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マーヴィン・ゲイの生涯を辿る:彼はいかにして真のソウルアーティストになったのか

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モータウンの創設者であるベリー・ゴーディをして「私の知る限り誰よりも本物と言うに相応しいアーティスト」と言わしめたマーヴィン・ゲイ。彼は1970年代のソウル・ミュージックを定義づけた、一切の妥協を知らないアーティストだった。

ベリー・ゴーディ・ジュニアは、アーティストとは何であるかということを、少なくとも音楽という範疇において、よく理解している。ゴーディは、1939年4月2日にマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニアの名を受けて誕生したこのアーティストとの20年に及ぶ仕事の最上の時間をともにしていた。

ゴーディは、最も偉大で最も心を沸き立たせるソウル・ミュージックがマーヴィンによって実際にテープに記録されるその場にいた。 その偉大なシンガーが最上のヴォーカル・パートナーであったタミー・テレルに先立たれて崩壊し、そして以前とは異なるイメージを携えて再び立ち直る様をその場で見た。自分の娘であるアンナ・ゴーディとの結婚によってマーヴィンを義理の息子にしたもののその後に離婚、そしてその離婚をテーマにした悲しく美しくおそらく史上初だった本格的“離婚”アルバム『Here, My Dear』が誕生するという、世にも珍しい体験もした。モータウンを離れ、薬物中毒に苦しみ、そしておそらくいつかまたモータウンに戻りレーベル最高の男性アーティストとして絶頂期に君臨できるのを願っているだろう彼を、ゴーディはその目で見ていた。

本物のアーティストであるマーヴィンとレーベルのエネルギッシュなオーナーであるベリーとの組み合わせでは、さぞ苦労も多かったに違いないと想像する向きもあるだろうが、その点は確かにその通りだった。しかし苦労とは言っても、すべては偽りと妥協を知らず、真摯で正直であったからのことだった。ソウル・ミュージックとは天国と地獄の音楽で、それこそマーヴィン・ゲイが私達に届けてくれたものだ。後者よりは前者の方が当てはまるだろうが、しかし地獄を知らなければ天国を認識することはできまい。

その飾らない人柄に触れて

マーヴィンが自分の音楽、そして自分のソウルに苦しみ、それを音楽にして聞かせてくれた。彼はそれを恥じていなかった。彼にはそれ以外の方法がなかったからそうしたのだ。

マーヴィン・ゲイの”偽りのなさ”は苦労の末に生まれたものだ。彼を気さくな性格や和やかな感情の持ち主として知っていた者は、おそらく彼のステージでは居場所がなかったはずだ。すなわち、マーヴィンにとってマイクは告白のための道具であり、ボーカル・ブースは懺悔室だったのだ。

素晴らしいシンガーであった彼にとって、ツアーを進行させるためにそうしたレコーディングの瞬間をステージで再現することは可能だった。しかし、それはマーヴィンの真骨頂ではなかった。彼にとっては、自分の心をどこまでも掘り進んで何が取り出せるかを発見することに意味があった。ステージで見せるパフォーマンスはまた別のものだ。そこでは”ステージにおけるマーヴィン・ゲイ”をわかりやすく伝える必要がある。しかし、マーヴィンにとっては、正真正銘の”その瞬間の真実”が重要だったのだ。彼があまりダンスが得意ではなかった。そのため、ステージでしばしば緊張してしまうほど、ライヴ・パフォーマンスを嫌っていたという事実はよく知られている。それでも必要に迫られて自分の役割を受け入れていたのだが、彼は彼のファンに最高のパフォーマンスを提供することをできないという悩みを抱えていた。常に彼はマーヴィン・ゲイ自身であり続けたが、長いキャリアを通じ、いついかなる時でも本物の自分を見せられなければいけないという事実に葛藤を覚え続けていた。

キャリア初期と初のヒット曲「Stubborn Kind Of Fellow」

マーヴィンの音楽キャリアはドゥワップ・グループがスタートだが、まず触れるべきグループはハーヴィー&ザ・ムーングロウズだ。1961年初頭にモータウンと契約した後、最初にリリースされたレコードは、R&Bやスウィングそして当時台頭しつつあったソウル・サウンドをブレンドさせたようなスタイルだったが、大して売れることはなかった。だが、マーヴィンの熱のこもったヴォーカルは既にこの時点で異彩を放っていた。

彼は歌っている最中に自己に没入する傾向があったために、ステージ上では目を開けて歌うよう言われた。この助言は正しいのだが、頑固な性格の彼はなかなか受け入れられなかった。それだけではなく、ほかのモータウンのアーティストとは異なり、ステージ上での演出や身体の動きについてのレッスンを受けることも拒んでいた。彼にとって4枚目のシングルで初のヒット作となった1962年の「Stubborn Kind Of Fellow」は、まさにタイトルが彼の本質の一面を表していたのだ。彼は、その正直さが曲のヒットに結びついたのだと感じていたかもしれない。

Stubborn Kind Of Fellow (Live)

 

マーヴィンにはある種の魔法めいたところが最初からあった。「Hitch-Hike」「Pride And Joy」、そして「Can I Get A Witness」といった初期のヒット曲をレコーディングした時点で、既にマーヴィン・ゲイのヴォーカル・スタイルは完成の域にあった。彼の声はその後も進化していくのだが、初期のマーヴィン・ゲイを愛するファンにとっては、これら初期のヒット曲の声こそがマーヴィンなのだ。そして特に、メアリー・ウェルズとの「Once Upon A Time」やキム・ウェストンとの「What Good Am I Without You」などのデュエット曲でのマーヴィンの魅力は、まさに輝いていた。

 

終わることのない自己追求

しかし、マーヴィンの魅力あるシングル曲がまるで当たり前のように次々とアメリカのヒット・チャートに送り込まれる一方で、アルバムに収められていたのはソウル・ミュージックの若きスターとしての自分に十分には満足していないシンガーの姿だった。マーヴィンにはもっと何かが必要だった。彼は常にそうだった。アルバムをリリースするたび、完全な駄作だったとは言わないにせよ、自分の全てを表現しきれていないという思いの中で、本当の自分を見つけ出そうと努力を重ねていたのだ。『When I’m Alone I Cry 』や『Hello Broadway』(いずれも1964年のリリース)、『A Tribute To The Great Nat ”King” Cole』(1965年)から聞こえてくるのは、ジャズやMOR寄りのシンガーとしての立ち位置を模索していた彼の思いだ。それらのアルバムにも魅力があるのだが、マーヴィンが目指すのはまた別のものだった。

それらのアルバムはどれもチャートに登場することはなかったが、同時期にリリースされたソウル・アルバム『How Sweet It Is To Be Loved By You』のセールスは上々で、そこには「Try It Baby」「Baby Don’t You Do It」「You’re A Wonderful One」、そしてタイトル・トラックなどの活気あるシングルが収められていた。

How Sweet It Is (To Be Loved By You)

 

マーヴィンが進むべき方向はどこにあったのかという問いは、現在の我々からすれば火を見るよりも明らかだが、しかし実際には、そうした畑違いのアルバムは全くの見当はずれというものでもなかった。当時のソウル・ミュージックは比較的まだ新しいタイプの音楽であり、それがいつまで続くかは誰にも予想のできないことだった。生計を立てるためにはナイトクラブで歌っていかなければならないという考えを多くの歌手が持っていたので、多芸であることは資産であり得た。ショービジネス用に躾けられたスターになることを拒み妥協を許さなかったマーヴィンが将来のための保険材料を持っていることは、同じく当時の常識と同じ感覚でいたモータウンにとってもひと安心というところだっただろう。

伝説の礎

若きマーヴィンの武器は歌うことだけではなかった。彼は何種類かの楽器を演奏することができ、モータウンの重要なレコーディング・セッションでドラムを担当したこともある。多作とは呼べないまでも作家としての才もあり、大ヒットを記録したマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing In The Street」やマーヴェレッツの「Beechwood 4-5789」、そして彼自身の楽曲である「Wherever I Lay My Hat (That’s My Home)」「Pride And Joy」「Stubborn Kind Of Fellow」などの作曲者のひとりとしてクレジットされている。1965年にはプロデューサーとしてもクレジットされるようにもなり、1966年リリースのグラディス・ナイト&ザ・ピップスのモータウン移籍後初のシングルの片面のプロデュース、続いてクリス・クラークやオリジナルズなどを手がけた。後に伝説と呼ばれることになる彼の礎はこうしたことにあったのである。

Dancing In The Street

 

しかし、1960年代半ばの時点では確かなものは一つもなかった。マーヴィンにスターとしての素質があったということは疑う余地のない事実だったが、才能あるアーティストが数多くいるソウル・ミュージック・シーンの中では、決定打となるものが彼には不足していた。もっともマーヴィンの音楽は、アメリカ以外では人気を集めており、ことにイギリス、フランス、そしてドイツではかなりの数の熱心なファンを獲得していた。「Can I Get A Witness」「Ain’t That Peculiar」(ともに1965年のリリース)、「One More Heartache」(1966年のリリース)といったシングル盤を持っていることが、イギリスのモッズたちにとってはちょっとした自慢で、これらが流れるとダンスフロアへ上品に向かうというよりも殺到して踊り暴れていたほどである。

デュエットでの成功

しかし、マーヴィンがスターとして確固とした地位を手にするこになった何よりも大きな要因は、一連のデュエット・レコードの成功である。キム・ウェストンと丁々発止を繰り広げる「It Takes Two」が1966年に大ヒットしたが、ウェストンはその翌年にモータウンを離れてしまう。しかしそこで会社が彼に用意した新たなパートナーが実にすばらしかった。

かつてジェームス・ブラウンのバンドの一員だったタミー・テレルは、モータウンでほぼ全く宣伝されなかったシングルを既に数枚リリースしていたが、マーヴィンとペアを組んだことでその才能が一気に花開いた。彼ら2名にとってのファースト・アルバム『United』(1967年のリリース) は、ハーヴィー・フークァ(モータウンでの活動を開始する以前にマーヴィンが活動をともにしていたムーングロウズのハーヴィー・フークァその人である)とジョニー・ブリストルによるプロデュース。

マーヴィンが作曲を担当したタミーの大のお気に入りのシングル「If This World Were Mine」がまずまずのヒットになったが、アルバムの収録曲の中で最も注目すべき作品は当時モータウンで新進気鋭の作家チームだったニック・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンの共作である。アシュフォード&シンプソンの「Your Precious Love」は『United』の中で最大のヒットを記録したが、もう1曲、ソウル・ミュージックの頂点に位置する圧巻の名作があった。あの「Ain’t No Mountain High Enough」である。

野心的なソウル・ミュージックの決定版といっても決して大げさではない「Ain’t No Mountain High Enough」は、ルーツにあるゴスペルと都会的なタッチを融合させ、全体として実に荘厳なスケールを感じさせる。もしこの曲に心を動かされないとしたら、それは心のどこかが死んでしまっているのだと思う。モータウンにやってきたばかりのアシュフォードとシンプソンの名刺代わりの作品として申し分のない出来栄えだ。マーヴィンとタミーの2人には特別な魔法が備わっている証拠として疑う余地がない。そして、マーヴィンをトップランクのアーティストとして確立させたレコードとして、歴史に残る1枚である。

*この曲について語るヴァレリー・シンプソンの独占インタビューはこちら

Ain't No Mountain High Enough

 

当初、3人目の女性パートナーとペアを組むことについてマーヴィンは冷淡に肩をすくめるだけで、自分の表現活動のためというよりもモータウンの商売上の狙いのためのことだろうと踏んでいた。それゆえに、マーヴィンとタミーは楽曲を覚えるプロセスも、レコーディングそのものも、最初のころは各自がそれぞれに行なっていた。彼らが本当の意味で一緒に仕事をするようになったのは、マーヴィンが2人の組み合わせにとてつもない可能性があることに気がついてからだった。2人はまるで双子のように相性がよかったのだ。ジェームス・ブラウンのバンドで一晩に何回ものギグをこなしてきたベテランであるタミーは、マーヴィンよりもリラックスして優れたステージ・パフォーマーだった。マーヴィンはもはや1人でオーディエンスを相手にする必要はなくなり、初めて気楽にスポットライトを浴びることができるようになった。タミーとの成功によってアーティストとして自由になれたマーヴィンは、自身のソロ名義でのレコードで以前とは異なったより深い方向へ進み始めた。

最高のパートナー、タミーの死

タミーを得たマーヴィンの名前は、1968年の大半、ヒット・チャート圏内にあった。これは、アシュフォードとシンプソン作になる3曲(心温まる「Ain’t Nothing Like The Real Thing」、繊細さ溢れる「You’re All I Need To Get By (ユア・オール・アイ・ニード)」、心浮き立つような「Keep On Lovin’ Me Honey」)といったヒット曲のおかげだった。「You’re All I Need To Get By」の中で、マーヴィンは「ああ、タミ (Oh Tammi)」と呼びかけ、次に「きみがいなければだめなんだ (Ain’t No Good Without Ya, Darlin’)」と歌っているが、やがてこの言葉の重みを実感することになる。彼はタミーを失ったことによって、より深く苦しむことになってしまった。

You're All I Need To Get By

 

1967年10月、タミーはバージニアでのステージの最中に彼の腕の中へ倒れ込んだ。彼女は悪性脳腫瘍と診断されたが、何度か手術を受けても諦めずにスタジオに復帰し、1968年はすばらしいアルバムのためのレコーディングに臨んだ。そして同じ年に2人の輝かしいセカンドアルバム『You’re All I Need』がリリースされたが、体調の戻らないタミーは1969年にライヴ・パフォーマンスから退くことになってしまった。

2人は彼らの3枚目にしてラストとなったデュエット・アルバム『Easy』の制作に入るが、タミーが歌えないほどに体調が悪い時にはヴァレリー・シンプソンが代役を務め歌った。ポップな「The Onion Song」と勇気づけるような「California Soul」が、マーヴィンとタミーの最後のヒットになった。そして1970年3月、悲嘆に暮れるマーヴィンを残してタミーはこの世を去った。

 

魂を探し求めた暗澹たる日々

タミーとの活動で安定した成功を維持し、必死でヒットを求める必要のなくなったマーヴィンのソロ活動はプレッシャーから開放されたが、その時発売されたノーマン・ホィットフィールドのプロダクション・ヌードのもとで制作されたシングルは以前よりもダークなものだった。マーヴィンがタミーの体調悪化に影響を受けていたからだ。

1968年にリリースされたシングル「I Heard It Through The Grapevine (悲しいうわさ)」には、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズやグラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス、そしてボビー・テイラー & ザ・ヴァンクーヴァーズなどによるヴァージョンと比べると遥かにシリアスなムードがあり、大西洋を挟んだリ2つの大陸両方で1位を記録した。「Too Busy Thinking About My Baby」は、マーヴィンの心からの思いが響きとなって聞こえてきた。「That’s The Way Love Is」は「I Heard It Through The Grapevine」の不穏なムードを引き継いでおり、ディック・ホラーの嘆きを込めたプロテスト・ソングをカヴァーした「Abraham, Martin And John」の内省的な声は見事なほどだった。

もはや1960年代半ばのころの、まるで機関銃のような勢いで聴く者をときめかせたマーヴィンではなく、音楽を通して心の旅を続ける男の姿がそこにあった。1968年のトリビュート・アルバム『In Loving Memory』からシングルとしてリリースされたゴスペル・ナンバー「His Eye Is On The Sparrow」での救いを求めるマーヴィンの姿は、彼が1970年代入ってから作ることになる音楽を予感させるものだった。

I Heard It Through The Grapevine

 

成功はしていたものの、この時期はマーヴィンにとって暗いものだった。1970年にシングルでリリースされたロジャー・ペンザビーン作になる「The End Of Our Road」がヒットしたのは当然とも言える。彼がデュエットのパートナーを失ったことと重ねて解釈できる曲だったからだ。ペンザビーンは彼の妻と離婚した1967年にこの曲を書き、無念にもその同じ年に自殺してしまった。ゲイはこのことを知っていただろう。しかし彼はタミーの死を追うようなことはしなかった。代わりに彼は音楽に没頭したのだ。

名盤『What’s Going On?』の誕生

マーヴィンは自分の音楽を刷新しようと考えていたが、それが具体的になるまでにはしばらく時間がかかった。長期間に渡るセッションを経て完成したアルバム(そしてモータウンの社長ベリー・ゴーディとのリリースする価値の有無についての議論はそれ以上に時間がかかった)は、彼の音楽を一変させたものと評価されたが、しかしこの『What’s Going On』の誕生にはいくつかの兆候が既にあった。 マーヴィンの1968年以降のソロ・シングルは、自身が書いた作品でなくても内省的な姿勢の度合いを強めていた。当時、彼の弟であるフランキーがベトナム戦争に従軍しており、当然のことながら彼が気楽でいられたはずはなく、「Picket Lines And Wicked Signs」では戦争反対を訴えるヒッピー達とその反対派との暴力的な争いにも言及した。「Abraham, Martin And John」での彼の声にははっきりと切実な思いが込められていた。「His Eye Is On The Sparrow」での彼のパフォーマンスは、本気になった彼はこれほどまでに1枚のレコードに情熱を込められるのだということを証明していた。

Abraham, Martin & John

 

マーヴィンは、モータウンで不当にも2番手路線を歩まれていたグループであるオリジナルズのプロデュースをしながら自らのアイデアを試し始めた。オリジナルズはバッキング・ヴォーカルでマーヴィンの楽曲を含む多くのモータウン作品で歌っていたグループで、ヒットこそなかったもののその実力は折り紙付きだった。ドゥー・ワップのスタイルを基盤に持つ彼らだが、その範疇を超える魅力があった。1968年リリースの彼らのシングル「You’re The One」はマーヴィンとの共作で、繊細で流れるようなメロディにはマーヴィンがその3年後に生み出す音楽の片鱗を見ることができる。また、彼らの1969年のシングル「Baby I’m Real」や、1970年代に入ってからリリースされたシングル「The Bells B/W I’ll Wait For You」や「We Can Make It Baby」のプロデュースもマーヴィンは担当している。どの曲にも見事なほど美しさ、重なり合うヴォーカルやドリーミーな雰囲気、ゆったりとしたグルーヴ、クライマックスへ向けて盛り上がっていくメロディ、そして波立たせるようなギターのリズムといった、『What’s Going On』で聴ける要素の多くが隠れていた。これらのレコード制作から、マーヴィンがその後間もなくの1970年代初期にリリースする名盤で手助けしてもらうことになる共作者ジェームス・ニックスやアレンジャーのデヴィッド・ヴァン・デピットを始めとする人々とのつながりが生まれている。

意外かもしれないが、マーヴィンの新たな方向性により一層の影響を及ぼしたのがレナルド・”オービー”・ベンソンだった。スモーキー・ロビンソンとプロデューサーのフランク・ウィルソンが共同で書いた1970年のシングルでもおなじみのザ・フォー・トップスのメンバーだ。彼は、アルバム『What’s Going On』のサウンド面や歌詞の面で多くのアイデアを提供した。その時点までは作家として知られていなかったベンソンだが、アルバムのタイトル・トラックおよび「Save The Children」と「Wholy Holy」の2つの重要作品の元になるアイデアをマーヴィンに持ちかけ一緒に練ったのが彼であった。

What's Going On (Original Single Mix)

 

マーヴィンのランドマークになるアルバム『What’s Going On』はゆっくりと形になっていった。そして1971年、ジャジー過ぎてまとまりもなく売れそうにないと疑問視していたベリー・ゴーディをはねのけて、アルバム『What’s Going On』は世に放たれた。批評家の称賛の声は止むことなく、すぐにアルバムの収録曲から多くのカヴァー・ヴァージョンが生まれた。そしてマーヴィンにとって重要だったのは彼のビジョンが世間に受け入れられることが証明されたことで、アルバムはアメリカのヒット・チャートでトップ10に入った。

彼はついに、ソングライティングもプロデュースも自分の思いそのままに形にすることができた。しかも芸術性を維持しつつ、ヒット作を世に送り出せるアーティストというポジションを確立できたのだった。『What’s Going On』からは3曲も大ヒットが生まれた。彼は売れなくてもいいと思っていた。そしてそれだけに、チャートでの成功は嬉しい誤算だった。

大成功の後の「You’re The Man」

しかし、真の才能の道は決してスムーズに進むものではない。マーヴィンが次にリリースしたシングル「You’re The Man」はすばらしい曲だったがヒットはせず、ビルボードHOT100で50位止まりだった。前回の大傑作アルバム匹敵するものをというプレッシャーの中、シングルと同タイトルの、非常に政治的なアルバムが制作された(47年後の2019年にリリースされた、アウトテイクや断片的な音源を纏めた”失われたアルバム” 『You’re The Man』は、1972年がマーヴィンのキャリアにおける充実した過渡期であったことを明らかにしている)。

You're The Man

 

ならばとばかりに、その年の終わりを迎える前にマーヴィンはブラックムービーのサウンドトラック・アルバム『Trouble Man』の制作に取りかかり、11月にリリース。マーヴィンが再び全曲ヴォーカル入りのアルバムを発表するころには、ソウル・ミュージックの状況はやや変化していた。マーヴィンは前作で取り組んだ世界情勢への関心に代わって、より身近な出来事に関心を向ける必要があった。

2枚目の大傑作アルバム『Let’s Get It On』

Let’s Get It On』(1973年のリリース)もまた大傑作で、艶っぽく、パーソナルで、若干卑猥な部分も感じるが陽気で、当初は前作『What’s Going On』よりも売れたほどだ。アメリカでは2年間もヒット・チャートに留まっていた。3年間に2枚の金字塔的アルバムと、非常にクオリティの高いサウンドトラックである。マーヴィンの王座は揺るぎようもなかった。

Let's Get It On

 

しかし、彼は油断した。1973年8月に『Let’s Get It On』がリリースされて2ヵ月後、彼の名前を冠したさらなるアルバム『Diana & Marvin』が登場した。1970年代初頭のモータウンで最も売れるアーティスト2名の共演作で、マーヴィンにとって最後のデュエット作品だ。しかしマーヴィンは当初、タミー・テレルが亡くなってからは女性とのデュエットはやりたくないと思っていた。自分と組んだ2人のパートナーはともにレコードを出した直後にレーベルから離れた上にタミーはこの世界から永遠に離れてしまったことから、悪いジンクスのようなものを感じていたのだ。しかし、マーヴィンは結局自分のポジションに良い影響があるかもしれないということで折れたのだった。その結果生まれたアルバムは暖かく非常にソウルフルで、マーヴィンとダイアナ・ロスという顔合わせ以外には望めないものとなった。

1976年まで、マーヴィンのスタジオ・アルバムのリリースはなかった。進むべき方向を見失い、吸っていた大量のマリファナの影響で考えもまとまらず、さらにアンナ・ゴーディ・ゲイとの結婚生活も上手くいっていなかった。まだ10代だったジャミス・ハンターという新しい恋人の出現によって2人の生活の危機は更に加速してもいた。だが、空白期間は1974年の『Marvin Gaye Live』で埋めることができた。このアルバムにはスポークン・トラックの「Jan」やアメリカのシングル・チャートでトップ20のヒットを記録した見事なライヴ・ヴァージョンの「Distant Lover」などが収録されている。マーヴィンの1960年代ヒット作品を次々と紹介してみせるメドレー「Fossil Medley」によって、彼の過去の作品に対する思いも知ることができた。

そして、マーヴィンはリオン・ウェアによるプロデュースのニュー・アルバム『I Want You』を遂にリリースした。ジャニスへの思いを込めた非常にエロティックなアルバムだが、セクシーさ全開のソウルという要素をマーヴィンの音楽に持ち込んだのはリオン・ウェアによる貢献が大だ。ディスコ・タッチのファンキーなサウンドは現在聞いてもすばらしいが、ダウンビートを効かせたディープでベッドルームが似合うグルーヴは先の2枚のスタジオ・アルバムを凌ぐほどのインパクトはなかった。アルバムからの2枚目のシングル「After The Dance」と1980年代のカムバック作でシンセサイザーをフィーチャーした「Sexual Healing」はまったく異なったタイプの作品だった。

I Want You

 

離婚問題とそこから生まれたアルバム

1978年にリリースされた『Here, My Dear』は、マーヴィンが離婚した妻に向けたアルバムという意味で、『I Want You』と表裏の関係にある作品だと言える。彼には不可能な額の慰謝料を巡って2人は込み入った言い争いをしており、彼はこのアルバムで得る印税の半分をかつてのミス・ゲイである彼女に支払うことになっていたのだ、彼女にとっては不幸なことにアルバムはそれほど売れなかった。マーヴィンは当初、契約上の義務で制作するものであるから適当に済ませればよいという程度の考えでいたのだが、根っからのアーティスト魂はまたもや抑えることもできず、2人の馴れ初めから破局までのありとあらゆることをぶちまける気持ちで本気になってしまった。そこで完成したのがこの2枚組の大作だったというわけだ。ところどころ散漫に思える箇所もあるが彼の声は絶好調で、メロウかつファンキーなヴァイブが実に心地良い。現実逃避の妄想作品「A Funky Space Reincarnation」ですら非常に良くできた名作だ。

これに先立って、1977年にリリースされた『Live At The London Palladium』はよくできたレコードで、アメリカで1位を記録したマーヴィンの作品の中でも最もディスコ的な11分に及ぶスタジオ・トラック「Got To Give It Up」が追加収録された2枚組だった。この曲は今でも依然としてダンスフロアで聴かれるものだ。1979年にもシングル「Ego Tripping Out」がリリースされているが、この曲はファンクともディスコともつかない、どちらかと言えば駄作の部類だった。マーヴィンは数ヶ月間かけて推敲を重ねたが、結局はこの曲を収録するはずでいたアルバムの制作を放棄してしまった。モータウンからすれば悔しさしきりだった。彼のモータウンでの最後のアルバムとなった『In Our Lifetime』には、破綻した男女関係からインスパイアされた作品が以前以上に多く収録されていたが、今回の相手はジャニスだった。マーヴィンが前回予定していたアルバムを完成させなかったことで痛い目にあったレーベルは、『In Our Lifetime』の一部の作品に手を加え、マーヴィンが完成させる前にリリースしてしまった。しかし、だからと言ってこのアルバムが水準以下の内容だと決めつけるのは早計だ。そもそもがマーヴィン・ゲイのアルバムなのである。少なくとも部分的にせよ何かしら哲学や宗教的な領域に迫りうる、病みつきになるほどにファンキーでソウルフルなサウンドなのだ。特に「Praise」と「Heavy Love Affair」は一級の作品である。

マーヴィン・ゲイはソウル・ミュージックそのものだった

そのころ、私生活において、マーヴィンは万事休すといってもいい状態だった。彼は納税を怠ったとして、数百万ドルもの支払いを求められていたのである。加えて、マーヴィンはドラッグの問題も抱えていた。そして金銭的な問題から逃れ、自分の中の悪魔を振り払うために、ハワイ、ロンドン、ベルギーのオーステンデへと転居した。モータウンを離れた彼はコロンビアと契約し、ある程度まで身辺の整理をすると、オーステンデの自宅フラットでキーボード・プレイヤーで過去にジャズ・オルガニストとして6枚のアルバムをリリースした経験を持つオデル・ブラウンとともに楽曲の制作に取りかかった。その結果誕生したのが、1982年9月にリリースされたシングル「Sexual Healing」で、全面的に打ち込みを採用したこの曲は、世界的なスマッシュ・ヒットを記録した。またアルバム『Midnight Love』も好評を博し、マーヴィンはツアーにも出発したが、かねてから彼を苦しめていたコカイン依存症はさらに悪化していた、彼は病んでおり、疲労しきっていた。そしてコンサート・ツアーを終えると、家族と過ごすためにロサンゼルスの両親のもとへ向かった。

1984年4月1日、家族での喧嘩の後にマーヴィンは実の父親に撃たれ、命を落とした。それは誰にとっても衝撃的な最期だったが、常に愛を歌い、しばしば平和と信仰と官能を歌ったシンガー、そして、たとえ自身が切望する理想を放棄することになるとしても、常にアーティスティックな使命を忘れることがなかったマーヴィン・ゲイ自身にとって、誰よりもショッキングな結末だったに違いない。

真のアーティストとは何だろうか?その答えを数値で計ることは不可能である。しかしながらマーヴィン・ゲイが残した優れた作品群に耳を傾けたのなら、彼が心から自身の役割に取り組んでいたことがわかるはずだ。ありのままの感情や、人間としてのあり方を表現することが、彼がアーティストとして生きていく唯一の方法だった。たとえ、それが比較的質の劣る楽曲であったとしても、そこに、彼が自分の核にあるものを形にしようとしていた跡が残されていることに、きっと気づくに違いない。それが真の芸術性であり、それがソウル・ミュージックなのだ。マーヴィン・ゲイは、ソウル・ミュージックそのものだったのである。

Written By Ian McCann



1972年の未発表アルバム『You’re The Man』発売中!

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