才能あふれたウォルター・ベッカーを称えて:過去のインタビューの発言を通して

Published on

Walter Becker - Photo: Sean Gardner/Getty Images

ドナルド・フェイゲンとともに真にユニークでクリエイティヴなグループであるスティーリー・ダンの中核をなしていたウォルター・ベッカー。2017年9月3日に彼が亡くなったことで、ファン、批評家、周囲の親しい人々からはそんな彼にふさわしくトリビュートが続々と表明されている。

スティーリー・ダンとツアーし、4枚のアルバムに参加したマイケル・マクドナルドは、ウォルター・ベッカーの世間への見方こそが彼を唯一無二の存在にしたと話す。「世の中について皮肉ばかりで、それに彼のユーモアが噛み付いてたよ、本当に彼のものの見方は面白かった。でも出会う人一人一人を非常に重要視していた。それこそ彼の人間性を物語っていると思う」とBillboard誌に語った。

ウォルター・ベッカーの娘、サヤンも父親への感動的な文章を綴っている。「私が知る誰よりも音楽を愛していた。いつもビートに合わせて頭を動かし、あちこちでダンスしたり、座って大きいヘッドフォンで音楽を聴きながら揺れていたわ」。

著者は幸運にも、13年という間隔を挟んで2度ウォルター・ベッカーに取材する機会に恵まれ、そのサハラ砂漠並みのドライなユーモアを直接経験している。毒舌を平静ににじみ出し、最初はとっつきにくいが、それは娘のサヤンが鮮やかに描写した彼の音楽づくりへの深い献身を隠したのだ。

その後、空白を埋めるかのように多忙なライヴ・スケジュールを詰め込んだ。「18年間の十分に満足していたハイ・プロフィールな引きこもり生活を台無しにしたよ」と笑みをこぼすことなくウォルターは話した。「スタジアムやアリーナで自分たちを見せてしまったからね。でもそういう時にたどり着いたんだ」。

ツアーしなかった間に、スティーリー・ダンには神秘的な雰囲気が付いたことについて訊くと、「確かに、スティーリー・ダンというバンドとしてのひとつのアイデンティティ、ひとつのアーティスティックなアイデンティティを創ろうとしていたのは事実だと思う。それはもはやバンドもなくて主に2人だけで活動している時も。個人としての存在を強調して悪名高くなるより、ある意味その後ろに隠れていたんだ」。

2人の旧友の間のダークなコメディ的なやり取りは、スティーリー・ダンがほとんど過去の産物になっていた1980年代に話題が移った時に垣間見えた。「80年代はひと休みしておけばよかったと思ってる人が多いだろ?」とドナルド・フェイゲンは話した。するとウォルター・ベッカーは間髪入れずに「こっちがひと休みして欲しいと思った人もいるけどね」と話した。

2度目のインタヴューは2008年に電話で行った。ウォルター・ベッカーの2枚目のソロ・アルバム『Circus Money』をリリースした時期だった。ハワイのマウイにある自宅から電話したウォルター・ベッカーは「このアルバムのスタート地点は、自分のアパートの過密なジャマイカン・ミュージックの訓練プログラムを数年やったことだった」と考えにふけり、「あの音楽の魅力を伝えるアルバムにしたいと思っていた」と語った。

その頃にはスティーリー・ダンは精力的にツアーを行い続けていた。「自分たちにとって、ツアーは昔とは違う位置付けになったし、本当に楽しめるようになった」とウォルター・ベッカーは話した。「70年代はドナルドも私も曲を書いてアルバムを作りたかった。ツアーはその作業を妨害するものだったから、満足できなかったんだ」。

しかし、彼がどういう風に世間から見られていたかに関しては、謙虚な評価で気取ることなく、それは亡くなったことが非常に惜しまれる彼のクリエイティヴィティを引き立てた。「私のことを知っている人たちも、おそらくスティーリー・ダンを通して私を知っている」と話した。「今自分がやっていることをスティーリー・ダンに似せようとも違うものにしようとも思っていない。類似性や継続性があるということなら、それでいい」。

Written by Paul Sexton



スティーリー・ダンの作品を聴く

    

Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了