ファンクの歴史と代表的ミュージシャン達

12月 25, 2017


ファンクの歴史と代表的ミュージシャン達

ファンクとは何だろう? グルーヴだと言う人もいれば、楽しそうで堂々としたアティテュードだと言う人もいる。定義がどうであれ、ファンクは、極めて原始的な音楽を聴く者に没頭させるチャンスを与えてくれる、まるで呼吸をするかのように自然なのだ。リー・ドーシーの曲を通じてアラン・トゥーサンが語った言葉を借りれば、「Everything we do gonh’ be funky from now on.(これから俺たちのやることは全てファンキーになる)」だろう。

本稿では、人々を魅了してやまないファンクというアフリカン・アメリカンのアートフォームのルーツを掘り下げていく。ファンクとはR&Bとジャズを融合し、新たなダンス・スタイルにした音楽で、ソウルとディスコの架け橋となると、現代ヒップホップの基盤ともなった。

 

ファンクと呼ばれる音楽が始まった正確な日付は、動く標的のごとくきっちりと特定することは不可能だが、その功績の大半はジェームス・ブラウンにあると言えるだろう。ショービジネス界随一の働き者の異名を取ったジェームス・ブラウンは、“Minister of the New New Super Heavy Funk(ニュー・ニュー・スーパー・ヘヴィー・ファンク大使)”を自称し、ファンク・ミュージックを大衆に広めた一番の功労者である。

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さらに素晴らしいのは、R&Bのオーディエンスがモータウン、アトランティック、スタックスといったまばゆいソウルに慣れ親しんでいる中で、ファンクを広めたという点だ。こうしたレーベルはトップ40ラジオ受けする極めて上質な楽曲を制作し、人種や宗教の垣根を越えてヒットした。しかし、60年代にジェームス・ブラウンが作っていた新しいダンス・グルーヴは、どんな音楽よりもストリートに近いものだった。

1960年代、ジェームス・ブラウンは時代のスポークスマンとしての社会政治的な一面と並行して、自身の作品を成長させると、それまで誰も聞いたことのないような、ヒリヒリするほどまでに気骨あるクールさを自身の音楽の中に注入した。ジェームス・ブラウン自身が言っていたとおり、彼は7年生(中学1年)までの教育しか受けていないが、ファンクの博士号を持っていたのだ。

この新しいハイブリッド音楽が浸透して、明らかになったことがある。ファンクは、ルーツとなった音楽のように、ヴァースからコーラスと続く伝統的な曲の構成よりも、強烈なビートと、魅力的な長尺のグルーヴの方が重要だったのだ。ジェームス・ブラウンは1967年の「Cold Sweat」でその境地に達しつつあり、それから4枚後のシングル「I Got The Feelin’」が68年初期にR&Bチャートでナンバー・ワンを記録した頃には、その世界にどっぷりと浸っていた。

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ファンクのサウンドは通常、シンコペーションのリフを奏でるギターで装飾され、さらにオルガンのフィルと深く豊かなホーンの響きが加えられていた。非常にタイトでありながらも、同時にリラックスしており、不穏な都会生活のラフなリアリズムと、ブラック・プライドの高まりと見事に共鳴した。バンド・リーダーの‘ピー・ウィー’・エリスが言っていたとおり、「ジェームス・ブラウンは、大半の人々が一生で持つファンクよりも多くのファンクを小さな指の中に持っている」のだ。

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また、1960年代後半までに、ファンクはアメリカ全土に様々な形で出現していた。ニューオーリンズでは、同地で愛されていたハウスバンド、ミーターズがファンクの旗手となっていた。彼らは69年に楽しい「Cissy Strut」でブレイク。その後、ニューオーリンズはドクター・ジョンの「Right Place, Wrong Time」で、白人でもファンキーな音楽ができるという確たる証拠を示した。なお、これは前述のニューオーリンズ大使、アラン・トゥーサンによるプロデュース作で、同曲のヒットにより、1973年のアルバム『In The Right Place』はマック・レベナック(ドクター・ジョンの本名)にとって最大のヒットとなった。

サンフランシスコにおいて、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの手にかかったファンクは、より麻薬的なムードを持っていた。同バンドは作品を出すごとにファンク度を増し、1970年の「Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)」で絶頂を極めた。ラリー・グレアムの流れるようなベース・ラインが同曲を牽引しているが、そのベース・ラインは手に負えないほどの勢いでクネクネと響いている。シカゴでは、カーティス・メイフィールドがインプレッションズのソフトなソウルを卒業し、インナーシティを舞台とした威勢の良い『Superfly』のサウンドトラックを制作した。

 

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そして……Pファンクがあった。ジョージ・クリントンは1950年代後半から主にザ・パーラメンツとともに音楽業界で活動してきた。同グループは、グルーヴを重視する柔軟な姿勢で、1960年代前半に定められていたソウルの基準内に収まらなかった。ジョージ・クリントン指揮の下、改名されたパーラメントと、パーラメント同等に素晴らしいファンカデリックの両バンドは、1970年にアルバム・デビューを果たした。

ジェームス・ブラウンの元ベーシスト、ブーツィー・コリンズが星形メガネをかけはじめ、同じくジェームス・ブラウンの元バンド・メンバー、メイシオ・パーカーとフレッド・ウェズリーとともにこの新たなスペース・ファンク・ミッションに参加する頃には、マザーシップは離陸する準備ができていた。

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パーラメント、ファンカデリック、ブーツィーズ・ラバー・バンド、さらにここから派生した女性グループ、ブライズ・オブ・ファンケンシュタイン、パーレットは「Tear The Roof Off The Sucker」、「Flash Light」、「One Nation Under A Groove」といった大ヒットを飛ばして新たなスタンダードを作り出すと、70年代半ばから後半のファンクを体現した。ジョージ・クリントンのバンド・メンバー、バーニー・ウォーレルがかつて気づいたように、プロヴィデンス・スクール・オブ・アートの学生が、Pファンクのコンサートに忍び込んでいた。

 

モータウンもファンクのグルーヴに手を染めた。これは、天才プロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドの貢献によるところが大きい。彼はモータウンの作品の多くに痛烈なエッジを加えた。彼が手掛けたテンプテーションズの作品では、従来の演奏にサイケデリック・ロックの雰囲気と美しいオーケストラ風アレンジが加えられることが多く、ファンク色を増していた。これは「Papa Was A Rolling Stone」でとりわけ顕著である。スティーヴィー・ワンダーの不朽の名曲「Superstition」のように、同レーベルに所属する他のアーティストもファンクのテンポを時折取り入れていた。同レーベルの底知れぬ人材プールの中には、バーバラ・ランドルフもいた。彼女はマーヴィン・ゲイの「Can I Get A Witness」に全く新しいアティテュードを加え、エドウィン・スターは「Easin’ In」でハードなファンクを投入した。

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その間ずっと、ジェームス・ブラウン自身も大活躍を続けており、「Super Bad」、「Hot Pants」、「Make It Funky」、「Get On The Good Foot」、「My Thang」、「Funky President」等、数えきれないほどの楽曲をリリースし、猛烈な勢いでR&Bチャートの首位に送り込んでいた。「Funky Drummer」もこの頃にリリースされたが、同シングルは大きなヒットには至らなかった。クライド・スタブルフィールドによるブレイクをサンプルした楽曲が、ヒップホップ・サウンド発展初期、膨大に存在した(その大半が違法サンプリング)ことを考えると、これは非常に皮肉である。

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アース・ウィンド&ファイアーやクール・アンド・ザ・ギャングといったグループは、最高のファンクを演奏することができたが、よりスムーズなソウル・クロスオーヴァーをやることも多かった。アイズレー・ブラザーズはモータウンのプロダクション・ラインからキャリアをスタートしたが、アーニー・アイズレーのファンク・ロック・ギターを基盤に、より彼ららしい形態へと変化した。

アーシーでありながらも大衆にも受け入れられるサウンドを作っていた大所帯のバンドは、ラテン要素の強いロングビーチ出身のファンク・ロック・チーム、ウォーだ。70年代に大成功した彼らは、「Me And Baby Brother」、「Low Rider」、ディスコ時代の「Galaxy」等、刺激的なパーカッションの入ったヒットを放った。オハイオ・プレイヤーは、「Funky Worm」をはじめ数多くのヒット曲で、R&B界の頂上へとのぼりつめた。

アメリカのあらゆる都市に、1970年代のファンク・ヒーローが存在した。中には、アーティスト名にファンクという言葉が入っている者たちもいた。カリフォルニア州ヴァレーホのグループ、コン・ファンク・シャンは1970年代後半と1980年代前半、「Confunkshunizeya」や「Ffun」等、ホーンのきいた楽曲でR&Bチャートの常連だった。メンフィス出身のバーケイズは、スタックス/ヴォルト・レコードのソウル・スターだった60年代から、1976年の「Shake Your Rump To The Funk」でファンク・グループへと変貌した。そして、タワー・オブ・パワーは、カリフォルニア州オークランドでファンクの旗手となった。

4つ打ちのパターンと、厳格に統制されたBPMにこだわるディスコの到来により、ファンクは衰退してもおかしくなかったが、ディスコ時代の初期、ファンクとディスコは共存・繁栄していた。マイアミでは、TKレコードが創設初期にジョージ・マックレーとKC & ザ・サンシャイン・バンドをブレイクさせて成功し、70年代後半にはT-コネクションやフォクシーを擁すと、短いながらも大きな人気を博した。

 

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ロサンゼルス出身のジョージとルイスの兄弟から成るブラザーズ・ジョンソンは、プロデューサー/メンターのクインシー・ジョーンズのバックアップを受けて、ジャズ・ソウルの分野からファンクに参入した。彼らはよりポップ色の強いR&Bを好むことが多かったが、1976年のエネルギッシュな「Get The Funk Out Ma Face」で、トークボックスも駆使しながらファンク色を全開にした。

ディライト・レコードでクール&ザ・ギャングとレーベルメイトだったクラウン・ハイツ・アフェア(バンド名はメンバーの出身地であるニューヨークの地名に因んでいる)は、「You Gave Me Love」でディスコの波に乗った。また、オハイオ州デイトンでは、ロジャー・トラウトマン率いるザップが、Pファンクのプロトタイプを使いながら、そこにさらなるバウンスを加えた。

ミネアポリスでは1970年代後半、ダンス・ムーヴやファッションを含めて我こそがジェームス・ブラウンの 王位継承者だと主張する多才な新人が登場した。プリンス・ロジャー・ネルソンことプリンスは、「I Wanna Be Your Lover」等の初期のシングルから、「Kiss」のような代表的ヒットに至るまで、デビュー以来ずっとニュー・ニュー・スーパー・ヘヴィー・ファンクの恩恵を受け続けてきた。

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しかし、純粋なファンクという意味では、少なくとも一時期ではあれ、おそらくプリンスを凌駕していたであろうファンクのソロ・スーパーヒーローがいる。その人物とは、モータウン後期の最後の大スターの1 人として台頭したリック・ジェームスだ。彼は万能のライター/アーティスト/プロデューサーで、先達が作ったサウンドに大量のセックス・アピールを注入した。1978年のデビュー・ヒット「You And I」や、その1年後に自らが発掘した新人ティーナ・マリーのモータウン・デビュー・シングル「I’m A Sucker For Your Love」ほどファンキーな楽曲はないだろう。

ジャズ・ファンクは、ロイ・エアーズ、ジョージ・デューク、デクスター・ウォンゼルをはじめとする実力派ミュージシャンや、レベル42、ライト・オブ・ザ・ワールドをはじめとする無数のイギリス人アーティストの活躍により、1970年代後半から1980年代前半、大いに勢いづいた。しかし、ヒップホップが新たなエレクトロニック・ワールドで勢力を握るにつれ、ディスコも急速に変化し、よりハードなアーバン・ダンス・サウンドに道を譲った。

ジェームス・ブラウンが1979年に「It’s Too Funky In Here」と歌った時、彼は‘ファンク’という言葉を音楽性ではなく、別の意味(臭い)で使っていた。しかし、キャメオやギャップ・バンドといったヒットメーカーの尽力もむなしく、80年代が進むにつれ、ファンクは明らかに衰弱していった。

 

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それ以降ずっと、大きく目立つことはなくても、ファンクの遺産は至るところで聞かれている。ブルックリンのダップトーンのような、片耳を未来、もう片耳を過去に向けている独立系ソウル・レーベルは、シャロン・ジョーンズ&ザ・ダップ・キングス、チャールズ・ブラッドリー等の作品を通じて、ファンクをサポートしている。同じくウィリアムズバーグ(ブルックリン)の2マイル先では、トゥルース&ソウルがリー・フィールズ等のアーティストを通じて同じことをやっている。また、マーク・ロンソンとブルーノ・マーズの「Uptown Funk」がポップ・チャートで大成功したことにより、70年代のサウンドが復活している。

ファンクを偽ることはできないが、脈動するファンク・ミュージックのスピリットは今も健在だ。「死後にファンクはあるか?」とパーラメントは尋ねたが、間違いなくあるだろう。

Written By Paul Sexton

 



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