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タムラ・レコード初の女性アーティスト、メイブル・ジョンが91歳で逝去。その功績を辿る

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Mable John - Photo: Frederick M. Brown/Getty Images

ベリー・ゴーディのタムラ・レコードからの作品で知られ、同レーベル初の女性アーティストとして名を馳せたR&B歌手のメイブル・ジョン(Mable John)が91歳で逝去した。

この訃報を伝えた彼女の甥であるケヴィン・ジョンは、「私たちは彼女を愛していましたし、思いやりに溢れる人でした」と述べている。近年、彼女はロサンゼルスの慈善団体を通じてホームレスの人々に食事を提供していたという。

スタックスの公式サイトによると、1930年11月3日、ルイジアナ州バストロップに、10人兄妹の長女として生まれたメイブル・ジョンが歌に目覚めたのは、兄妹と共にさまざまなパフォーマンスを行い、プログラムを組んでは、母親のギター演奏にあわせて伝統的なゴスペルの曲を歌っていたことがきっかけだった。彼女は自身の曲作りの原点について次のように振り返っている。

「私の作曲は、幼いの頃に始まりました。教会で座っていると、牧師の言葉の中からタイトルが浮かんでくるんことがあって、そんな時は、牧師の話を聞き流して、曲を書き上げるんです。何冊分もの曲を書きました。まだとても若かったですが、教会の聖歌隊が私の書いた曲を歌うまでなりました」

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Who Wouldn't Love A Man Like That (First Version)

 

デビューのきっかけを掴んだビリー・ホリデイとの出会い

彼女が家族と共に移住したアーカンソー州で、彼女の弟で、後に伝説的な歌手としてロックの殿堂入りを果たすことになるリトル・ウィリー・ジョンが生まれ、一家はその後ミシガン州デトロイトへと引っ越した。

音楽業界での弟の成功に触発されたメイブル・ジョンは、弟が公演のため地元を訪れた際に、R&B歌手のエタ・ジェイムズの代役としてオープニング・アクトを務めるようになる。1956年、彼女は、モータウンの創始者ベリー・ゴーディの母親であるバーサ・ゴーディが経営していたフレンドシップ相互保険会社で秘書の職に就いた。この当時、彼女はビリー・ホリデイから受けた大きな影響についてこう語っている。

「ビリーと私は1957年に同じ興行で仕事をしていて、彼女から大きな影響を受けました。まだ未熟者で駆け出しの私に、彼女は沢山のことを教えてくれました」

そして、その繋がりが彼女にレコード契約をもたらすことになる。1958年、彼女はベリー・ゴーディの新レーベル、タムラ・レコードから初の女性アーティストとしてデビューを果たした。デビュー曲「Who Wouldn’t Love a Man Like That」はポップ・チャート入りは逃したものの、この曲でライヴ・パフォーマーとしての人気を獲得した彼女は、ニューヨークのアポロ・シアターやワシントンD.C.のハワード・シアターでの公演をソールドアウトさせた。

Who Wouldn't Love A Man Like That (First Version)

偉大なるベリー・ゴーディの存在

その後も彼女は、モータウンの厳しいトレーニングによって技術を磨いていく。彼女は、ベリー・ゴーディがいかに彼女をパフォーマーとして成長させたかについて1994年に行われたロサンゼルス・リーダー紙のインタビューで次のように語っていた。

「ベリーをはじめとする彼の一族と共にあるモータウンは、家族のような存在でした。私のキャリアは彼から始まり、私は彼なしでもやっていけるということを学ばなければなりませんでした。ビリーと一緒に(デトロイト)のFlameで歌った時、ベリーは私のためにピアノを弾いてくれました。いつも彼が私に曲を教え、ピアノを弾いてくれたので、他のピアニストとではリラックスできなかったんです。ある晩、ベリーの到着が遅れたので、音楽ディレクターのモーリス・キングが別のピアニストに弾かせたんです。私は死ぬ思いでした。ベリーが私のために曲を書き、演奏し、それを私に教え、オーケストラの指揮もとる、それが私にとって当たり前でしたから。彼がクラブに到着した時、私は彼に飛びつきました。すると彼は穏やかにこう言ったんです。“私がいないと歌えないなら、君はこの仕事に向いてないよ”って」

スタックスへの移籍

1963年、モータウン・レコードを離れたメイブル・ジョンは、4 BrothersとBright Starという小さなレコード会社の経営を任されていた。その頃、メンフィスのラジオ局“WVOL”でディスクジョッキーをしていた頃からの友人で、スタックス・レコードの社長になったアル・ベルと再会を果たす。1965年、彼女のサウンドが彼のレーベルにぴったりだと考えたアル・ベルは、彼女にレーベル契約を持ちかけた。

メイブル・ジョンのスタックス・レーベルからのファースト・シングル「Your Good This (Is About to End)」は、1966年の夏、全米R&Bチャートで6位を記録。彼女は、著書『Soulsville U.S.A: The Story of Stax Records』の中でこの曲について次のように語っている。

「私はこの曲を楽しんでいました。当時の私は束縛されていたので、この曲が与えてくれた安らぎを楽しんでいました。最初の夫が私にひどい仕打ちをしたと思い悩んでいたので、私は誰にも言えないたくさんの苦い思いを抱え込んでいたんですが、あの曲がその苦い思いをある程度解消してくれたんです。私の胸から何かを取り払ってくれるようでした」

Your Good Thing (Is About to End)

 

思い掛けない悲劇

その翌年、彼女はシングル「Same Time, Same Place」をリリースするが、その直後に悲劇が襲う。1968年、弟のリトル・ウィリー・ジョンが刑務所で謎の死を遂げたのだ。そのあまりの悲劇に、彼女は重度の鬱状態に陥り、2年間音楽活動を休止してしまうが、レイ・チャールズにオファーを受けたザ・レイレッツの音楽ディレクターで復帰を果たし、彼とは52曲を共作した。

メイブル・ジョンは、1993年にクレンショー・クリスチャン・センターで神学博士号を取得し、1994年にはリズム&ブルース財団からパイオニア賞を授与されている。聖職者となり、第一線を退いてからは、貧しい人々のための食糧プログラムを自ら運営する傍ら、自身のレーベルであるメダ・レコードを経営し、自身の作品に加え、数組のクリスチャン・アーティストの作品を作曲、録音、販売していた。

近年では、2007年の映画『Honeydripper』にブルース・シンガーのバーサ・メイ役で出演した他、2013年には大ヒット・ドキュメンタリー映画『バックコーラスの歌姫たち』で、レイ・チャールズのバックコーラス・グループであるザ・レイレッツのディレクターを務めていた日々を語っている。

音楽的な貢献に加え、彼女はデイヴィッド・リッツと、『Sanctified Blues』『Stay Out of the Kitchen』『Love Tornado』という3作のスピリチュアル小説を共同執筆している。

Written By Sam Armstrong




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