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音楽フェスティバルの歴史:ニューポートからウッドストック、その変遷と背景

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現代のテレビ解説者達や、要約され過ぎている歴史のおかげで、史上初の音楽フェスティバルはウッドストックだと思っている人もいる。そんな人に、1950年代から開催されていたニューポート・ジャズ&フォーク・フェスティバルの存在を指摘すると、「ああ、なるほど! でも初のロック・フェスティバルはウッドストックだった」と言う人もいるだろう。だがそれも間違いだ。

ウッドストックはたまたま映画化されることになったのだが、それも念入りな計画のたまもの、というよりも、たんなる幸運によるものだった。そしてサウンドトラックも、ビデオも、そしてDVDも、全てがミリオン・セラーとなったため、それが最初のロック・フェスだったという印象がどんどん強まっていったのだ。公平を期すために言っておくが、ウッドストックは確かに他の音楽フェスティバルを計る尺度となり、音楽史において不可欠なものとなっている。

本当の史上初の音楽フェスティバルは、1954年に開催されたニューポート・ジャズ・フェスティバルだ。初年度のステージに立ったのはエラ・フィッツジェラルドで、翌年にはルイ・アームストロングが出演。その他、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、そしてディジー・ガレスピーを始めとするスター達が、この象徴的なイベントの代名詞となった。

初期に行われていたジャズやフォークのイベントを発端に、それ以降はほぼ全ての音楽ジャンルで、熱心なファンから潜在的なファンまでをも惹き付ける様々なフェスティバルを開催されてきた。夏フェス、特にグラストンベリーは音楽の“部族主義”を超越しており、現在では子連れの親や孫を連れた祖父母らもが参加する、正真正銘の家族行事となっている。

また今日では、超大物からそこまで名の知られていないアーティストまでがあちこちで出演する、ヨーロッパのフェスティバル・サーキットが盛況だ。例えば6月ならロック・アム・リング、そして8月ならレディング・フェスといったように。

時を遡れば、1969年のウッドストックではザ・フーが後世に影響を与える重要な演奏を行ったが、それはもう少しのところで中止になりかけたものだ。そしてレディングでのニルヴァーナや、モンタレー・フェスティバルでのママス&パパスを忘れることなど誰にもできないだろう。グラストンベリーでT・レックスを観たことを憶えている人なら、1ポンドの入場料を払って農場主のマイケル・イーヴィスから無料の牛乳1杯をもらった、わずか1,500人のうちの1人だったということだ。

では、私達はどのようにしてウッドストックにたどり着き、そしてそこからどこに向かったのだろう?

ウッドストック以降:現代の音楽フェスはいかに変貌を遂げたか
ウッドストック・フェスティバルのパフォーマンス・ベスト15

最初の音楽フェスはジャズ

1950年代に米ロードアイランド州ニューポートで行われていたジャズ・フェスティバルは野外イベントの原型で、1960年代以降のあらゆるフェスがそこからインスピレーションを得ていた。英国でも、フェスティバルと言っても通るであろう小規模な野外イベントが行われていたが、それもジャズ愛好家達が催したもの。フェスティバルの大きさや規模を常に左右してきたのは、技術面、特にオーディエンスを満足させられる音量で演奏を聴かせられるようなPAシステムであった。

ジャズの興業主ジョージ・ウェインが、米ロードアイランド州ニューポートの古い野外カジノでジャズ・フェスティバルの開催を始めたのは、1954年7月。約6,000人の観客が初日の夜に足を運んだ。初日のヘッドライナーはディジー・ガレスピー&ジェリー・マリガン、そして2日目のトリを務めたのはエラ・フィッツジェラルドであった。

その翌年、そしてその後長年に渡り、観衆を楽しませることにたけたルイ・アームストロングが同フェスに出演。彼のレパートリーと気取らない態度はフェスティバルにうってつけだったが、それこそ正に、特定のフェスを成功に導く秘訣のひとつだと言える。

誰もが楽しめるものだという印象を生み出すには、アーティストのバランスが必要なのだ。「初期のフェスティバルを担っていたのがジャズ・ミュージシャン達だったのはなぜなのか?」と悩む現代の社会評論家がいるが、理由は実に単純だ。1954年、流行の最先端にいたのは“ジャズを聴いている進んだ連中”だったからである。ジャズ・アット・フィルハーモニー・ツアーという巡業のアイデアを思いついたのは、ヴァーヴ・レコードの創設者ノーマン・グランツだが、それは20世紀後半の過激なヘヴィ・メタル・ファンまでもの要求を満たす、現代のツアーのテンプレートとなった。

伝説のジャズミュージシャンたちが集ったアメリカ最大級の夏フェス!映画『真夏の夜のジャズ』日本版予告編

 

UKでの音楽フェス

一方、英国で最長寿を記録するフェスティバルが創設されたのは1961年。ナショナル・ジャズ・フェデレーション(英ジャズ連盟)が英国版ニューポート・フェスの開催を決めた時だ。

第1回ナショナル・ジャズ・フェスティバルは1961年8月、ロンドン西部郊外のリッチモンドで行われ、出演者はほぼ完全にブリティッシュ・ジャズで構成されており、その中で最も有名なのがクリス・バーバーであった。数年後には、ザ・ローリング・ストーンズが同フェスに登場。その後10年程の間に、何度か名称と開催地の変更を経て、1971年、永住の地レディングに到達し、レディング・フェスティバルとなった。

Silent footage of The Rolling Stones at the 4th National Jazz and Blues Festival August 7, 1964

1992年にニルヴァーナが出演した当時、レディング・フェスティバルは英国で最も重要なフェスのひとつとなっていた。それはニルヴァーナにとって最後のUKライヴ出演となったと同時に、最も有名なパフォーマンスのひとつともなっている。

ニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーンは、患者衣を着て車椅子に乗り、ジャーナリストのエヴェレット・トゥルーに押されてステージに登場。彼の精神状態に関して様々な憶測が飛び交っていた中、それに対して毒のあるブラックジョークで応えた形だ。その時のパフォーマンスは2009年にライヴ・アルバム/DVDとしてリリースされている。

Nirvana – Breed (Live a Reading 1992)

 

ハイド・パーク

ザ・ローリング・ストーンズは1963年8月の最終月曜日の祭日、第3回リッチモンド・ジャズ&ブルース・フェスティバルに初出演し、30ポンドのギャラを得た。アッカー・ビルク、テリー・ライトフット、ロング・ジョン・ボールドリーを擁したシリル・デイヴィーズ・オールスターズ、そしてヴェルヴェッツを含む出演者達の中で、ザ・ローリング・ストーンズは一番の下っ端であった。

ザ・ローリング・ストーンズは翌年にも同フェスに出演。それからの3年間のほとんどを一連のツアーに費やした後、遂に彼らは大規模な野外ライヴの誘惑に屈することになる。それはエリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドのブラインド・フェイスが1969年6月にハイド・パークで行った無料コンサートを、ミック・ジャガーが観た後のことである。

ザ・ローリング・ストーンズがハイド・パーク公演を行ったのは、その1ヶ月後。ブライアン・ジョーンズの死からわずか数日後のことだ。それはバンドにとって約2年ぶりとなる本格的なコンサートであり、ミック・テイラーが加入してから初めてのライヴであった。

その時のパフォーマンスは伝説となっているが、彼らが初めて“世界で最も偉大なロックン・ロール・バンド”と称されたのも、このハイド・パーク公演時である。それはこのコンサートのプロモーターで働いていた人物が付けた呼び名で、その後に定着した。 2013年、ストーンズはグラストンベリーに初出演。7月には44年ぶりにハイド・パークに戻り、2日間の公演を行った。

The Rolling Stones – I'm Free (Live In Hyde Park 1969)

 

リッチモンド・フェスとニューポート・ジャズ・フェスティバル

ザ・ローリング・ストーンズがリッチモンド・フェスに出演するようになった頃には、名称をジャズ&ブルース・フェスティバルとすることにより、同フェスはジャズだけでなく複数のジャンルの支持者層を射程に収めるようになった。それは1960年代初め、ライトニン・ホプキンスや、スキップ・ジェイムス、サン・ハウスといったミュージシャンが大きな人気を博した時、ニューポート・フォーク・フェスティバルがブルース・ミュージシャンを出演者に加えたことに倣っている。

ニューポート・ジャズ・フェスティバルもブルースをラインナップに追加し、1960年7月3日にはマディ・ウォーターズが、エレキ楽器のみのバック・バンドを従えて出演し、“シカゴ・ブルースの王”としての実力を証明した。ピアノにオーティス・スパン、ハーモニカにジェイムス・コットン、セカンド・ギターにパット・ヘアを揃えたこのバンドは、極上のエレクトリック・ブルースを奏でていた。

4ヶ月後、チェス・レコードは『Muddy Waters At Newport』をリリース。ザ・ローリング・ストーンズは1962年にその1枚を手に入れ、彼らが暮らしていたロンドンのチェルシー地区エディス・グローヴにあるフラットのレコード・コレクションに加えた。

そのコレクションの中にあった『The Best Of Muddy Waters』収録の5曲目「Rollin’ Stone」が、彼らのバンド名の由来である。1969年、ウッドストックが開催される数週間前、マディはニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。その時もやはり、誰より素晴らしいブルースを披露していた。

Muddy Waters – Rolling Stone(Catfish Blues) (Live)

 

グラストンベリー・フェス

今ではザ・ローリング・ストーンズを始めとする100以上のアクトをグラストンベリーで観るために、数10万人の人々が総額何百万ポンドもの費用を負担し合っている。そんな人々にはほとんど信じられないであろうほどに、1970年の第1回グラストンベリー・フェスは現在と異なっていた。

今では誰が出演したかというよりも、誰が出演していないかということの方が問題となるほど、グラストンベリー・フェスの規模の巨大さを物語っている。知りたいと思う方のために記しておくと、ピンク・フロイド、イーグルス、プリンス、、そしてエルトン・ジョンが、グラストンベリー未出演組だ。

T・レックスが1970年の第1回グラストンベリーに出演したという事実もまた、よくある幸運な偶然の1つであった。というのも、その時のヘッドライナーは元々キンクスが務めることになっていたのだが、ウェイン・フォンタナ&マインドベンダーズ共々、直前で出演をキャンセルしたのだ。

第1回グラストンベリーが行われたのは、1970年9月19日と20日の2日間。農場主のマイケル・イーヴィスはその数ヶ月前、シェプトン・マレットで開催されたバース・フェスティバル・オブ・ブルース&プログレッシヴ・ミュージックを観に行っており、そこから着想を得ていた。

第1回グラストンベリーの出演者には、サム・アップル・パイ、キース・クリスマス、アメイジング・ブロンデル、アル・スチュワート、クインテッセンスらがおり、ヘッドライナーを務めたT・レックスは、当時まだティラノサウルス・レックスとして知られていた。

 

ワイト島フェス

ワイト島フェス出演が誕生したのは1968年。その時はジェファーソン・エアプレインがトリを飾り、他にクレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンや、ザ・ムーヴ、ティラノサウルス・レックス、そしてプラスティック・ペニーが出演していた。

ワイト島フェスは3年連続で開催された後、打ち切りとなったが、小規模なイベントとして2002年に復活。ロバート・プラントがヘッドライナーの一角を占めた。その後、数多くのバンドがフェリーやヘリコプターで同島に渡り、ブライアン・アダムス、キーン、ザ・ローリング・ストーンズ、ポール・マッカートニー、フローレンス&ザ・マシーンを含む面々が、ワイト島フェスに出演を果たしている。

The Who – Pinball Wizard (Live at the Isle of Wight, 1970)

 

モンスターズ・オブ・ロック/ダウンロード・フェスティバル

ワイト島フェス同様、ダウンロード・フェスティバルにも中断の歴史があり、加えて何度かの名称変更も経験していた。ドニントン・パークで開催されていた当初はモンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルという名称で、1980年の第1回はレインボーがトリを務めた。

モンスターズ・オブ・ロックは1996年まで続き、エアロスミス、メタリカ、KISS、そして1982年のステイタス・クォーなど、その名に恥じないロック・バンド勢が出演。このイベントは2002年にオズフェストとして復活し、翌年にはダウンロードに名を変えた。

インターネットが新たな形の“繋がり合い”になったこと、そしてモンスターズ・オブ・ロックという名前はやや時代遅れになったことがその理由であった(註:名前の権利が別事業者にわたったためという説もあり)。だが同フェスは、現在も3日間に渡って開催されるフェスティバル界の“怪物(モンスター)”である。

ブラック・サバスは2012年、バンド史を通じて在籍し続けていたメンバーの1人であるギタリストのトニー・アイオミとベーシストのギーザー・バトラーが、オジー・オズボーンを迎えて待望の再結成を実現。その舞台としてダウンロードを選んだ。

Black Sabbath – Intro & Black Sabbath (Live – Download Festival, Donington, UK, June 2012)

 

ドイツの大型フェス

フェスティバルを開催しているのは、英国と米国だけではない。近年では、最大級かつ最高のアクトの誘致を競い合う、ヨーロッパ及び世界的なフェス・サーキットが存在している。ロック・アム・リング(英語表記:Rock at the Ring)とロック・イム・パルク(英語表記:Rock in the Park)は、ドイツで同時開催されるフェスで、ロック・アム・リングはニュルンベルクの西にあるニュルブルクリンク競馬場を会場とし、ロック・イム・パルクは街の南部で行われている。

1985年、U2がヘッドライナーの1つを務めた第1回に始まり、ザ・キュアーからエルトン・ジョン、ピーター・ガブリエル、ガンズ・アンド・ローゼズまで、数多くのパフォーマーがそのステージに立ってきた。

KISSはこれまで、1996年とその翌年、2010年など何度も同フェスに出演。2010年ではオープニングの「Modern Day Delilah」から約2時間に及ぶセットを通じ、嵐のような彼らの勢いは一度も止むことはなく、過去40年間における最も偉大なロック・アクトの1つであることを堂々証明した。

アージェントのカヴァー曲「God Gave Rock’ N’ Roll To You」(※“神がお前にロックン・ロールを授けた”という意)と「Rock And Roll All Nite」でセットに幕を降ろした彼ら。観衆はもちろん、それを授かった。

KISS – Let Me Go, Rock 'N' Roll – Rock Am Ring 2010 – Sonic Boom Over Europe Tour

 

南米ロック・イン・リオ

ロック・イン・リオもまた、緩やかなペースで不定期に始まったフェスの1つだが、21世紀に入るとロック・イン・リオ・リスボア(ポルトガル)やロック・イン・リオ・マドリード(スペイン)を開催するなど大きく翼を広げ、最近ではペースを上げて、毎年世界中から最高の音楽を紹介するようになっている。

第1回は1985年、10日間に及ぶ同フェスのヘッドライナーをクイーンが飾った他、ジョージ・ベンソン、ロッド・スチュワート、AC/DCらが出演。10日間のイベントに約150万人の観客が足を運んだ。

Queen – Keep Yourself Alive (Live at Rock In Rio 1985)

ガンズ・アンド・ローゼズがメイン・アクトの1つを務めた第2回となるロック・イン・リオ2が開催されたのは、その6年後のことだ。また、2013年9月のロック・イン・リオ5のラインナップはそれまで以上に多彩で、フローレンス&ザ・マシーン、ベン・ハーパー、30セカンズ・トゥ・マーズ、ボン・ジョヴィ、そしてメタリカが、出演し、7日間に渡って行われた。

メタリカにとっては、大成功を収めた2011年のロック・イン・リオ4に続く凱旋公演であった。彼らはこの時、普段はめったに演奏しない『Master Of Puppets』収録の「Orion」を披露。25年前の同じ週に亡くなった元ベーシストの故クリフ・バートンの追悼として、ジェイムズ・ヘットフィールドが彼にこの曲を捧げている。

Metallica: Orion (Rio de Janeiro, Brazil – September 25, 2011)

 

ファンタジー・フェアとモントレー

1967年、大きく取り沙汰されていた“サマー・オブ・ラヴ”の真っ只中、初めての本物のアメリカン・ロック・フェスティバルが、カリフォルニア州タマルパイス山で6月10〜11日の週末に開催された。

ファンタジー・フェア&マジック・マウンテン・ミュージック・フェスティバルと題されたそのイベントには、ジェファーソン・エアプレイン、ドアーズ、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、バーズ、ディオンヌ・ワーウィック、スモーキー・ロビンソンら、多方面から選りすぐった幅広いパフォーマーが出演。1万5千人の観客を集めたこの非営利イベントの入場料はわずか2ドルで、収益金は全て近隣の児童養護施設に寄付された。

ファンタジー・フェアが“初”だった一方、モントレーは“最も”人々の記憶に残ったフェスティバルだ。ロサンゼルスよりもサンフランシスコに近い会場で行われたこのフェスは、ウェスト・コースト・サウンドと、ジェファーソン・エアプレイン、スティーヴ・ミラー・バンド、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、パッファロー・スプリングフィールド、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーらの音楽を称えるためのものであった。

また、ジミ・ヘンドリックスが米本国でスターダムにのし上がるきっかけとなったのも、このフェスである。この時、彼がステージでひざまずき、ライター燃料をギターにかけて火をつけたのは有名だ。モンタレー出演前には、ヘンドリックスがまだアメリカでヒット作を出していなかったという事実は忘れられがちである。

Wild Thing (1967) (Monterey Pop Festival)

ラヴィ・シャンカールやオーティス・レディングが、ロック・オーディエンスの前で初めてパフォーマンスを披露したのも、このフェスだ。このフェスを7週間かけて企画したのは、プロモーターのルー・アドラーとママス&パパスのジョン・フィリップスで、この会場が選ばれたのは、既にここがモンタレー・ジャズ&フォーク・フェスティバルの本拠地として使用されており、ポップやロックも同じような高い評価を得られることを期待したためであった。

トリを務めたのはママス&パパスで、彼らが披露した「California Dreamin‘」(=“夢のカリフォルニア”)が全てを物語っている。

The Mamas & the Papas – California Dreamin' (Live in Monterey)

 

60年代末、米フェスの勃興

1969年に入る頃には、北米ではロック・フェスティバルがほぼ毎週のように行われるようになっていた。ニューポート ’69はその前身よりも規模が大きくなり、15万人を動員。

トリを飾ったジミ・ヘンドリックスの他、アルバート・キング、ジョー・コッカー、ラヴ、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、スリー・ドッグ・ナイトら、60年代の多彩なラインナップが一堂に会した。同じ週末、カナダのトロントでも5万人を集めたフェスティバルが行われ、ザ・バンドとチャック・ベリーが出演を果たしている。

次の週末には、コロラド州都デンバーも参入。5万人の観客が、ポコ、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、そしてジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスにとって最後となったライヴを観に集まった。

チケットを持たずに無理やり入場しようとした人々が、警官に爆竹や瓶、ゴミ等を投げつけ、警察側が催涙ガスで応酬する騒ぎも起きている。一方、同じ週末、英国の多目的スタジアムでは、バース・フェスティバル・オブ・ブルースが開催された。ヘッドライナーはフリートウッド・マックで、ジョン・メイオール、テン・イヤーズ・アフター、レッド・ツェッペリン、そしてザ・ナイスがサポート・アクトとして出演している。

同年7月の最初の週末に行われたアトランタ・ポップ・フェスティバルは14万人を動員し、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、レッド・ツェッペリン、ブラッド・スウェット&ティアーズ、テン・ホイール・ドライブらが出演。何のトラブルもなく、フェスは無事に幕を閉じた。

同じ週の土曜日、ロンドンのハイド・パークでは、ザ・ローリング・ストーンズが今や有名となっている無料コンサートを開催。その2週間後のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ジョニ・ミッチェルとジェイムス・テイラーが初対面。同フェスには他に、リッチー・ヘヴンスも出演していた。また次の週末にシアトルで行われた2日間に渡るフェスには、ボ・ディドリーらが出演者に名を連ねている。

ニューヨーク周辺地域で開催された初めてのフェスの現場となったのは、ニュージャージー州アトランティック・シティだ。8月の最初の週末、プロコル・ハルム、リトル・リチャード、そしてフェスの代名詞のようになっていたクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルが顔を揃えたイベント<アトランティック・シティ・ポップ・フェティバル>には、11万人のファンが足を運んだ。

その1週間後、英サセックス州のプランプトン競馬場で行われた<ジャズ&ブルース・フェスティバル>は、ほぼ完全にロック中心のラインナップで固められ、金曜日の夜にはピンク・フロイドがトリを飾っている。

A look back at the Atlanta International Pop Festival

 

ウッドストック・フェスティバル

そしてここでようやく、我々はウッドストックにたどり着いた。いや、たどり着いたと言えるのだろうか? 実はフェスティバルを観るために、ウッドストックという場所に向かった者は誰もいない。

その代わりに人々が向かわねばならなかったのは、人口3,900人の町、ベセル近郊のアルファルファ畑。そこはニューヨーク市から北に160km、ウッドストックの町から南西に96kmほどの場所だ。ウッドストック・アクアリアン・ミュージック&アート・フェアの実際の会場は、今では誰もが知る通り、ウッドストックではなく、ホワイト・レイクにあるマックス・ヤスガー所有の広さ660エーカーの酪農場であった。

元々は投機的な事業として計画されていたものの、集まった観客の多さに主催者は愕然。15万人程度の来場を予測していたにもかかわらず、実際には約50万人もの人々が詰め掛けたため、主催者は訪れた全員の入場料を事実上無料にせざるを得なくなった。

このイベントは、映画や、サウンドトラック、そして未収録だったパフォーマンス映像を後に追加したDVDを通じ、不朽の名声を築き上げている。ウッドストックでは様々なアーティストが、知名度や人気を高める出世の機会を得た。この30年間における最も人気の高いジャズ・サックス奏者の1人、デヴィッド・サンボーンがそこで演奏したことはご存知だろうか? 彼はポール・バターフィールドのバンドの1員として、ウッドストックに出演していた。

HISTORY OF | History of Woodstock

 

ザ・フーとウッドストック

ウッドストックにともかくもザ・フーが出演したという事実には、ツアー・マネジャーのジョン・ウォルフが大いに関係している。フェス主催者との対応窓口を務めていたのが彼だったのだが、主催者側は少額の内金のみを事前に渡し、出演料の大部分は小切手で支払う旨を提示。だがバンド側はこれに納得せず、主催者側は昔ながらの「まあ、それでも出番が来たら、君達はステージに上がらなくてはならないわけだ」というお決まりのセリフで彼らを動かそうとした。

だがジョン・ウォルフは、言い換えればザ・フーは全く態度を変えなかったため、最終的に主催者側がヘリコプターを銀行に派遣。まず先に支店長をヘリで拾う羽目となったのは、金庫に時限錠が掛かっていたからである。

出演料の残金11,200ドルを手にしたザ・フーは、寝ずに待っていた人々に向けて素晴らしいライヴを披露した。ザ・フーのセットがクライマックスに到達しようとしていたのは、朝日が昇り始めた時だ。日曜日の朝6時5分過ぎというのは、どんなバンドにとっても本領を発揮するのに理想的な時間帯ではない。だがそれにもかかわらず、彼らは最高の偉業をやってのけたのである。ステージに上がるまでには長い待ち時間があったに違いないのに、ロジャー・ダルトリーの歌声はとりわけ素晴らしいものだった。

ザ・フーのセットは、当時のライヴ・パフォーマンスの代表的な内容で、最新作『Tommy』の縮小ヴァージョンに加え、旧作のヒット曲や、エディ・コクランの「Summertime Blues」及びジョニー・キッド&ザ・パイレーツの「Shakin’ All Over」といったロックン・ロール・ナンバーを演奏。この両カヴァー曲は、ライヴ・アルバム『Live At Leeds』(1970年発表)に収録されている。

The Who – Live at Woodstock '69 – All Officially Released Footage

Written By Richard Havers



 

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