リッチー・ブラックモアが語る1968年のディープ・パープル

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ディープ・パープル物語の始まりの数ヶ月は、大西洋を横断した成功と、母国イギリスでのチャート活動が著しく途絶えていたことについてだろう。バンドの第1章のラインナップによるデビュー・シングルはアメリカで大絶賛され、ジョー・サウスの「Hush」のカヴァーは4位まで上昇した。次作のために、彼らは一年未満のうちに、シンガー・ソングライターのトップ30だったヒット曲「Kentucky Woman」、ニール・ダイヤモンドの曲をカヴァーするという驚くべき選択を取った。

その間、たった3ヶ月前にリリースされた『Shades of Deep Purple (邦題: 紫の世界)』に収録された「Hush」が前身的存在であるのに対して、バンドは素早く「Kentucky Woman」を含んだセカンド・アルバム『The Book of Taliesyn (邦題: 旧: ディープ・パープルの華麗なる世界 / 新: 詩人タリエシンの世界/ディープ・パープルⅡ)』をリリース。アメリカで38位に達した週に、新しいシングルは1968年12月6日にイギリスでリリースされた。そのリリースはコメディアンのビル・コスビーが共同設立したレーベル、テトラグラマトンと契約したディープ・パープルを経たものであった。

アルバムは両方とも、それぞれ24位と54位にチャート入りし、アメリカのマーケットにそれなりに健闘したが、彼らの母国では空振りしていた。どのシングルもアルバムもイギリスでは一枚もチャート入りしておらず、ジョン・ロードとの「Concerto For Group and Orchestra (ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ)」が遂にベストセラーとなる1970年1月まで、ディープ・パープルは待つはめになったのだ。

リッチー・ブラックモアは、スチュアート・グランディとジョン・トブラーによる1983年の本『The Guitar Greats』でインタビューに答えた際、カヴァー曲のセレクションについてこうコメントしていた。「かなり楽しんで演奏させてもらったよ」と彼は言った。「当時、自分には全く方向性がなかったから、経済的支援を受けながらバンドの中で演奏するのは非常に嬉しかった」

「俺たちは、セント・オールバンズにある幽霊の大邸宅に住んでいたんだ。”Kentucky Woman” はジョン・ロードの提案だったと思う。ミッチ・ライダー & デトロイト・ウィールズが使ったであろうビートの種類で出そうと。そしてそれは上手く行ったんだ。アメリカでは、俺たちのセカンド・シングルとしてかなりチャートの上位に食い込んでたと思う」

Written by Paul Sexton

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