グラミー賞史上最も意外な受賞者10選

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他の賞同様、グラミー賞も人を必ず満足させ、驚かせ、苛々させるものだ。予測出来たものからそうでないものまで、誰の馬が走るかによって反応は大きく異なる。後の人に道を開くような新しいアーティストでも年配俳優にノック・ダウンされることもあるし、ミリ・ヴァニリ(*注:グラミー賞を受賞したが、その後別人が歌唱していることが判明し賞をはく奪された)のように、不純な動機により音楽史上にその名を残すアーティストもいる。

あとから考えてみると素晴らしくなるものだが、意外なことが起こるからこそ人は見続けるもの。この他のグラミー賞における予想外の受賞者達を、これからご紹介しよう。

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1. ジェスロ・タル『Crest of a Knave』が最優秀ハード・ロック/メタル・パフォーマンス・ヴォーカル・オア・インストゥルメンタル賞を受賞(1989年)

グラミー賞とロック・ミュージックは複雑な関係にあり、それが特にメタルの場合は尚更のこと。しかし時流に乗っていることを証明すべく、彼等は1989年に新しいカテゴリー‘最優秀ハード・ロック/へヴィ・メタル・レコーディング’を加えた。その年の充実した候補者リストに含まれていたのは、LAロッカーのジェーンズ・アディクション、パンクのベテランのイギー・ポップ、オーストラリアの重鎮AC/DC、スラッシュのベテランのメタリカ、そしてフロントにフルートを配したプログレッシヴ・ロック・バンド、ジェスロ・タル。

本命馬は間違いなくメタリカで、彼等の「One」のテレビ・パフォーマンスはメタルがメインストリームと出会ったターニング・ポイントとされた。従ってバンド・パフォーマンスの直後にリタ・フォードとアリス・クーパーが受賞者を発表した瞬間、驚きとはっきり聞こえる不満の声と、欠席したバンドの代役を務め賞を受け取った時のクーパーの非常にきまり悪い様子は察するにあまりある。

過ちを認め、アワードはその翌年カテゴリーを分けて‘ハード・ロック’を分離させ、メタリカは1990年に「One」でメタル部門でグラミー賞を受賞。バンドは1991年にまたグラミー賞を受賞した時、競争相手となるようなアルバムを同じ年にリリースしなかったことに対し、ジェスロ・タルに感謝の意を述べた。

 

2. スターランド・ヴォーカル・バンドが最優秀新人アーティスト賞を受賞(1977年)

‘最優秀新人アーティスト’というタイトルを授かるのは大変なレッテルになり、誰しもがその名誉に応えられるわけではない。その好例が、昼過ぎのラヴメイキングに寄せた曲「Afternoon Delight」で最優秀新人賞のみならず、最優秀ヴォーカル・アレンジメント賞も受賞した、一発屋のスターランド・ヴォーカル・バンドだ。彼等はこの時、ワイルド・チェリー、ボストン、ブラザーズ・ジョンソン、そしてドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドを抑えてこの賞を受賞している。

ジョン・デンヴァーのレーベル‘ウインドソング’と契約後、シングル数枚を抱え込んでいたソングライター二人組ビル・ダノフとタフィ・ナイバート(スターランド・ヴォーカル・バンドに所属していた)は、その年も最優秀レコード賞と最優秀ポップ・パフォーマンスにノミネートされていた。しかしグラミー賞が巡って来た頃には、曲は既に一年が過ぎていてラジオに飽きられていた。

一方、映画『アンカーマン』でのアカペラ演奏とTVシリーズ『アレステッド・ディベロップメント』の悪名高きカラオケ・シーンで、スターランド・ヴォーカル・バンドの極端に感傷的な曲(「Afternoon Delight」)は、ポップ・カルチャー史にその名を確実に残した。

 

3. デビー・ブーンが最優秀新人賞を受賞(1978年)

グラミー賞が20周年を迎えた年、大勢のスター達がテレビ放送向けにその誕生を祝福する言葉を録画した。最優秀新人賞は、眩いばかりの白いジャンプスーツに身を包み、ヒット曲「That’s Rock & Roll(邦題:素敵なロックン・ロール)」のパフォーマンスでその夜をスタートさせたアイドルのショーン・キャシディが有利かと思われた。しかしキャシディでさえ、デビー・ブーンのひどく感傷的な大ヒット・バラード「You Light Up My Life(恋するデビー)」には太刀打ち出来なかった。この曲はその後イーグルスの「Hotel California」を抑え、「Love Theme From A Star Is Born (Evergreen)(スター誕生の愛のテーマ)」と珍しい同点で最優秀楽曲賞を受賞をした。

同ヒット作を手掛けたソングライターのジョー・ブルックスもまた、この曲が数多くのパフォーマーにボツにされ、「ひどく甘い歌だ」と遠慮なく話している。デビー・ブーンは、スティーヴン・ビショップ、フォリナー、そしてビー・ジーズの弟であり70年代を通して活躍したソングライターのアンディ・ギブらの他の最優秀新人賞候補を負かしたことになる。

 

4. ペトゥラ・クラークの「Downtown」が最優秀ロックン・ロール・レコーディング賞を受賞(1965年)

ブリティッシュ・インヴェイジョン全盛期の頃、ザ・ビートルズがグラミー賞を総なめにすると見られていたし、実際「A Hard Day’s Night」で最優秀新人賞と最優秀パフォーマンス・バイ・ヴォーカル・グループ賞を獲得し、そうなりかけた。しかし最優秀ロック・レコーディング賞では、明らかにロックン・ロールではない、ペトゥラ・クラークの「Downtown」にやられてしまった。

彼女はこの曲により、全米チャートでナンバー・ワンを記録した初のイギリス人女性シンガーとなった。同曲は、街に押し寄せる落ち着きのない若者達の思いを確実に捉えてはいたが、反逆の叫びとは少々異なる内容だった。他の‘ロック’候補曲は、ボビー・ヴィントンの「Mr. Lonely」、ロイ・オービソンの「Oh Pretty Woman」、ザ・ビートルズの「A Hard Day’s Night」、それからライチャス・ブラザーズの「You’ve Lost That Lovin’ Feeling(ふられた気持ち)」。

 

5. テイスト・オブ・ハニーが最優秀新人賞を受賞(1979年)

最優秀新人賞を不幸の元と呼ぶグラミー賞受賞者は多く、悲しいことにそれが現実になったこともある。1979年、ディスコ・グループのテイスト・オブ・ハニーが完璧なパーティー・ソング「Boogie Oogie Oogie(今夜はブギ・ウギ・ウギ)」をリリースした。

しかし他の候補者…TOTO、エルヴィス・コステロ、ザ・カーズ、それからシック、とにかくそんな彼等と天秤にかけた時、この選択は不可解に感じられる。続くシングルは「Boogie Oogie Oogie 」の最高値に達することはなく、ディスコ・フィーバーが下火になり始めると、グループは1980年にデュオになった。

 

6. ニュー・ヴォードヴィル・バンドの「Winchester Cathedral(ウィンチェスターの鐘)」が最優秀コンテンポラリー(R&R)レコーディング賞を受賞(1967年)

ザ・ビートルズ、ザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・ローリング・ストーンズ等、画期的な音楽が目白押しのこの年、グラミーは良いものが多過ぎて選択に戸惑った。「Eleanor Rigby」と「Good Vibrations」はどちらも順当にノミネートされたが、これらのポップの傑作は結局見捨てられ、セッション・ミュージシャン等とルディ・ヴァリーの物まね名人がレコーディングしたノベルティ・ソング「Winchester Cathedral」が受賞した。

全米イージー・リスニング・チャートのトップを飾った曲が最優秀ロックン・ロール・レコーディング賞を獲得したのは、運命の皮肉としか言いようがない。曲が成功し、ママス&パパス、ポール・マッカートニー、アソシエイション、ザ・ビーチ・ボーイズ、そしてモンキーズに勝った為、ソングライターのジェフ・スティーヴンスは演奏する為に本物のバンドを大急ぎで結成しなければならなかった。

 

7. バハ・メンの「Who Let The Dogs Out」が最優秀ダンス・レコーディング賞を受賞(2001年)

音楽のトレンドに対処する為に最優秀ハード・ロック/へヴィ・メタル賞を設けた頃、グラミーは1998年にダンス・ミュージック関連のカテゴリーを別に設けた。あまりに大きく扱いにくいカテゴリーの為、ドナ・サマーや、シェールのオートチューンされたアンセム「Believe」が、ダフト・パンクやファットボーイ・スリムといったダンスフロアの熱烈な支持者を破ったこと等、間違いが起きるのは避けられないことだった。

2001年のダンス界は、“ユーロポップ”ヒット曲「Blue (Da Ba Dee)」、モービーの「Natural Blues」、それからジェニファー・ロペスのラテン・テイストの「Let’s Get Loud」や、キング・オブ・ラテン・ポップのエンリケ・イグレシアスの「Be with You」等、多様なダンス・ヒットひしめく興味深い状況にあった。しかしバハ・メンの犬の喊声「Who Let the Dogs Out?」が彼等全員を追い抜くとは、誰も思いもしなかっただろう。

 

8. エスペランサ・スポルディングが最優秀新人賞を受賞(2011年)

ジャスティン・ビーバー、ドレイク、マムフォード&サンズ、そしてフローレンス&ザ・マシーンらがみんなビッグ・アワードを競い合う中、当時あまり知られていなかったジャズ・アーティストが予想に反し見事賞を奪い取り、一夜にしてその名が知られるようになった。同賞を受賞した初のジャズ・アーティストとなるエスペランサ・スポルディングの受賞は、アカデミー側のより包括的な方向性を示すものと見なされた。

彼女の最新アルバム『Chamber Music Society』はビルボード・ヒートシーカーズ・アルバム・チャート1位と、トップ・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム3位を記録したが、彼女の成功は全ての人に祝福されたわけではなく、苛々したジャスティン・ビーバーのファンは彼女のウィキペディア・ページを弄り不快感を露わにした。

 

9. スティーリー・ダンの『Two Against Nature』が最優秀アルバム賞を受賞(2001年)

グラミー賞はオスカーのように、レガシー・アーティストへの恩典の為に後年の作品に対し賞を与え、恐らくはそれより強力なアルバムを見過ごしてしまう傾向にある。スティーリー・ダンの場合がまさにそうだったようで、前作『Aja』と『Gaucho』がノミネートされたものの、受賞することは出来なかった。

彼等が初めてグラミー賞を受賞したのは、20年の活動休止期間後に制作されたアルバムだった。『Two Against Nature』は高い評価を得たが、これは彼等の最も独創的な作品では決してなく、エミネムの画期的なラップ・レコード『The Marshall Mathers LP』、レディオヘッドの非常に独創的な『Kid A』、それからベックのファンカデリックな『Midnight Vultures』と比較すると、この年の選出は歴史に残るミステリーとしか言いようがない。

 

10. セリーヌ・ディオンの『Falling into You 』が最優秀アルバム賞を受賞(1997年)

『Falling Into You』のようなコマーシャルで文化的で絶対的な力を持ったものに対抗するのは至難の技だ。史上1,2位を争うこのベストセラー・アルバムは、世界中で3200万枚以上の売上げを記録し、その後、このケベック出身スターのバラード・クイーンとしての地位を築くきっかけとなった。更に彼女は同アルバムで最優秀ポップ・ヴォーカル・レコード賞と最優秀レコード賞と最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞にノミネートされた。

「It’s All Coming Back to Me Now」や「Because You Loved Me」のようなモンスター・ヒット曲収録の同アルバムは、ベックの『Odelay』、スマッシング・パンプキンズの『Mellon Collie and the Infinite Sadness』、フージーズの『The Score』等、同年リリースされた影響力の大きい他アルバムに影を投げかけた。

みなさんがショックを受けた、グラミーの冷遇話や驚くようなことをお聞かせください。

Written By Laura Stavropoulos



 

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