『Achtung Baby』はなぜU2を救ったのか?:9年ぶり新作発売記念連載⑦

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U2の16作目のスタジオ・アルバムにして、9年ぶりの全編新曲『Carnaval De Luz(邦題:光の祝祭~カルナバル・デ・ルス)』が2026年11月13日にリリースされることが発表された。

この発売にあわせて、元ロッキング・オン編集長であり、U2を追い続けてきた宮嵜広司さんに様々な角度で長期連載として寄稿いただきます。第7回は『Achtung Baby (アクトン・ベイビー)』について。

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「真逆」を提示した7作目のアルバム

U2にとって通算7枚目となる『Achtung Baby』(1991年)は、「ロック史上最大のトランスフォーメーション」と言われている。『The Joshua Tree』(1987年)『Rattle And Hum』(1988年)で名実ともに世界最大のロック・バンドの座に登り詰めた彼らが、支持の大きな理由だった誠実でストイックな求道者のイメージを捨てたからだ。

いやむしろ、それらを否定するかのようにズタズタに切り裂いた挙句、怪しげでいかがわしさすら漂わせた新型U2をぶち上げたからだ。しかし、もっとすごかったのは、その変身を世界に強引に、というかさらに熱狂的に受け入れさせてしまったからだ。

ファンというものは蓋し保守的である。自分が好きになった表現者には、新しいフェーズでもそのままでいてほしいと実は願っているものだ。ボブ・ディランですら、エレクトリック・ギターを持っただけで「ユダめ!」と罵倒された。ところがこのときU2がやったことは、そういう支持者に対して、彼らが好ましく思ってきたすべての「真逆」を提示することだった。しかも、当時の彼らはトップ・オブ・トップのロック・バンドだったのだ。そんな蛮勇はそれまで無かった。そして、そんなハイパーリスクな賭けを成功させた事例ももちろん無かった。

しかし、そもそもなぜU2はそんな無謀な変身を自らに課したのだろうか? 実はその兆しは、すでに『Rattle And Hum』制作時から芽吹いている。同アルバム収録「God Part II」は、ジョン・レノンの「God」の続編を意図して描かれた曲だ。ジョン・レノンの「God」がそうであるようにこの「God Part II」も「〜〜は信じない」とさまざまな事象が繰り返し否定されていくが、その中に「Don’t believe in the 60s / The golden age of pop (あのポップの黄金時代、60年代を信じるな)」との一節がある。

このときのU2は、1960年代をひとつのピークとするような、まさに過去の伝統的なアメリカン・ルーツ・ミュージックにどっぷり浸かり、その奥義の会得に勤しんでいた。続けて歌われるのは「You glorify the past / When the future dries up」、つまり「未来が枯れてる時、人は過去を美化する」との歌詞で、そんな風に伝統を礼賛しているのは、自分たちに未来がないからじゃないかとまで言い捨てている。

ルーツ礼賛アルバム『Rattle And Hum』にこっそりと忍び込ませていた伝統への嫌気。そんな気分は、しかし、実際に『Rattle And Hum』がリリースされると、一部の評論家たちからの批判によって増幅する。セールスは相変わらず絶好調だったが、メディアからは、ルーツ・ミュージックへの擦り寄りを安易で搾取的だと指摘されることもあった。翌1989年1月に公開された同名のドキュメンタリー映画も、公開直後こそ劇場を満杯にしたが、ファンが見終わると客席は一気に空席が目立つようになったという。

ジョン・レノンは「God」で「ビートルズを信じない」と過去の自分を大胆に否定した。U2の「God Part II」は、それと同じように、それまでの自分たちを否定しようとしていたのかもしれない。ボノは後日、「God Part II」こそ『Achtung Baby』の1曲目にふさわしかったんじゃないかとまで振り返っている。

 

時代の変化

1988年の終わりから1989年の始めにかけて、U2にとってそれまでとは違う風が吹き始めていた。一方で、世界もそれまでの形を少しずつ、しかし劇的に変えようとしていた。1989年2月にはソ連が長年のアフガニスタン侵攻からついに撤退した。6月には中国で天安門事件が起きた。その夏は、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアといった東ヨーロッパで「東欧革命」と呼ばれる民主化運動が進んでいった。

U2は9月から「Love Town Tour」をスタートさせた。B.B.キングとの共演もメニューに入ったこのツアーは、まずオセアニア、日本を廻り、12月からは舞台をヨーロッパに移した。その間の11月に、ベルリンの壁が崩壊する。そして12月には米ソが「冷戦の終結」を宣言する歴史的なマルタ会談が行われ、また圧政をしいていたルーマニアのチャウシェスク大統領が処刑されている。

ジ・エッジは「ツアーは楽しめることもあったけど、行き止まりに向かって進んでいるような気がした。僕らはこの何年か、かなりブルースから影響を受けたようなこともやってきた。ただ、普通に考えればわかることだけど、僕らはB.B.キングなどとは明らかに違うフィルターを通してブルースに辿り着いている。だからブルースの様式に則りつつ、新鮮味のあるものをプレイするのはチャレンジだった。それが成功したのか、正直わからないけど」と当時の心境を語っている。

12月31日のダブリン公演では、ボノが「Love Rescue Me」を歌い終えると地元のファンに向けてこれが「さよならパーティだ」と漏らしてしまう一幕があった。ボノはルーツ・ミュージックを学習したことについてこう語っている。

「正直に言えば、あれがボブ・ディランに送り出された旅の終着点だった。1985年、スレイン城でのライブのバックステージで彼は僕にこう言った。『振り返り、軌跡をたどるべきだ。ルーツを知っておくべきだ』と。(それから)僕らは、よりルーツを理解できるように、すべてを吸収しようとしていた。それは僕らにプラスになったんだ。ブラック・ミュージックを聴いたことで、『Achtung Baby』のグルーヴが生まれ、フォーク・ミュージックによって、僕は詩人として成長できた。しかし、それはまだほんの通過点に過ぎなかった。荒削りでぎこちないところもあっただろうが、僕らが成長していくには必要な過程だったんだ」(ともに『U2 by U2』より)。

「Love Town Tour」は1990年1月10日、オランダのロッテルダムで千秋楽を迎えた。アメリカン・ルーツ・ミュージックを探求したこのツアーは結局、「アメリカ」には行かなかった。1980年代を急激な成功とともに駆け抜けてきたU2は、このとき相当疲れていたという。ツアーやレコーディングからいったん離れる期間が必要だった。

U2が活動を停止していた期間も、世界は激動していた。2月には南アフリカ共和国でネルソン・マンデラが釈放された。8月にはイラクがクウェートに侵攻、10月3日には東ドイツが西ドイツに編入され、ドイツが再統一している。11月になると、長期政権を担ってきた英国のサッチャー首相が辞任した。世界はあちこちで様変わりしていた。

 

ヒッチハイクの時に気づかされたことと焦燥感

「Love Town Tour」後、ジ・エッジは、ルーツ・ミュージックを離れ、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台『Clockwork Orange』のための音楽制作に取り掛かった。ノイズやエレクトロニカ、インダストリアルといった実験音楽に取り組み、アインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンやソニック・ユース、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ナイン・インチ・ネイルズ、KMFDMなどをプレイリストにしていたと聞く。その仕事にはボノも参加した。

ボノはもっと以前から、自分たちのレコードの低音部が脆弱なことに気づいていた。『Rattle And Hum』の制作過程にあったとき、ボノとアダムはアメリカを横断する小旅行に出かけている。運転していたチェロキーが壊れ、ヒッチハイクする羽目になった。通りがかったコルヴェットは若い男が運転していた。彼はボノとアダムに気づき驚きながら「ちょうどあなたたちの曲を聴いてたんですよ」と「Where The Streets Have No Name」をカーステレオで聴かせてくれた。

しかし、次に彼がかけた曲でボノとアダムは腰を抜かした。これまで聴いたことのないほど驚異的なバスドラとスネアの音だったからだ。その曲はデフ・レパードの「Pour Some Sugar On Me」(1987年)で、ボノはその時、U2の音のひ弱さと同時に、ロック・リスナーは結局自分の持ってるサウンド・システムがめちゃくちゃ格好よく聞こえるバンドを好きになるんだと思ったそうだ。次回のレコードでは絶対に音響的実験を追求しないと危うくなると覚悟したそうだ。

一方で、ラリーは舞台音楽の制作で実験に勤しむふたりとの距離を感じるようになってしまう。ラリーは、やたらとダンス・ミュージックを聴いたり、ドラム・マシーンをいじったりしていたジ・エッジに、曲作りのアプローチが変わってしまったんじゃないかと感じていた。アダムは英国を席巻していたマッドチェスター・ムーヴメントに違和感を覚えている。ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズが牽引していた新型ドラッグとダンスがレトロなロックと融合したような新世代の音楽は、U2の辞書にない言語で描かれていた。そのときアダムのみならずU2は、伝統にのめり込んでいるうちにいつの間にか自分たちが古い世代に追いやられていたような焦燥感に襲われたはずだ。

 

分裂の危機とそれを救った「One」

U2がニュー・アルバムのレコーディングにドイツのベルリンに集まったのは、まさに再統一に沸いていた10月3日の夜だった。かつてデヴィッド・ボウイと「ベルリン3部作」を成したブライアン・イーノとダニエル・ラノワがプロデューサーとして、フラッドがエンジニアとして加わった。実はその時点で彼らに確固たるアイデアがあったわけではなかった。とにかくこれまでと同じやり方ではダメだという思いと、台頭する新世代音楽への危機感、そしてドミノ倒しのように変容していく世界情勢への眩暈。それに対して、イーノやラノワ、フラッドたちとしばらくベルリンで合宿でもすれば何か面白いことが起きるんじゃないかーー。ボノの発案はそんな程度だった。

このレコーディングが結局バンド最大の危機を招いてしまったのは必然だったと言わざるを得ない。

「U2史上初めてにして唯一、バンドは断絶したんだ。(中略)せっかく僕は『Rattle And Hum』のあとから、どういう風にプレイしていきたいのか、自分なりに考えてきていたのに。(中略)僕が、自分ができそうなことをより多く探し出そうとしている時に、ジ・エッジは『より少なくできない?』と言ってたようなもんだからさ」(ラリー)

「僕らはたくさんのアイデアを持ってベルリンに挑んだんだけど、そのほとんどは骨格でしかなく、未熟なものだったんだ。(中略)いざバンドで試してみるとあまりいい感触が得られなかったんだ。どうもうまくいかないなという予感の中、二通りの原因が考えられた。アダムとラリーは曲のアイデアがクズだと確信し、ボノと僕はバンドのせいだと思っていたんだ」(ジ・エッジ)

「もう終わりかな、と思ったよ。それまでにも辛い状況を経験したことはあったけど、原因は決まって外部にあって、それに対して自分たちが戦うというものだった。でもこの時は初めて、僕らの内部に亀裂が入った気がしたんだ」(ラリー すべて『U2 by U2』より)

事態は創作上の仲違いに留まらず、均等に分配されていた収益の話にまで及んでいたという。

そんなU2を救ったのが「One」だったというのは、よく知られている。そもそもが音楽で集まった集団なのだから、結局音楽が仲を取り持ったーー。簡単に言ってしまうとそういう美談のようなことなのだろう。しかし、それがこの「One」が今なお名曲として愛されてきたすべての理由ではない。

2003年に英音楽雑誌『Qマガジン』が発表したミュージシャンやライターの投票による「1001 ベスト・ソングス」という企画で1位に選ばれた「One」。ちょうどドイツが再統一した当時の世相を象徴するかのような曲として受け止められていたこともあった。しかし、この曲の肝は、仲違いした人々をひとつにするといった、ありがちなテーマにあったわけではない。むしろその逆で、「One」はそれぞれで生きることへの、ビターな覚悟を示した曲だ。

「We’re One, But We’re Not The Same(わたしたちはひとつだ、でも同じではない)」そして繰り返される「We Get To Carry Each Other(支え合う機会に恵まれる)」というフレーズこそが、「One」を永遠にした。それぞれの独立、自立を認め合ったことこそが「One」なのだ。

この曲が、分裂していたU2を再びひとつにしたのはそういうことである。前回の連載で、U2は『The Joshua Tree』で大人になったと書いた。そのステージが「One」でもう一段上がったことに気づくだろう。辺境から出てきた4人は団結し世界と戦い、勝利し、大人になった。ここではその仲間がそれぞれを異なる大人として認め、協力し合える場があることを祝福するステージへと進んだ。この曲が、その後のU2を現在まで継続させる支えになったのは、そういうことである。

 

5曲のシングルが切られたU2唯一のアルバム

「One」が出来たことで、ようやくレコーディングが前に進み出した。1990年11月にベルリンで始められたレコーディングは、1991年9月にダブリンで終わった。早速「The Fly」が10月21日にリード・シングルとしてカットされ、アルバム『Achtung Baby』は11月18日にリリースされた。『Achtung Baby』の1曲目は、もはや「未来は枯れてる」と嘆く「God Part II」ではなかった。「I’m Ready For What’s Next(次に何が来ようが準備は出来てるよ)」と嘯く「Zoo Station」へと発展していた。

「The Fly」に続いて「Mysterious Ways」、「One」、「Even Better Than The Real Thing」、そして「Who’s Gonna Ride Your Wild Horses」と、5枚のシングルが切られた。U2が一枚のアルバムから5曲のシングルを切るのはこれが初めてだった(それを上回るのは6曲をカットした1997年の『POP』だけ)。このアルバムがいかにポップでキャッチーだったかを物語っている。

『The Joshua Tree』が精神のアルバムだったとすれば、『Achtung Baby』は肉体だった。強固に見えていた世界の構造は明らかに変調をきたしていたし、人々は感染症に恐怖していた(シングル「One」の収益はエイズ研究機関に寄付された。なお、シングルで使用されたバッファローのジャケットは、エイズの合併症で亡くなったデヴィッド・ヴォイナロヴィッチの作品である)。隙あらば踊っていたし、人々は壁を乗り越えたり、斧を振りかざして叩き壊したりしていた。

『The Joshua Tree』はモノクロだったが、『Achtung Baby』は毒々しい色に塗れていた。撮影者のアントン・コービンに、メンバーはしかめ面ではなく女装した微笑みを投げかけた。

『The Joshua Tree』は砂漠の似合うアメリカン・ミュージックだったが、『Achtung Baby』は都市(ベルリン)の迷路で蠢いているヨーロッパのアンダーグラウンド・ミュージックだった。

そして『The Joshua Tree』ではあたかも求道者のごとくだったボノは、『Achtung Baby』では突然どでかいサングラスをかけ、表層的なロック・スターを確信犯的に憑依させた。

歌のテーマや提示するビジュアルがなぜそうなったかといえば、世界がそう変わっていたからだ。その変化がこれまでとは違う種類のものだったからだ。時代とシンクロしてきたU2が、だから激変を自らに課したのは当然だった。

サウンドが様変わりしたのはなぜだったかといえば、英国ではマッドチェスターからブリットポップ、アメリカではグランジからオルタナティヴ・ロック、そこらじゅうでインディペンデントのベッドルーム・ミュージックが作られ、クラブではエレクトロニカ、そのほかありとあらゆる音楽が新たに花開いていたからだ。砂漠でアコースティック・ギターを奏でているだけでは、忘れ去られてしまう。U2はそのすべてと戦うために『Achtung Baby』というまったく新しい武装を発明したのだ。

しかし、それだけのトランスフォーメーションを遂げたとはいえ、U2は、実はパンク・バンドだったスタート地点に戻ったとも言えるかもしれない。伝統の継承者は似合わない。事実、居心地の悪さは鬱積していた。『Achtung Baby』には、パンクが持っていた無軌道なエネルギーが漲っている。それはあまりに攻撃的だし、アイロニカルで、何より伝統という権威主義や(自分を含めた)既成概念を壊そうとしていたのだから(その意味では、セックス・ピストルズを辞めたジョン・ライドンが、まったく戦略を異にするパブリック・イメージ・リミテッドを始めたことと似ているかもしれない)。

ともあれ、この蛮勇が成功したことは、その後のU2にとって大きな自信になったはずだ。そして同時に、音楽に留まらない表現の自由を獲得したとも思う。もし『Achtung Baby』がなかったら、U2は現在どんなバンドになっていただろうか。自身への危機感から目を背けず、世界へ向けたアンテナがとらえた変化にも耳を傾け続け、そして何より、自分を変える勇気を持っていたU2だから、『Achtung Baby』は生み出された。今なお衝撃的な音を轟かせているこのアルバムは、そうして彼らを救ったのだ。

Written By 宮嵜 広司


U2『Carnaval De Luz』
2026年11月13日発売
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