モータウンを支えた極上の歌声たち

11月 28, 2017


モータウンを支えた極上の歌声たち

四半世紀前、モータウン・レコードの大黒柱4人、スモーキー・ロビンソンスティーヴィー・ワンダーマーヴィン・ゲイダイアナ・ロスは、モータウン創設者の父を讃えた。

彼らは、「Pops, We Love You」という曲をベリー・ゴーディ・シニアに捧げたのだ。彼の息子、ベリー・ゴーディ・ジュニアは、その才能、決意、幸運で、4人を世界的スーパースターに仕立てあげた人物である。1978年、ベリー・ゴーディ・シニアは90歳で世を去った。彼がスモーキー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロスの4人に大きな印象を残したことは、彼が亡くなった同年にレコーディングされたこのトリビュート曲からも明らかだ。

しかし、その後モータウンは上記の大物4人以外のスターも生み出すさらに大きなレーベルになっていく。例えばメリー・ウェルズだ。彼女はデトロイトのナイトクラブでベリー・ゴーディ・ジュニアを引きとめると、ジャッキー・ウィルソンのために書いた自作曲を売り込んだ。ベリー・ゴーディ・ジュニアはその場でメリー・ウェルズに歌うよう指示を出すと、メリー・ウェルズはその大胆さ(また、彼女が書いた「Bye Bye Baby」の質の高さは言うまでもない)でレコード契約を獲得し、1960年から1964年の間にヒットを連発した。

……そしてもちろん、モータウンにとって欠かせない、パワフルな60年代のグループを忘れることもできないだろう。(詳細は『モータウンのグループ達:デトロイト発、一大レーベル創世記』を参照。)

メリー・ウェルズが決して忘れられない理由が、もうひとつ存在する。彼女には、マーヴィン・ゲイとレコーディングした作品があるのだ。2人は1枚しかアルバムを制作しなかったが、そのアルバムは魅惑的で、商業的にも成功を収めた。この成功をヒントに、マーヴィン・ゲイのメンターであったハーヴィー・フークワが、マーヴィン・ゲイとモータウンの若手女性シンガー、タミー・テレルを組ませたのも納得のいく話である。こうしてマーヴィン・ゲイとタミー・テレルは、ポピュラー音楽史上でも極めて相性抜群のデュエットをレコーディングした。2人は、現実世界では恋人ではなかったかもしれない。しかし、レコード上の2人は、「Ain’t No Mountain High Enough」や「You’re All I Need To Get By」といった珠玉のラヴ・ソングに恵まれ、真のロマンスを体現していた。

Motown

タミー・テレルはなかなかタフな女性だった。なにしろ彼女は、ジェームス・ブラウンの下で働いていたのだ! また、彼女はソロでリリースした「Come On And See Me」や、1968年に発売したアイズレー・ブラザーズのカヴァー「This Old Heart Of Mine」も素晴らしい楽曲だった。いくつか伝えられる話によれば、彼女の本命はデヴィッド・ラフィンだったという。彼はその圧倒的なヴォーカルで、テンプテーションズでリード・ヴォーカルを務めた人物だ。なお、デヴィッド・ラフィンの兄、ジミー・ラフィンがテンプテーションズのリード・ヴォーカルに決まりかけていたが、彼はダンスが苦手だったため、グループではなくソロのキャリアを歩むこととなった。ジミー・ラフィンには、モータウン屈指の名曲「What Becomes Of The Brokenhearted」のヒットがある。

アメリカ中西部のデトロイトを拠点とするモータウンが初めて契約した西海岸のアーティストは17歳のブレンダ・ホロウェイだ。彼女は、プロデューサーのハル・デイヴィスによってスカウトされた。モータウンの歴史に「Every Little Bit Hurts」という名曲を刻んだだけでも大きな功績だが、ブレンダ・ホロウェイは「You’ve Made Me So Happy」を共作し、レコーディングしたことで、ポピュラー音楽の歴史上でもその地位を固めた。この曲は後に、ロック・ジャズ・クロスオーヴァー・バンドのブラッド・スウェット&ティアーズのカヴァーによって世界的な有名曲となった。

殺人事件の数が全米平均値の約400倍の危険地域であるロサンゼルスのワッツで生まれたブレンダ・ホロウェイには度胸もあった。ロサンゼルス在住だった彼女は、モータウン内でデトロイト在住のアーティストよりも序列が下だと感じ、ベリー・ゴーディに契約解除を求めたのだ。しかし「When I’m Gone」や「Just Look What You’ve Done」等の名曲とともに、ブレンダ・ホロウェイは永遠にモータウンの一部となった。

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それから約20年後、モータウンは再びカリフォルニア出身の女性シンガーをブレイクさせた。ティーナ・マリーだ。もちろんリック・ジェームスのバックアップも功を奏したが、ティーナ・マリーがチャートの常連となったのは、ティーナ・マリーの決意と才能によるものだ。なお、ベリー・ゴーディは自伝の中で、ティーナ・マリーは「自分が見つけ出したアーティスト」であると誇らしげに記している。ティーナ・マリーのデビュー・ヒットの「I’m A Sucker For Your Love」は、モータウンのソロ・スター第3世代であるティーナ・マリーとリック・ジェームスによるデュエット曲だ。ブラックとホワイト、リズム・アンド・ブルースを融合した印象深い同曲以来、ティーナ・マリーはヒットを量産した。

テルマ・ヒューストンもカリフォルニア出身の女性シンガーで、前述のハル・デイヴィスがプロデュースした「Don’t Leave Me This Way」のディスコ・ヒットが代表作だ。同曲のレコーディング中、地元ミュージシャンの組合役員が、曲の演奏時間について文句を言った。「曲が7分目に入るところだった」とハル・デイヴィスは回想する。「すると、組合役員が入ってきて、『ロング・ヴァージョンも作ってるんだってな。そのまま続けちゃダメだ。追加料金を徴収しなくちゃならないからな』って言いだしたんだ」。ハル・デイヴィス、そしてテルマ・ヒューストンが何と返答したか、皆さんにも想像がつくだろう。テルマ・ヒューストンにはこの時点まででヒット曲がなかったため、お役所仕事に振り回されるのは御免だった。

リック・ジェームスもお役所仕事とは相性が悪かった人物だ。彼はアメリカ海軍に入隊したものの、すぐに逃亡した。しかし1980年代に入り、彼は「Super Freak」や「Give It To Me Baby」等、ファンクで人の心を鷲掴みにすると、大成功を手にする。リック・ジェームスは、80年代のモータウン最大のソロ・スターだった。しかしその後、ライオネル・リッチーがコモドアーズを脱退し、ソロ・アーティストとして世界を制覇。リック・ジェームスの王座を奪った。

世界的な人気グループを脱退するのは、大きな賭けである。もちろん、大勢が失敗する。しかし、ザ・ミラクルズを脱退したスモーキー・ロビンソンや、シュープリームスを脱退したダイアナ・ロスには、失敗の懸念など微塵もなかった。2人の才能があまりにも卓越していた上、モータウンは多額の予算と大きな労力をつぎ込み、2人がエンターテイメント・ビジネスの頂点に上りつめられるようお膳立てをしていたのだ。

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とは言いながらも、ベリー・ゴーディは自分が手掛けた‘チルドレン’が自分から独り立ちして独自の道を進みたいと言った時、良い気はしなかったと認めている。1985年に、彼はイェール大学での講演で、学生たちにこう話している。「彼らと一緒に仕事をし、彼らに曲の書き方や曲のプロデュース方法を教え、あらゆることを教えてきた後で、私はある日、衝撃的な発見をした。彼らの方が、私より才能があると気づき、激しく打ちのめされたんだ。私のようにエゴの強い人間には、なかなか受け入れられる話ではない。だから長い間、このことは彼らに話さずにいた。それでも遅かれ早かれ、彼ら自身の中に才能があるということを彼らは気づいたんだ。ひとたび自分の才能を信じ、自分の仕事を理解したら、成功しない方が難しいんだ」。

モータウンという銀河に輝く非凡なスターたちに乾杯しよう。

Written By Adam White



 

 


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