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ヒップホップとは何か、その定義とは:既存の価値観をひっくり返す、下克上の文化【#HIPHOP50】
1973年8月11日はヒップホップ誕生日とされている。クール・ハークと妹のシンディ・キャンベルが、ニューヨークのブロンクスでパーティーを開き、ヒップホップの音楽と文化が誕生した歴史上重要な日とされ、米国上院では8月11日を「ヒップホップ記念日」として制定もされた。
今年の50周年の日に合わせて、ライター/翻訳家の池城美菜子さんが全5回にわたってヒップホップを紐解く短期集中連載を実施。第1回はその定義について。
ヒップホップ生誕50周年を記念したプレイリストも公開中(Apple Music / Spotify / YouTube)。
・連載第2回:ヒップホップと資本主義:なぜ、そこまで金銭にこだわるのか
・連載第3回:いまさら聞けないヒップホップの地域分類とサブジャンル
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・米国上院にて8月11日を「ヒップホップ記念日」にすることが制定
・グラミー賞にてHIPHOP50周年を祝う盛大なトリビュートが披露
・50周年の年に考える、ジャマイカの影響と“パチモン”によるヒット曲
ヒップホップが生まれた日
2023年はヒップホップの生誕50周年。2月5日におこなわれた第65回グラミー賞では、目玉のパフォーマンスとしてベテランからTikTok世代の若手まで、24組36人のラッパーによるマイク・リレーが披露された。今夏は、50周年にまつわるイベントが全米各地で予定されている。一般に、文化の起点をはっきり決めるのは難しい。2023年が50周年であるなら、なぜ2003年に30周年が祝われなかったのか? という素朴な疑問も出るだろう。
これは、1973年8月11日にブロンクスで催されたパーティーでヒップホップが生まれた、という共通認識が、20年前は浸透していなかったから。ヒップホップ・サウンドの根幹にある「ブレイク・ビーツ」と、節をつけて喋るように歌う「ラップ」を組み合わせたのが、この日なのだ。舞台は、近所の人を集めたブロック・パーティー。まだ10代だったジャマイカ系移民のDJクール・ハークが夏休みの終わりを告げる、バック・トゥ・スクールのパーティーを開催。グラミー賞のステージ・セットも、主催者でもあった姉のシンディとDJクール・ハークが住んでいたブロンクスの1520セジウィック・アベニューを模していた。
本稿は、50周年を迎えたヒップホップを多角的に解説する5回シリーズの1回目だ。ただし、年代ごとに、時系列での出来事の羅列はしない。5回では漏れのほうが多くなるし、70〜80年代の頭まで黎明期から80年代半ばから90年代半ばまでの「ゴールデン・エラ」もしくは「ゴールデン・エイジ」と呼ばれる黄金期までの話に集中する「ヒップホップ史解説文、あるある」に陥る危険性がある。
これは日本史の授業を縄文時代で始めても、学年が終わる頃にはせいぜい明治維新までしか終わっていなくて、近代史が駆け足になる現象にも似ている(結果、私たちは江戸時代までが、やたらくわしい)。アングルを変えてUSヒップホップの歴史を照らすことで、「ヒップホップを聴くのは好きだけれど、いまいち実態が何だかわかっていない気がする」人から、「濃い目のヘッズだけど、その角度からは考えたことなかった」人まで、50歳になったこのムーヴメントへの解像度が上がるシリーズを目指す。
第1回目は、ヒップホップとは何か、との定義から始めよう。ヒップホップはニューヨークのブロンクスのアフリカ系アメリカ人が生み出した、ブラック・カルチャーのひとつである。より正確に書くと、黒人が始めた音楽ジャンルおよびそれを中心にした文化、ムーヴメントだが、文化を送りだす側のプレイヤーと聴き手は肌の色は問わない。いま現在、インターネットが日常的に使用されている地域で、ヒップホップが聴かれていない場所も、その地域に根ざしたラッパーが存在しない場所も、まずないだろう。最初に断ると、本稿では音楽、ダンス、ファッション、絵画を含めたアート、思考(精神性)などを包括するヒップホップ・カルチャーのなかで主に音楽について解説する。
4大要素とヒップホップの定義
とはいえ、基本は大事だ。ヒップホップには「4大要素」がある。MCing(ラップ)、DJing(スクラッチ)、Breaking(ブレイクダンス)、Writingとも呼ばれるグラフィティがそれを指す。スタート時点から、喋り、サウンド、ダンス、絵画とさまざまな表現が入った総合芸術なのだ。この4つの要素を視覚的に理解するために、もっともわかりやすいのが映画『ワイルド・スタイル』(1982)だろう。
グラフィティ・アーティストのゾロことレイモンドを主人公に据え、当時のパーティーの様子、MCの役割、ギャングやアートシーン、メディアとの関わりがすべて盛り込まれている。脚本があるフィクション作品ではあるが、主人公は本物のグラフィティ・アーティストだし、DJのグランドマスター・フラッシュ、ラッパーのビジー・ビーなど本職も出演している。アメリカ以外では、日本にヒップホップ・カルチャーがいち早く伝わったのは、この映画が翌年に公開され、出演しているブレイクダンスのチーム、ロックステディ・クルーが来日したのが大きいだろう。
B-ボーイ、B-ガールの語源となったブレイキングが何か知らなかったため、撮影方法に苦労したと監督のチャーリー・エーハンが話していた。それに端を発したブレイキン(ブレイクダンス)は2024年のパリ・オリンピックから正式種目になっている。
また、エアロゾール・スプレーを使ったグラフィティは、公共の列車の車体や壁に描く違法な行為だったが、その一部や手法自体が前衛芸術に昇華された例も多い。ヒップホップは、貧困層が多く住み、治安があまり良くない都市周辺部を指すインナーシティと近い意味の「ストリート」カルチャーであったが、21世紀に入って急激に高級化(ジェントリフィケーション)した地域も多く、ストリートそのものの定義が流動的であるのも事実だ。
私はヒップホップとは、既存の価値観をひっくり返す、成り上がり、下克上の文化だと考えている。貧しい地域から生まれたからといって、ずっとそのままでいたい人などいない。マイノリティだからと、蔑まれたままでいいわけもない。社会的に認められたり、経済的に勝ち上がったりするのも大事だが、自分自身の価値を新たに見出すために、それまでの基準、測り方自体を変えてしまうところに、パワーがあるのだ。
では、1973年8月11日のブロック・パーティーの何がそこまで重要だったのか。ジャマイカのキングストン生まれのDJクール・ハークはまず、レゲエの屋外ディスコの形態を模して、スピーカーとミキサー、ターンテーブルをセットしたサウンド・システムを組み、DJが曲をかけ、マイクに向かって話してその場を盛り上げた。ここまでは、70年代に全盛だったディスコと大きく変わらない。ちなみに、「ヒップホップ」という名称が定着するまでは「ディスコ・ラップ」という呼び方もあった。
重要なのは、ここでレコード・プレーヤー、つまりターンテーブル2台にソウルやファンクの同じレコードを2枚セットし、ドラムやベースのリズムが強く出ている小節をミキサーで切り替えてつなげて引き伸ばしたことだ。これがブレイク・ビーツである。このブレイク・ビーツと、ほかの音源からメロディーや楽器の音を部分的に切り貼りするサンプリングが、ヒップホップ・サウンドの特徴である。
ラップの起源
ヒップホップを黒人音楽とする理由は、ソウル、ファンク、ジャズ、ゴスペル、R&B、ディスコなど先にあった黒人音楽を土台としている点が大きい。そして、これらの音楽の起源はさらに古く、17〜18世紀、奴隷制があった時代の黒人の人たちによる労働歌、ワーク・ソングにまで遡る。
アフリカ大陸から強制的に連れて来られた人々は、ときに綿畑でのきつい農作業をやり遂げるために、ときに反抗心を表現するために歌っていた。この時代に、一人が呼びかけて周りの大勢が答える「コール&レスポンス」の形態もすでにあったのだ。口承文化であったワーク・ソングにキリスト教の概念が入ったのがゴスペルであり、教会の外ではブルースへと発展していった。また、詩に節をつけて詠むスポークン・ワード、ジャズのジャイヴ・トーク、ジャマイカのダンスホール・レゲエのトースティングなど、複数のスタイルがラップの源流にある。
ラッパーの別称、MCの語源は「マスター・オブ・セレモニー」。つまり、祝祭(パーティー)を仕切る人のことだ。彼らの役割は、DJが曲を切り替える間、もしくは曲の途中にダンスフロアーに向けて言葉をかけて盛り上げること。MCとDJが一体となって、前奏と歌、間奏という曲の構成を切ったりつなげたりして伸ばし、新たに言葉を載せて再構築したものがヒップホップの始まりとも言える。
これは、楽器がなくても、楽器そのものを演奏するミュージシャンではなくても新たなサウンドができる、という強さと新鮮さがあった。そのうえ、安上がりであるため、広がりやすい利点もあった。その一方で、手法が斬新すぎるのと、人の音楽を使っているためにオリジナルではない、という批判にさらされた。
ヒップホップの4大要素でもっとも広く知られているのは、ラップである。ただし、節をつけて喋る「ラップ」はあくまでも用法であり、これを使っているもの=ヒップホップではない。たとえば、アメリカでも日本でも多いラップ調のコマーシャルは、その内容から言ってヒップホップ・カルチャーとは無関係だ。ポップ・ソングに挟まれるラップ・パートも、用法を拝借しているだけであって、自分でライムを書いてない場合はラッパーと呼ぶには語弊がある。
ヒップホップと非黒人
ヒップホップは黒人の口承文化の伝統から生まれたブラック・カルチャーではあるが、黒人の人々だけのものではない。ブロンクスで始まったときから、黒人ではない担い手も多かったのだ。プエルトリコ系を筆頭とするスペイン語圏の国から移民したラティーノの人々も土台作りに大きく貢献している。
たとえば、前述のロックステディ・クルーのメンバーの多くはプエルトリコ系である。ブロンクスにはジャマイカやドミニカ共和国、アメリカの準州という位置づけのプエルトリコからの移民が多く、カリブ海に浮かぶそれぞれの島から文化を持ち寄った。ニューヨークのブロンクスやブルックリン、クィーンズで育つのは、さまざまな島の音楽や食べ物を享受しながら組み合わせ、共存することを意味する。
アメリカの音楽業界には、ユダヤ系アメリカ人も多い。そして、差別された歴史をもつ彼らは、黒人文化への理解が深い傾向がある。たとえば、人種差別の酷さをテーマにした名曲、「Strange Fruit(奇妙な果実)」(1939)はビリー・ホリディが歌って有名にしたが、作詞したアベル・ミーロポルと作曲をしたミルト・ギャブラーはどちらもロシア系のユダヤ人だ。
80年代に入って、ヒップホップがビジネスとして成立するようになった際、最初のヒップホップ・レーベルを立ち上げたのは、黒人のラッセル・シモンズとユダヤ系アメリカ人のリック・ルービンである。このデフ・ジャムからデビューしたなかに、黒人のLLクール・Jとラッセルの実弟がメンバーにいるラン・DMC、そしてユダヤ系アメリカ人のトリオ、ビースティー・ボーイズがいる。
ヒップホップ学と一般的な時代区分
アメリカの大学では、「ヒップホップ学(Hip Hop Study)」と銘打った講義が00年代の半ばから増えている。歴史、言語学、人類文化学などの観点からの研究も盛んだ。ヒップホップ・カルチャーがアメリカおよび世界に与えた影響は多岐に渡るため、学術的に整理することが必要になったのだと察する。本稿でアカデミックなアプローチまで解説するのは難しいが、広く共有されている区分を知っておくのは便利だろう。区分は時代が終わってから名付けられるので、オンタイムで経験していると、「そう呼ばれるの?」と驚く。
黎明期:具体的には、誕生日とされる1972年から70年代の終わりまでは夜明けにあたる黎明期である。この頃のヒップホップはあくまでパーティーやライヴで聴くものであり、レコードは作られていない。最初のヒップホップ・レコードと認識されているシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」は1979年のリリースである。
オールドスクール・ヒップホップ:70年代の終わりから80年代の頭までがオールド・スクール・ヒップホップである。レコーディングは始まっていたものの、基本的に身の回りの話題や、ブラガドーシオ(braggadocio)と呼ぶ自慢、パーティーを盛り上げるための景気の良いかけ声が多かった。曲の構成も比較的シンプルではあるが、言い合いをするバトル・ラップも、即興で紡ぐフリースタイルもこの時期にすでに生まれている。
いまでも、ヒップホップで多く使われているスタイルが生まれた時期であり、前述のシュガーヒル・ギャングやアフリカ・バンバータ、カーティス・ブロウ、ザ・コールド・クラッシュ・ブラザーズの名前がくり返し出されるのは、それだけ功績が大きいからである。
ニュースクール・ヒップホップ:「ニュー」とつくため誤解されやすいが、あくまで「オールドスクール」にたいして新種という意味だ。1980年代前半、狭義では1983年から86年までの3年間にニューヨーク市で出てきたヒップホップを指す。ドラム・マシーンを使ったミニマルなサウンドが増えた。
前述のデフ・ジャムのアーティストのほか、少し遅れて契約したパブリック・エネミーや、KRS-1率いる ブギ・ダウン・プロダクションズ、エリック・B&ラキム、マーリー・マールが設立したコールド・チリン・レコーズ所属のビッグ・ダディ・ケインやクール・G・ラップ、ロクサーヌ・シャンテら。
それから、日本でも大人気のネイティヴ・タンのア・トライヴ・コールド・クエスト、ジャングル・ブラザーズ、デ・ラ・ソウルもここに入る。ニュースクールは、アフリカ系アメリカ人のプライドや社会的、政治的なテーマなリリックも多かった。ロックやジャズの要素を入れた折衷型のサウンドが生まれ、これらの傾向はいまのヒップホップにも引き継がれている。
ゴールデン・エイジ:80年代から90年代半ばまでのアルバム単位でヒップホップが語られていたこの時代を「黄金期」とされる。ニュースクールのところで言及したアーティストたちが最高傑作を産み、全米各地にシーンができて優れた作品が生まれた。
西海岸ではドクター・ドレーとアイス・キューブがいたN.W.AがFBIと警官を目の敵にして物議をかもしたが、彼らが標榜したギャングスタ・ラップがもっとも売れる事実も露呈した。Nas、フージーズ、ウータン・クランらがヒップホップのみならず、ポピュラー音楽史に残るような名盤をリリース。
メジャーなレコード・レーベルがラッパーに力を入れ、ヒップホップが爆発的に広がったため、この10〜11年の動きだけで語られるべき事柄は多い。アーティストが新しいスタイルを模索してはアルバムにまとめて発表し、ファンも都度アルバムを買ってサポートする、というシンプルなビジネス形態に支えられたことも含めて、黄金期だったといえる。
筆者は、この時代のヒップホップがベストという懐古主義に陥らないようには気をつけてはいる。だが、いまの若手ラッパーたちも、この時代の曲を聴いたり、研究したりしているので、この時代をまったく無視していまのヒップホップを語るのは不可能だとも考えている。一般に、トゥパック・シャクールとビギー・スモールズことノトーリアス・BIGが命を落とした東西抗争の終焉をもって黄金期が終わったとされている。
メインストリーム化、ブリン・エラ:90年代後半から00年代前半までの、CDがたくさん売れ、派手なミュージック・ビデオが多く作られた時期を、ダイヤモンドを散りばめたジュエリーや金のネックレスのきらめきを指す「Bling Bling(ブリン・ブリン)」から取ったブリン・エラと呼ばれる。
100万枚以上CDが売れるプラティナム・セールスを記録するアルバムも珍しくなかったうえ、一般的なファッションともクロスオーバーした時期だ。この時期の重要アーティストは枚挙にいとまがないが、エミネム、ジェイ・Z、ネリー、DMX、50セント、アウトキャストあたりは、ビルボード・ホット200の1位デビューが当たり前で、何百万枚も売り上げている。ヒップホップのビートにR&Bの歌を載せるヒップホップ・ソウルは90年代の頭に生まれていたが、R&Bのみならず、ブリトニー・スピアーズやイン・シンクといった白人アーティストのサウンドにも影響を与えるようになった。
インターネットの定着、多様化時代:違法CD、ダウンロード、ミックステープと正規盤がせめぎ合いながらも共存していたのが00年代半ば以降から010年代前半は、地域別、リリックの傾向別、サウンドの構造別に細分化されたさまざまなヒップホップが生まれた。以前に比べ、ヒップホップの売り上げが落ちたため、人気がなくなったと捉える傾向もあるが、個人的にそれは違うと考えている。単に、ヒップホップ・ファンがお店で音楽を買う以外の方法で音楽を聴くようになっただけだろう。
第2回目以降でヒップホップと資本主義、コマーシャリズムについては書く予定だが、この文化の参加者たちが社会システムの裏をかくのをよしとする姿勢があるのは指摘したい。ブラック・アイド・ピーズやフロー・ライダーなどによる、だいぶポップ化したヒップ・ヒップが売れた一方、カニエ・ウェストやドレイクなど現在のトップ・ランナーがオルタナティブなサウンドと内面を吐露するリリックで人気を博した。
ストリーミング・サーヴィスやSoundCloudが出現し、レコード会社との契約がなくてもアーティスト活動ができるようになったのが、2010年代半ばから現在の動きだ。契約をせず、正規のアルバムではないミックステープだけで、グラミー賞を受賞したチャンス・ザ・ラッパーのようなアーティストも出現した。50年の歴史のなかでもっとも混沌としているが、「古い価値観をひっくり返す」ヒップホップ的な姿勢が切実に必要かもしれない。第1回目から大風呂敷を広げてしまった気がしなくもないが、あと4回で多角的に検証してみよう。
Written By 池城 美菜子(noteはこちら)
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