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ニュー・ジャック・スウィングを祝して:90年前後の音楽的な革命

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80年代中盤、街の不良達と先端的なヒップホップ、そしてスリックで洗練されたR&Bとは一見すると完全に対立しているように思えた。しかし、それはニュー・ジャック・スウィングの到来によって変わった。ラップとソウルフルな歌声が入り交じり、アップビートでテンポが早く、切れ味の良い明快なビートとどっしりとしたベースラインを特徴としたスタイルは音楽的な革命だった。臆することなくポップ志向と、ぎっしり詰まったキャッチーなメロディをさらに魅力的なものにしたのは、カラフルなファッションとハイトップな髪型、エネルギッシュなダンスの動きを取り入れたド派手なミュージック・ビデオだった。ニューヨークのストリートの恵まれない環境から生まれたニュー・ジャック・スウィングは1989年から1993年の間、全米チャートを賑わし、その新しいアイデアは現代の音楽へ実に印象的な影響を与えた。

プロデューサーのジミー・ジャムとテリー・ルイスがジャネット・ジャクソンの1986年のアルバム『Control』の淡々としたビートに新しい方向性を仄めかしていた時に現れた新星が、ニュー・ジャック・スウィング独特のサウンドを作り上げることになったハーレム出身の若きヒップ・ホップ・プロデューサー兼キーボード・プレイヤーのテディー・ライリーだった。天才児テディ・ライリーはニューヨークの一番注目されているプロダクション・タレントの一人として、ダグ・E・フレッシュやクール・モー・ディーといったアーティストたちのレコードを手掛け、17歳という若さにして既に名を成していた。ソウル・シンガーのキース・スウェットが彼に依頼をした際、テディ・ライリーは当初、乗り気ではなく「僕はR&Bをやらないと彼に伝えたんだ」と彼はアトランティック誌にコメントしている。

Bobby Brown My Prerogative 12-inch Single Cover - 300

しかしテディ・ライリーがコードを学び、キース・スウェットが彼のヴォーカルをヒップホップのスタイルに合わせるように調整することで、彼らは妥協点を見出すことができた。その結果として生まれた1987年に発売されたアルバム『Make It Last Forever』だ。このアルバムには大ヒット曲「I Want Her」が収録され、300万枚を売り上げ、芸術的にも商業的にも大成功をおさめた一枚となった。その成功に続き、自分に高い需要があることに気付いたテディ・ライリーは、彼の特徴的な新しいサウンドを元ニュー・エディションのボビー・ブラウンのシングル「My Prerogative」やジョニー・ケンプの「Just Got Paid」など、さらなるスマッシュ・ヒットとなったシングル曲にすぐさま活用した。この活動初期の段階でもうひとりのキー・パーソンとなったのが、元デフ・ジャムのアンドレ・ハレルだった。1986年にアップタウン・レコードを設立し、彼のレーベルをテディ・ライリーのプロダクションの販売手段へと変えた男である。セルフ・タイトルのデビュー・アルバムがこのジャンルの中で初の偉大なロング・プレイヤーとなったテディ・ライリーのバンド、ガイにアップタウン・レコードが飛びついている間、ヘヴィ・D&ザ・ボーイズやアル・B.シュア! といったアーティストたちにもニュー・ジャック・スウィングが施されていった。

テディ・ライリーがプロデュースしたニュー・ジャック・スウィングの曲たちが次々とチャート上位に登場すると同時に、他のアーティストも躊躇することなくすぐにその仲間に加わり、始まったばかりのニュー・ジャック・スウィングに彼ら自身の名を刻んでいった。L.A. リードとベイビーフェイスはボビー・ブラウンの「Every Little Step」やキャリン・ホワイトの「Secret Rendezvous」、マック・バンド・フィーチャリング・ザ・マックキャンベル・ブラザーズの「Roses Are Red」など大量の熱烈なヒット曲を作っていた一方で、デンジル・フォスターとトーマス・マッケルロイは彼らのが手がけたトニー!・トニー!・トニー!のデビュー・アルバム『Who?』やその続作『The Revival』の中で西海岸特有のスタイルを加えていた。

この後者のアルバムの制作にはグループ・メンバーのラファエル・サディークにも関わっており、「Feels Good」や「Oakland Stroke」といったクラシック曲も収録した。ジミー・ジャムとテリー・ルイスもジャネット・ジャクソンの幅広い成功を収めた『Control』の続作、ジャネット・ジャクソンの『Rhythm Nation 1814』でより大きな成功を記録した。

Janet Jackson – Rhythm Nation (Official Music Video)

1989年から1992年の数年、ニュー・ジャック・スウィングの人気は頂点を極めチャートを制覇した。その音とスタイルは「ベルエアのフレッシュプリンス」(*フレッシュプリンスとはウィル・スミスの別名)といったテレビ番組シリーズと併せて、『ハウス・パーティー』や『ニュー・ジャック・シティ』といった映画にまで影響を及ぼし始めた。1989年に公開されたアーセニオ・ホールによる大きな影響力のあったTVトークショー「The Arsenio Hall Show」では新しいタレントたちが登場し、テレビの舞台でも十分活躍できることを確実にした。

多すぎるほどの若いアーティストとプロデューサーたちはすぐに音の範囲を拡張し始めた。中でも真っ先に取り組み始めたのが、ボビー・ブラウンが所属していたバンド、ニュー・エディションのメンバー達だった。ボビーの後釜としてジョニー・ギルを迎え入れ、彼らの5枚目となる1988年の『Heart Break』の制作をジャム&ルイスに依頼。「NE Heartbreak」や「Crucial」といったキラー・ソングを収録したこのアルバムは、ニュー・ジャック・スウィングのサウンドを取り入れ、彼らの最も成功を収めたアルバムとなった。

New Edition Photo: Albert Watson/MCA files - 530

ニュー・エディション

自分たちの能力を試したがっていた彼らは、それ以降、ニュー・エディションの活動を休止させることにし、1990年には各メンバーそれぞれが多数のソロ作品などをリリースし続けた。ラルフ・トレスバントによるセルフ・タイトルのアルバムにはジャム&ルイスの名曲「Sensitivity」が収録され、その一方でリッキー・ベル、マイケル・ビヴィンズ、ロニー・デヴォーがベル・ビヴ・デヴォーとして活動を再開。3人は将来的に大きな影響力を持つことになるデビュー・アルバム『Poison』を制作するために、パブリック・エネミーの制作クルー、ザ・ボム・スクワッドを採用。グループのニュー・ジャック・スウィングのテンプレートにザ・ボム・スクアッドがより強い切れ味を加え、見事にまとめあげられたタイトル・トラック「Poison」は世界的な大ヒットとなった。ボビー・ブラウンに代わりニュー・エディションの新たなメンバーとなったジョニー・ギルもこの流れにのり、1990年に発売されたソロ・アルバム『Johnny Gill』には「Rub You The Right Way」や「Wrap My Body Tight」といったジャム&ルイスの名曲が収録された。

Bell Biv DeVoe – Poison (Remix)

もし1991年がニュー・ジャック・スウィングの商業的な絶頂期とするならば、この年はこのジャンルが崩壊する最初の兆候をもたらしていた年でもあったともいえるだろう。メアリー・J・ブライジやジョデシィといったアーティストたちはニュー・ジャック・スウィングのポップな装いを切り離し、ヒップホップの堂々とした態度やビートを用いた。

もしボーイズ・II・メンのデビュー・アルバム『Cooleyhighharmoney』の中で、「Motownphilly」や「Sympin」といった曲にゴスペルのようなヴォーカルの低さを加えていたとしたならば、「Please Don’t Go」や「This Is My Heart」といった曲はより伝統的なソウルの形にR&Bが戻ったことを匂わせただろう。メガ・ヒットを記録したマイケル・ジャクソンのシングル「Remember The Time」がニュー・ジャック・スウィングの切れ味を取り除き、より標準化されたポップの形に作り直されたとはいえ、マイケル・ジャクソンはアルバム『Dangerous』に、長年連れ添ったプロデューサー、クインシー・ジョーンズではなく、テディ・ライリーを起用することを決めてもいる。

R Kelly And Public Announcement She's Got That Vibe Single artwork - 300

翌年にはR・ケリー&パブリック・アナウンスメントの「She’s Got That Vibe」や、エスダブリュヴイ (シスターズ・ウィズ・ヴォイセス)の「I’m So Into You」、テディ・ライリーの「Is It Good To You (feat. Tammy Lucas)といった名曲が到来した一方で、若きR&Bアーティストたちが新しい活動の場のためニュー・ジャック・スウィングの限られた芸術的範囲を見限るまでにさほど時間はかからなかった。しかし、そのキーとなる考案者はだまって座っていなかった。テディ・ライリーはガイを解散、すぐにブラックストリートを結成。のちに彼らのヒット曲「No Diggity」のミックスにブルースを追加した。1989年に自身のラフェイス・レコードを設立したL.A. リードとベイビーフェイスは、アッシャーやアウトキャストのようにより純粋なR&Bとヒップホップの形へと分岐する前に、TLCとトニー・ブラクストンによるニュー・ジャック・スウィングのアルバムを担当した。ラファエル・サディークがクリエイティヴなコントロールを担っていたトニー!・トニー!・トニー!はヒップホップが染み込んだネオ・ソウルのジャンルの先頭に立っている一方、元プロデューサーのデンジル・フォスターとトーマス・マッケルロイは、アン・ヴォーグを彼らのプロダクションのパイプ役として考え、その結果ニュー・ジャック・スウィングを希釈したヴァージョンを特徴としたアン・ヴォーグのアルバム『Funky Divas』は大成功を収めた。

Blackstreet – No Diggity (Official Music Video) ft. Dr. Dre, Queen Pen

90年代中盤までにニュー・ジャック・スウィングが完全に消滅したものの、その影響力は共鳴し続けた。リアーナやビヨンセといった今日のスターたちにとって、ポップ、R&B、そしてヒップホップの融合は自然なものだ。最近では、ますます多くのミュージシャンたちがオリジナルの起源に近づいており、東アジアのマーケットを支配する韓国の巨大な音楽産業の、K-POPはニュー・ジャック・スウィングの輝きを少女時代やf (x)、EXOといったアーティストに加えるため、テディ・ライリーを採用。さらに世界的ポップスターのひとりであるブルーノ・マーズが、彼のニュー・ジャック・スウィング寄りのアルバム『24K Magic』でこのジャンルへの敬意を表している。

ハイトップスは消滅したかもしれない。しかしニュー・ジャック・スウィングの魔法はインスピレーションを与え続けるのだ。

Written by Paul Bowler



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NEW JACK SWING 30周年ノンストップ・ミックス

『NEW JACK SWING -30TH ANNIVERSARY MIX-』

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NEW JACK SWING -30TH ANNIVERSARY MIX- [11月1日発売]

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