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モータウンのグループ達:デトロイト発、一大レーベル創世記

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Motown - The Groups

ベリー・ゴーディ・ジュニアは、1959年1月、マーヴ・ジョンソン、エディ・ホーランドという2人のソロ・シンガーと共に、レコード会社をスタートした。それに、もう1人のヴォーカリスト、バレット・ストロングの成功を経験し、ゴーディの姉のレーベルを傘下に収めた。(モータウンのソロ・シンガーについては、Motown: The Great Voicesを参考に)

しかしながら、デトロイトの2648ウエスト・グランド通りにあった“ヒッツヴィルUSA”から、あの特徴的なモータウンのサウンドとソウルを世界中に広めたのは、グループだった。ザ・ミラクルズ、マーヴェレッツ、マーサ&ザ・ヴァンデラス、シュープリームス、J・ウォーカー&ザ・オールスターズ、アイズレー・ブラザーズテンプテーションズ、フォー・トップス……カリフォルニアに移ってからは、ジャクソン5やコモドアーズがいた。

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Motown: The Groups

その中でも最高位に挙げられるのが、もちろん、ザ・ミラクルズだ。彼らの最初の成功により、ゴーディは事業を築き上げることができた。左官の息子だった彼は、音楽ビジネスに向いている大都市ではなく、アメリカの中部でそれを成し遂げた。そして、デトロイトは、地理の授業で教わる以上に、モータウンの曲やアルバムで知られるようになった。以来、世界中でプレイされるようになったその音楽とアーティスト達は、若い世代を力づけ、ポピュラー・ミュージックのサウンドに影響を与え続けてきた。その基盤が築かれたのは1959年冬、ゴーディが、ミシガン州オウォッソーにある雪で閉鎖中のレコードプレス工場へ自社初となる45回転盤が詰められた箱を取りに行ったときだった。ゴーディは、最も大切な財産であるザ・ミラクルズのリーダーと一緒だった。スモーキー・ロビンソンはゴーディに、ほかのレーベルとライセンスするのではなく、自分でやるよう駆り立てたのだ。「なんで誰かのために働くんだ。自分がその誰かになれ」と。

ゴーディはその数年前、レコード店を経営していて、ジャズはソウルを育むかもしれないが、金にはならないと思い知らされていた。また、彼は新進のソングライターとして、ビリー・ワード&ザ・ドミノスからソロに転向しデトロイトで人気を博していたジャッキー・ウィルソンのヒット曲の数々を共作していた。これにより家族から一目置かれるようになったゴーディは、家族から800ドルを借り、元葬儀屋だった場所にヒッツヴィルUSAをオープンした。

ゴーディはかつて、誕生したばかりのレコード会社に集まってきた意欲的な若者たちについて、「彼らはライターでもなければ、プロデューサーでもなかった。何者でもなかった」と、英国のジャーナリストに話していた。「彼らは単なるスマートなストリート・キッズだった。変えることも導くこともできた」そして、自分と同じで「彼らが必要としていたのは、自分のアイディアを表現するチャンスだった」と話した。

Motown

いま、それらはポピュラー・ミュージックのDNAになった。ダイアナ・ロスの「Where Did Our Love Go(邦題:愛はどこへ行ったの)」の中にある究極のうずき、ザ・テンプテーションズの「My Girl」の甘い滑らかさ、フォー・トップス「I Can’t Help Myself」の神聖なるコール&レスポンスは、我々がこれまで耳にしたり、オーディション番組の“The X Factor”や“American Idol”で目にするヒット曲の半分に潜在的に組み込まれている。残りの半分には、ヒッツヴィルの地下のレコーディング・スタジオで刻まれた正確なメトロノーム――ベニー・ベンジャミンのロック・ステップなドラムとジェームス・ジェマーソンのハートビート・ベースの影響があったりするのだ。

「Dancing In The Street」「Reach Out I’ll Be There」「The Tracks Of My Tears?」などを置いていないジューク・ボックス、ストリーミング・サイト、レコード店があるだろうか? 「Dancing In The Street」「Get Ready」「You Can’t Hurry Love(邦題:恋はあせらず)」で叫んだことがないDJがいるだろうか?

ゴーディと彼のファミリーが、一連のレコード・レーベル(タムラ、モータウン、ゴーディ、ソウルなどなど)を、あの時代最高のヒット・ファクトリーに変えた物語は歴史に刻まれた。同時に、ゴーディが未知数だったデトロイトの音楽的才能をどう鍛え、開花させていったのか、そして、あれだけ多くの若者を世界的なスターに変貌させた手腕も。

疑わしいと思うのであれば、ブロードウェイへ行ってみればいい。『Motown: The Musical』はこれらの曲をプレイし、このストーリーを語ってくれる。ラスベガスでもいい。そこでは、オーストラリアから来た――そう、オーストラリアだ――白人のクリーンカットの青年たちがモータウンのソング・ブックをもとにした『Human Nature』を上演し、たくさんの人々を魅了している。ドイツでは、ヤング・ヴォイセズ・オブ・ブランデンブルクというジャズ・ポップのコーラス隊が、「Reach Out I’ll Be There」「I Heard It Through The Grapevine」などを歌っている。

裏方の人々でさえ、日の目を見ている。ホーランド=ドジャー=ホーランドを弁護士事務所だと思う人はいないし、モータウンのハウス・バンド、ファンク・ブラザーズは『永遠のモータウン(原題:Standing In The Shadows Of Motown)』という映画になり、その功績を称えられた。故ジェームス・ジェマーソンのベーシストの息子は、モータウンの名曲をプレイするツアーを行なっている。

モータウンの前、ソングライターだったゴーディは、自身の曲を多くのパフォーマーにレコーディングさせるのが成功の鍵になることを知っていた。作曲の才能を築けば、より稼ぐことができる。モータウンとそのパブリッシング部門ジョベットが成長するにつれ、ゴーディは印税の対策も練った。彼は、出来る限り外部の助けを借りずに、自身の若いビジネスの運命をコントロールしたいと考えたのだ。社内にライターやプロデューサーのチームを形成した。彼らは熱心に取り組み、競い合った。ゴーディは、最高の組み合わせを見出すためにシンガーと曲をいろいろ試してみるよう、彼らに勧めた。パブリッシングの収入を社内に留めておきたかったのだ。

「You’ve Really Got A Hold On Me」はもともとザ・ミラクルズがレコーディングしたものだが、シュープリームスやジャクソン5もレコーディングした。「Shop Around」はザ・ミラクルズの代表作の1つだが、スピナーズやメアリー・ウェルズも歌った。「Forever」はマーヴェレッツのシングルのB面であり、マーサ&ザ・ヴァンデラスとマーヴィン・ゲイもレコーディングした。「Who’s Lovin’ You」は、ザ・ミラクルズ初のR&Bチャート1位の裏面だが、9年後、ジャクソン5のモータウン・デビュー・シングル「I Want You Back(邦題:帰ってほしいの)」の裏面にもなった。

Motown: The Groups

ときに、同じバッキング・トラックがまったく別の曲に使われることもあった。アイズレー・ブラザーズの「Smile」とジミー・ラフィンの1966年の名作「What Becomes Of The Brokenhearted」には共通点がある。アイズレーのほうは2004年までリリースされなかったが。

1965年1月、3トラックから8トラックに進化すると、ミキシングやマッチングがより簡単になった。モータウンはアルバムにもシングル同様の成功を求めるようになり、ソングライティングはより重要になった。

この動きの中心は、ウエスト・グランドのモータウン本社で毎週金曜の朝行なわれるA&Rミーティングだった。スモーキー・ロビンソン、ブライアン・ホーランドとラモント・ドジャー、ミッキー・スティーヴンソン、ジョニー・ブリストル、ノーマン・ホウィットフィールド、アイヴィ・ジョー・ハンター、ハンク・クロスビーから成るゴーディのチームは、それぞれ、その週の作品をプレゼンし、会議室の了承を得ようとした。

あるプロデューサーは、すでにヒットした曲のグルーヴやテンポ、音調を変えて、試してみようと提案した。キャッチーなものはなんであれ、アルバムに収録されることとなり、Aチームに一歩近づくことができた。また、ヒットを生み出す新しい相棒を見出そうと、これまでとは別のアーティストや新人と組みたがるプロデューサーもいた

1965年にアイズレー・ブラザーズがモータウンに加入した際、まずはAチームのホーランド=ドジャー=ホーランドと組んだ。しかし、次にはトーマス・ケンプとジョージ・ゴーディ(そう、ボスの兄弟だ)の2人がその権利を手にし、アイズレーのモータウンでの3番目のR&Bヒットは新しい作曲家レオン・ウェアとスティーヴ・バウデンが、アイヴィ・ジョー・ハンターと一緒に書いたものだった。

ベリー・ゴーディが、常にアーティストやプロデューサーから才能と新しいアイディアを引き出すことができた理由は、ほかにもある。スタジオ・バンドが24時間年中無休で待機していたのだ。ファンク・ブラザーズは、社内のミュージシャン――ジェームス・ジェマーソン(B)、ベニー・ベンジャミン(Ds)、ユーリエル・ジョーンズ(Ds)、“ピストル”アレン(Ds)、2人のキーボード・プレイヤー、アール・ヴァン・ダイクとジョニー・グリフィス、ギターのロバート・ホワイト、ジョー・メッシーナ、エディー・ウィルス、ヴィブラフォンとパーカッション担当のジャック・アシュフォード、ヴィブラフォンのジェイムス・ギティンズ、エディー・“ボンゴ”・ブラウン(コンガ/ボンゴ)らから成り、彼らの優れたテクニック、直感と適応性能力は、モータウンのプロダクション・ラインの精密なマシーンだった。

彼らは、プロデューサーが何を望み、何を必要としているか、本能的に理解していた。アレンジャーのポール・ライザー、デヴィッド・ヴァン・デ・ピート、ウェイド・マーカス、ウィリー・ショーターらもそうだった。彼ら、“Snakepit(ヘビ穴)”と呼ばれたスタジオの住民がいなければ、モータウンは作品の品質も数も維持できなかっただろう。ヒットが生まれ続けることはなかった。

Motown

ゴーディにはもちろん、会社の大事な資産に別の保険をかけておくという洞察力があった。彼は当初から、モータウンのメンバーに多様性の美徳について説き、コール・ポーターやロジャース&ハート、ジョージ・ガーシュウィンのようなティン・パン・アレーの魔法使いの作品もマスターするよう叩き込んでいた。彼は、これらのアメリカの名曲を自社のスターたちのレパートリーに加え、ニューヨークやラスベガス、ロンドンのナイトクラブの“大人”の観客を魅了すると保証したのだ。

シュープリームスの『Sing Rodgers & Hart』やフォー・トップスの『On Broadway』、テンプテーションズの『A Mellow Mood』が、モータウンのアルバム・カタログにあるのは偶然ではなかった。また、ジュニア・ウォーカー&オールスターズはコパ(訳注:NYの名門クラブ「コパカバーナ」のこと)に出演しないと、人々を納得させるのは難しかった。

これとは別に、我々は、モータウンが長い間、最もビッグで成功したアフリカン・アメリカン企業で、ブラック・アメリカの経済を先導してきたことを知っている。いまでは、ジェイ・Zやラッセル・シモンズ、パフ・ダディらの洞察力や手腕が‘Fortune’や‘Business Week’などビジネス誌で取り上げられているが、その第一人者は誰だと?

ベリー・ゴーディは会社と作品に、大家族の愛と競争という2つの遠心力を持ち込んだ。彼はヒッツヴィルと契約した多くのグループとソロ・アーティストの父親的な存在となると同時に、とくに控えの人たちに、お互い張り合うよう奨励した。それが、彼らの可能性をフルに高めると信じていたのだ。スモーキーが手掛けたテンプテーションズの曲が大当たりすれば、続けて彼にプロデュースさせる。もし、そうでなければ、ノーマン・ホウィットフィールドの出番だ。ゴーディは、競うことでチャンピオンが育つと考えていた。

家族という点でいえば、マーヴェレッツの2人がそれぞれミラクルズ、コントゥアーズのメンバーと結婚し、ゴーディの娘がジャクソンズの1人と、A&Rチーフがシンガーと結婚した。そしてまるで一族のように、ファンク・ブラザーズは、12歳のスティーヴィー・ワンダーが音楽への情熱を素晴らしい才能へと開花させていくのを手伝った。

Motown: The Groups

スモーキー・ロビンソン作の社歌が、「We’re all for one/ And one for all」と宣言しているのも、ベリー・ゴーディの会社が“The Sound Of  Young America”と自称するようになったのも偶然ではない。

60年代、モータウンは、次の世代へ受け継がれる音の聖火だった。それはビリー・ワードのドミノスやノーラン・ストロングのディアブロスなど50年代のグループの影響を受けていたが、自身の声で表現するよう試みていた。その声は、「Heat Wave」「Going To A Go-Go」「Ain’t Too Proud To Beg」「Standing In The Shadows Of Love」「This Old Heart Of Mine (Is Weak For You)」などの中で聴くことができた。

時が経てば、もちろん、子供が家を出るときがくる。全ての道が開かれている。ベリー・ゴーディはこう認めていた。「(いつか)彼らは独立するだろう。その日が来たら、予測も準備もできていたとしても、打ちのめされるのはわかっている」

50年が経ち、現実的にも比喩的にも、モータウン一家は子供や孫を持つようになった。このデトロイトの血統はモダン・ミュージックを通じ継承され、曲はアメリカの文化財となった。21世紀においても共感されている。ティーンエイジャーが“American Idol”で「My Girl」や「Who’s Lovin’ You」を歌い、YouTubeで大ヒットしたりしている。

文:Adam White


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