、ハンブルクでの下積み時代に「Apache」をレパートリーに加えていたほか、シャドウズにオマージュを捧げた「Cry For A Shadow」を録音してもいる。1987年、ジョージ・ハリスンはギター・プレイヤー誌の取材でこう話している。

「ある日、ジョンと俺は二人で適当にギターを弾いていた。彼が新しく手に入れた小さなリッケンバッカーには、おかしなトレモロ・アームがついていたんだ。そのギターを彼が弾きはじめて、それに合わせて俺も演奏を始めた。そうやって、その場であの曲が出来上がったんだ」

様々なレーベルに契約を拒まれながらもザ・ビートルズが最終的に契約を勝ち取れた一つの理由は、EMIが次なるクリフ・リチャード&ザ・シャドウズを輩出すべく躍起になっていたからだった。プロデューサーにジョージ・マーティンを迎えた彼らは、アビー・ロードで1stアルバム『Please Please Me』の制作を開始。たった2トラックしか使用できない録音環境の下、同作の収録曲の大半を12時間足らずでレコーディングしたのだった。

その後に起こったことはご存知の通りである。しかし、ザ・ビートルズの成功はあらゆる方面に影響を与えた。彼らに負けじと魔法のようなサウンドを得るべく、UKのほかのグループがEMIスタジオに殺到したこともその一つである。そのため60年代中盤、アビー・ロード3番地にはあらゆる音楽性のグループが集まっていた。R&Bやジャズの要素を取り入れたロックンロールを得意とするマンフレッド・マンや、美しいハーモニーを武器に軽快なフォーク/ポップ・サウンドを展開したシーカーズなどもその一部である。

 

フィードバックとテープの逆回転

ザ・ビートルズがアビー・ロードで行った一連のレコーディング・セッションからは、レコード制作のあり方を一変させるような革新的手法がいくつも生まれた。その始まりは、1964年10月にまで遡る。「I Feel Fine」の冒頭のうなるような低音がきっかけで、ほかのアーティストも楽曲にフィードバック・ノイズを取り入れるようになったのだ。

だがこれはもともと、偶然から生まれたものだったという。ジョンのギターがポールのベースの音を拾ってしまい、ジョンのアンプからフィードバック・ノイズが出たのだ。メンバーはその音を大変気に入り、同曲のイントロでそれを再現することにした。レノンはのちにこう断言している。

「それが1922年の古いブルース・ナンバーとかでない限り、俺はあんな風にフィードバックを使っている曲が (それ以前に) 存在したという話に耳を貸すつもりはない」

ピンク・フロイドもそうした新技術を進んで取り入れたグループの一つだった。彼らは1967年のシングル「Apples And Oranges」のレコーディングをアビー・ロードで行い、プロデューサーにはザ・ビートルズの作品でエンジニアを務めていたノーマン・スミスを起用している。

そしてフィードバック・ノイズの流行は、そのほかにも実に様々なグループへと波及した。最終的にはザ・フーやジミ・ヘンドリックスのほか、名の知れたサイケデリック・ロック・バンドのほとんどがこの手法を導入している。

誰の話を信じるかは人それぞれだが、テープを逆再生するというアイデアは、ジョン・レノンとジョージ・マーティンのどちらかがアビー・ロードで考えついたものだという。いずれにしてもこの技術は、1966年4月に制作された「Rain」で初めて導入された。同曲の終盤で、レノンのヴォーカルが逆再生されているのがわかるはずだ。

ほどなくしてこの手法は、ロンドンでもロサンゼルスでも、地域に関係なく広がりを見せはじめた。ヴォーカルやギターをはじめとするあらゆる音が逆再生され、トリップ感のある風変わりなトラックに使用されるようになったのだ。

その中でも少し珍しい1曲が、ゾンビーズの代表作『Odessey And Oracle』に収録されている悪夢のような曲調の「Butcher’s Tale」である。1967年7月にEMIスタジオで制作されたこの曲では、ムード溢れる不気味なサウンドが波のように押し寄せてくる。これは、ピエール・ブーレーズのレコードの再生速度を変え、逆再生することで得られた音なのだという。

そして、この流行は時代が変わっても衰えることがなかった。パンクとプログレを融合させた発想力が光るドクターズ・オブ・マッドネスの『Figments Of Emancipation (虚構の美学)』 (1976年) から、ダニエル・ペンバートンが手がけた『マザーレス・ブルックリン』 (2019年) の映画音楽まで、アビー・ロードで制作されてきた様々な作品でこの技術が使用されているのだ。

 

フランジャーとADT

1966年に行われたザ・ビートルズ『Revolver』のレコーディング・セッションでは、フランジャーとADT (オートマティック・ダブル・トラッキングの略) の技術も誕生した。エンジニアのケン・タウンゼントは、レノンに同じ部分を二度歌わせることなく、ヴォーカルを二重録音できるADTの手法を考案。また、サイケデリックなサウンドを生み出せるフランジャーはそのADTを基に生まれた素晴らしい副産物で、「Tomorrow Never Knows」に初めて使用された。

やがてフランジャーも、スモール・フェイセスの「Itchycoo Park」やステイタス・クォーの「Pictures Of Matchstick Men」をはじめ、あらゆる楽曲に活用されはじめた。そして、それから長い時を経て、ケン・タウンゼントが自分の手で生み出していた音響効果はコンパクト・エフェクターで完全再現できるようになった。すると、フランジャーはラッシュやポリスに至るまで実に幅広いアーティストにとって不可欠なものとなったのである。

そうした中で、これらの技術が回り回って花開いた出来事があった。アラン・パーソンズ (のちにアラン・パーソンズ・プロジェクトを率いて名を成した人物だ) はもともとEMIスタジオのアシスタント・エンジニアとして、下っ端ながらザ・ビートルズの作品に関わっていた。そして1973年にはアビー・ロードの歴史を代表するアルバムであるピンク・フロイドの『Dark Side Of The Moon (狂気)』にエンジニアとして参加。彼は「Time」で女性コーラスの音を反転させるなど、ザ・ビートルズが開発した技術を同作にさりげなく、そして巧みに活用したのだった。

 

“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”

ザ・ビートルズは1967年、自由な発想力を大いに発揮して実験的な作品に取り組んだ。“ビートルマニア”の熱狂を重荷に感じはじめていた彼らは、ライヴ活動をやめてスタジオでの作業に打ち込むことを決めたのだ。ジョージ・マーティンの息子であるジャイルズは、映画『If These Walls Could Sing:アビー・ロード・スタジオの伝説』の中でこう話している。

「彼らに残された道は、解散するか、安全な場所に逃げ込むかしかなかった。そしてその”安全な場所”がアビー・ロードだったんだ」

最新鋭の技術、これまでにないほど強い創作意欲、そして制作期間の制限のないレコード契約といった条件が揃ったことで、彼らはスタジオを“実験室兼遊び場”のように使用することができたのだ。

そうして、彼らはロック界初のコンセプト・アルバムの制作に着手。「Being For The Benefit Of Mr. Kite」ではサーカスの目くるめく光景を再現するため、オルガンの音を録音したテープの断片を繋ぎ合わせた。

また、「Good Morning Good Morning」では金管楽器の音と動物の鳴き声を組み合わせている。そして上述の「A Day In The Life」では、ポールのリクエストによる終盤の“オーケストラによるオーガズム”が完成したあと、劇的な最後のコードが録音された。これは、メンバーたちがそれぞれグランド・ピアノの前に座り、計8本の手で同時に弾いたものなのだという。

『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は世界中の人びとの度肝を抜いた。そしてそれは、英国音楽界の最前線を行くミュージシャンたちにとっても同じだった。例えば、同作の制作中、ピンク・フロイドはアビー・ロードでデビュー・アルバム『The Piper At The Gates Of Dawn (夜明けの口笛吹き)』をレコーディングしていた。

そしてノーマン・スミスのプロデュースの下、ザ・ビートルズは隣のスタジオで作られていたものを凌ぐほど奇抜なサイケデリック・サウンドを生み出した。ピンク・フロイドはその際、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の制作風景を垣間見ることで、その経験を自分たちの作品に活かしていた。彼らはまた、フロントマンであるシド・バレットのヴォーカルの録音にADTを活用するなど、アビー・ロードのエンジニアたちがザ・ビートルズのために開発してきた技術も取り入れていた。

そしてその後すぐに、サイケデリックな作風のコンセプト・アルバムが数多く制作されはじめた。もちろん、その主な拠点となっていたのはアビー・ロード・スタジオである。例えば、プリティ・シングスは『Sgt. Pepper’s…』のリリースの半年後に『S.F. Sorrow』の制作を開始。ノーマン・スミスがプロデュースした同作は、カルト的人気を博すアルバムとして知られている。

また、60年代後半には、オーケストラを活用して「A Day In The Life」のような重厚なサウンドを作り出そうとするグループも多数現れた。その中にはEMIスタジオで制作された作品 (プロコル・ハルムによる『A Salty Dog』の表題曲は、映画のように壮大な1曲だ) もあれば、ほかのスタジオで作られたもの (ムーディー・ブルースの『Days Of Future Passed』は、オーケストラを大きくフィーチャーしたコンセプト・アルバムだ) も存在する。

EMIスタジオがアビー・ロード・スタジオへと正式に名前を変えたのは1976年のこと。そのときすでに、ザ・ビートルズは幸せな思い出でしかなくなっており、60年代の音楽スタイルははるか昔のものになっていた。

だが、プログレやニュー・ウェーヴ、そしてその後に登場したあらゆる音楽は、ジョン、ポール、リンゴ、そして二人のジョージが創造的なアイデアを交わし合う中で ―― 時には技術力のある友人たちの手を借りながら ―― 考え出していった手法から影響を受けているのである。

Written By Jim Allen



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